第2話マロの上洛(1)

マロの上洛


 吉田一宿雨少降庭に梅(うめ)さけり

 降程はしられぬ雨の置そひて散かとみゆる梅の下露(1‐10)


 「希望の光」が見えた旅立ちのはずだったが、氏真一行は初日から雨に降られた。冬の冷たい雨は体を冷やし、歯が鳴るほどの震えをもたらしたが、はやる気持ちを抑えられない氏真は構わず馬を進め、夕方には三河吉田城に着いた。吉田城では酒井忠次が迎えてくれた。

 忠次は家康に駿府時代から付き従っていたから、氏真ともそのころから面識があった。しかし、氏真にとっては家臣である家康に従う陪臣であったから、忠次は氏真に直接物を言う事さえ叶わなかった。

 それが運命のいたずらでかつての陪臣が今では城主となり、かつての国主を迎え入れて宿を貸している。しかもその城は氏真の祖父氏親が築かせた城なのだった。桶狭間の戦いの後今川から自立した家康が忠次らと共に今川方城代の大原資良が守るこの城を攻めて開城させ、忠次を城代としたのである。

 戦国の世の浮き沈みのなせる業とはいえ、相手の祖父が築かせた城を奪って城主として居座っている忠次は気まずそうであったが、氏真はそんな事はどうでもよいようで共通の趣味である連歌の話に花を咲かせた。

「ここにも里村紹巴(じょうは)が来たと聞いているが……」

「左様で」

 京の連歌師里村紹巴の話は盛り上がった。里村紹巴は近年連歌の宗匠と目される人物で、永禄十年(一五六七)に冨士を見るために駿河まで下向して『富士見道記(ふじみみちのき)』を記している。紹巴はこの吉田城にも立ち寄った後氏真が治めていた駿府に五月から一月あまり滞在した。もちろん氏真は紹巴を招いて何度も連歌の興行を開き、その頃持っていた名物の茶器などを披露して紹巴を厚遇した。紹巴はその様子を『富士見道記』に記し、氏真にも一冊贈ってくれた。今度上洛した時には再会するつもりでいる。

 『富士見道記』によると、紹巴が吉田に来た時、「臨川風呂に入山海景二階にして詠(ながむ)」という。氏真はそれがどんな風呂か知りたかったが、忠次に聞きそびれてしまった。

 翌一月十四日朝、氏真一行は吉田城を後にして三河を西に向かった。道中雪が降り出したが、氏真は怯む様子もなく馬を進め、供の者たちも遅れじと続いた。昼は休憩したが、中食(ちゅうじき)もそこそこに皆をせきたてるように出立した氏真はその日はいつも以上に道を急いでいるようで、弥三郎は訝しく思った。

 吉田城から十里ほど、岡崎城の手前まで来る頃にはあたりも暗くなり始めた。弥三郎は降りしきる雪にこらえ切れず、

「御屋形様、今宵は岡崎に逗留してはいかがでしょう?」

 と氏真に声をかけたが、氏真は

「もう少し進みたい。」

 と相手にしようとしない。京へとはやる思いは弥三郎も知っているが、それ以上の何かを感じさせる素っ気なさだった。

 しかし結局その夜は岡崎に逗留する事になった。岡崎城主松平信康の使いが迎えに出ており、主命であるとて氏真一行を掴まえて離さなかったからである。家康の嫡男信康は氏真の上洛を家康から知らされており、信康の母築山殿も氏真の来訪を心待ちにしている。信康の家臣からそう聞かされて、氏真は観念したように案内に従い岡崎城に向かった。

 岡崎城では氏真は奥の間の上座に通され、築山殿と信康母子(おやこ)の挨拶を受けた。供の者も別室で歓待を受けた。

「お久しゅうござりまする……」

 築山殿は手を付いて平伏してからそれだけ言って氏真を潤んだ瞳で見つめた。

「瀬名殿、いや、築山殿にはお変わりなく……」

 氏真はそれだけ言うのがやっとだった。氏真は瀬名が家康に嫁いでから会う事はなかったから、実に十五年ぶりの対面なのだった。

 それでも瀬名は今でもマロの事を想ってくれている。氏真はそう思える事で胸が暖かくなるのを感じた。

 瀬名は今川一門関口氏広の娘であり、家康に正室として嫁して嫡男信康と長女亀姫を産んだが、氏真にとっては結ばれる事のない想い人であった。

 氏真は天文二十年(一五五一)の十四歳の冬に父義元から屋敷を与えられ、義元の屋敷を出て住む事になった。振り返って見るとそれからの三年ほどが今までの人生の中で一番幸せな時期だったように氏真は思っている。

