いんちきなシミュレーション

南枯添一

第1話

 単澤一馬たんざわかずまがいじめに関心を持ったのは、一人息子の自殺が切っ掛けである。彼の息子は自室で首を吊ったのだが、その原因が学校でのいじめにあると断定されたのだった。

 彼はその知らせをかなり遅れて受け取った。モバイルの電源を切った上、〈入室厳禁。但し、被験者希望のヴォランティアは例外とする〉との手書きのプレートを掲げて、研究室に立てこもったのは単澤本人だから、その責は彼自身が負うべきだろう(もっとも、その遅れを単澤が気にしていたとは思えないが)。

 故に、単澤の代わりに連絡を受けたのは大学の管理部だった。プレートに何と記されていようが、訃報はいち早く知らせるべきだという点では、彼らも早々に意見の一致を見た。にもかかわらず、ことが迅速に運ばなかったのは、では誰が知らせるのかについて、議論がまとまらなかったからだ。プレートの警告を無視した結果、本当にモルモットにされかけた学生がいたとかで、裸で逃げ惑うその姿を、一月ほど前に目撃したばかりだった職員たちが役目を押し付け合ったからだと言われている。ならば、このことも含めて単澤の自業自得と言えるのかも知れない。

 結局、勇を鼓した一人の大学職員(くじ引きで負けただけという説もある)が研究室の扉を押し開けたのは、そろそろ日も傾こうという、午後も遅くになってのことだった。

 旧館と称される、古い木造二階建ての一階にある単澤の研究室そのものに関しては特筆すべきこともない。強いて言うなら、北向きで湿気がひどく、昼間でも灯りが必要なほど暗い。付け加えると、単澤は夜目が利きすぎるようだ。

 中へ入れば、広さだけは充分にある。航時機のプロトタイプだと囁かれている、デススターの残骸みたいなシロモノや、ポリカーボネイト製の絞首刑台にしか見えないもの(通称「氷の死刑台」)など、目を惹くものは多いが、そんなものに気を取られていると転ぶ。暗いだけではなく、床の上にも得体の知れないあれやこれやが放り出されてあるからだ。なお、天井に残る爆発痕は前任者の仕業で、単澤は無関係だ。

 中央には古びた木製の大机があって、職員(♀、二六歳、独身、広島県出身)が部屋に入ったとき、単澤はその上に素足で仁王立ちしていた。この程度で驚いていては単澤とは付き合えないから、意を決して彼女は声を掛けた。単澤は振り向かず、ただ長い首だけをねじるように巡らして、彼女の方に視線を落としたと言う。

 ここで、単澤の外見に関して触れておこう。長身痩躯のどうのこうのと形容を連ねてもいいのだが、それより、生まれてこの方、〈カマキリ〉以外のあだ名を奉られたことがないと、そのことだけを指摘しておけば充分だと思われる。それ故か、このとき、机の上から睥睨へいげいされた職員嬢は「自分が太ったコオロギになった気がした」と言う。むべなるかな。

 研究室より一刻も早く撤退すべく、コオロギ嬢は単刀直入に、単澤に息子の訃報を知らせた。

 このときの単澤が示した反応については諸説ある。しかし、真顔で「俺に息子なんていたっけ?」と問い返したと言う説を筆頭に、一人息子の訃報を伝えられた親とは思えない、無関心な反応に終始したと言う点では、いずれも一致する。

 有り体に言えば、単澤一馬とはそういう男であった。


 それより十年ほど前に、単澤の目も当てられない結婚生活は破綻を迎えていた。言うまでもないことだろうが、離婚の原因は単澤にあった。より正確を期するなら、原因は単澤だった。

 無論、結婚は相手がなければできない。その相手、光野和美ひかりのかずみが単澤一馬と知り合ったのは、お互いが中学生だった頃にまで遡る。光野/単澤くんと最後までその当時の呼び名を使い続けたというような間柄だった。また、そうでもなければ、単澤の如き、歩く天変地異のような男と彼女は結婚などしなかったはずだ。よって、その瓦解を嘆くより、曲がりなりにも続いた十年を言祝ことほぐべきなのだろう。

