ちぐはぐ
@ns_ky_20151225
ちぐはぐ
一、妊婦
めずらしく仕事がさっと片付いた。どうしようか迷ったが、週末ではないし、飲みに行かずにおとなしく帰ろうと決めた。それで、いつものよりだいぶ早いのに乗った。
この時間の地下鉄は、スーツとカジュアルが半々くらいで、車内には鮮やかな色が見られる。
途中の駅でお腹の大きい女性が乗ってきた。席を譲る。
「いいえ、すぐですから」
「いや、どうぞどうぞ、うちのもそろそろで、立ってると腰にくるって言います。ちょっとでも」
そこまで言うと、その妊婦は頭を下げて座った。こちらを見上げて微笑みながら話しかけてくる。
「わたしは再来月ですが、いつですか」
「来月です」
「お名前はもう?」
「いえ、まだ迷ってます。妻の実家に伝わる名前があるんですが、ちょっと古めかしくて。ほかの候補も考えてて」
駅にすべり込み、窓の外が明るくなった。妊婦は頭を下げ、元気なお子さんが生まれるといいですね、と言いながら降りた。
それからまた座った。発車の振動が伝わってきて、窓が暗くなった。メールを確認しながらさっきの出来事を思い返す。
私はなぜこうなのだろう? 嘘をつく必要なんかないところなのに、とっさに話をこしらえてしまう。子供なんか生まれないのに。いや、結婚だってしたことないのに。家に帰って最初にするのは灯りのスイッチを入れることなのに。
あくびが出た。
二、夜の子供
夜の九時。地下鉄の車内は空いていた。これから十時、十一時となるとまた増えてくるのだが、この時間帯は谷間のように乗客が少ない。立っている者はおらず、座席は全部埋まっていたが、ゆったり座っていて詰めてはいない。
こんな時間だと言うのに、私のとなりには小学生がいた。問題集を広げ、そこに手帳のような小さいノートを重ねている。漢字の読みを書いていた。こんな時間まで塾だろうか。子供のころを思い出した。八時か八時半くらいに終わって、自転車で夜道を帰る。まだ田舎町で街灯が少なかったから怖くて、わざと大通りばかり選んで遠回りしていた。
そんなことを考えながら見る。下手だけど乱暴でない字で、じゅうぶん読める。
『じょうぞう』『いんぺい』『かくらん』
ふつうに使われる字だが、小学生にしては難しいだろうと思った。いまの塾はこんな問題を解かせているのだろうか。それとも漢字の検定かなにかを受けるのかもしれない。
『覗き見』
その問題が目に入って、私は耳が赤くなるのを感じた。
そのあとずっと、自分の降りる駅まで、私は正面を向いたままじっとおとなしくしていた。
三、高瀬舟
地下鉄の車内は暑くもなく寒くもないが、音がひびいてうるさい。しかし、みょうな高音や低音は含まれていないので、本を読んでしばらくすれば意識の底に沈んでどうでもよくなる。
私はその夜、『高瀬舟』をスマートフォンで読んでいた。最近は電子書籍ばかりだ。慣れるまで時間がかかったが、慣れてしまえば紙の本より便利でいい。とくに小説はもう紙の本には戻れない。
森鴎外は好きな作家で、中学から高校の頃に全部読みつくした。それをまた読み返してみようと思った。いまの自分なら鴎外をどうとらえるだろうという試みのつもりだった。
いくつか作品を読んでみると、感想が大きく変わるものもあれば、学生時分とさほど変わらないものもあった。また、読んだはずなのにはじめて触れるような気になるものもあった。それが思ったより楽しく、通勤の行き帰りは鴎外ばかりになっていた。
同心が告白をきいているところで、脇腹になにかが当たったのに気づいた。となりの人の荷物だろうと思って放っておくと、また当たった。
「すみません」
初老の男性だった。こざっぱりとしているが、いまの季節には厚すぎるように思える上着を着ていた。どうやら荷物の角ではなく、指で突っついていたらしい。
「はい?」
「いきなりお声をかけて申し訳ないのですが、そのお読みになっているのはなんという本でしょうか」
小声で、ていねいな話し方だった。老人は、怪訝そうな私の顔を見て、さらに言葉を継いだ。
「いえ、どうも、私は時代物の小説が好きでして、ふとあなたがお読みなのが目に入りまして、なにやら同心とかそういう文字が目に入ったものですから」
「ああ、はい。『高瀬舟』ですよ。鴎外の」
「はあ、たかせぶね。おうがい、ですか。聞いたことがないですが、最近の方ですか」
「いいえ、明治頃です」
そう言って、私は目次のメニューから略年表を出して見せた。なぜそこまでしたのかわからないが、鴎外を知らないと言う老人を興味深く感じたのだろう。
「ははあ、こんな字を書くのですか。『高、瀬、舟』『森、鴎、外』」
「『鴎』は本当は違う字です。『メ』じゃなくて口三つの『品』」
その電子書籍は現代の仮名遣いに直してあり、著者名も簡略な字を使っていたのでそう教えた。ちょっとばかり知識をひけらかしたい気もあった。
「お詳しいですな」
そう言われて私はわれに返った。これはからかわれているのだろうか。しかし、老人の目はじっと画面を見つめ、いつの間にか、裏紙を切って綴じたメモを取り出し、作品と著者名をさっと書きとめた。
「ありがとうございます。読んでみます」
老人はお辞儀をして次の駅で降りた。そのお辞儀は浅くもなく、周囲の注目を集めるほど大げさに深くもないほどよい礼だった。
私は続きを読もうとしたが、結局、その夜は気持ちが戻らなかった。あの年になるまで森鴎外を知らないなんてありえるのだろうか。時代物の小説が好きと言っていたので、読書の習慣はあるだろうに。
もし、巧妙にからかわれたのではないのなら、あの老人は鴎外の名も、その作品にも触れないまま年を取り、これから始めて読むのだ。老境に達した目で、子供のときに教科書などで読まされた先入観なしに。
自分の降車駅に着いた。あの老人と立場をとりかえられたらなあ、と降りるときにため息をついた。
(了)
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