 氏真の新しい屋敷には一門や重臣の子弟が訪れるようになった。同い年の朝比奈泰朝や従弟の北条助五郎、重臣の子岡部次郎右衛門がよくやってきた。次郎右衛門はたまに従兄の五郎兵衛元信や近所の松平竹千代を連れて来た。大原資良の実子三浦右衛門佐が小姓として屋敷に住み込んで仕えてくれた。

 娘たちもやってきた。部屋住みの頃は祖母寿桂尼に頼まれて氏真が蹴鞠の練習を見せに行くと、鵜殿長持の娘で従妹のお田鶴(たづ)が瀬名や井伊直盛の娘次郎法師と共によく見に来たものだ。氏真が寿桂尼の屋敷の庭先で蹴鞠を一人で蹴り上げ続けて見せるのを寿桂尼が縁側から見ていると、三人も横に座って氏真の練習の様子を見物したものだった。

 氏真が自分の屋敷を与えられるとお田鶴が二人を引き連れてやって来るようになった。

 あの頃のお田鶴は悩みなき姫君で、明るく朗らかだった。茶目っ気があって、氏真の剣の修業を見ると、自分も剣や薙刀の稽古を始めたと言って氏真の館にやって来て、稽古をつけてくれるようせがむようになった。その頃のお田鶴の武芸は小娘の遊びでしかなかったから、適当に相手をしてやると喜び、その様子は屋敷に遊びに来ていた皆を和ませたものだった。

 次郎法師は娘なのに、息子に恵まれなかった事を残念がった父の井伊直盛に男の名を名乗らされていた。着物も男物を着せられて可哀そうだったが、男装の麗人もまた格別な風情があった。たまにお田鶴と瀬名に着替えさせられると、見違えるほど美しい姫になった。心映えは三人の中で一番しとやかだったように思う。

 そして瀬名。今川家中で最も気高く最も美しい少女。強く輝く瞳と紅(あか)い唇の美しさには誰もが見惚れたものだった。少女から女へと変わり始めていた瀬名の瞳は馴れ馴れしく近づく事を許さない強い光を宿していたが、自分を見る時にはその光が柔らかく和むのを氏真は感じていた。

 お田鶴は従兄妹同士の気安さはあったが、さすがに一人で訪れる事には憚りがあったらしく、瀬名と次郎法師を伴って氏真の屋敷にやってきた。女たちが寿桂尼の部屋に集まって京土産を見たり貝合わせや聞香(もんこう)をした帰りに寄り道したように装うのだ。

 氏真も三人が来るのを楽しみにしていて、前のように蹴鞠の練習を披露したり、泰朝らをあらかじめ招いて蹴鞠をして見せたりして喜ばせた。三人とも氏真を好いていると思うと気分が良かったが、物語に出てくる光源氏や在原業平のような色好みには憧れても自身奥手な性格の氏真はそれ以上近づく事も出来なかった。

 天文二十二年(一五五三)の春に開いた歌と蹴鞠の会は忘れられない思い出だ。歌会ではまだ幼い助五郎の突飛な歌に笑ったり、瀬名の出来の良さに感心したりした。蹴鞠では氏真は鞠庭の中を忙しく駆け回って、妙技を披露したものだ。ほとんど嗜みのない竹千代があらぬ方に鞠を蹴り飛ばして赤面したり、泰朝が氏真の技量を試そうとわざと難しい鞠をよこしたりするのを見事に蹴り返すと、皆が喝采してくれた。瀬名があれほど笑顔を見せてくれた事はなかった。

 そしてその後、瀬名と二人だけの時間が来た。蹴鞠が終わった後二人並んで桜の木にもたれて座ったのだ。どうやら泰朝が気を利かせたらしく他の者たちを野遊びに連れ出したので、夕闇が迫る庭には二人だけが残された。それから少しだけ話をしたが、まだ幼かった二人はぎこちない会話の後どちらともなく黙り込んでしまった。

 しばしの沈黙の後、ふと左肩に重みを感じて瀬名を見ると、瀬名は氏真の肩を寄せて寝息を立てているのだった。いつも人前では見せないあどけなく安らかな寝顔を見ていると愛しさがこみ上げた。そのまま瀬名を起こさないようにじっとしていたら氏真も眠りに誘われ、四半刻ほど互いに肩を寄せ合って眠っていた。氏真十七歳、瀬名十三歳の春の事だった。

 その後瀬名との間に何があったわけでもない。ただあの柔らかく細い肩の温もりが心に刻みつけられ、いつかは瀬名を我が妻に、と思うようになった。瀬名もそれまでと同じようにお田鶴と次郎法師と連れ立ってやってくるだけだったが、その瞳は前よりも多くを語りかけて来るようになったと思えた。