 彼らの結婚生活は最初から波瀾万丈だった。単澤が宿痾しゅくあの放浪癖を発揮して、失踪したのは結婚3日目だったと言う。念を押すまでもないかも知れないが、式はしていない。結婚式と言う概念そのものを、単澤が理解できなかったからと言われる。

 前触れもなく、単澤が新居に舞い戻ったのはその一ヶ月の後。何故だか彼は庭にテントを張って暮し、当然だろうが勤め先の大学は早々にクビになった。おまけに、何だかよく分からない政治結社に毛筆で書いた弾劾状を送りつけられた。それから、研究成果を多国籍のIT会社に売り飛ばして大金を手にし、テントの次は樹の上で暮した。次はロシアで、買ってきた戦車を税関で没収された一件は結構話題になった。民間の研究所に勤めたのはその直後で、親会社の株価を倍にしたと言われるが、またクビになるまでに大して時間は掛からなかった。ちなみに「単澤一馬の言うことは嘘だらけ」と言う本が出版されたのはこの頃のことだ。単澤は本が出たことくらいは知ってるんじゃなかろうか。その後、なんだかんだで別の大学に就職したが、前のとは違う政治結社に今度は犬の生首を送りつけられた……。

 こんな男の傍で、彼が巻き起こす渦に巻き込まれて十年を過ごしたのだから、光野和美の神経が何時しかズタズタになってしまったとしても、そのことに無理はなかろう。

 彼女の言によると、最もショッキングだったのは、やはり生首事件だったそうだ。

 もっともらしい包装紙に包まれた桐の箱を開けて、中身が何であるかに気付いた時点で、彼女は謂わば腰が抜けてしまったと言う。自分でもどのくらいか分からない時間、そのままへたり込んでいると、その日は家にいた単澤が現れて、何処かへ生首を持っていってくれた。彼女の感謝はその犬の首で作った骨格標本を、単澤に自慢げに見せびらかされるまで続いた。単澤は他人に興味のない男で、好意にも気付かなかったが、悪意にはもっと不感症だったのである。

 これはアンフェアと言うべきだろう。巻き添えを食う人間だが傷付いて、張本人はいっかな無傷なのだから。

 そんな生活が続いたある日の、特にそれまでと違っているとは思えない午後、彼女は一人息子を連れて家を出、離婚調停に持ち込んだ。

 必要もない離婚調停に持ち込んだ理由を彼女はこんな風に説明している。

 家を出た日、単澤は珍しく自宅にいて、机に向かって奇声を発していた。何か作業をしていたようだが、その後ろ姿に声を掛けようとして、彼女は思ったそうだ。「もし、わたしが今、離婚をしてくれと言ったなら、単澤くんは多分振り向きもしない。机に向かったままで、オッケーサインをよこす」に違いないと。

 調停で単澤は全く争わずに息子の親権を手放し、気前よく財産を分与した。ただ、何かのプログラミングに熱中していたらしい単澤は、調停人の再三の注意も無視して、ラップトップからろくに顔を上げなかった。会話は、ほとんどフィンガーサインだったと言う。


 単澤が息子の死をどのように受け止めたかはよく分からない。元妻に、彼が自分から電話を架けたのは、コオロギ嬢が彼の研究室から逃げ出してから、3日後のことだった。おそらくは当面の課題が一段落するまでに、それだけの時間が掛かったのだろう。とはいえ、電話嫌い、メール嫌いで悪名高かった(正確にはコミュニケーション・ツールは何でも大嫌いだった)単澤が自分から電話を架けるのは珍しいことではある。

 着信を受けた光野は単澤の機先を制して、

「単澤くん」

 夫婦だった頃も含めて、単澤からの着信を受けるのはこれが何度目だろうか。無論、単澤のコミュニケーション・ツール・アレルギーは彼女も熟知している。それでも、ディスプレイに単澤の名を見たときは、自分でも返す声が華やぐのが分かり、息子に対するそこはかとない罪悪感を感じたと、彼女は言う。

