老の坂

藍川 陸里

老の坂

 京都駅から十五キロほど西、京都市と亀岡市との間に老ノ坂という坂がある。明智光秀が信長を討つことを心に決めた場所であることから、もう引き返すことができないことの象徴ともいわれる坂だ。

 俺は今、その坂を下っている。

 あのときには咲いていなかった桜も、今はもう満開だ。桜が咲き誇る夕暮れの中、俺は彼女に語りかける。

「なあ、佐藤」

「何?」

「『やっちゃん』のことだが……。俺は、多分、誰が『やっちゃん』なのか分かったよ」


   *


 久しぶりに踏みしめる京都の地。上司から西へ転勤することがあるとは聞いていたが、まさか京都が俺の転勤先になるとは。生まれ育った街へまた戻ってくることになるとは思わなかった。京都を出て二十年だ。今でもよく連絡を取る同期もいれば、一切音沙汰の無くなった部活の仲間もいれば、訃報を受け取ることになったご近所さんもいる。東京へ行ってから一度も顔を見てない人達と久しぶりに会うのも悪くない。近いうちに高校の同窓会もある。ちょうどいいときに戻ってきたとでも言うべきか。

 駅から見渡すと、俺がここを離れたときとは何もかも、とまでは言わないがそのほとんどが様子を変えていた。いや、忘れてしまっただけで実は何も変わってないのかもしれない。記憶にない建物ばかりだというのに、不思議と道の勝手は分かった。心が忘れても、体が憶えているのだろう。しばらく歩くと無為に散歩がしたくなった。二十年ぶりの京都だ。少し遠いが、また老ノ坂を歩いてもいいだろう。


 老ノ坂は自宅からそう近くはなかったが、坂を抜けたところにある亀岡に住む友達とはよく遊んでいたため、昔はよく歩いていた。年を取ると何度も訪れたことのある老ノ坂も昔とは違って見える。こんな風になっていたのかと初めての発見があることもある。昔この辺で何かに感動した記憶があるのだがそれが何だったか思い出せそうで思い出せないこともある。

 懐かしい景色だ。

 少しの間立ち止まり、腕を組む。そういえば、高校の卒業式の日に歩いたのもこの坂だった。感慨に浸っていると急に後ろから声がした。

「腕組んで考え事なんかして、何大人ぶってるの? 高橋」

 しばらくの間聞くことのなかった、懐かしい声だ。後ろを振り向くと、見覚えのある顔をした人物が一人、立っていた。彼女が誰なのかは一目で分かった。

「大人だよ、佐藤」

 彼女の方へ向かって返す。

「俺はもう三十八だ」

「そっか。もう、大人になっちゃったんだ」

「ああ。……って、え? さっ、佐藤か?」

 嘘だろ? まさか、本当に?

「うん。憶えていてくれたんだ。もう二十年も前のことなのに」

「あ、ああ……」

「何よ。そんなに驚いちゃって」

「いや、まさかこんな所で誰かに会うと思って無かったから……本当に佐藤か?」

 突然現れた彼女に俺は、驚きを隠せず慌てふためいていた。

「私以外に誰がいるっていうのよ」

 幼い顔立ちをした彼女は、頬にかかった柔らかそうな黒髪の房を、透けるような白い手で耳の後ろへとかきあげながら、こっちへと向かって歩いてきた。

 十二年間を共に過ごした彼女は、二十年前と全く変わっていなかった。

「そういえば、東京で働いているんだよね。何で京都へ来たの? 帰省?」

 驚いている俺とは対照的に、当然のように昔と変わらない様子の彼女を前にして、だんだんと動揺している自分が馬鹿らしく思えてきた。

「転勤だよ」

 彼女に並ぶように、俺も再び歩き出す。

「昔はいろいろなところに飛ばされたの?」

「飛ばされたっていうなよ。左遷じゃないんだから」

「どこ行ったの?」

「まず、札幌の国税局だろ。で、その後は、インドネシアの大使館、あと国際通貨基金へも行ったな。そのあとはずっと東京だ」

「色々な所へ行ったんだね。私は修学旅行にも風邪ひいて行けなかったし、京都から出たことがないから羨ましいよ」

 彼女は微笑んで言った。

 確かにこいつが京都から出るのを聞いたことはない。

「そういえば、ついこの間東京で健太に会ったぜ。あいつ中学で音楽の先生やってたぞ」

「へぇ、懐かしい名前。鈴木、芸術肌っぽかったもんねぇ」

 お前ほどではなかったがな。

「ああ。で、話してたんだけど驚いたな。冬休みの音楽の宿題が、『作曲せよ。提出は楽譜でも音源でも可』だぞ。今どきの子供達はこんなことやるのかって。信じられないだろ。俺達が中学生だった頃そんな宿題なんてあったか?」

 彼女が驚いた顔をしながらふるふると首を横に振った。

「それ聞いたとき思ったんだよな。俺も年を取ったんだって」

「みんなと離ればなれになってから二十年も経つんだからねぇ」

「ああ」

 返事をしながら、ふと自分の立ち居振る舞いが無意識のうちに学生のそれに戻っていったことに気付く。

 二十年前と全く変わり映えのない彼女のおかげか。

 坂道を歩きながら、不意に彼女が尋ねてきた。

「ねぇ。憶えてる? 二十年前の肝試しの夜のこと」

 どうやら俺だけじゃなく、彼女もあの事を思ったらしい。

「ああ、憶えてるよ」


  ***


 二月二十八日。とうとうこの日がやってきた、というほど待ち望んでいたわけではなかったが、やはり俺達にとって、区切りとなる日だ。

 卒業式。

 だが、何か特別なことをする気はない。俺はいつも通りに朝六時に起き、家族四人分の朝食と弁当を作り散歩に出かけた。

 この日は晴れていて暖かかったが、風だけは強かった。俺はかなり早く家を出て散歩をしてからそのまま学校に行くのが日課だった。自転車通学が認められている高校で徒歩でやってくる俺はしばしば奇異な目で見られたこともあったが、徒歩の通学は苦ではないし、話のネタにもなるので特に自転車を使おうとは思わなかった。