 しかし、氏真の知らないうちに進んでいた北条との同盟で全てが暗転した。今川と北条が同盟を結べば既に両家と縁戚になっていた武田と共に三国が互いの背後を護り合う同盟が実現する。そのために氏真と北条氏康の娘春姫との婚儀が決められてしまったのだった。見も知らぬ者との婚儀など嫌だと氏真は抵抗したが、父義元の厳命には逆らい切れず、翌天文二十三年(一五五四)七月に春との婚儀を挙げたのだった。

 その後の瀬名との愛憎以上に氏真を苦しめたものはない。その二年後の弘治三年(一五五七)正月に瀬名は義元の命で松平元信、今の家康に嫁がされた。その命を聞いた時瀬名は涙を流したと聞いているが、その後二年の間に瀬名は家康の息子と娘を一人ずつ産んだ。女はこうも簡単に子を成せるものなのか、と氏真は心中苦しんだ。そして桶狭間で義元が討たれた後、駿府に戻らず自立を企てた家康との戦いが始まった時も、氏真は駿府に置き去りにされた瀬名の扱いに苦しんだ。愛する瀬名の夫を滅ぼさねばならないという苦しみと、謀叛人の妻子を殺すべきではないか、という煩悶が日々氏真を苛んだ。

 結局その煩悶は人質交換で瀬名と二人の子を岡崎に送り出す事でひとまず終わった。永禄五年(一五六二)二月の事、家康が上之郷城を落としてお田鶴の兄鵜殿長照を殺し、その子氏長と氏次を捕らえて交換したのだった。氏真は駿府を去る瀬名との対面を望まず、瀬名と子らはそのまま駿府を去って岡崎に移った。結局氏真は瀬名が家康に嫁いでから再び会う事なく今日に至ったのだった。

 氏真と瀬名の悲劇はそれで終わらなかった。駿府で隠居していた氏真の外祖父武田信虎が瀬名の父関口氏広を唆して信玄に内通させようとした事が発覚したからである。信虎からの手紙を見つけられた氏広はじれったいほどに無口で何の言い訳をしようともせず、瀬名の母井伊御前と共に自害して果てた。こうして氏真は瀬名の父母の仇にもなってしまったのだった。

 氏真はそのような幾重もの愛憎に疲れ、また零落した我が身を瀬名の前に晒したくないばかりに岡崎を通り過ぎようと思った。しかし会って見ると不思議と懐かしさばかりがこみ上げてきた。

 瀬名と信康は代わる代わる氏真に酌をしてくれた。

「ご運の開ける時でござりますな」

 信康はそう言って氏真の上洛を祝ってくれた。信康は気性が激しく武張った事ばかりを好むと聞いていたので、氏真の事を懦弱者と蔑んでいるのではないかと内心気にしていた。だが瀬名から氏真のよい話ばかり聞かされて来たのか心から氏真を敬っているようで、そんな素振りはなかった。

 瀬名は料理や酒を進める以外はほとんど何も語らなかった。ただ、目が合うと潤んだ瞳でじっと見つめるばかりだった。しかしむしろ言葉を飾るよりもその方が語り尽くせない想いを抱いた再会にはふさわしいのかも知れなかった。

 氏真は信康の話に相槌を打ちながら快く盃を重ねたが、亥の刻(午後十時)になる頃辞去した。

「道中のご無事をお祈りしておりまする」

 瀬名は名残惜しそうであったが、精一杯の笑顔で挨拶をしてくれた。奇しくも春と同じ言葉だった。女は愛する男の栄達よりも無事を祈るものなのだろうか。

 その夜は岡崎城内に用意された宿に泊めてもらった。夜半、さらさらと絶え間なく鳴る音で目を覚まして書院の窓を開けると、窓の外に見える若竹の葉に雪が降り積もっているのだった。氏真はなぜかその若竹から信康を連想した。信康の幼名も家康と同じ竹千代だったからかもしれない。

 氏真はそれからしばらくの間寝付けずに、月光の射す中竹林を眺めていた。とりとめのない夜想の中、いつしか心は瀬名の事に移っていた。

 瀬名はなぜ築山殿と呼ばれるのか。それは月を愛する者を愛するから。築山のつきは本当は月なのだ。築山は美しい月が見られる山だったのだ。氏真はそう信じていた。いや、氏真だけがそれを知っていた。

 氏真はもう二十年以上前の、瀬名と一緒だった月見の宴を思い出していた。あれはあの歌会と蹴鞠の会の前の年の八月の十五夜だったはずだ。名月を一緒に愛でたくて、瀬名とお田鶴と次郎法師、そして泰朝だけを屋敷に招いた。