「光野か?」

「ええ」

「死んだと聞いた」

「ええ」

 そこで単澤は押し黙ってしまった。実は、息子の名前が出てこなかったらしい。十年会っていないとはいえ、一人息子の名前を忘れるというのは、さしもの単澤の基準に照らしても、かんばしからざることと思えたようだ。とはいえ、そこで怯まないのが単澤だ。

「なんと言った?」

「なに?」

 さすがに、単澤との付き合いの長い光野でも、自分が何を尋ねられたのかは分からずに、聞き返した。それに対して、単澤は重ねては尋ねなかった。その理由は不明だが、忘れたんではなく、案外、もとから知らなかったんじゃないかと、そんなことを考えていたらしい。

 このことからも分かるように、一人息子の誕生に単澤は立ち合ってはいない。例の放浪癖を発揮して、このときは東欧諸国だったのだが、セルビアやウクライナ、ポーランドといった国々を彷徨っていた間に、息子は生まれたのだった。この辺り、通信事情は決してよくない。加うるに単澤のモバイル嫌いがあって、連絡は当然のように遅れた。

 奥さんからの電話を受けたというベオグラードの大学院生(当人は英語が解ると言い張っている)から、単澤が受け取ったメモは、判読しがたい手書き文字と豪快きわまりないスペルミスによって、エニグマを考えれば大したことはないなと思えるようなシロモノだったが、それを通じて、彼は息子の誕生をようやく知った。わずか半月遅れだったことは奇跡と言える。

 だからといって、直ぐに帰国しようとならないのが、単澤の単澤たる所以であって、彼が自宅に戻ったとき、息子は既に生後六ヶ月を過ぎようとしていた。

 そのとき、まるで、この一年を越える空白がなかったかのように、ぬっと居間に現れた単澤に対し、光野がしたことは息子を差し出すことだった。

「わたしたちの子よ」

 単澤は長い首を傾げるようにして赤ん坊目がけて伸ばした。その仕草はまさに、得物を前にしたカマキリそのままだったと言う。

「赤ん坊というのはどれも同じ顔をしてるな」と単澤は感想を述べ、「預けてたノートは?」と用件に入った。

「取ってくる」彼女は意を決して、「このコを少し見てて」

 自室に戻ればノートは直ぐ手に届くところにあった。けれど、光野は直ぐには居間に戻らず、ベッドの縁に腰掛けた。しばしの間、子に父と二人きりの時間を与えようと考えてのことだ。おおよそ五分。それ以上は彼女の神経が持たなかった。

 そして、自分で遅らせたにもかかわらず、恐る恐る居間に戻った光野が見たものは、長過ぎる腕を伸ばしたその先に、襟首を摘まんだ息子を、猫の子みたいにぶら下げて、その顔を睨んでいる単澤だった。

「問題なかった」まず、彼女はノートを差し出してそう言った。

 説明しておく。単澤には妙な癖があった。その時々の研究課題に含まれる概念に手当たりしだい、自分でも説明の付かないネーミングをしないと気が済まないのだ。一度、これが登録商標を犯してトラブルの素になった。以来、彼女が代わってチェックを引き受けていた。そんなことをやらせると単澤は信じがたいほどの無能だったからだ。

 けれど、単澤はノートには目もくれず、相変わらず息子の顔を見つめている。

「どう?」

「なにが?」

「わたしたちの子よ」

「だから、他と区別が付かん」

 それから、十年以上が過ぎ、二人はまた、息子のことを話すことになった。

「自殺だと聞いた」

「そう」

「ふん」

 そこで彼女は、警察や学校関係者に聞かされた、息子の自殺の経緯を、自身の無念や後悔を押し殺すように淡々と話した。そこで語られたいじめの諸相は、常にそうであるように、凄惨であり、グロテスクなものだった。単澤は口を挟むこともなく聞いていたのだが、