 しばらく歩くと小学校が見えてきた。そういえば、初めに高校に通おうと思ったときは、家からわずか三キロしかないのにものすごく遠く感じたものだ。もちろん、今となっては高校まで行くことはそれほど大変でもないのだが。

 この辺りを歩くのももう慣れたものだ。どんなに細い路地に入っても勝手を知った道だ。自分がどこにいるかはちゃんと分かる。確かこっちに行くと……そうだ、病院があって、ここからずっと北に行くと神社、学校、そして京都御苑だ。

 三十分ほど歩いて京都御苑についた。御苑の南側の入り口から入るとヤマザクラの木々が並んでいる。高校の卒業式は小学校や中学校と違い時期が早いから、まだ桜は咲いてはいない。俺が京都を離れるころには咲いているのだろうか。そう思ったとき不意に声をかけられた。

「おはよう。高橋」

 聞き覚えのある声の方へ振り向いて挨拶する。

「おはよう。佐藤」

 佐藤愛は小・中・高十二年間の付き合いがある、俺の近所に住む友人だ。

「登校する前の散歩癖、まだ治ってないんだ」

 治ってなくてさも当然、とでもいうように佐藤が言った。

「別に直す必要もないと思ってるしな」

「相変らずだね。高校三年でいろいろと変わったけど、やっぱり高橋は高橋だ」

「お前もな。昔から何かの記念日や区切りのときになると御苑に来る」

「そうだね。何か無意識のうちに足が動いちゃうんだよ。私も高橋もみんなも、体が成長しても多分、中身はあんまり変わらないのかもしれないね」

 そうなのかもしれない。だが、そうじゃないかもしれない。いずれにせよ、そんなことを考えても何か変わるわけじゃない。ほんの二十分程度、俺と佐藤は二人御苑を歩き、いつもと同じようなとりとめのない話をした。進路の話は、しなかった。

「これでみんなと会うこともなくなるのか……寂しくなるな」

 すると、佐藤がそんなことはない、という風に首を横に振った。

「十月になったら時代祭を見にまたここに戻ってきな。きっとまたすぐ会えるよ」


 教室のドアを開けると、もう半分近くの生徒が集まっていた。前と後ろの黒板には、下級生の手による「祝★卒業」の文字やチョーク絵などが描かれている。

「おはよう。高橋」

 クラスメートの一人が話しかけてくる。

「おはよう」

 俺は、挨拶してきた奴らやその周りにいる奴と、適当に談笑する。みんなスーツや和服ではなく、ちゃんと制服を着ている。制服は一応あるものの、私服黙認となっていた俺達の高校の卒業式ではあまり見ない光景だ。知らず知らずのうちに、クラスの中で高校生活最後の日くらいは制服で卒業したい、という流れはできていた。しばらくすると、クラス全員が集まり定刻通りに式場へ移動した。

 拍手のなる中で、俺達はいい子にしながら行進し、パイプ椅子に着席する。卒業式が始まった。

 起立、礼。校長先生の開式の辞。国歌を歌って、卒業証書をもらう。一度も会ったことのないような人からの祝電が読み上げられ、送辞、答辞が読まれ、校歌を歌う。最後にまた校長先生が話す。それだけだった。

 ただ、かつて一度もセンチメンタルなことを言わなかった校長が最後の話で「あなた達は、絶対、大丈夫です」と言ったことだけは印象に残った。無口で長話をしない校長は、いつも通りに話を三十秒ほどで終わらせた。

「みなさん」

 式が終わり教室に戻った後、クラスの総務委員だった田口が一つの提案をした。

「今日で、僕達はこの学校を卒業します。この仲間で集まれるのも今日で最後です。そこでなんですが、今夜みんなで、遠足をしませんか? 高校最後の夜にみんなで歩きませんか?」

 田口は背も低く外見は弱弱しいが芯の強い奴だった。遊び心も豊かでクラスから親しまれていたが、単なるムードメーカとしてだけでなく、クラスのまとめ役として様々なことをそつなくこなし悠然とクラスを引っ張っていく、そういう奴だ。

 今回の遠足という提案も田口らしい。ベストだとは思わなかったが、下手に凝りすぎるよりはずっといい。高校生活最後の日にみんなで歩くのは楽しいだろうし、思い出にもなる。最後まであいつらしいやり方だ。当然異を唱える者はいなかった。

「では、上桂駅前に六時半に集合して下さい。これで僕の話は終わりです。じゃあ、皆さん虹球流しをやりますので校庭へ出ましょう」


 俺達の学校では、式が終わった後に卒業生が風船を飛ばす「虹球流し」という行事が、毎年恒例で行われている。元々はこの行事もせーので一斉に風船を飛ばすものだったらしいが、時が変われば中身も変わる。全員で一斉に飛ばさずに、各々の好きなタイミングで放たれた風船は、もう既に思い思いに空を漂っている。

 赤、青、黄色、紫、ピンク……おお。黒い風船なんてあるのか。何だか門出の日には縁起悪い感じがするが、そんなこと誰も気にしてはいなさそうだ。

 いつかはこの行事も環境に悪いとかいう理由で中止になるのかもしれないな。そんなことを思っていると、後ろから話しかけられた。

「誠は赤い風船かよ」

 話しかけてきたのは緑色の風船を片手に空を見上げている鈴木健太だ。普段からボーっとしている顔つきからはあまり想像ができないが、健太は運動が得意で三年間サッカー部のエースとして部を引っ張ってきた。俺は人付き合いにはどちらかというと壁を作るタイプだったが、もう十年以上の付き合いになる健太とは結構楽しくやってきた。一緒にいて苦にならないというか、波長が合うのだろう。

