004
虚を突かれ、酷く
「どうして……」
「わかるんだよね、女を待ってる奴って、だいたい」
「わかる?」
「わかる。わかる理由は、わからない。でも、わかる。ひとつ言えるのは……待つ男とは、すべからく光を反射しない。そいつは、吸い込んでる」
「そんなこと物理学的にありえない。少なくとも、この地球上では」
「ここじゃ、ありえる。酒場というのは、実にいろんなことが起こるものさ。ともかく待つ男ってのは、どいつもこいつも、ぼわっと薄暗い。でも、存在感が希薄なわけじゃなく、逆にものすごく濃くて重たいんだ。人より余計、地球に引っ張られてるというか。ポケットというポケットに鉛の板やら砂の袋やらを突っ込んでいそうな感じ、というか」
待つ男は、こうして、有史以来はじめて類型化された。モジャモジャ髪の、ぺらぺら喋るバーテンダーによって。
「待てば待つほど、そいつは重みを増していく。そのまま放っておいたら、重力でどろどろに溶けて、すっかりカウンターに同化してしまうかもしれない」
待ち過ぎて、溶けゆく男。彼のポケットに詰まっているのは、何だろう。純愛? 劣情? 未練? 嫉妬? 後悔? 希望? 羨望? あるいは……絶望? たしかに、どれも重そうだ。
「E=MC²」
痺れた脳に、人類史上、最も美しい文字式が浮かんだ。
「何それ?」
意識せず、口に出していたらしい。
「小難しい話になる」
「別に構わないけど」
ならばとぼくは、居住まいを正す。
「かのアルベルト・アインシュタインによれば、Eすなわちエネルギーの大きさを決定するのはMイコール質量なんだ。言い換えれば、エネルギーと質量とは等価であり、さっきの関係式は、彼の提唱する特殊相対性理論の行き着く先なのさ。まあ、ややこしい説明を抜きにするなら、ようするに、誰かを待てば待つほど重くなる男は、誰かを待てば待つほど、そのエネルギーを増大させていくことになって……」
都会の酒場の片隅で、人知れず質量とエネルギーとを巨大化させていく黒づくめの男を想像した。恐ろしいほどの重力で光さえも吸い込み、時空をねじ曲げ、時計の針を狂わせながら、最期は自重を支え切れずに溶解する。ブラックホールとは、意外なほど身近に「いる」のかもしれない。そして、この黒光りしたカウンターには、もう何人もの「待つ男」が溶け込んでいるのかもしれない。
「なるほどねえ」
特殊理論の上っ面をなでただけの教科書的説明で理解してもらえたとも思わないのだが、城ヶ崎は会話を引き取った。
「ま、とにもかくにもだ」
人差し指が立つ。
「偉い理論はいろいろ、あるだろう。でも、待つ男にとって、何より重要なことには……」
バーテンはひと呼吸おき、視線を遥か彼方に投げたまま言う。
「待ち人が来ることは、まずない」
「……本当?」
「本当」
「どうして?」
「経験上」
根拠とかそういう問題ではなく、城ヶ崎の言葉からは、揺るぎのない「正しさ」が感じられた。そして、その「正しさ」からは、どうやっても逃れようがないという気がした。城ヶ崎は、気の毒そうにすることもなく、憐憫の感情をまったく含まない目でこっちを見ている。そのことが、彼の経験の信憑性を裏付けているように思えた。
彼女は、やはり、来ないのだろう。諦めと納得の感情が、ない交ぜとなる。しかし思い返せば、確信すら抱いていたような気もする。この八年間、ずっと「来るわけがない」と知りながら、自分を鼓舞し続けてきたのではなかったか。そう思うと急に力が抜け、何だか可笑しくなってしまった。
「……まいったな」
「事情を聞いてもいいかい? 後学のために」
少し躊躇したけれど、なぜだか話してみようという気になった。
「実は」
「うん」
「……これの持ち主と、約束があって」
ぼくは、左手に握りしめていた「手がかり」を右手の人差指と親指でつまみ上げ、目の前にぶら下げた。天球座標上における位置は、真南を基準に方位角二百七十度、高度六十度。つまりは、五杯目のグラスの中心点からきっかり真上。
城ヶ崎は目を細め、そのちいさくて青い物体を覗き込んだ。
「……キィホルダー?」
「そう、キィホルダー」
「偉大なる我らが青い星、の?」
「うん」
午前二時。ぼくは、酒も飲めないのに毎晩この店へ通った理由を、今夜はじめて会話を交わす男に打ち明けようとしている。ずいぶん不思議な気がしたし、同時に、しごく当然のなりゆきだという気もした。
「だいぶ色褪せてる」
「ずっと握っていたし、そもそも、けっこう古いものなんだと思う」
月にでも見立てたのだろうか、地球を模したキィホルダーの傍らには、ちいさな宝石が従っている。もともとは彼女の耳飾りだったものだ。
「で、それの持ち主が、この店に?」
「来る……と思ってた」
「どうして」
「話せば長い」
「夜だって長いよ」
アルビレオの恋 @okunot
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