彼はただの同居人【短編】

和瀬きの

同居人

 我が家には不思議な同居人がいる。


 私が物心ついた時にはすでにいて、家族の一員のように振る舞っていた。いや、私たちも彼を家族のように思っていたのだ。幼い私には、彼は遊んでくれる優しい人という認識だった。


 四角い大きな眼鏡をかけ、ぽっちゃりした体型の中年男性。

 平日は普通に働き、休みの日はテレビのスポーツ観戦をして過ごす。しっかりとお金を入れてくれるので、母は私たち姉妹を育てることに集中出来ていたようだ。


 母は彼を追い出すことはしない。負い目というか、どこかで同居人が足枷のようになっていたのに気づいたのは、ずいぶん後になってからだ。


 彼が子育てに口出しすることはない。それは同居人だからだ。ただ、姉のことは大事にしていたように思う。

 姉は良くて、私は悪い。姉は出来るが、私は出来ない。そういう贔屓ひいきを毎日のようにされていた。

 だからこそ、当然のように私はどんどん同居人のことが嫌いになった。


 そんな現状で母が何もしなかったというわけではない。知らなかったのだ。彼は姑息だから、言うべきタイミングを知っている。

 そんなやり方も嫌いになる要因の一つだった。


 私が中学生、姉が高校生という難しい時期にとある事件が起きる。


 それは彼が好きなバレーボールをテレビ観戦していた時のこと。春を過ぎ、少し暑くなってきた時期だ。


 伸びきったシャツにステテコなんていう格好で座っている彼が気に入らない。同じ部屋の空気を吸うことも嫌だった。

 思春期で反抗期だったのもあるが、同居人の存在が嫌いで仕方なかった。


 始まりは彼の一言だ。


「お前はちっとも成績が上がらないな」


 今まで勉強のことに口出ししなかった彼が突然、私の成績に文句を言った。ふざけるなと、イライラしたことを覚えている。


 私は知っている。姉がその日、高校で素晴らしい成績をおさめたのだ。お前はどうなんだと、姉と比べて贔屓して馬鹿にしたいのは見え見えだ。


「汚い」


 そんな言葉で彼を罵った。


「汚物みたいなあんたに、私のなにがわかるわけ? ふざけるな!」


 ずっと溜めていたものが一気に溢れ出るような感じだ。私は自分が抑えられず、様々な暴言を吐いた。

 泣きながら、訴えるように、贔屓はやめて欲しいと叫びながら。

 彼を嫌いになっていく自分が嫌で、幼い日に遊んだ日々を思い出だけにするのは悲しかったから。

 ただ、認めて欲しいと思ったのだ。


「言いたいことは、それだけか?」


 しかし、彼は変わらぬ口調で告げる。とても冷たい言葉だった。


 立ち上がった彼は、とてつもなく大きなものに見えた。岩のように微動だにしないそこから飛び出した手。驚く間もなく、私の世界は真っ白になったのだ。




 気づいた時、私は同じような真っ白な部屋にいて、恐怖がまだ続いているものと勘違いしていた。

 しかし、見知らぬ部屋であること。カーテンの向こうは夜の景色で、三階以上の場所であることから、やっと病院だと気づいたのだ。


 すでに終わった後だった。

 あの後、私は殴られたのだ。痛みのせいでわかる。痛みは首から上に集中していて、部屋にある鏡に映った自分の最悪の顔に、泣き崩れた。


 私のそばにいた母は、泣き声に気づいて駆け寄ってくれた。そして謝り続けたのだ。

 自分の見ていない所で被害に遭った娘に、謝るしか出来なかったのだと思う。そして、気づいてしまったのだ。同居人の怖さに。


 後日、病院に申し訳なさそうに現れた母と姉から話を聞いた。

 最初に殴られた後、私は後頭部を床に打ち付けて気を失ったという。それでも彼は殴り続けて、私は全治三ヶ月の傷を負ったのだ。


 それでも警察沙汰にならずに済んだのは、私が何を聞かれても転んだと言い張ったこと。私が頼んだこともあり、母や姉もそれに同意したこと。同居人は世間から見ると立派な男性であること。

