マロの戦国 ‐今川氏真上洛記‐
@Sagara_Souju
第1話マロの新たなる旅立ち
マロの戦国 今川氏真上洛記
マロの新たなる旅立ち
十三日物詣の志ありて発足
駒なへて行は霞の道の末有し野山も分迷ひけり(1‐9)
天正三年(一五七五)正月十三日の午後、今川五郎氏真ははやる気持ちを抑えつつ、京に向かって馬を歩ませていた。
付き従うのは浜松では「氏真衆」と呼ばれる今川家臣の朝比奈弥太郎と、海老江弥三郎、他に徒士(かち)や小者数名である。今川家の重鎮朝比奈氏の若手弥太郎が数間先を先駆けし、弥三郎が氏真のすぐ後ろに続き、その後を他の者たちが急ぎ足で追いかけた。
「うむっ!」
氏真は唸り声を上げ、突然馬の歩みを止めた。
「殿っ、いかがなされました!?」
すぐ後ろの弥三郎が馬を寄せた。
先を進んでいた弥太郎も異変に気付いて駆け戻ってくる。
氏真はしかつめらしい表情を浮かべながら懐に手を入れた。
「一首浮かんだ」
と言うと、筆と懐紙を手にして歌を詠み上げ始めた。
「こまなべてえ、ゆくはかすみのみちのすええ……」
(またか)
と弥三郎は思った。いつもの事なのだ。殿は常に和歌を心にかけていて、事あるごとにその場で思いついた和歌を詠み上げる。外出中馬に乗っていても、歌を思いつけばこうやって馬を止めて忘れる前に書き付ける。気分が向いた時は周りの者に聞かせて感想を求めるのだ。しかし、歌道に疎い弥三郎は氏真の口から出る音を追いかけるのが精一杯で、氏真の詠じる歌を咄嗟に言葉として理解する事もできない。
「闇雲に人を殺(あや)めるのはただの人殺しぞ。もののあわれを知り弓矢で争う前に道理を尽くすがまことのもののふよ」
今川家中ではそう言って和歌や文芸が奨励されてきたが、
(肝心の戦で負けてしまってはしょうがないじゃないか)
と弥三郎は内心口をとがらせたくなる。だがそういうお家柄だから仕方がない。
その点朝比奈弥太郎はうまいものだった。
今朝浜松を出立する時も、氏真は
「この歌はどうじゃ、弥太郎?」
と朝方に浮かんだ一首を披露して弥太郎に感想を聞いた。
峯の雪麓の霞中絶えて一筋続く明けぼのの山(1‐8)
すると弥太郎は、キリリと引き締まった顔をほころばせて
「希望の光が見えるようなよい歌にござりまする」
と答えたのだ。
「そうであろう、うむ、よく申した」
氏真もみるみる顔をほころばせていかにも満足げな様子であった。
弥三郎がそんなやり取りを思い出していると、
「ありしのやまもわけまよいけりい……。どうじゃ、この歌は?」
氏真が下の句を詠み上げ、弥太郎に感想を求めた。
「霞の中を行く我らの旅路の様子をよく表しておりまする」
またも弥太郎は氏真の気に入りそうな事を言う。
「うむ、そなたもそう思うか。霞の中の道行きがなかなか風情あるものに思えてな、そう思っていたらこの一首が浮かんだのじゃ」
果たして氏真は弥太郎の言葉にまた機嫌をよくしたようだ。
朝比奈弥太郎泰勝は今川家の重鎮朝比奈家の出身だ。朝比奈家は今川仮名目録でも三浦家と並ぶ格式を認められ、京の公家中御門家から正室を娶って今川家と縁戚にもなっていた。七年前に甲斐の武田信玄と三河の徳川家康が共謀して今川家を攻めた時には、当主朝比奈泰朝は駿府から逃れてきた氏真らの軍勢を懸川の居城に受け入れて半年間防戦し抜いて、ついには家康との講和に持ち込むという活躍を示した。
その泰朝が亡くなる直前特に選んで氏真に近侍させたのが弥太郎泰勝だ。
弥太郎は勇敢で頭もよく見目形もよいが、歌を巡る問答で氏真の機嫌を取る手並みは今川家で重きをなしてきた朝比奈家に代々伝わる秘伝の処世術か、天性の素質か、とにかく弥三郎には到底できない芸当だった。