「どうした? お前も赤が良かったのか?」

「別に何色でもいいよ。それより、そろそろ飛ばさねえ? それとも、誰か一緒に飛ばしたい人でもいるのか?」

「いや、別に。お前と一緒で十分だ。お前こそサッカー部のやつらと一緒じゃなくていいのか?」

「俺こそ、お前と一緒で十分。じゃあ、いくぞ」

 と言って、健太と俺は手に持っていた糸を離した。するり。と糸は手から離れ、空の青を背景にして上昇していく。赤と緑の二つの柔らかく脆い塊は、風に吹かれ、押し戻されたり停滞したりしつつも空へ空へと昇っていく。

「飛んでけー」

 前髪がめくれ上がるほど強い風が吹く中、健太が叫ぶ。何せ人が多いので、校庭中に響き渡るものではなかったが、あまりにも気持ちよさそうに叫ぶので俺も叫びたくなった。

「飛んでけー」

 それらは他の色とりどりの球体に紛れ、白く大きな雲に吸いこまれ、印象だけを残し、やがて消えた。




 夜。俺達は上桂駅に集まった。

「今夜はみんな、寒い中お集まりいただき、ありがとうございます。まさかクラス全員が参加してくれるとは、思ってもいませんでした。式が面白かった人も面白くなかった人も、いたとは思いますが、高校生活最後の日に何かやろうってのは賛成していただけたんじゃないかと思います。まぁ、みんなこれからバラバラになってしまいますが――今日は楽しくいきましょう」

 そう言って田口は、盛り上がって、拍手と歓声が飛ぶ中お辞儀した。

「まず、ルートを説明します。出発はここ上桂駅。ここから国道を西へ行き、沓掛の交差点で北の山陰道へ入る。で、成章高校の信号を西に行って――京都霊園に入る」

 田口がにやりと笑いながら言うと、すぐに誰かから抗議の声が飛ぶ。

「ちょっと、何か遠足が肝試しになってるわよ」

「いや、何かあった方が面白いかと思って。霊園の西の端にカードを置いておいたからちゃんと取って下さい。霊園を一周したら山陰道に戻り北へ行き老ノ坂を越えて、トンネルに入る直前で左折し、首塚大明神でお参りをする。ここの本殿の裏の首塚にもカードを置いておきました。その後、来た道を引き返して山陰道へ合流してから、ひたすら西へ進み古世口で北へ行って亀岡駅でゴールです」

「大体どのくらいかかるんだ?」

 クラスの一人が質問する。

「俺が、式が終わった後すぐに行ったけど大体三時間半ってとこだね」

 京都霊園にカードを置いたと言った辺りからまさかと思っていたが本当に既にルートを歩いていたとは。この後もまた同じだけ歩くのだから化け物だ。

「みんなで一斉に歩いてもいいかと思ったのですが、クラスの人からチームに分かれて歩くのも面白そうだという意見をもらったので今からチーム決めをします。俺がとりあえずくじを作ってきました。こいつでやろうと思います。一番のくじを引いたやつが第一班。二番のくじを引いたやつが第二班で、全部で五班です。誰と組んでも恨みっこなしということで」

 田口のくじは細長い紙きれの先っぽに番号が書いてあるタイプで、先っぽは田口が握っているので俺達にはどの紙切れが何番かは分からないようになっていた。

 みんなが列になって田口のくじを引いていき、とうとう俺が引く番になった。

「ほい。高橋」

 俺は無言でくじを引く。と、そこに書かれていた番号は――

「おお、誠。俺と同じ四班じゃん。よろしくな」

「ああ、健太。お前と同じか」

「田中と佐藤とも一緒だよ」

「田中と、佐藤か」

 田中麻衣は物腰の柔らかい、割とおとなしめの女子で、健太や佐藤と同様、彼女とも十二年間の付き合いがある。そうか、あいつらとも来月からは顔を合わせることはなくなるのか。高校を卒業するからには当然のことではあるが、ほぼ毎日見てきた顔ぶれを見なくなるのは何となく寂しいものがある。

「あ、ほら。あそこにいるぞ」

 といって健太の指差した方から緑色のリュックサックを背負った佐藤が俺達の名前を呼びながら駆けてきた。

 それから五分ほどで全てのグループが完成した。結果、俺達第四班は鈴木健太、佐藤愛、田中麻衣、そして俺、高橋誠の四人で結成された。

「よし。懐中電灯は一班につき一つ用意しました。じゃあ二十分おきに出発していきましょう。俺は第三班だから以降は各自時間を測って出発して下さい」

 田口の言うとおり、俺達第四班は第三班の二十分後に出発した。

 適当に談笑しながら、桜の木が植えられている踏切を渡り西へ進み、信号で南に折れ、市街地を進んでいく。

「なぁ、たしか公立東京のとこ受けたんだんだろ? どうだった?」

 健太の質問に対し俺は、

「遠かった」

 と率直な感想を述べたが、どうやら俺の答えは健太には気に入らなかったらしい。

「違うよ、試験の手応え」

「ああ、……難しかった」

 わざわざ試験については触れなかったんだから、察してくれ。それに本当に、試験の中身よりも「遠かった」という印象の方が強かったのだ。

「へぇ、誠にも難しい試験ってあるんだ」

「私も意外、高橋ってコンピュータみたいなイメージだったから」

「悪かったな。コンピュータで」

 と呟くと、健太が俺の声が聞こえなかったかのように言う。

「何を勘違いしてるんだ、佐藤。誠はコンピュータっていうよりコンピュータを扱える人だよ。自分の分からないところは自分よりも優秀な人に任せるんだ。まぁ、結局は誠が優秀ってことになるんだがな」

 それは、褒めてくれているのか?