「質問がある」

「何?」

「彼の行動についてだが、彼はその状況下において①反撃する、②逃避する、③死ぬ、の三つの選択肢を持っていたと考えられる。このうち、③は最も持ち出しの大きい、損な選択肢だ。何故、こんなものを選んだ?」

「そうね」とため息を吐くようにして、光野。「単澤くんなら文句なく、①を選ぶでしょうね」

 と、本当にため息を吐いた。

 既に述べたように、彼女は単澤とは長い付き合いである。だから、単澤の学生時代をよく知っている。一見するとひ弱に見え、周囲から浮き上がることについても天才的だった単澤が、何度もいじめの標的にされかかったことも知っている。他人の悪意に対して感度の低い単澤は、その多くに気付きさえしなかったが、それでも一線を越えた場合には反応を示した。結果、いじめの首謀者たちは……まあ、自らの行為を深く後悔する羽目になったとでも言っておこう。

「覚えてる?」彼女は不意に懐かしげな声を出し「高二の秋だっけ。柔道部の角刈り」

 その事件は彼ら二人が通っていた高校で起きた。

 余談ながら、単澤が何故、高校になど通っていたのかは未だに謎とされている。当時の彼女は「何か厄介ごとを起こすためだと思ってた」と語っている。当たらずとも遠からずとでも言ったところか。

 閑話休題。彼らの高校には「秋期クラス対抗スポーツ大会」と称する行事があった。当然だろうが、単澤はそのことごとくをすっぽかした。無論、単澤のような男がこの手の行事に積極的に参加すると考える方がどうかしている。

 しかし、そのことに大変な不満を抱いた一団がいた。何処の学校、クラスにもいる、この手の大会の勝ち負けに異常に拘泥する手合いだ。

 実は、単澤のクラスが団体球技(バスケットだかバレーだか)において、メンバーが足りずに不戦敗を喫していた。拘泥組の怒りは、メンバーとされていながらも参加しなかった生徒、ことに不戦敗を告げられても、「それがどうかしたか」の一言を平然と言い放った単澤に向かった。

 拘泥組のボスは二年生にして既に柔道部のキャプテンを務める、やたらとえらの張った大男だった。彼女の言う「角刈り」とはこの男のことである。

 兵隊を引き連れた「角刈り」は、何故か、例によって傲然と突っ立った単澤ではなく、単澤を庇うように立った彼女の鼻先に指を突きつけて

「放課後、校舎裏に来い」と言った。

 その後、二人きりになった彼女が口にした言葉は「どうしよう?」だったそうだ。

 単澤は鼻を鳴らし、〈アリストテレス研究会〉なる意味不明な看板を掲げた彼らの部室(実は有名無実の幽霊クラブを乗っ取った)に向かい、ロッカーから電子部品と半田ごてを取り出した。

「俺がスタンガンを自作したときのことだろう」

「そう。あの大きいのが、白目剥いちゃって、・・コまで漏らして。でも、あのとき、単澤くん、計算を間違えてたんだよね。電流が想定の十倍ほど流れたって、単澤くんに平然と言われたとき、わたし、それまで飛び跳ねていたのに、固まってしまった。あ、間違えた、死んでなきゃいいがって、単澤くん、あっさり言うんだから。即席で作ったから、しょうがないなって」

 彼女は低い声で笑い、ふと心配そうな声音に変わって

「苛めた子たちに復讐とか考えてないよね?」

「無意味だ」と単澤。「復讐というのは、的外れな代償行為に過ぎん。愚者にとってのみ魅力的に映る」

「よかった」と元妻はつぶやき、会話は途切れた。

 彼女は沈黙を埋めるためだけに、新聞で読んだ魚の世界にもいじめがあるというような話をした。彼女が、既に切れた電話に向かって話していることに気付いたのは、しばらくしてからのことである。