 縁側に並んで座りながら、氏真はいつになく饒舌に瀬名に月への想いを語ったのだった。

「今宵は誠に月が美しい」

「はい」

「私は月が大好きだ」

「そうですの」

「うむ。月のさやけさが好きだ。……父上も月がお好きだと言っていた」

「まあ、義元様も?」

「うむ。氷を扣(たた)いて月に茶を煎る。父上が十五の頃に詠まれた和漢の句だよ」

「とても涼しげな句ですわ」

「あきのうみや、いそうつなみをみわたせば、つきかげくだくをちのうらかぜ……。これは私が幼い時に詠んで冷泉為和卿にほめられた歌だよ」

「秋の海や、磯打つ波を見渡せば、月影砕く遠方の浦風……。波に浮かんで揺れる月が見えるような……」

「うむ……」

 泰朝は少し離れて座り、二人の会話を目を閉じて聞き入っていた。お田鶴は無邪気に団子を頬張り、次郎法師は微笑みながら皆を見ていた……。あの頃は幸せだった……。回想が眠気を誘い、氏真は再び床に就いた。

 翌朝目覚めて外を見てみると、雪は夜の間に降りやんでいた。庭一面を薄雪が覆い、紅梅が初花を付けていた。寒気に負けないその凛とした風情が瀬名を思わせた。氏真は清爽な気分で一日を始める気になった。


 岡崎一宿夜より雪降て逗留す

 ね覚する外面の竹に雪を聞て夜深く白む窓の内かな(1‐11)

 朝ほらけ薄雪かかる庭の面は一ねさしの木々の初花(1‐12)


 一月十五日、朝餉を終えた氏真一行は信康の名代石川数正と瀬名の名代お富に見送られて旅立った。目指すは大浜の港である。岡崎を出たばかりの頃は空が曇っているばかりだったが、西に進むにつれて風が強くなって雪が降り出し、しまいにはみぞれが降りかかってきた。

「ひゃあーーーーっ!」

 弥三郎は降りかかるみぞれに悲鳴を上げたが、弥太郎は歯を食いしばって進み、氏真は虚空を見つめるような表情を浮かべつつ顔に当たるみぞれを袖で払いつつ進んだ。

 しかし半刻ほどもすると、

「うむっ!」

 氏真が唸って馬を止めた。

「殿っ! いかがなされました!」

 弥三郎はまさか、と思いつつ、馬を馳せ寄せて声をかけた。

「一首浮かんだ。ふききおうう、あらしもにしのお、のをさむみい……」

 このみぞれの中でも歌の事を考えていたのか?

「そでにみぞれをお、うちはらいつつう……」

氏真は満足げである。寒さを感じないのか、この殿は!? 

「さあ、こうしてはおれぬ。先を急ぐぞ。」

 氏真は再び急ぎ足で馬を歩ませる。弥三郎はあきれつつ後に続いた。

 大浜には昼過ぎに着いた。みぞれに打たれながら五里余りを二刻(四時間)ほどで進んだ事になる。ここから伊勢大湊の商人角屋七郎次郎の舟で大湊に渡る予定であった。角屋は廻船で各地に物品を売りさばき、今川、北条、徳川の御用商人を勤めていた。今回の氏真の上洛のために家康が角屋の舟を一艘手配したのである。

 強行軍でへとへとの弥三郎は京へとはやる氏真が今日中に舟に乗ると言い出すのではないかとびくびくしたが、海が荒れていると船頭が言ったため、一行は大浜で泊まる事ができた。

 一夜明けた一月十六日、早朝の大浜の海は凪いでいた。小高い丘から港を見下ろした氏真ははしゃいだ。

「見てみよ、この大浜のにぎわいを。これほど多くの舟があるとはな……。うむっ!」

 また一首浮かんだらしい。

「あさなぎにい、うかべるふねのお、おおはまやあ、かすみにつづくう、ちたのうみづらあ……。弥太郎、どうじゃこの歌は?」

「はっ!」

 弥太郎は他ごとを考えて不意を突かれたらしく一瞬戸惑ったが、

「そうですな、舟が多いと大浜を掛けて……、よくできた歌にござりまする」

「うむう、そうかあ? マロは霞たなびく朝の港から知多の海に続くのどやかな情景を詠んだつもりだがな」

「ごもっともでござりまする」

 弥三郎は弥太郎のどぎまぎとした答えぶりに内心にやりとした。

 

 雪晴て立大浜に着

 吹きほふ嵐も西の野を寒み袖にみそれを打払ひつつ(1‐13)