「俺にも難しい試験の一つ二つはあるさ」

「それでも一つ二つだろ。もう合格は決まったも同然ってとこか」

 俺は首を振って答える。

「採点官が俺ならそうだろうが、あいにく採点官は俺じゃない。俺の採点では一つや二つの間違いかもしれんが、実際の採点では五十問ほど間違っているかもしれん。実際のところは採点官と神のみぞ知るってやつだ」

 大通りに出ると山陰道を右折し、西の方へと足を向ける。

 すると、田中が口を開く。

「でも、それでもすごいですよ、高橋さん。私なんて試験終わった直後に自分の出来なんて予想できなかったですから」

「そう悲観することもないぞ、田中。それが普通だ。誠がちょっと変わってるだけだ。こいつなんて私立受けなかった理由が『お金がかかるから』でもなく、『公立に背水の陣で臨むから』でもなく、『受けに行くのが面倒くさいから』でもないからな」

 おい、その話はやめろ健太。

「え、じゃあ何なんですか?」

「何なんだろうなぁ」

 とぼけてみる。

「まったく、しょうがない奴だ。正解は――」

 焦らすな。そして、焦らすほど価値のある答えではない。

「『願書を出そうとしたら私立の試験はとっくに終わっていた』だ。呆れたもんだよまったく」

「何それ? 信じられない。あんたそれ正気? 受験を何だと思ってるのよ」

「受験は受験だ。大学に入るための試験。それに日本の大学進学率は三十パーセント。三人に一人しか行かないんだ。それだけしか行かないものなんてそれほど大事でもないだろう?」

「そんな開き直らないでよ」

 話しながら府道に入る。

 北へと折れた辺りからは民家が並んでいる。明かりも乏しくだいぶ道は暗い。

「でも、高橋さん。東京に行ったんなら富士山見えましたよね? きれいでしたか? 私まだ富士山見たことないんですよ」

 話題を逸らしてくれた田中に感謝。

「いや。見てない」

 と言うとすぐに健太が茶々を入れる。

「そりゃ、そうだ。何せ願書を出し忘れる誠だ。寝ていたに決まっている。さすがに長い付き合いだ。そのくらいは分かるさ」

 なるほど健太。さすがに俺のことをよく分かっているようじゃないか。だが答えは違う。

「いや。そもそも俺に富士山を見ることは不可能だったんだ。海側に座っていたからな」

「じゃあ海はきれいだったのか?」

 健太、こいつ分かってて聞いているだろう。当然答えは、

「いや、寝てた」

「ほら、やっぱりな。でも、俺も私大の受験のときはきれいな富士山は見えなかったな」

「じゃあ、鈴木さんも海側の座席に座ってたんですか?」

 田中が尋ねる。そんなに富士山が気になるのだろうか?

「いや」

 と言って、肩を竦めて首を振る健太。しかし、こいつ。肩を竦める動作はやけに上手いな。

「えっ、鈴木は旅行に行くときの電車じゃあ絶対に寝ないような人だと思ってたのになぁ」

 すかさず、佐藤が口をはさむ。

「いや、寝てもいない」

 あれ。そういえば、確か健太は地元の大学を受けたのではなかったのだろうか。

「というか健太。お前私立どこを受けたんだ?」

「立命館」

「何よそれ。富士山なんか見えるわけないじゃない」

 当たり前だ。健太は昔から軽口をたたくのは一人前だ。

 進学先の話が出たので俺は気になっていたことを佐藤に聞いてみた。

「そういえば佐藤。お前、結局美大は受けたのか」

 確か前に、佐藤は美大を受けようか否か迷っていた気がする。

「ううん。何かとお金がかかるし、卒業した後に仕事あるのかないのか分かんないし」

 そうなのか。何かうまく言えないけど、それは残念だな。俺と同じことを思ったのか健太も言う。

「そっか……本人が決めたことなら仕方ないけど、何かちょっともったいない気もするな。聞くところによると、美術の時間に絵なのか写真なのかよく分からないような絵を描いて先生を仰天させてたみたいだし」

 そんなことがあったのか。絵が上手いというのは話に聞いていたがそこまでだったとは。いや、健太がただ話を盛っているだけかもしれ――

「はい、愛の絵、すごかったですよ。生徒も先生もみんなびっくり。しかも愛、ただ紙に絵を描くだけじゃなくて、変な形のものや色んな素材に絵を描けるんですよ。金属とか、ゴムとか」

 なくはなかった。

「ありがとう、麻衣。何かみんな残念そうな顔をしているけど、私にだって絵を描く以外にもやりたいことはあるんだから大丈夫だよ。警察官に、学校の先生に、……あ、商社マンていうのも楽しいかも」

 そう言いながら指を折って夢を数えている佐藤の顔は、希望に満ち溢れた笑顔だった。

 山陰道を北上した俺達は、信号を西に折れ、いよいよ霊園へと入る。無意識のうちに親指を隠す。

 もう夜だから当然だが、だいぶ暗い。気のせいか、気温もすっと下がったような気がする。足元も不安定なのでそばにいる田中に声をかける。

「大丈夫か?」

「はい。ちょっとだけ、寒いですね」

 「暗い」や「怖い」よりも先に「寒い」、が出てきた。田中はこういう肝試しめいた行事は苦手だろうと思っていたが、案外いける口らしい。

 俺はどうかというと、こういうのは苦手だ。わざわざ夜にこんな所へ来るやつの気がしれない。夜の墓地というのは怖いというよりも不気味で、少なくとも気持ちのいいものではない。幽霊は仮にいるとしても、生身の人間に対して何かしかけてはこまいと思ってはいるが、それでも気味の悪さは拭えない。

 とりあえず、四人で談笑しながらおよそ三十分で霊園を一周し、再び山陰道へと戻った。

 ここからの山陰道もまた曲者で、右も左も木が立ち並び、電灯の類もほとんどないため非常に暗い。今は一本道だから迷うことはないが、もう少し進めば分岐点がたくさんある。これから進むべき道を照らしてくれるものがなければ視界の大半は闇に支配されて、迷ってしまうだろう。

「でも、みんなもう今日でお別れですか。寂しくなりますね」

 田中が名残惜しそうに言う。

「でも大丈夫だよ、きっと。だって――」

 佐藤は言った。

「一度結ばれた縁は決して消えない。たとえどんなことが起こったとしても」


  