 天啓アイデアというシロモノは制御が利かない。単澤が通話を切ってしまったのは、彼女の話を聞くうち、それの強襲を受けたからだ。

 ことは、二ヶ月ばかりを遡る。

 その日、大学のカフェテリアで単澤は文学部の男と食事をともにした。無論これは正しい言い方ではない。単澤は食事をソイレントもどきの液体と錠剤に置き換えてから二〇年になるので、所謂「食事」はしなかったからだ。十人掛けのテーブルに一人で座り、天板の中央の空っぽのコップをものすごい形相でにらみつけていただけだ。何をしていたのかは神のみぞ知る。その単澤に、文学部の男が半ば怖いもの見たさで声を掛けたのだ。文学部の男は前々から単澤に関心を持っていたらしい。

 二人の会話みたいなものは噛み合わなかったが、その際、何故かいじめが話題になり、文学部の男が私見を披露した。

 彼は、言語感覚、所謂〝いじめ〟とは縁もゆかりのない単なる暴力行為を学校が舞台であるというだけで〝いじめ〟と呼んで、問題の本質を見誤らせる、むしろ意図的に矮小化させるような教育官僚の言語感覚をまず問題にした。その上で、本来の〝いじめ〟、〝いじめ〟以外に言い換えることのできないものならば、その解決策は分かっているのだと断言してみせた。

 あくまでも理論上ことだがと断った上で、対応策はわかりきってるし、「いじめはなくせる」と彼は言った。

「いじめについて、まず言っておかなければならないことは、それがほぼ普遍的な現象だと言うことだ。昔はいじめは戦後民主主義特有の病理だなんてのたまうクルクルパーがよくいたもんだけどね。この手のバカはゲートル巻いた日本兵の亡霊に銃剣でケツでも刺されりゃいいんだ」

 実際には、いじめはほぼあらゆる文化圏・共同体において発生する。それどころか汎ほ乳類的な現象ですらあって、狭いケージに閉じ込められたマウスの事例はよく知られている。こうしたケージ内では一匹か二匹のマウスがスケープゴート化し、集団から疎外され、最終的には食事すら取らなくなって、片隅で動きを止めてしまう。そのマウスを救い出すと、今度は別のマウスが犠牲になって、数匹のスケープゴートが存在するというケージの中のシステム自体は変わらない。この現象といじめの類似性は明らかだ。

 ならば、これは一体何なのか。

 この問いに文学部の男は「共同体のストレス反応」という答えを返す。

 強いストレスに晒された人体が奇行に走るように、ストレスに晒された共同体もまた、病的な反応を返す。特定の個体にストレスを集中させることによって、共同体全体の正気を保とうとする。

「つまりこれがいじめさ。SF大賞風に言うと、すべての共同体には虐殺器官ならぬいじめ器官があるってところかな」

 理論的には根絶は容易いというのはそういう意味である。正体がはっきりしてるんだから、対応策は自明。共同体、この場合はクラスまたは学校共同体に掛るストレスを下げればいい。

 彼は苦く笑って、

「マウスだったらでかいケージに移してやればそれで済むんだけどねえ」

 文学部の男が語っていた間、単澤は相変わらずものすごい顔でコップを睨んでいたのだが、話は聞いていた。光野から魚類のいじめの話を聞いたとき、単澤はこの会話を思い出したのだ。つまり、いじめというのは文学部の汎ほ乳類説すら越えて、汎脊椎動物的であるということか。ならば無脊椎動物はどうだ?と連想が進んだ瞬間、制御できない天啓が彼を捕らえ、彼女との会話など忘れさせてしまったのだった。

 それは、無生物のストレス反応、言い換えれば無生物にいじめはあるか、という問いだ。

 これはもちろん、狭い箱に押し込められたおもちゃがお互いを憎み始めるといったおとぎ話ではない。単澤が考えたのは、いじめ=共同体ストレス反応を記述する数理モデルが存在するのではないかということだった。

 たとえば、蛍の同期現象が単純化された振り子モデルで再現可能なのは、両者が同じ数理構造に基づくからだ。同じ数理構造は地震やてんかんの発生メカニズムにも見いだすことができる。一体何を仕事にしているのかよく分からない単澤だが、本来のそれは、数学と他の学問領域との狭間に立って、単なる混沌や個人の自由選択に基づくと考えられる現象から、それらを制御している、こうした数理構造を見いだすことにあった。彼はいじめと呼ばれる汎生物的な現象の背後に、そうした数理構造の存在を感じたのである。