 朝なきに浮へる舟のおほ浜や霞につゝく知多の海つら(1‐14)


 一行は慌しく船に乗り込み大湊を目指したが、舟が沖合に出ると間もなく時化に遭い、舟は大揺れに揺れ、南へと流された。

「うええーっ!」

 船旅に慣れていない弥三郎は嘔吐を繰り返し、弥太郎も青い顔をしている。しかし氏真はさしてこたえている様子もなく、けろりとしていた。

 舟はやっとの事で志摩国南端の大野の浜に着いた。外洋に流されまいと必死で艪を漕いだ水夫(かこ)たちは疲労困憊し、船酔いに苦しんだ弥三郎も弥太郎も供の者たちも息も絶え絶えだった。しかし氏真はそれをよそめに足取りも軽く舟を下りて馬に乗り、浜を見下ろせる位置まで来ると、

「これはまた朝の大浜と似てなお異なる風情だのう……。うむっ! 一首浮かんだ」

 と重い足取りで続く者たちに一首浴びせた。

「いそつづくう、しおやのけむりなびきあいてえ、やかぬなみにもたつかすみかなあ……。どうじゃ、弥太郎、この歌は?」

「うぷっ!」

 弥太郎が答える前に弥三郎が奇声を上げた。どうやら氏真の詠歌を聞いて吐き気を再び催したらしい。弥太郎はというと、

「うむう……そうですな、塩を焼く煙と波の上の霞の対比が面白うござりまする」

 と歯を食いしばって答えた。氏真はそれを聞いて

「うむ、マロもそう思うぞ。いかなる時にも風雅を忘れぬ心栄え、誠に見事じゃ」

 と相好を崩したが、その一方で

「……弥三郎、大丈夫か?」

 と聞く気遣いも見せた。

 付近に海音庵という庵があったので弥三郎が事情を話して休ませてもらう事ができた。一休みした後も大野浜は北風が吹き荒れた。氏真は舟を出せないか聞いたが、時化に懲りた船頭も海音庵主も引き留めたため、その夜は海音庵の世話になった。

 氏真は夜半雨音を聞いたように思って目を覚ましたが、戸を開けてみると月が出ていた。雨かと思ったのは磯に寄せる波の音なのだった。目が冴えてしまって、月をずっと見ていたが、月が雲に隠れる事はあっても雨は降らなかった。ここはその名の通り海音庵なのだな、と独り合点して微笑んだ。


 ならはの渡して大野に着

 磯つづく塩屋の煙なひき合てやかぬ波にも立霞かな(1‐15)

 磯枕雨かときけば月は出て幾度曇る浪の音かな(1‐16)


 翌一月十七日には早馬でよい報せがあった。角屋が舟をもう一艘よこすというのだ。氏真の旅が遅れるのを気に病んだ船頭が大湊に使いを走らせて事情を説明したため、角屋七郎次郎が至急別の舟を手配したのだ。氏真がその報せを聞いて間もなく角屋の舟が到着し、一行は昼過ぎに大湊に向けて出航する事ができた。

 今日は風も穏やかで、航海に申し分ない。大浜から乗ってきた舟は時化で損傷があり、水夫たちもいまだ疲れが抜けきらないので、迎えに来た舟が曳きながら航海するのだ。しかし大浜の舟の衆も何もしないでは申し訳ないと艪を漕いだ。すると先導する舟と後ろの舟を繋ぐ綱がピンと張り切って前の舟を揺らしたり、後ろの舟が追いついて前の舟の船尾にぶつかりそうになったり、ちょっとした見世物のようであった。前の舟の艫(とも)からそれを見た氏真は面白がった。

「これは面白い。曳かれる側の船も艪を漕いでおるぞ……うむっ! 一首浮かんだ」

 大浜からの船酔いがまだ抜け切らない弥三郎は、けだるそうに氏真の後ろ姿を見つめるだけだった。全くこの殿は疲れを知らないのか……。

 舟は翌十八日の日の出頃に大湊に着いた。大野から大湊までは直線で八里足らずだが、志摩半島を回る船旅なのでその分時間がかかった。

「氏真様、ようこそお越しくだされました」

 角屋七郎次郎が出迎えて宿まで案内してくれ、その夜は氏真一行のためにわざわざ酒宴を催してくれた。

 弥三郎や他の者たちはまだ残っている船酔いもあってぐったりとし、酒肴を見るのもつらそうだったが、弥太郎は何とか回復していた。

 氏真は船酔いなどどこ吹く風といった様子で、七郎次郎のもてなしを喜んで受け、酒食を楽しんでいた。

 角屋七郎次郎の家は元は信濃国松本の神職だったが父七郎左衛門の時に伊勢大湊で廻船問屋を始めた。親子で商売にいそしみ七郎次郎の代には伊勢国司の北畠を始め、今川、北条の御用商人となった。さらに北畠を降して伊勢を領国とした織田とその盟友徳川に接近して両家の御用商人にもなり、勢いますます盛んである。