 三十分ほど山陰道を歩いた後、トンネルの手前で右へと折れ、細い道へと入っていく。ここまでは民家がちらほらとはあったが、ここから先は完全な山道となる。

「この先はもう完全に真っ暗だな。懐中電灯を落としたり壊したりした班があったら悲惨だ」

 健太に同意。

 山道を十分ほど歩いたところに首塚大明神はあった。鳥居の前で一礼して階段を登る。

「首塚大明神は、源頼光とその家来の渡辺綱、坂田金時、卜部季武、碓井貞光、藤原保昌が征伐した鬼、酒呑童子の首が埋められた場所です」

 中の下位のパッとしない観光地になっていることは知っていたが、そんな歴史があったとは。

「物知りなんだな。田中」

「でも、この神社に訪れると呪いがかかるっていう噂もあるみたいだけどね」

「それはあくまで噂にすぎません。もし本当に呪いがかかるのならばとっくに立ち入り禁止区域になっていると思います。それに、もし呪いをかけるのであればここには誰も立ち入らなくなってしまい、寂しい思いをしてしまいます。酒呑童子が呪いをかける意味はないでしょう」

 話しながら階段を登りきり、鳥居をくぐると少し開けた場所に出た。左手には手水舎がある。喉が渇いてきたが、あれはそういうものではないだろう。

「なるほどね。でも、何でここに首を埋めたの?」

 佐藤が問う。

「それは俺も知ってる」

 健太もこういうのに詳しいのか? 初耳だ。

「頼光達は最初、首を都に持って行こうとしたらしい。でも、ここで休憩している途中に、子安地蔵が「鬼の首のような不浄なものは天子様のおられる都へ持ち行くことはならん」と言った。するとここまで持ってきた首が急に持ち上がらなくなったんだ。力持ちの坂田金時が持ち上げようとしてもまったく持ち上がる様子はない。そこで一行は止むを得ずこの場所に首を埋めて首塚を作ったとさ」

「よく知ってるな」

「だって、この石碑にそう書いてある」

 と言って健太は石碑を指さす。さいでしたか。

「でもまぁ、さっき田中が言っていた、不吉な神社は噂に過ぎないってのは本当みたいだな。ここに『酒呑童子が源頼光に首を切られるとき今までの罪を悔い、これからは首から上に病をもつ人々を助けたい、と言い残したと伝えられ首塚大明神は首より上の病気に霊験があらたかである』って書いてある。やっぱりちゃんとご利益があるみたいだ」

 そうか。だが残念ながら俺は首から上に病気を持ってはいない。強いて挙げるのであれば近眼ということぐらいだろうか。

 再び鳥居に一礼してくぐると、その先には足場の悪い坂道がある。狭いので、懐中電灯を持った佐藤を先頭に登っていく。上の方にはまた鳥居が見える。おそらく本殿はその先にあるのだろう。

 坂道を登っていると佐藤が突然叫んだ。

「なっ何? あれ?」

 俺から見て右手、佐藤の懐中電灯が照らす先には家らしきものが見える。

「あー。あれは多分……廃墟だな」

 健太がそう言うが、物は言いよう。ただの小屋だ。だが、雰囲気が雰囲気だ。怖いことには変わりない。

「あっ」

 と佐藤が言う。いつの間にか廃墟を照らしていた光は消えていた。

「どうした? 電池でも切れたか?」

 と聞くと、ふるふると首を横に振る。

「……落とした」

「は?」

「……懐中電灯落とした」

「何やってるんだよ。まったく」

 しかも、落っことしたはずみでスイッチが切れたのだろうか、下のほうに懐中電灯らしき明かりは全く見えない。

「行ってきて」

 何を言ってるんだこいつは? 俺はお前の使用人か?

「行ってあげなよ、誠。女の子の頼みだよ」

「なら、お前が行けよ」

「分かった、じゃあ二人で下に降りよう」

「あっ、私が行ってもいいですよ。神社の中では神様が守ってくれてると思いますし、私はあまり怖いとは思いませんので」

 と言って田中はひょいと手摺を乗り越え、下のほうへ降りていく。

「おい、待て。俺も行く」

 さすがに、女子一人に取りに行かせるわけにはいかない。

「やれやれ。じゃあ、俺も行くか」

 と言って健太も下へ降りてくる。

 どこだ? 懐中電灯は? 田中は草の根をかき分けて探しているようだが、俺は面倒なので目だけを動かす。

「あっ、ありましたよー」

「おっ、田中が見つけてくれたみたいだ。まったく、男が二人で何やってるんだか」

 田中と健太の声で目的のものを見つけたことを知り、三人で上へ登る。

 あ。今気が付いたが、これって砂糖を一人にしてるんじゃないか。早く戻らねば。

「田中が拾ってくれたようだ」

「ありがとう、麻衣」

「俺には?」

「あんた何かやった?」

 いいえ、何も。

 とりあえず、懐中電灯も戻ったということで、四人で鳥居をくぐりお参りをする。さて、いったい何を願おうか。さっきの話だと酒呑童子というのは鬼であった。鬼に何を願えというのか? というか、俺は今の生活にはそこそこ満足しているし、鬼だろうと神だろうと願うことは特に思いつかない。まぁ、妥当なのはこんなところか。

