003

「飲み過ぎちゃった……かな?」

 不意に声をかけられ、深く潜行していた自我が意識の表層へと強制的に引き上げられた。酷く億劫に感じながら、粘度の高いぬるま湯の底から這い上がるようにして、のろのろと視線を持ち上げてゆく。腰まわりにぴったり張り付いたジーパン、光る粉を吹きつけたようなTシャツ、馬鹿に大きな襟のジャケット。肩まで伸びたモジャモジャ髪に、こけた頬。まるで海外のロック・ミュージシャンみたいな格好をしている。最終的にぼくの視線は、人懐っこそうな瞳で止まる。よく喋るバーテンダーが、今夜も一段落といった感じで煙草を咥え、ぼくを見下ろしていた。

「そうだとしたら、どうだって言うんです」

 厭な言い方になった。なんとなく癇に障ったのかもしれない。

「ごめん、ごめん。怒らせるつもりじゃなかったんだ」

 悪びれず、屈託がない。見た目は異様だが、あんがい好人物なのかもしれない。ニコニコしていて、人に警戒心を抱かせないタイプだ。この店をはじめる前は、横須賀の米軍基地でコピーボーイをしていて、現役の海兵隊員みたいに髪を短く刈り込んでいたらしい。らしい……というのは、他の客にそう話しているのを昨日だか一昨日だかに聞いたから。なんとなく、この「愛想の良さ」は、そのときに培われたものだという気がした。痩せてはいるが、大胸筋や僧帽筋、上腕二頭筋などはよく発達している。拳闘でもやっているのかもしれない。年齢はたぶん、ぼくより少し下だろう。今年で二十九、といったところか。

「最近、よくご来店くださってるみたいで」

「ええ、まあ」

 ここに来るのは、今夜で五回目。誰かに話しかけられるのは、はじめてだった。

「俺、城ヶ崎っていいます。城ヶ崎誠。歳は三十二。この店は五年前に転がり込んだ女の子のアパートの管理人のおばさんの遠縁の篤農家から譲ってもらって、今は一応、俺がオーナー。失礼ですけど……」

 転がり込んだのが五年前なのか譲ってもらったのが五年前なのかよくわからない話を遮り、ぼくは、ぼくの名前と年齢を告げた。それは、酷い残響を伴いながら、ぼくじゃない他の誰かの名前と年齢に聞こえた。

「ふーん……で、何してる人?」

「大学院生、です」

「どんな勉強?」

「天文学」

 年齢についての予想は外れ、意外にもふたつ年上だった。気づけば深夜の一時半をまわっており、客もほとんど残っていない。こめかみあたりに、微かな鈍痛。

「天文学って、宇宙とか地球とかほうき星とか?」

「まあ、そうです」

 丸く削り出された氷塊が、手のひらのグラスでころん、とぜた。ちいさな太陽がぼくだけに見せた、わずか一瞬の太陽面爆発ソーラーフレア。さすがに今のは、米航空宇宙局NASAの観測衛星でも捕捉できなかったはずだ……。

「突然ですけど、天文学に恋する人よ」

 どろりとした水底へ再び沈みつつあった意識のうちに、まじめぶった調子の声が侵入してくる。

「こういう話があるんだ」

 人差し指を立てたバーテンが咳払いをひとつし、眼差しをふっと真剣なものにして語り出した。誰に向けて、というわけでもなさそうにして。

「ある大企業の下請け工場に、年老いた工員がいた。もう六十八歳で、いつから工場に勤めているのか、誰も知らなかった。寡黙で、野良猫にエサをやったりするような人だった。しかし、歳のせいか機械操作の覚えが悪く、とっさの動きも緩慢で、若い同僚からは悪意に満ちたあだ名をつけられていた。閑人ひまじん、と。工場長に疎まれていたから、閑人に話しかける者など滅多にいなかった。繁忙期の製造ラインからも、当たり前のように外されていた。事実、会社が導入した最新機器の前で、この老いたる閑人が積み上げてきた知識や技術や経験は、どうしようもなく古びてしまっていたんだ。だから、閑人に残された仕事は、古い道具を磨くことだけだった。閑人は、来る日も来る日も道具を磨いた。痩せた身体を軋ませながら、これまでの知識と技術と経験をすべて注ぎ込んで、道具を磨いた。お陰で工場の道具はいつもピカピカだった。しかし、そのことで閑人に感謝する者はひとりもいなかった。なぜだと思う? 古い道具なんて、誰も使わなかったからさ。そうやって道具を磨くだけの日々を、どれだけ重ねただろう。ある日、工場に新しい機械がやってきた。それはだった。信じられるかい? 合理化という言葉を御神託のように崇める二十九歳の工場長によって、閑人の居場所を奪うためだけに導入された機械だ。それは、古い道具をぜんぶ棄て去ることより残酷だった。人の心を虚無に叩き落とす作戦として、巧妙だった。なぜなら、道具を磨く機械は、閑人の倍の数の道具を、五倍のスピードで磨くことができたからだ。単位時間あたりの生産性は、実に十倍。しかし閑人は、何も言わずに道具を磨き続けた。のみならず閑人は、道具を磨く機械をも磨きはじめたんだ。来る日も来る日も、ピカピカにね。その無私なる行為に対し、一部の工員からは賞賛の声が上がるようにもなった。そして、幾星霜。老いたる閑人はさらに年老い、ついに工場を去る日が来た。そのときにひとつ、明らかになったことがある」