 七郎次郎は頭の回転が速く役に立つ商人だが、氏真は侠気(おとこぎ)のある所を特に気に入っている。一昨年の冬信長の命を受けた塙直政が大湊にやってきて、代金を払うから角屋が預かっていた氏真の茶器を差し出すよう命じてきた。七郎次郎はそれに応じる事なくいち早く茶器と共に氏真の許に注進にやって来てくれた。そのわずか十日後せっかちな信長が大河内城の織田信雄付きの津田一安と大湊の代官鳥屋尾満栄を遣わして大湊の会合(えごう)衆にあたる老分(おいわけ)衆に催促してきた。その時には、茶器は昨秋氏真に返し、七郎次郎は浜松に行って不在だと答えるように老分衆に根回ししてごまかしてくれた。

「商いは信用第一にござります。お客様の持ち物を力づく金づくで取り上げるような真似に従う事はできませぬ」

 堺の町と同じく大湊も商人たちが自ら治めている町なので、そのような無体な事はたとえ信長の命といえども従わないと七郎次郎は言い切った。その毅然とした態度を氏真は好もしく思った。

 氏真自身も信長に媚びへつらう気はなかったのでしばらく捨ておいた。

 とはいえ信長から再度大湊に強く申し入れがあったと聞いた時は、氏真も七郎次郎や家康にも迷惑がかかると考えて、千鳥の香炉や宗祗香炉などの名物を差し出したのだった。信長も約束通り代金は払ってきた。

 その時は、

(信長め、下衆(げす)の横好きしおって)

 と苦々しく思っただけだったが、今考えると信長は既に武田との無二の一戦を決心していたのだろう。そのために茶道具を口実に氏真との直接の交渉を求めてきたのだと思われた。

 その夜は既に更けていたので宴会は半刻ほどで切り上げてもらい、七郎次郎が用意してくれた宿に泊まり、船旅の疲れを癒した。


 風あらしとて留る人ありて海音庵に滞

 留次の日知る人舟したてゝ昼より出る

 曙やさし引塩の湊川つなきなからに舟そこかるる(1‐17)


 一月十九日、今日も穏やかな日和で船旅を再開した。今日はいつもより暖かい。氏真は冬陽を受けて海面に金の綾なす伊勢湾の波を船縁(ふなべり)からまぶしそうにずっと見ていた。

 今日の船旅は順調で途中何事もなく四日市の南にある楠(くす)で陸に上がり宿を取った。これで船旅が終わると思って弥三郎や供の者たちは喜んでいた。弥太郎も口にはしなかったがそう思っていたかもしれない。

 氏真には疲れはほとんどなかったが、船旅にも多少飽きたと感じた。しかし昼の間凝視し続けていた目を射すような伊勢湾の金の綾波が目に焼き付いてしまったようだった。

 一月二十日には陸路の旅に戻って東海道を鈴鹿川を溯るように進んだ。鈴鹿川の氷も解け始め、道中の雪もほとんどない。鈴鹿や高宮を過ぎて亀山城付近の河崎に着いて宿を取った。

 波音の聞こえるはずのない場所にある河崎の宿で床に入ってからも、氏真は伊勢湾を波に揺られながら舟で行く夢を見て目を覚ました。目覚めた後もあの金の綾波の輝きや音まで枕に通ってくるように感じるほど鮮烈な印象が残っていて、なかなか寝付けなかった。


 くすへあかり鈴鹿高宮なと過河崎に着

 鈴鹿川八十瀬の氷解初て関路の雪も稀に残れる(1‐18)

 めにとまるひるの渡りの夜もすからきかぬ枕に通ふ波かな(1‐19)


 氏真は皆が元気を回復した様子を見て、一月二十一日は早朝の出立を命じた。宿を出て東海道を進み始めて北を見ると春霞が立ち込める中朝焼けが広がって行く。霞とその中に浮かび上がる嶺を桜色、桃色、紅、紅紫、紅藤色の光が彩った。