そうこうしているうちに徒(かち)で後を追いかけて来た者たちも追いついてきた。皆一様にほっとした表情を浮かべている。彼らにとっては氏真が立ち止まると一息入れられるのでこの趣味は好ましく思えるらしい。
「では行くか」
氏真は満足そうに供の者を見回してからまた馬を歩ませた。弥太郎が再び先を進み、弥三郎が氏真に続き、徒の者たちが後に続く。
元旦の歌は我ながら平凡だったな。氏真は馬を歩ませながら思い出した。
春立といひつゝ年の越ぬれは重てけふや霞初らん(1‐1)
氏真が駿府を逐われてもう七年目、桶狭間の戦いからは十五年にもなる。思い通りにならない事ばかりの十五年だった。
永禄三年(一五六〇)五月十九日、父義元が桶狭間の戦いでまさかの戦死を遂げた後、今川家は大混乱に陥った。主だった武将や多くの兵を失って軍勢は崩壊し、長年の戦さの負担で疲弊していた所に多くの働き手を失って民の困窮は極まった。当主を失った家では跡目争いが始まり、さらには今川の力にうわべだけ従っていた国人たちの動向も怪しくなった。その上松平元康は岡崎城で自立し、織田と結んで逆心を示した。
跡を継いだ氏真は自分なりに今川家の立て直しに尽力したつもりだ。領内の不穏な動きが相次いで身動きが取れなかったので三河を元康から奪い返す事はできなかったが、反逆した国人たちを討ち滅ぼして駿河と遠江は何とか確保できた。永禄四年には幕府の御相伴衆にしてもらい、北条が上杉謙信の大軍に攻められた時は援軍を送って同盟関係を堅固にして、元康との戦いに専念できる体制を作った。
桶狭間の戦いの前から百姓が村を捨てて逃散(ちょうさん)する事態が相次いでいて領民には戦を支える余裕がないと思ったから、氏真は内政に力を注いだ。信濃から移ってきた者たちの新田開発を奨励し、領内の治水も進めたし、楽市楽座を行なって商工業の振興にも努めた。困窮した村には徳政令を出した。
永禄六年(一五六三)になると元康は三河一向一揆で家中を二分する戦いに巻き込まれて今川領をうかがう余裕がなくなり、その間に氏真の内政の努力が実を結んだかに見えた。領民は収穫が終わる頃に晴れ着を着て風流踊りを楽しむようになり、村同士が踊りを披露しあうようになった。その波は駿府にも及んだ。
「これは御屋形様の善政の賜物で民に余裕ができたという事でございますぞ」
側に仕えていた三浦右衛門がそう言って風流踊りを奨励し、氏真にも参加を勧めた。氏真も踊る領民たちの中心でほおかむりして自ら太鼓を叩いた。太鼓を叩きながら領民の生活の改善を確信し、満足感に浸ったものだった。このまま領民たちと風流な生活を楽しめれば本望だった。
ああそれなのに……。
永禄十一年(一五六八)の師走の事、甲斐の武田信玄と、徳川家康と改名していた元康が呼応して東西から今川領内に攻め込んできたのだ。叛服常ならない戦国の世だと分かっていても、信玄と家康の裏切りを思い出すと今でも苦い思いがこみ上げてくる。
信玄は氏真の母の弟だから叔父であり、嫡男義信は氏真の妹を娶っていた。まだ若かった信玄が父親の信虎と反目して信虎を追放した時には父義元が力を貸したものだ。しかし信玄は義元死後今川の領土を狙うようになり、それに反対する義信を廃嫡して遂には自害させてしまった。その一方で織田家と姻戚となり、家康を語らって攻めて来たのだ。
家康も今川に累代の恩義を感じて然るべきなのだ。家康の父広忠は祖父清康が尾張国守山で横死した時まだ幼いため岡崎を追われて放浪したが、義元の助けで岡崎に戻る事が出来た。家康本人も広忠が急死した時には織田方に囚われていたから、義元が助けなければ松平家を継ぐ事はできなかったはずなのだ。