 この先、俺とその友人に、程々の幸あれ。


  ***


 彼女と二人並んで午後の老ノ坂を歩きながら話す。

「肝試しの夜に見たあれ、結局何だったんだろうね?」

「可能性として一番高いのは誰かの悪戯だろうなぁ」

「もしくは、本物の幽霊か。ねぇ、ちょっともう一回考えてみようよ。あれが何だったのか」

「別に、いいけど……。とりあえず考えるべきは、犯人と方法と動機だな。誰が何のために、どうやってやったのか」

「もしくは本物の幽霊だったか」

「まぁ、幽霊でもいいけど、そうすると面白くなくなるからなぁ。それはどうしても分からなかったときの最後の検討でいいにだろう」

「そうだね。じゃあまず、何から考える?」

「何からでもいいとは思うけど、とりあえず犯人からかな」

「……ねぇ。その『犯人』って言うのやめない? 何か犯罪者みたいじゃん。何か名前を付けてあげようよ」

「名前って……何がいい? 『わるいやつ』とかか?」

「『わるいやつ』ねぇ……『わるい』が名字で『やつ』が名前かな。じゃあ『やっちゃん』にしよう。うん。それで決まり」

 ……まぁ、呼びにくいわけではないから良しとしよう。

「まず、当時の状況を確認しようか。何せ二十年も前のことだからだいぶ記憶があやふやだが、二人で思い出せば大体のことは分かるだろう」

「了解。高橋、記憶力良かったしね」

 あんまりそんな自覚はないんだけどな。まあ、いい。本題へ入ろう。

「高校の卒業式のあった夜。俺達は五つの班に別れて上桂から亀岡まで遠足をした」

 と俺が言うと彼女は、こくん、と頷いた。

「うん。私達の班は四班だった」

 案外二十年も昔のことでも憶えているものだ。

「そうだった。で、上桂駅から山陰道を通って、京都霊園へ。老ノ坂を経て――」

「首塚へ行った」

「そういえば、あのときのお前、らしくなかったよな」

「え?」

「ほら、何か柄にもなく怖がったりして」

「ああ、あれね……。それより、当時の状況の確認をするんじゃなかったの?」

「そうだったな。俺達は本殿でお参りをした後、カードを取りに本殿裏の首塚へ行こうとした――」

「そのとき」

 彼女と唱和する。

「あれを見た」


  ***


「確かカードは本殿裏にあるんだったよね?」

 お参りを終えた健太が聞く。

「田口の話じゃそうだったな」

「じゃあ、いよいよ鬼王、酒呑童子様とご対面か」

 どういうことだ?

「どういうことよ?」

 俺と同じことを思ったのか佐藤が健太に問う。

「本殿の後ろの首塚には、その下に酒呑童子の首が埋まっているんですよ」

 健太の代わりに答えたのは田中だ。

 そうなのか。と納得しかけたとたんに頭に一つの疑問が湧く。

「じゃあ何で首を埋めたその真上に本殿を立てなかったんだ?」

 俺の疑問に、田中はちょっと困った風に答えた。

「それは……そのう。どうしてでしょう?」

 田中が健太に助けを求める。

「どうしてだろうな」

 まぁ、こんなもんだろう。世の中にはもっと謎のことがごまんとあるのだ。大方、お賽銭を入れる場所が二か所の方が儲かるとか別にたいしたことのない理由なのだろう。

 懐中電灯を持った佐藤を先頭にして、左手側から本殿の裏へ周ろうとする。

「あっ、あそこじゃない? カードが置いてあるの」

 と佐藤が言って本殿裏にある四角く区切られたスペースに懐中電灯を向けたそのときだった。

「キャー」

 悲鳴が上がった。

「どうしたんだ、佐藤」

「愛、何?」

 さすがにただ事ではないと思い、佐藤の方へ走る。

「……あれ……何?」

 ……これには俺も二の句が継げなかった。俺だけじゃない。健太も田中も唖然としている。といっても俺も二人の方をじっと見たわけではないので確信は持てないが。

 だが、とにかく。俺は驚いていた。何せ、佐藤の懐中電灯の照らす先には、

 首が浮いていた

 ピンと立派な髭をたくわえた首はぎょろりとした大きな瞳で鬼のような形相でこっちを睨んでいた。

 首の元へ走ってどうなっているのか確認するか、ここからすぐに逃げるかしたかった。だが、体は板のように固くなり、足が竦んで動くことができない。声を上げようにも声が出ない。自分の体から汗がだらだらと流れてくるのが分かる。肌はざわざわと粟立ち、まだ少し肌寒い季節だというのに体の中が火事になったように熱い。

 意外にも、勇敢だったのはさっきまで恐怖に慄いていた佐藤だった。

「ヤァー」

 奇声を発しながら走り、果敢に首へと向かっていく。

 もう少しで首だ、というところで。

「あっ」

 石だか木の根っこだか何かにつんのめり、倒れる。その拍子に佐藤の手が首に触れ――。

 え?

 俺だけじゃない。他のみんなもポカンとしている。何せ今、俺達の目の前で、

 首が、消えた。

 佐藤の手が触れるか触れないかしないうちに。

 いつの間にか俺達の金縛りは解けていた。考えるよりもまず先に、体が動く。

「大丈夫?」「佐藤」「大丈夫か?」

俺達は佐藤に走り寄る。

「……うん。大丈夫……」

と言い、佐藤は立ちあがる。彼女が歩けるのを確認すると、俺達は一目散に鎮守の森を無我夢中で走り下り、転がるようにして、首塚大明神から逃げて行った。


  ***


俺達がゴールに辿り着いた後、先に亀岡駅に着いていた第一班から三班のやつらに首のことについて聞いた。しかし、先に到着した奴らでそんなものを見たやつはいなかった。初めはただの見間違いだと笑われたが、さすがに四班全員が口をそろえて首について話すので、クラスの間では――たった一日ではあったが――大きな話題となった。やはり首を誰よりも間近で見た佐藤はもともと話が巧かったこともあり、彼女の話は問題を大きくすることに一役買った。

だが、そこからさらに話が大きくなることはなかった。その後は、引っ越しの準備やら大学入学の手続きやらで忙しくなり事件の話をする暇もなくなり、京都を去った。卒業して京都を離れた以上、真相を追及することもできなくなってしまった。そして、事件について誰とも語ることもなく二十年という月日が経った。

「さて、『やっちゃん』とはいったい誰なのか? 誰か心当たりはあるか、佐藤?」

 坂を歩きながら彼女に問う。まともに調べようと思えば現場を調べたり当時の関係者に話を聞くなどして証拠を揃える必要があるが、こうも時が経ちすぎてると証拠を発見するのは難しい。となると当て推量、すなわち運に頼るしかないが、今回の場合はそれで十分だろう。

「一つの仮説だけど、大人の仕業かもしれないよ。例えば、誰かのお母さんとか担任とか。高校最後の日にサプライズをくれたのかもしれないよ」

 なるほど、一見ありそうだ。だが、しかし。

「それはない。少なくともクラスの中の誰かの親や先生でないことは確かだ」

「どうして? クラスの人は二十三人もいたんだよ。一応親には内緒でっていう話だったけど、誰か一人くらい大人が気が付いてもいいはずだよ」

「ああ、多分ほとんどの親が遠足のことには気付いていたんじゃないか。大人は子供の隠し事なんてすぐに気が付くさ。大人になった今から見れば子供は何であんな隠し方で隠し通せた気になったのか不思議なくらいだ」

