三題噺「早起きの理由」

桜枝 巧

早起きの理由。

 目を開くと、いつも通り自分のお部屋の天井が見えた。

 ベッドのそばに置いてある時計を見る。四時十六分。目覚ましのアラームが鳴る時間は六時だけれども、もともとそんな時間に起きる気なんかなかった。

 ベッドから飛び降りて、制服に着替える。クローゼットの扉を開けるついでに閉め切っていたカーテンを開くと、一月も終わりに近づく頃なのだから当然だ、まだ外は真っ暗だった。窓ガラスには寝不足であることが一発でわかるような、ひどい顔をした自分が映っている。

 新聞配達の自転車のライトはまだ見えない。四時二十五分。あと五分だ。

 毎週月曜日から金曜日まで、毎朝4時半ぴったりに新聞配達のお兄さんがやってくる。それは彼の信念らしく、お兄さんがこのバイトを始めたらしい去年から今までずっとくるったことはない。まるで体内に電波時計を持っているみたいに、正確だ。私の家のほかにも配達すべき家はあるのだろうけど、ここは何かの目印的なものになっているらしい。

 私の家だけ。特別だ。

 偶然目が覚めてお兄さんが新聞を新聞受けに落としているところを見た日から、私はずっとこの習慣を続けている。来年の4月からからは中学生なのだから、(果たしていつ中学生が起きているのかはわからないけれど)その練習もかねて。

 お父さんにもお母さんにも内緒だ。二人はまだ寝ている。

 あのお兄さんが、誰にも気づかれないように、ゆっくりと新聞受けにそれを入れる仕草や、左腕に巻いた時計をちらりと見て口元をほころばす瞬間を窓の外からそうっと眺めるのは、楽しくて胸がわくわくする。

 誰にも感じたことがない、不思議な気持ち。

 一度だけ、お兄さんと話したことがある。顔をひっこめるタイミングを間違えて、うっかり目が合ってしまったのだ。夏の暑い日のことだった。私は俯いて窓を開けた。

「おはよう、早起きだね」

 微笑むお兄さんに向かって、私はたまたま目が覚めちゃったんです、とうそをついた。

「まじめだね。普通、はいそうですって答えてほめてもらおうとするのに。A型かい?」

 はい、と小さく頷く。罪悪感でいっぱいだった。恥ずかしくて、その場を逃げ出したくて、それにしても暑いねえ、まだ日も登っていないのに、というお兄さんに向かって

「ちょっと待ってて」

とつぶやいた。台所にこっそり入って、冷蔵庫から牛乳を取り出し、コップに注ぐ。頑張ってください、と渡すつもりだった。

 しかし、どうやら私の声は届いていなかったらしい。戻ってきたときお兄さんの姿はすでになかった。

 時間に厳しいお兄さんのことだ、仕方がない。

 そう思いつつも、それから私がお兄さんと顔を合わせることはなかった。新聞受けの小さなことん……という音と、去っていく後ろ姿だけで十分だった。

 四時三十分。私は窓から少しだけ顔を出すと、自転車の光が見えてくるのを待つ。

 ……何も見えない。

 寝坊した? いやまさか。私はそれからずっと、窓のそばに座りっぱなしだった。A型の私は、几帳面にそこに座っていた。


 自転車のブレーキの甲高い音で目が覚めた。

どうやら眠ってしまっていたらしい。

 私は窓を開けると、身を乗り出すようにして玄関を見る。……見知らぬおじさんが新聞受けに新聞を突っ込んでいた。がしゃ、という大きな音がした。

「あ、あの!」

「なんだいお嬢さん。早起きだね」

 時計をちらりと見る。五時二分。こんなの全然、早くない。

「いつもの、お兄さんは?」

「お兄さん? ……あぁ、俺の前の人のことかい? そりゃ、俺がここにいるんだからたぶん辞めちまったんだろ。何でかは知らないけど」

そうですか。小さく口が動く。自分のじゃない気がしてならなかった。

 おじさんが不思議そうな顔をしているのがよくわかった。私は身をひるがえして部屋を出る。台所に入ると、そこには朝食の支度をするお母さんがいた。

「あら、おはよう――」

 構わず私は冷蔵庫の前に立つ。

 一回、足で思いっきりそいつを蹴ってみた。つま先が熱くなって、痛みを帯び始める。痺れる。痺れる。痺れる。

 どうしたの××。お母さんの声が遠くから聞こえる。

 八つ当たりだってことくらい、自分でもわかってる。それでも、もう一回冷蔵庫を蹴った。もちろんちっとも動かなかった。

「大丈夫?」

 さすがに何かを感じたらしいお母さんが、私の顔を覗き込んできた。私はあふれそうになる何かを必死で食い止めながら、答える。

「なんでも、ない」

 明日からは、早起きしなくていいのだ。

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三題噺「早起きの理由」 桜枝 巧 @ouetakumi

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