家康にも言い分はあるかもしれないが、義元生前には嬉々としてその意に従っていたように見えた家康の変節ぶりが氏真には納得できなかった。
叔父信玄と謀反人家康の共謀は十分予想できていたから十分な手を打っておいたつもりだった。三河からの侵攻を縣川城の朝比奈泰朝が中心になって遠江で防戦する。その間に北条と共に甲斐の武田信玄を撃破して、返す刀で家康を撃退するつもりだった。まずは武田の侵攻を食い止めるため、氏真は一万五千余りの軍勢を率いて出陣した。
しかし、あろう事か武田との交戦間近になって今川の重臣たちが相次いで兵を退き、今川勢は戦わずして潰走する破目になった。後から考えると、民生を優先して外征をせず、徳政令で年貢の取り立てを停止させた氏真の政策への反発が想像以上に家臣たちの間に広がっていたためこんな事になったのだ。それに気付かなかった自分の不明が悔やまれた。
氏真も潰走する軍勢と共に駿府まで逃れて来たが、敵味方の分からない烏合の衆となってしまった今川勢が百戦錬磨の武田勢を迎え討つ事は到底無理だと思われた。
(武田の鋭鋒を避けて泰朝の懸川城に拠る事にしよう)
その咄嗟の判断のおかげで生きのびる事ができたと氏真は思っている。遠江の備えが予想以上に固くなって半年近く手こずる事になった家康は氏真に和議を持ちかけて来た。懸川を開城して遠江を渡せば北条と共に駿河奪還に協力すると言うのだ。
氏真は和議に応じ、懸川城を出て小田原に移った。義父氏康死後に氏政が信玄と同盟を結んで身の危険を感じた氏真は小田原を出て、思い切って家康の居城となった浜松に向かい、庇護を求めた。信玄と敵対するようになっていた家康は氏真一行を受け入れた。駿河と遠江の旧主氏真は遠江支配の安定と武田の駿河支配への揺さぶりに役立つと踏んだのだろう。
こうして氏真は思いがけぬ形でかつての謀叛人家康の庇護下に入ったが、情勢は厳しいままだった。やがて西上作戦を始めた信玄の軍勢が三方ヶ原の戦いで徳川勢を痛破して浜松城に肉薄した時には氏真も肝を冷やした。その後浜松から離れた信玄は三河で病死したが、武田の武威は衰えなかった。昨年天正二年五月には遠江の要衝高天神城が武田勝頼に包囲され、六月に落城した。家康と盟友の信長は重い腰を上げて援軍に向かったが間に合わなかった。世間は武田の武威を恐れたための失態と噂し、家康と信長は面目を失った。駿河奪還は夢物語のように思えた。
春をまたしらぬ氷も解らし朝日に向ふ鶯の声(1‐2)
日影さし残る氷の水際や流ぬ年の境なるらむ(1‐3)
そんな逼塞停滞した年月の中で年が変わっても特別な感慨はなく、天正三年元旦の歌も春の喜びよりも氷に目を向ける心が表れていた。
だが数日前、家康への新年の挨拶がそんな凍てついた気分を解かす転機となった。
「氏真殿、吉報がござる」
いつもは重厚な表情で対する家康が挨拶に来た氏真を珍しく笑顔で迎えた。
「吉報でござるか?」
「信長殿が京にて氏真殿にお会いしたいと言っておられる」
「それはそれは……」
話しながら自分の顔がほころんで行くのを氏真は感じた。
「信長殿は今年いよいよ武田と無二の決戦をするお心積もりでござる」
家康は氏真の表情の変化に気付かずに続けた。
「しかし武田は信玄以来天下にその精強を謳われた難敵、これを打ち破るのはたやすい事ではござらぬ」
信長も家康も武田が強すぎるので逃げ回っていたな。
「そこで武田に付き従っている駿河遠江衆を切り崩すのに氏真殿のお力もお借りしたいという次第」
なるほど、甲斐の虎の子を倒すために猫の手ならぬマロの手も借りたいという事だな。
「岐阜ではなく京にて逢いたいとの仰せはいかなる次第でござろうか」
信長はなぜマロを京に呼んでくれるのだろう?