「じゃあ、もしかして私の親も……」

「多分、気付いていただろうな。娘がみんなと遊びに出かけたことに。卒業式の夜だ。どんな言い訳しても無駄だろう」

「そんなぁ。絶対大丈夫だと思ってたのに」

「何て言い訳したんだ?」

「散歩……」

 嘘ではない。

「何時間も家あけて、その理由が散歩、か?」

「……矛盾点はないもん」

 子供か、お前は。いや……子供だな。

「矛盾点がなければ何でも通るのは小説の中だけだ。子供は矛盾点がなければ何でも騙し通せると思うけどな」

「で、親や先生が犯人じゃないってのはどうして分かるの?」

「まぁ、親や先生がサプライズとしてお化けに扮した可能性はなきにしも非ずだ。だがな、これは大人の暗黙の了解がある」

「何?」

「『子供の行事に手を出さない』だ。普通の大人は特に危険がない限りこれを順守する。もし仮に手を出す大人がいたとしてもタネあかしなり何かするさ。だが、そんなことはなかった」

「……」

「俺ももう大人で子供を持つ一人の親だ。大人になった今だから断言できることだが、『やっちゃん』は大人じゃない。少なくとも、俺達のことをよく知る大人ではない」

 俺が言葉を切っても佐藤は黙ったままだ。

 風が吹き、淡く咲いた桜が小さく揺れる。

「どうした?」

「……いや、何でもない……っていうことは『やっちゃん』は私達と全く関係ない大人、子供か――」

「幽霊、くらいだろうな」

 彼女の後を引き継ぐ。

「じゃあ一つずつ検証していくか。まずは、俺達と全く関係ない大人説だ。これは、肝試しをやった奴らが仕掛けを回収し忘れたパターンや俺達以外の誰かを驚かせようとした。というものが考えられるが、これは完全に否定される。なぜなら、もし『俺達と全く関係のない大人』が以前誰かを驚かせようとして首が消える仕掛けを作ったのなら、俺達以外にも、他の班のやつも同じものを見ているはずだ」

 その途端、佐藤が急に笑顔になる。

「確かに。ってことは仕掛けられたのは三班が首塚に来た後ってこと?」

「そうなるな。で、この重要参考人となるのが――」

「三班の人達だね」

 その通りだ。

「でも、一班と二班と三班の共犯っていうこともありえるよね。もしかしたら遠足が始まる前から仕掛けがしてあったのかもしれない」

 可能性としてはゼロではない。ゼロではないが

「思うんだけどさ、佐藤。銀行強盗って銀行の職員と警備員全員を味方にすれば簡単にできるんじゃないか?」

「え、何。いきなり?」

「いいから。そう思わないか?」

 話の出し方がいきなりだったか。強引だったかな。

「うーん……」

 何だか不満げだが、とりあえず考えてはくれているみたいだ。しばらく考えた後、彼女は首を横に振った。

「やっぱ私ならやらないよ。だって、そんなにたくさん共犯者がいたら誰か一人くらい警察に言っちゃうかもしれな……あっ」

「そう。そういうことだ」

 一般に共犯者が多ければ多いほどその企ては外に漏れやすくなる。今の考えでは一班、二班、三班の全員の協力が不可欠。最低でも十五人。二十三人しかいないクラスの十五人が犯人ならどこかで計画が漏れてもいいはずだろう。しかも、驚かし終わった後ならなおさらだ。誰かが「あれは俺達の仕業だったんだぜ。びっくりしただろう」と言ってきてもいいはずだ。

「そして理由はまだある」

「何?」

「動機だ」

 そう。佐藤の説ではどうしてもその辺の説明に無理が出る。

「動機?」

 俺の言葉を反復して彼女は首を傾げる。

「ああ。あいつらには俺達を驚かす動機がないはずだ。大がかりなドッキリを演じるのであれば、何も俺達のような人じゃなく、田口とか、クラスの中で目立ってた人物を驚かしてこそ面白いだろう」

「なるほど……ということは一班と二班の人達は無関係で、『やっちゃん』は三班の誰か、もしくは全員っていう説は――」

 俺は頷いて続きを拾う。

「濃厚説だな。単独犯か複数犯かはよく分からんが」

「でも他にも可能性はあるよ」

 他に可能性? 何だ? 俺が考えていると、佐藤が続ける。

「五班の人達だよ。私達が霊園を歩いている間に霊園を通らずに先回りしていたんだ。可能性としては十分有り得るでしょ。私の先回り説も意外といい線いってるんじゃない?」

 なるほど、いいアイデアだ。が、しかし……。

「いや、それはないな」

「え、何で?」

 佐藤が驚いて言う。

「先回りするためには三班と四班の間に入らなければならない。だが、二つの班の出発した時間の差は僅か二十分だ。その間に入るとどちらかの班と鉢合わせする可能性は非常に高くなる。少なくとも、三班が首塚から降りてくるときに鉢合わせる可能性は高い。五班の奴らに今回の犯行はちょっと無理だ」

「じゃあやっぱり三班の人達が怪しいのかな」

 とりあえず、現状では『やっちゃん』候補は

  ・大人 ――――→ 除外

  ・無関係な人 ―→ 除外

  ・子供 ――――→ 三班が濃厚

  ・幽霊 ――――→ 保留

 という感じか。

「じゃあ、ここからは三班のうち誰か、もしくは全員が『やっちゃん』だと仮定して話を進めていく」

「……うん」

 何か歯切れが悪いな。

「どうした?」

 と聞くと、慌てたように首を振った。

「いや、何でもないよ」

 ならいいが。どうしたんだ?