 スマフォを放り出した単澤は、直ぐさまシミュレーションの構築から始めた。

 パソコンを起動し、OSが立ち上がる間に、取り出したノートの一言大きく書き殴る。〈トポル〉。シミュレーションに付けた名である。例によって意味などなかった。

 数時間後、パソコンのディスプレイ上で、それは白いボールの群れに見えた。この段階でボールの総数は六十四個。彼らを閉じ込めている点線の〈ケージ〉があって、その内部を彼らはランダムに動き回った。もちろん〈ケージ〉を出ることは許されない。ちなみにボールのことを単澤は〈ラット〉と呼んだ。何故、〈マウス〉にしなかったのかは、単澤も覚えていない。

 〈ラット〉はお互いや〈ケージ〉にぶつかると色が変わった。一瞬グレイに染まって、徐々に薄まり、元の白に返る。グレイの濃さや持続時間は、ぶつかるときの速度と角度から算出される衝撃に比例した。単純に言えば、激しく当たれば当たるほど、濃い色が長く続くのである。

 この初期ヴァージョンのシミュレーションはうまくいかなかった。

 〈ケージ〉を狭くしてストレスを掛けても、〈ラット〉は一様に濃淡のグレイに染まるだけで、特に色の濃い個体は現れない。その他、ディスプレイ上での〈ラット〉が小さすぎて、色の変化が追いにくいというような、改良すべき点が幾つも見つかった。ただ、この時点では〈ラット〉の総数を減らす決断は、単澤にもできなかった。

 しばらく、シミュレーションを繰り返した後で、単澤は初期ヴァージョンに幾つかのルールを付け加えた。このうち最も重要なものは〈押し付け〉ルールだった。

 これはともにストレスを抱えた(グレイに染まった)〈ラット〉同士がぶつかった場合、一方は通常の衝突よりよりグレイが濃くなるのに対して、もう一方は通常とは逆に衝突前より色が薄くなる、つまり、最初から自分が持っていたストレスをぶつかり方によっては、ぶつかった相手に〈押し付け〉ることができる、というルールである。

 どのような場合に〈押し付け〉が生じるかは、詳細なサブルールで制御した。

 このサブルールのチューニングを繰り返すうち、〈ケージ〉の中で変化が生じた。「いじめ」が起こったのである。

 一様なグレイに染まった〈ラット〉の群れの中に不自然に濃く、黒く染まった個体が現れ始めたのだ。

 この時点ではここまでだった。次の大きな変化はランダマイザーの更新によって生じた。それまで〈ラット〉の動作は完全な乱数によって制御されていた。これに簡単な縛りを単澤は付け加えたのである。つまり、集団としての大雑把な意思、傾向がある状態にしたのである。

 変化は劇的だった。それまでの黒い〈ラット〉は動作自体は他の〈ラット〉と変わらなかった。この修正以降、黒い〈ラット〉は四隅に追い詰められるようになったのである。

 追い詰められた〈ラット〉は動作も明らかに不活発になり、いっそう色を濃くしていった。

 そして最新ヴァージョンのシミュレーションが開始されて76分55秒が経過したとき、それが起こった。

 〈スーサイド〉である。

 グレイの濃度が設定されていた臨界値を超え、視覚的には完全な黒に映っていた〈ラット〉が破裂したのだ。その〈ラット〉はピクセルの断片となってディスプレイから消えた。

 単澤の当初のつもりでは、これは景気づけのイベントのはずだった。シミュレーションは一連の長大な微分式によって、駆動されている。この微分式こそがシミュレーションの成果になる。そこから幾つかの興味深い結果を取り出せそうな手応えを単澤は既に感じていた。〈スーサイド〉の発生はシミュレーションがほぼ完全に動作したという証であり、普段の単澤なら、おそらくガッツポーズを見せたはずである。