「……それは聞いており申さぬ」
家康は少し考えたがそれだけ答えた。
「信長殿は二月か三月には上洛されるとのこと。氏真殿もその少し前に上洛して信長殿を待たれたがよいと存ずる。おそらく場所は相国寺でありましょう」
「承知仕った。それでは早速支度を整え数日中には京に上りたく存ずる」
氏真がせき込むように言うと家康はあれっ? という表情をちらりと見せたが、
「そうですな。路銀は当家よりお届けいたす故ご心配なく。此度のご上洛は徳川の命運にも関わるにござる故」
とあっさりと承諾した。家康はマロが人生初の上洛を一刻も早く果たしたくてうずうずしている事に気付いていないな。
家康は氏真の様子を見ていたが、少し言いにくそうに
「此度のご上洛にて氏真殿が信長殿の許にご出仕されるという形になり申す」
と信長が氏真に上洛を促す趣旨について念を押した。
親の仇に頭を下げて失った領国を取り返してもらおうとしていると見れば確かに外聞が悪い。その不甲斐なさをなじる者もいれば、笑う者もいるだろう。おまけに目の前にいるその片割れは謀叛人で、しかも叔父と手を組んで領国を奪った張本人なのに、マロはその分け前争いに乗じて、その厄介になっているのだ。
しかし、戦国の世では俗世の因縁で親兄弟の仇や互いに殺し合おうとした者同士が合従連衡の中で味方同士になる事はよくある事だった。討ち取った敵の家族に戦場で手に入れた形見を贈るような、過去の恩讐を超えた美談も珍しくない。
信長は、父信秀が始めた今川との争いを引き継いだに過ぎない。強大だった今川を自分から攻めようとしたのではなく、攻め込んできた今川の大軍と戦って、幸運もあって義元の本陣まで攻め込み首級を挙げたのだ。父の代からの因縁がなければ義元の上洛に力を貸したかもしれない。
家康はというと……義元討死後すぐに造反したわけではない。岡崎まで戻ってきた時家臣たちが岡崎城を奪おうと勧めるのを聞かなかったが、城代山田新右衛門が自分は義元に殉死すると伝えて城を去ったというのだ。そこで家康は捨て城ならば拾おうと言って今川方が退去した後の岡崎城に入ったという。その後家康は駿府に使者を送って来て新右衛門殉死を報せ、勝ちに乗じて攻め込んでくるかもしれない織田方を食い止めるため岡崎城を守る、仇討(あだう)ちのために氏真が出陣するなら先手を務める、と伝えて来たのだった。
仇討ちを嫌がったつもりはない。義元討死直後の氏真は仇討ちに出馬する旨方々に書状で伝えたものだ。しかし、間もなく敗戦の打撃や家中の混乱が予想以上に深刻だと分かったので、内政を優先して時が過ぎた。その後家康が織田と結んだのは幼いころの信長との絆があったのだろう。とはいえそれで叔父信玄と共謀して今川を攻めた事を許す気にはならないが。
塚原卜伝から伝授された鹿島新当流で家康に一太刀浴びせてみようか、とちらりと思う事はあるが、温厚篤実そうな顔をした家康に丁寧な挨拶をされるとつい昔の怨みを忘れてしまうのだ。
しかしまあよい。今は信長が朝廷を擁して天下静謐の実現のために働いており、家康はそれを助けているのだ。天下の安寧のためには私怨を捨てて大義を取りたい。
それに何よりも信玄が憎い。自分の息子でありマロにとっては妹の婿である義信を殺してまで縁戚今川家の領国を奪った信玄の冷酷、非情、貪欲が憎い。あまつさえ信玄は繰り返しマロの命を狙ったのだ。家康がマロと和議を結んだ時も、信玄はマロの首か身柄を引き渡せ、と要求してきたというし、北条と武田が同盟した時も、数多くの忍びを送り込んでマロの命を付け狙ったのだ。
信玄の跡を継いだ勝頼には恨みはないが、駿河を返してくれと頼んで返してくれるような男ではあるまい。強敵武田から駿河を取り戻すためにかつての敵と手を組む事は厭わないつもりだった。
「それがしも官位を授かって朝廷に仕える身。天下の安寧のためならば昔のいきさつを忘れて織田殿の下で働く事に異存はござらん」
氏真がどうという事もないという表情でそうさらりと言ってのけると、
「よく言って下されました。それがしも天下のために共に働きたく存ずる」
と家康は微笑んだ。どうやらこの男も「天下」という言葉が好きらしい。
