002
十六年後
一九七三年七月二十八日 午前一時七分 佐和村
畜生! やつが屁をこき終わる前にアラスカへ飛ばしてやる。
アメリカ合衆国第三十六代大統領リンドン・B・ジョンソンが、何かのはずみにそう言った。と、いうような記事だかジョークだかデマゴギーだかを、新聞だか雑誌だかアジビラだかで読んだ覚えがある。何かとは間違いなくヴェトナム戦争にまつわる何かだったと思うが、それは別段どうでもいいことだ。ウォーターゲートに足を取られつつも、
金曜の深夜二十五時を回ったカウンターには、微熱を帯びた酒気の澱と、窃視症的な欲望の残滓とが、ふかふかと堆積している。視線を少し上に遣れば、尾ひれの長い紫煙が、揺蕩いながら空に身を横たえている。愛は安手の
「雨を見たかい? カウボーイが北に降らせた、あの雨を」
ああ、テレビ・ニュースでさんざん見てるよ。もうたくさんだ。
無精髭の男は、なおも続ける。
「時代が、つまり一九七〇年代というこの新しき時代が、構造主義とその批判的継承者たるポスト構造主義とを
言うだけ言うと男は、レコードを遅回しにしたような胴間声で、ゆっくりとこう結んだ。
「LOO………K………AT………YOU………R……SE…………LF」
七月の夜、悪魔の誘いに乗るようにしてぼくは、手のひらのグラスを再び覗き込む。太陽色した液体表面には、相変わらず酔眼の無精髭がゆらゆら揺れている。興に乗ったJBL氏は、さっきよりずっと激しいロック音楽を鳴らしはじめた。例によってよく喋るバーテンによれば、これは「七月の朝」という曲で、ユーライア・ヒープというバンドの三枚目に収録されていて、その三枚目のアルバムというのが……ええと、何と言っていただろうか。たしか………聞きなれない日本語のようだった気がする……んだ………けど………思い出した。
「タイジカク」
思わず口をついて出た。派手なバーテンとスーツ姿の酔客が、向こう岸からぼくを見た。スーツの隣で飲んでいたヒッピー調の男が、片目を瞑り親指を立ててよこした。
とにかく、アルコールはすでに限界値を超え、リミッターの外れた思考回路は熱暴走を起こしかけている。ほんのちいさな「想念のかけら」でさえ、猛烈な思弁の増幅フィードバックに取り込まれたが最後、幾何級数的な勢いで怪物と化してゆく。まるで、指数爆発を起こした数式の前に立ち尽くす数学者みたいな気分。我ながら、なすすべがない。
……宇宙は「無限」だ。しかし「宇宙は無限だ」という概念をすっぽり認識している人間の脳のほうが「より無限」だ。とすれば、ぼくらは、自らの体内に「無限を包摂する超無限」を宿していることになる。宇宙という巨大な謎を解き明かさんとするわれわれ天文学徒の視線は、だから、「アンドロメダのその向こう」と「自らの脳髄の奥の奥」とを、絶え間なく行き来すべきなのだ。われわれの思考と視線とは、何万光年もの距離をゼロにするだけのスピードを
持つ。その往還運動は、事実上、光の速度をはるかに超える。
<つづく>
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