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 十六年後

 一九七三年七月二十八日 午前一時七分 佐和村たかし


 畜生! やつが屁をこき終わる前にアラスカへ飛ばしてやる。

 アメリカ合衆国第三十六代大統領リンドン・B・ジョンソンが、何かのはずみにそう言った。と、いうような記事だかジョークだかデマゴギーだかを、新聞だか雑誌だかアジビラだかで読んだ覚えがある。何かとは間違いなくヴェトナム戦争にまつわる何かだったと思うが、それは別段どうでもいいことだ。ウォーターゲートに足を取られつつも、大統領執務室オーバル・オフィスの主が髭剃り跡の濃い男リチャード・ニクソンに替わって久しいのだし、リンドン・B・ジョンソンという大男は、結局のところ、合衆国陸海空軍および海兵隊の最高司令官である以前にテキサス訛りのカウボーイだったのだ。品性と分別とが欠落しているくらいでなければ、他所の国に何十万トンものナパームを叩き込むような真似などできない。冷戦とは、つまり、東南アジアにアメリカ式のフットボール・スタジアムを建設するという壮大な土木工事だったのかもしれない。あるいはジャングルに広大なピーナツ畑を切り拓かんとする、果てなき西漸運動。そして、そんな聖なる開拓精神フロンティア・スピリッツも、わし座のアルタイルが全天で十二番目に明るいという天文学的事実の前では、神話としてのまったき貧困を露呈するより他にない。

 金曜の深夜二十五時を回ったカウンターには、微熱を帯びた酒気の澱と、窃視症的な欲望の残滓とが、ふかふかと堆積している。視線を少し上に遣れば、尾ひれの長い紫煙が、揺蕩いながら空に身を横たえている。愛は安手の常套句クリシェによってみだりに表明され、誰にも届かず死んでいった言葉たちがそこらじゅうにたおれている。派手な格好をしたバーテンの向こう側には、スコッチ、バーボン、ウォトカのビン・瓶・びん……。何がどういう酒なのかよく知らないけれど、とにかくロス在住の私立探偵オプが好んで飲みそうなハードリカーがずらりと並ぶ。BOWMORE……ボウモアと書かれたボトルの脇には、なぜかレヴィ=ストロース『悲しき熱帯』の英訳版。本来、濃いだいだい色だったはずのカバーは恐ろしく陽に灼け、完全に色の抜けた背表紙は、雪の子のように白い先天性白皮症アルビノの鰐の鱗を思わせた。たしかジャズを聴かせる店だったはずだが、それほどのこだわりもないらしく、四三一二と書かれた大きなスピーカーからは外国のロックらしき音楽が流れている。派手で口数の多いバーテンの説明によれば、曲はCCRというグループのヒット・ナンバーで、CCRとはクリーデンス・クリアウォーター・リバイバルの略で、スピーカーはようやく手に入れたJBLで……。JBL。……? なんたる諧謔精神、なんたる時代批評性を備えたスピーカーであることか。五杯目のグラスを覗き込んだら、鼻筋の通った無精髭の男に睨まれた。明らかに酔ったようすで、こちらに問いかけてくる。

「雨を見たかい? カウボーイが北に降らせた、あの雨を」

 ああ、テレビ・ニュースでさんざん見てるよ。もうたくさんだ。

 無精髭の男は、なおも続ける。

「時代が、つまり一九七〇年代というこの新しき時代が、構造主義とその批判的継承者たるポスト構造主義とを総天然色オールカラーで見せつけるけれど、彼らが葬った実存主義とは、この地球ほしが天の玉座を追われた十六世紀に無効を言い渡されているんだ。新しき者たちは高らかに謳う。あらゆる中心には誰もおらず、硬い構造システムが核をなすだけだ……と。監獄パノプティコンに教えてもらうまでもなく、そんなことは、われわれ天文学徒の間じゃ数百年前から自明の事実だ。サルトルを殺したのは、レヴィ=ストロースじゃない。ソシュールの亡霊でも、フーコーが蘇生したベンサムでもない。ましてやジャック・デリダとかいう若造などではありえない。それは、正しく、コペルニクスだったというわけさ。なになに、四百年以上も前に死んだ人間が、現代の人間をどうやって殺すんだ……って? それこそ、正しく、天体物理学が拓くべき可能性のひとつであるとは思わないか。タイム・マシーンは、そのとき、現代の神と化すのさ」

 言うだけ言うと男は、レコードを遅回しにしたような胴間声で、ゆっくりとこう結んだ。

「LOO………K………AT………YOU………R……SE…………LF」

 七月の夜、悪魔の誘いに乗るようにしてぼくは、手のひらのグラスを再び覗き込む。太陽色した液体表面には、相変わらず酔眼の無精髭がゆらゆら揺れている。興に乗ったJBL氏は、さっきよりずっと激しいロック音楽を鳴らしはじめた。例によってよく喋るバーテンによれば、これは「七月の朝」という曲で、ユーライア・ヒープというバンドの三枚目に収録されていて、その三枚目のアルバムというのが……ええと、何と言っていただろうか。たしか………聞きなれない日本語のようだった気がする……んだ………けど………思い出した。

「タイジカク」

 思わず口をついて出た。派手なバーテンとスーツ姿の酔客が、向こう岸からぼくを見た。スーツの隣で飲んでいたヒッピー調の男が、片目を瞑り親指を立ててよこした。

 とにかく、アルコールはすでに限界値を超え、リミッターの外れた思考回路は熱暴走を起こしかけている。ほんのちいさな「想念のかけら」でさえ、猛烈な思弁の増幅フィードバックに取り込まれたが最後、幾何級数的な勢いで怪物と化してゆく。まるで、指数爆発を起こした数式の前に立ち尽くす数学者みたいな気分。我ながら、なすすべがない。

 ……宇宙は「無限」だ。しかし「宇宙は無限だ」という概念をすっぽり認識している人間の脳のほうが「より無限」だ。とすれば、ぼくらは、自らの体内に「無限を包摂する超無限」を宿していることになる。宇宙という巨大な謎を解き明かさんとするわれわれ天文学徒の視線は、だから、「アンドロメダのその向こう」と「自らの脳髄の奥の奥」とを、絶え間なく行き来すべきなのだ。われわれの思考と視線とは、何万光年もの距離をゼロにするだけのスピードを

持つ。その往還運動は、事実上、光の速度をはるかに超える。宇宙マクロからミクロへ、あるいはその逆。天文学よ、遠くばかり見るな。脳科学よ、自分ばかり知ろうとするな。十のべき乗パワーズ・オブ・テンに思いを馳せた椅子設計士の想像力に目をみはれ。真実は、そう、宇宙の果てとぼくらの中とに、共時的に存在するのだから……。


<つづく>

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