 城ヶ崎は、呼吸を挟んだ。

「……それは?」

 ぼくは思わず、先を促す。

「閑人は……寡黙で無私で腰の曲がったその閑人は、機械を磨くふりをしながら、こっそり機械の螺子ネジを緩めていたのさ。機械自身にもわからないほど、少しずつ。自分が引退する日をここと決め、そこから逆算して毎日毎日、ひとつずつ。果たして道具を磨く機械は、閑人が工場を去ると同時に瓦解した。そして、閑人が磨き続けた大量の工具や部品、螺子類とぐちゃぐちゃに混じり合ってしまったんだ。若い工員らが手探りで直そうとしたがうまく行かず、ようやく組み上がったその姿は、まるで奇怪な異形の木偶でくだった。突然変異を来したがん細胞のように醜く肥大し、スパナ一本磨くことのできない不能の肉塊だった。そして、開口部から機械油オイルを垂れ流し、唸り声のようなモーター音を発したまま何時間も痙攣し、ついに、ぴくりとも動かなくなった。こうして老いたる閑人は、機械の息の根を止めたんだ。何年もかけて、完全にね」

 不思議な話だった。どこまで本当かわからないし、すべて本当だという気もした。城ヶ崎の左手で、ショートホープの吸いさしがジュッと音を立てる。葉の中に硬い茎の部分が混じっていたのかもしれない。そして、俺はその閑人に心から怯えていると、バーテンは付け加えた。

「誤解のないように言っておくけれども、この話には」

 長くなった煙草の灰をプラスチックの灰皿に落としながら、城ヶ崎はさらに言う。

「いかなる寓意も隠されてはいない」

「……つまり?」 

「単に、俺の好きな話ってだけさ。ミスター・スターマン」

 城ヶ崎は、年季の入ったカウンターに手をつき、艶光りした無垢材の肌理きめを中指の腹で確かめるようにしながら、そして、こちらに少年探偵団みたいな視線を投げるようにしながら、言葉を続けた。

「勝手ですけど、そう呼ばせてもらうことにしたよ」

 本当に勝手な人だと思ったが、なぜだか悪い気はしなかった。きっと、このバーテンの人柄がそうさせるのだろう。ぼくは、だるい右手を挙げて承諾の意を示した。

「それが、このカウンターに座るための条件だと言うなら」

「じゃあ、決まり。今夜から君は、ミスター・スターマン。どうぞ、よろしく」

「ところで、スターマンというのは?」

「デヴィッド・ボウイの白日夢みたいな曲の名さ。ほら、ちょうど今、かかってる」

「タイジカクってどう書くの?」

「対自核」

 ぼくらはしばらくの間、雄弁なるJBL氏に耳を傾けた。きらきらしたギターの音色に、エキセントリックな歌声。、美しい旋律をしていると思った。

「君らの仲間は、星空ばっかり見上げているのかい?」

「ああ。ひとりだけ、同期の音田って変わった奴が、まじめにタイム・マシーンの研究をしてるけど」

「そいつは興味深いね。見込みは?」

「薄い」

 城ヶ崎はアメリカ人みたいに肩をすくめると、見慣れぬ豆の入った小皿を差し出した。ひとつつまんで、右の奥歯でぎゅうっと噛み締める。濃いウィスキーで乾いた口腔内に、適度な塩気が心地よく染み込んでいく。尻のポケットに入れっぱなしだった文庫本に今さら気づき、カウンターの端にぽんと載せた。

「ずいぶん年季の入った本だね」

 ちらりと見、咥え煙草の城ヶ崎が言う。

「もう、何十回も読んでるから」

「そんなに?」

「たぶん、そうすべきだと思って」

「何て本?」

「ソルジェニーツィン、がん病棟」

「陰気な話か」

「閉鎖的ながん病棟に、国家という名の収容所を重ね合わせてる」

 城ヶ崎はへぇと息を漏らしたが、あまりピンとは来ていないようだった。

「そんなことより、あだ名をつけるのって、どんな気分?」

「世の中に無意味な記号をひとつ増やすだけの行為だぜ?」

「つまり、創造主の行いというわけか」

「そんなたいそうなもんじゃない。単なる遊びさ」

「ぼくもあだ名を付けていいかな」

「俺に?」

「うん」

「そいつは、楽しみだ」

「じゃあ……」

 五秒ほど考え、三番目に浮かんだ名前を口にする。

「ブルースってのは、どうだろう」

 城ヶ崎は、束の間、意味有りげな視線をよこしてから、ふっと相好を崩した。

「あはは、何とも光栄だ。なかなかいい二つ名で、センスがあるよ。ま、本人としては、それほどブルース・リーに似てるとも思わないけど」

 と言うが早いか、バーテンはさっとカンフーのようなポーズを決め、恐るべき怪鳥音を発した。ずいぶん気に入ってもらえたらしい。だから「ブルース」というのは、本当は、何年か前の紅白歌合戦で聴いた「城ヶ崎ブルース」という歌謡曲からの着想であることは、伏せておくことにした。代わりに、大胸筋や僧帽筋、上腕二頭筋などの感じが、日本人柔道家に復讐を挑んだときのブルース・リーに少し似ていると言っておいた。気分をよくしたようすの城ヶ崎は、ちょっと失礼してなどと言いながら外国のビールを冷蔵庫から出し、栓を抜く。促されるがまま、ビール瓶とウィスキーのグラスを合わせた。

「スターマン、新しい仲間に」

「ブルース、新しいあだ名に」

 ちん、と湿り気のある音がやわらかく響いた。いつのまにか客は、ぼくと、テーブル席に座る若い男のふたりだけとなっていた。ショートホープを切らした城ヶ崎は、お客さんの忘れ物なんだけどと一応の言い訳をして、流しの下からハイライトを取り出す。そして、蝶番ちょうつがいのゆるんだヴェトナム・ジッポーで火を着け、盛大に煙を吐き出しながら、こう言った。

「……でさ、女待ってるでしょ? 五日連続で」


<つづく>

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