 それらの意見に、しぶしぶながら病院側も納得した。


 真実を隠すしかない。もし、本当のことを言えばどんな仕打ちが待っているかわからない。大好きな母や姉も攻撃されるかもしれない。


 私はそれが怖かった。


 でも、真実を隠すことで逆に母や姉に罪悪感を植え付けてしまい、私は自分のしたことを後悔したのだ。

 母たちを傷つけてしまった。何て罪深いことをしてしまったのだろう、と。


 幸運なことに怪我が治ると元通りの顔になって、整形などに頼る必要はなかった。でも私はしばらく笑うことが出来なくなり、人を信じることも少なくなった。




 事件が起こるまで気づかなかった。同居人が異常な存在であること。

 そして、素直で優しかった母が、いつからか同居人に操られていたこと。


 母はとても立派で、真面目で、非の打ち所がないような完璧な人という認識があるが、彼が家にいるという事実はそれを捻じ曲げてしまう。

 同居人と暮らしていることは、母の失敗だ。いや、母は最後まで信じていたかったのだと思う。人を疑うことの出来ない、とても優しい人だから。


 そして、その優しさにつけこんで、逆らえないように仕向けたのは彼だ。

 最近になって初めてモラルハラスメントという言葉を知る。そう、まさにそれだ。

 彼は母の人格を認めない。当たり前だが、子である私の人格など認めるわけがないのだ。


 話を聞けば、自分の思い通りにならないことがあると母を責め続けたと言う。文句を言えば逆ギレして、母を責め、殴ることはなかったが物を壊すことはあった。

 それが繰り返されれば、彼の言う通りにするようになる。彼が怒るようなことがあると、母は自分を責めた。


 大事にされてきた姉も、彼の異常さに気づいていた。ただ要領がよかった姉は、逆らわずに勉学にだけ打ち込んで逃げていたのだと後で聞いた。


 私を守れなかったことを悔やんでくれた。それだけで救われた気持ちになったことを覚えている。


 家の中で起こった事件から、私たちは彼、同居人のことを考えるようになる。

 ついに、彼の企みが明るみに出たような感じだ。しかし、もうどうすることも出来ないほどに一緒に暮らしてきた。

 私たちは何もせず、ただ彼を遠くから眺めるように過ごすしかないのだ。




 何年も過ぎ、家族は成長するにつれてどんどん変わっていくのに、彼だけは変わらない。


 定年して仕事を辞め、ますます家にいることが多くなる。

 今まで働いていたのだから、自由にやらせろ。俺がこの家のリーダーだと言わんばかりに、彼は椅子に仰け反って座るようになる。


 そう、ますます酷くなっていったのだ。


 我が物顔で家を闊歩し、いつの間にか母を使用人のように扱うようになっていた。

 しかし、変わり始めたものが一つだけある。


「俺、介護生活になったら。どうなんのかな?」


 彼の気弱な言葉。

 退職して仕事もしないで家にいるだけだから、考える時間が増えたのだろう。私たち姉妹に向けての言葉なのだろうが、何も言わなかった。言えるはずがない。


 面倒をみる気はない。これまでの生活を思うと、とても彼に優しくは出来ない。本人だってわかっているはずだ。

 母が解放されれば、きっと彼から逃げることが出来る。新しい生活が出来るのだ。そうしたいと心から願ってやまない。


 それでも、私は思うのだ。


 馬鹿みたいだと思いながら、どうしても見捨てられないのだ。

 もしかしたら、これもモラルハラスメントの一種で、洗脳のような状態になっているのかもしれない。馬鹿みたいに操られているのかもしれない。


 私は彼の将来を考えてしまうのだ。馬鹿みたいに優しくしてしまいそうになる。愚かな自分を止めることに必死だ。

 これは罰だからと彼を一人にしてしまえばいいのに、なぜ手を差し伸べようとしているのか不思議でならない。




 彼が嫌い。彼が憎い。彼が怖い。彼を殺したい。彼のために人生めちゃくちゃにされるのは嫌だ。彼のせいで自分が壊れてしまいそうだ。


 彼は同居人。いつの間にかいた同居人。同居人だから全て知っている。同居人なのにわかってもらえない。同居人なのに認めてはくれない。


 そう、彼は同居人。

 私の父親だ。

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彼はただの同居人【短編】 和瀬きの @kino-kinoko

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