「何と美しい……あの嶺は何というのであろうか……」

 氏真が賛嘆のため息をもらしながらそう言うので、弥三郎がこのあたりの者に聞いて戻って来て、

「見た目の通り嶺という名であるとの事にござります」

 と告げた。

「そうか、嶺か……うむう、一首浮かんだ。いずくにもお、たつはひとえのはるがすみい、あけゆくみねぞお、よにたぐいなきい……」

 いつもは内心冷ややかな弥三郎であったが、この美しい風景を愛でる気持ちはよく分かったので、自然と笑顔になった。

「どうじゃ、弥太郎、この歌は?」

「はい、お歌の通り春霞はどこでも見られますが、この風景はこの世のものとも思われませぬ。この旅の行く末の明るさを示しているようで、うれしゅうござりまする」

 弥太郎はキリリと引き締まった顔をほころばせて答える。いつもなら弥太郎のうまい受け答えを聞くとむしろ嫌らしさが鼻に付くのだが、今日の弥三郎は納得して頷いてしまった。

「うむ、そうか、そうだな。……では、嶺の朝焼けに見送られながら京を目指すとするか」

 そう言うと氏真は再び馬を歩ませ、弥太郎はいつものように先駆け、弥三郎が氏真のすぐ後ろに従い、従者たちが後に続いた。


 早朝に立て霞村村なる末を嶺といへり

 いつくにも立は一への春霞明行嶺そよにたくひなき(1‐20)


 氏真はその後も上機嫌で弥太郎に話しかけながら馬を進めた。弥三郎は後ろから耳をそばだてたがやはり面白くない。

「ここから二里ばかり未申(ひつじさる)(南西)に行けば鈴鹿関(すずかのせき)があるはずじゃ。逢坂関(おうさかのせき)、不破関(ふわのせき)と並ぶ三関の一つなのじゃ」

 やれやれ、また殿の蘊蓄話が始まった。

「左様で」

 やれやれ、こっちもまた適当な相槌を打っておるわ。

「うむ。鈴鹿山、浮き世をよそに振り捨てて、いかになりゆくわが身なるらん……。これは西行法師の歌でな」

 出た、また歌か。本当に殿は歌が好きだなあ。

「ほほう……聞いた事がありますような」

 本当に聞いた事があるのか。

「うむ。鈴鹿山だけに、『なりゆく』のじゃ」

「あ、なるほど」

「ははは」

「ははは」

 なにがおかしい? なぜ二人が笑い出したのか、掛詞が分からない弥三郎には分からず面白くなかった。

 その後の道中も氏真は鈴鹿関の事を考え続けていた。マロの場合は西行法師とは逆にこの山を越えて浮き世へと戻る訳だが、さて鈴鹿関はすんなり通してくれるかどうか……。

 氏真は鈴鹿関の通行で駿河復帰の願いの成否を占ってみたい気分になっていた。

 しかし、今は関とだけ呼ばれる宿場町に来てみると、そこにあるはずの鈴鹿の関が見つからない。供の者たちに探させたが、そんなものの跡さえなかった。あたりの者に尋ねても首を振るばかりである。供の者たちが鈴鹿関を探し回る間、氏真はぼんやりと鈴鹿川のほとりに立って川のせせらぎの音を聞き、霞に覆われる嶺を眺めていた。

「そうか、鈴鹿の関所はもはや跡形もないか、そうか……」

「残念ながらそのようにござりまする」

 弥三郎は残念さを装いながら、内心思っていた。もういいじゃないか、そんなもの……。同時に弥三郎は今まで何でも我がまま放題思い通りにやってきた氏真が落胆するのを心の中では秘かに舌を出して笑っていた。

 しかし、氏真の反応は弥三郎の予想をはるかに超えていた。悲しげな表情でいたかと思うと、

「そうか、関とは名ばかりで鈴鹿の関所はもはや跡形もなく、見えるのは霞の中の山嶺のみ。鈴鹿川の白波がむせび泣いておるわ……うむーーっ! 一首浮かんだ。なのみしてえ、せきはあとなきやまみねのお、かすみにむせぶう、せぜのしらなみい……」

 この殿はこんな負け惜しみでも歌に詠むのか……。弥三郎は渋面を見られないように顔を伏せながら思った。ちらりと弥太郎を見てみると、キリリと引き締まった顔を伏せていて表情が読めない。同じ事を感じているのか?