こうして氏真は信長詣でのため京に向けて出立する事になったのだった。今まで人に従う屈辱を実感した事のない氏真には、信長に頭を下げるかどうかはどうでもよい事だった。宿敵武田と無二の決戦をして駿河を取り戻すために憧れの京へ行ける。氏真は喜びに胸を躍らせた。
領国を奪われる前の駿府には戦乱や貧困に苦しむ京を離れた公家や、諸国を巡る連歌師や僧がいて、京の話題に花を咲かせていたものだ。京を訪れる事は氏真の宿願だったが領国を失うまではその余裕もなく、駿府を逐われた後はそのような事をしていては面目が立たなかった。
しかし今胸を張って京へ行く事ができる。
氏真は自分の館に戻るとすぐさま氏真衆と家族を集めて上洛する旨を告げた。岡部三郎兵衛らを留守居とし、朝比奈弥太郎と海老江弥三郎その他小者まで含めて十名ほどを引き連れて行く事に決め、慌しく準備を始めた。家康からの路銀もすぐ届き、二三日で支度を整えて、今朝出立したのだ。
「道中のご無事をお祈りしておりまする」
正室の春姫も喜んで見送ってくれた。春は自分を心から愛してくれていると氏真はいつも感じている。婚儀の前に初めて会った時、春が大きく見開いた瞳を輝かせたのを氏真は忘れる事はないだろう。春は器量もよく気立てもよい姫だったが親同士が決めた婚儀を望まなかった氏真の心は重く、最初の間は寝所を訪れる事も稀だった。
疎遠な状態は桶狭間の戦いの後も続いた。義元の死の衝撃とその後の三河や遠江の錯乱に苦悶する氏真には春を構う余裕はなかった。
そんな状態が変わったのは永禄八年(一五六五)ごろからだっただろう。三河を失ったが遠江で家康に与する井伊や飯尾ら国人の中の不穏分子を一掃し、国境(くにざかい)がほぼ落ち着いたように見えた頃、二人は長女花を授かった。それから氏真の善政が実を結び始めたかに見え、このまま月日が平穏に流れればと思ったが、やがて信玄と家康が攻め込んで来て、その願いは叶わなかった。
しかし、国を失った後の流浪の年月はむしろ二人の絆を強くした。春が父北条氏康に頼みこんでくれたおかげで懸川を出た氏真一行は小田原で庇護された上に、駿河奪還の支援も受け、一度は駿府館を奪還する事ができた。
越後の上杉とも同盟して武田を背後から牽制させ、いずれは駿河を回復できるかと期待もしたが、北条の支援は長く続かなかった。その後元亀二年(一五七一)の冬に氏康が病に倒れ、春の兄氏政が亡き愛妻の実家武田と同盟して状況は一変したのだ。信玄が数多の忍びを送り込んで氏真を亡き者にしようとしていると知った時、氏真の心は折れそうになった。
なか?に世をも人をも恨むまじ時に遭はぬを身のとがにして(遺‐33)
氏真が辞世とも思われる一首を家臣の前で詠じ、絶望した今川家中の集団自殺が始まるかと思われた時、それを押し留めたのが春だった。
「殿は項羽を気取ってこの子を殺す気なのですか。わらわは死にとうござりませぬ!」
小田原で産んだ赤子の五郎を抱き上げて見せて春は珍しく語気鋭くそう言った。方々に人を走らせて旧知の商人の舟を手配させ、氏真一行を舟に乗せたのも春の指図だった。春には行く当てなどなかったが、気を取り直した氏真は家康の支援を求めて浜松に飛び込む決断をした。
決断は正しかった。家康は改めて氏真の駿河奪還に協力すると約束し、氏真一行を浜松に迎え入れた。家康は力づくで奪った遠江の民心を得るためにも、いずれ戦う事になる武田の駿河衆を切り崩すためにも、旧主氏真の協力が役に立つと考えたのだった。氏真は春の献身に心から感謝して心を開いた。この時自分の想いがとうとう報われたと思う事ができた、と春に後で言われて改めて申し訳なく思ったものだ。
それからまた三年余りの時が過ぎ、とうとう武田との無二の決戦の時が来ようとしている。氏真が長年京に憧れ続けていた事も、氏真の駿河奪還を念願している事もよく知っていたから、春は氏真の上洛を我がのように喜んだのだった。
「道中ご無事で」
「ご無事で」
今年十一歳になる花も、六歳の五郎も見送ってくれた。
「みねのゆきい、ふもとのかすみなかたえてえ、ひとすじつづくあけぼののやまあ……」
感興が高まって氏真が一首詠み上げ、弥太郎がキリリと引き締まった顔をほころばせて
「希望の光が見えるようなよい歌にござりまする」
と答えたのはこの時だ。氏真は確かに希望の光を見ていた。
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