 にもかかわらず、単澤は〈ラット〉の破裂に、自分でも説明の付かない不快感を感じた。かつ、それを忘れかねた。

 数日経って、ついに単澤はもう一つシミュレーションを用意した。正確にはそれはシミュレーションでも何でもなかった。〈トポル〉の演算結果をそのまま受け入れて、シミュレーション本来の目的とは縁もゆかりもないツイストを加えるシステムである。有り体に言うならインチキでしかなかった。

 〈アマル〉と名付けられた新しいプログラム=インチキはほとんどのテストケースにおいて、〈トポル〉と寸分違わぬ動作を見せた。しかし確率上一パーセント以下のレアケースにおいて、〈トポル〉の黒い〈ラット〉は振動を開始した。それは周りの〈ラット〉たちを弾き飛ばし、果ては大枠のルールさえ無視し、〈ケージ〉に穴を開けて、外へ飛び出していくのだ。

 希にこの振動現象が発現すると、単澤は作業の手を止めて、ディスプレイに眺め入り、ケケケと笑った。

 単澤の研究室に来客があったのは、そんなある日のことだった。

 そのとき、単澤は兵糧の買い出しに出ており、ビタミン剤と大豆プロテインを両脇に抱えて戻ったところを、来客を告げられた。既に研究室に通したと言う。単澤はそういう点では極めてルーズで、研究室の扉には鍵さえ滅多に掛けなかった。来客に心当たりはなかったが、そんなことを気にする単澤ではない。

 だから、研究室に戻った単澤は、そこに老齢の女性を見いだして少し驚いた。来客のことなんか、忘れていたのだ。

 老婦人は〈トポル〉と〈アマル〉を興味深げに眺めていた。まったく心当たりのない単澤は声を掛けようとした。しかし、彼女の方が速かった。

「単澤くん」

 極めて希な出来事だが、単澤は言葉を失った。

 直接会うことは十年ぶりだった。しかし、光野はあまりに老いていた。単澤との不幸な結婚生活と離婚、更に一人息子の死、そういった出来事が彼女から若さを奪い取ってしまったのかも知れなかった。

 けれども、単澤が光野を識別出来なかった理由はそれだけではなかった。単澤はそのときまで、そんなことにも気付いていなかったのだが、彼にとっての彼女は、今でも、初めて会った日の彼女のままだったのである。

 中学一年の春、始業式をすっぽかして教室に現れた単澤は「俺は学校行事になんか一切参加しない」とだけ宣言して部屋を出た。唯一追いかけてきたクラスメートが彼女だった。全力疾走で単澤を追い抜いた彼女は、両手を広げてそこに立ちふさがった。単澤にとって光野は、今でも、あの日、夕日の差す廊下で、単澤に(的外れな)説教をくれた少女だった。夕日の所為か赤い顔をして、熱っぽく(的外れなことを)語り続けた、ショートカットの小柄な女のコだった。

 単澤にとって、それ以降の三〇年近い月日は存在しなかったかのかも知れない。事実、単澤は肉体的にはともかく、精神的には、如何なる意味においても、あの日から老いてはいない。単澤の中身はあの日の傍若無人な変人中学生のままだった。

 要するに、と単澤は考えた。俺が彼女の若さを吸い取ってしまったわけだ。

 それは極めて苦い認識だったと言えるかも知れない。

 しかし、光野は単澤の思いなど知らない。笑い皺を深くして、ディスプレイの一つを指さすと

「これ、何?」

「共同体ストレス反応シミュレーション。とは言えんな。結果を少しぐねってる。お遊びと呼べ。〈アマル〉と名付けた」

 彼女は驚いたようだった。けれど微笑んだ。

「あの子の名前を付けてくれたのね」

 単澤は一瞬何を言われたのか解らず、画面を見つめてようやく理解した。

 そして、単澤を見返した彼女は、心の底から驚くこととなった。あり得ないことに、あの単澤が涙を見せたからである。

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いんちきなシミュレーション 南枯添一 @Minagare_Zoichi4749

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