「まあ、やむを得ぬ。ないものはないものとして、先を急ごう」

 氏真本人は出すものを出してすっきりした人の表情で一行を促して旅を再開させた。全くけろりとしている。

 この殿は何があってもこうやって歌で心の中を真っ白にしてしまうのか? だから国を逐われても、小田原から追い出されても平気でいられるのか? 良くも悪くも懲りない人なのかなあ……。そんな事を考えながら弥三郎は後に続いた。

 氏真一行は関宿を通り過ぎてから雪山にはさまれた道を進んだ。晴れてはいたが、所々雪の残っている道もあり、道中いささか難渋した。しかし朝出立した河崎から五里余り行った所で再び視界が開け、民家が立ち並ぶようになった。弥太郎が黒川という場所だと聞いてきた。土山宿という宿場の近くだという。一行はここで中食を取った。

 弥三郎はもう疲れていたので、

「徒の者どもも疲れておりますし、今宵はこのあたりに泊まってはいかがでしょう。近くに宿場もある事ですし」

 と他の者を引合いに出して宿泊を勧めた。が氏真は、

「いやいやもっと進もう」

 とだけ言って出立を命じた。

 黒川からさらに三里ほど進むと、伊佐野という村に着いた。雪道を八里ほども進んでさすがの氏真も疲れたらしく、もう日も傾いていたので今日はここで宿を取る事になった。


 雪山をこえくろ河いさ野と云所に着

 名のみして関は跡なき山峯の霞にむせふせせのしら波(1‐21)

 長閑なるあたりの峯に雪山の村消残る軒の下陰(1‐22)


 明くる一月二十二日も早朝の出立となった。

「早朝に立てば昼過ぎには琵琶湖で舟に乗って日のあるうちに渡れるであろう」

 との氏真の言葉であった。

 冷たい時雨が降る中の強行軍であったが、氏真は気にしない。

「はあ、冬の枯れ山の間を氷のような冷たい雨に打たれて、難儀でござりますなあ……」

 と弥三郎がつぶやくように言うと、

「うむーーっ! 一首浮かんだ。つゆしぐれえ、もるちょうやまもお、はるをあさみい、くさきのいろのお、めぐむともなしい……」

 という返事だった。

 弥三郎はもうどうでもよくなっておとなしく馬を進めた。枯れ木のように心を無にして進もう、そうでもしないとこの殿にはついていけない、と思いながら。

 一行は七里余りを休みなく旅して守山宿にたどり着き、湖畔に下りて舟に乗った。唯一の救いは対岸までの水路は半里ほどしかなく、波も穏やかな事だった。

 舟は夜に入って対岸に着いた。守山宿まで一行を悩ませた時雨はここまでは追いかけては来ず、夜空には星が広がっている。舟から降りると弥三郎が駆け回って三井寺近くの湯屋に宿を取る事ができた。供の者たちは旅装を解くとすぐに温泉に入り旅の疲れを癒す事ができた。

「うぃぃーっ……」

 弥三郎も、快適な湯に言葉にならない声を上げながら弥太郎と共に温につかった。

「このくつろぎのためと思えば七里歩いた後に宿を探して駆け回ったのも苦労には感じないでござるよ」

「誠に結構な湯でござる」

 弥太郎もいつもはキリリと引き締まった顔を緩めてくつろいでいる。

「骨の髄までくつろいで参ろう」

「そういたしましょう」

「……そういえば御屋形様はどうなされたのでござろう」

「もちろん湯の支度ができた時真っ先にお伝えしましたが、後でよいとの仰せでござりました」

「ふむ。お寒くないのでござろうか」

「さあ……」

 その時氏真は独り宿を出て湖畔を見下ろし、長等山から吹き下ろす風に揺られる蘆火に照らされた漁師の家を見ていた。夜湖を渡る舟はあの灯りで家の在り処を知るのであろう……。氏真は微かな灯し火を頼りに夜を渡る舟と世を渡る己を重ね合わせて、いつのまにか人の一生の儚さに思い侘びている自分に気付いた。


 世の中をいとひがてらに来しかども憂き身ながらの山にぞありける


 三井寺の山号長等(ながら)山を歌枕とするそんな歌が後撰集にあるのを思い出してから、そんな感慨に浸り始めてしまったのだった。

 漁師の家の蘆火を揺らす風は湖の磯波も揺らしていた。氏真にはその風は無常の風、蘆火は無常に抗う定命の凡俗の命の灯のように思えてならなかった。

 しばらく夜景を眺めた後氏真は湯も食事も早々に済ませて床に入ったが、長等山から吹き下ろすと思われる松風の音が気になって寝付けなかった。琵琶湖の磯波も休む間もなく風に吹かれ続けているのであろうと思いながら、一度起きて思い浮かんだ歌を書き付け再び横になった。


 もり山かねのもりしなの渡をしてゆ屋に着

 露時雨もるてふ山も春を浅み草木の色のめくむともなし(1‐23)

 浦風に蘆火またたく海士の屋は夜の渡りのしるへ成らん(1‐24)

 春の夜も長良の山の枩風に磯の波さへゐねかての床(1‐25)

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マロの戦国 ‐今川氏真上洛記‐ @Sagara_Souju

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