「じゃあ、次に考えるべきは」

「どうやって首を浮かせて、それを消したか、だね」

 ああ、だが、ここからが難しい。首を宙に浮かせるだけでも難しいのに、佐藤がそれに触れた、もしくは触れそうになった瞬間に消すなんてことが本当に可能なのだろうか。もちろん科学的技術を駆使すれば可能だろう。だが、『やっちゃん』はおそらく高校生だ。使える技術も資金も限られる。ホログラフィーなどたとえ『やっちゃん』が複数人いたとしても高校生には高嶺の花だ。

「とりあえず、まずここから考えてみないか? 首は実物なのか、映像だったのか」

 少し考えた後に佐藤が答える。

「うーん……うん。それは実物。間違いないよ。私こーんなに近くで本物見たもん」

 「こーんなに」のところで指を目の真ん前に持ってきて佐藤が言う。

 そうか。ならそうなのだろう。

「あっ、でも、もしかしたら映像……だったのかもしれない」

 どっちだ。でもまぁ、多分実物だろう。映像はどうにも高校生には金がかかりそうな気がする。

「そういえば佐藤。お前、首には触れたのか?」

「ううん。手に何か触れた感触はなかったよ」

 なんだ。ここで手を触れていたのなら映像説は完全に否定されるのに。ギリギリのところで残るな。

「なぁ、佐藤」

「?」

「俺達小学生の頃よく科学館に行ったよなぁ」

 しまった。また唐突に話を出してしまったか。

「うん。何度も行ったね。友達とも行ったし学校行事でも行った。もう十回以上行ったんじゃない? あっ、夏休みにもよく行ったなー。夏休み。暇だったもん。夏休みは毎日が夏休みだったなー」

 夏休みは毎日が夏休み――余りにも当たり前のことではあるが、その通りだった。あのころは一か月というものがとてつもなく長く感じられた。夏休みなど無限にあるのではないかと思っていた。今、その休みを味わうことは、ない。あの長かった夏休みはいったいどこへ消えたのだろうか。今、一か月というものが週末を四回過ごせば終わることを俺は知っている。二日間の休みを求めて五日間の労働という作業を四セットこなしているうちに、一か月はあっという間に終わる。それを十二回繰り返せば一年など一瞬のうちに過ぎ去る。などと考えていると、

「で、科学館がどうしたの?」

 という彼女の言葉に現実に引き戻される。らしくもなく物思いに耽けってしまっていたらしい。

「あのさ、一階の展示室にさ『凹面鏡のいたずら』っていう展示があったの憶えているか? 二枚の凹面鏡が上下に組み合わせてあるやつ。下の鏡の真ん中に置いたものが浮き上がって見えて、掴もうとしても掴めないんだ」

「何かあったね。そんなの」

「今回の首もそれじゃないのか?」

「首は鏡でできた像だったってこと?」

「ああ。で、お前が駆けて行って首に触れようとした瞬間に鏡がずれて像も消えた」

「……」

 やっぱり苦しいか。

「……でもそうすると大きな凹面鏡が二枚いるよね。高校生達にそんな大きな凹面鏡が手に入るかな?」

「忘れてくれ。ただの思い付きだ」

「ちょっと複雑に考えすぎじゃない。下手に考えすぎて変な方行っちゃうんだよ。もっと、単純に考えようよ。まぁ、完全に実現不可能かと言ったらそうでもなかったけどね」

 俺の説は彼女にやりこめられたが、これで映像説は消えただろう。何せ最もお金のかからなさそうな鏡のトリックでさえ高校生には入手困難なものだ。

「やっぱり映像説はだめだ。どうしても金がかかる。やはり首は実体を伴うものだったんだろう」

 とりあえずこれで可能性は狭まったのではないか。今までの議論では映像説だけでなく大人説や関係ない人間説を否定してきたが、完全に排除できたわけではない。だが、蓋然性は低いだろう。

 しかし首が実体だとするとますます浮かせるのと消すのは難しくなる。

 何だかさっきから考えてばっかりだ。今度は彼女に尋ねてみるか。

「佐藤。お前は何か首を消す方法思い付くか?」

 すると、今まで好奇心に満ちていた顔が驚きを表した。

「えっ、私?」

 しばらくの間小首をかしげていたが、やがて何か思いついたらしく彼女は口を開く。

「ねぇ、高橋。スフィンクスって手品知ってる?」

 なぜ手品の話をするのだろうか?

「何だいきなり? あれか? 鞄を開けると人の頭が出てきて戻すと消えるってやつ。確かに今回の事件と似てるな」

 うなずいて、佐藤が再び尋ねる。

「タネは知ってる?」

 彼女の問いに対して、俺はどこかで聞きかじった知識を答える。

「ああ。三方を同じ壁で囲んで鏡を置くんだろ。すると側面の背景が反射して首が浮いたように見える……そうか。同じ要領で鏡を動かして。体じゃなくて首を隠したのか。これならいけるかもしれない。首は演劇部とかから拝借してくればいいし。鏡もそんなに大きなものじゃなくて首が隠れる程度のものでいい。しかも凹面鏡である必要もない。おまけにこの手品はそこそこ有名だから考え付くのに特別な知恵が必要となるわけじゃない」

「いいアイデアでしょ。でももしこれなら結構大がかりだからきっと三班の全員が『やっちゃん』だろうね」

 なるほど。もし彼女の言ったことが正しければ事件は一気に解決する。

「これで事件解決かな? 次の同窓会で三班だった人達に聞いてみてよ」

 もっとも、矛盾がなければ、の話だが。俺が首を横に振ると佐藤が声を上げた。

「えっ、否定できるの?」

「ああ、お前の言った方法で首を消すには鏡を動かす必要がある。じゃあ、いったい誰が動かしたんだ?」

「そりゃあ三班の人達でしょ。可動式の鏡なんか使ったんだよ。糸とかで吊るしておいて私が触ろうとした瞬間に鏡を首が隠れるあたりまで引っ張ったんだ」

「だが、もしそうなら三班の人達は俺達と同じくらいにゴールしてなきゃおかしい。俺達はあの後結構速く走ったから、三班に追いついてもいいくらいだ。だが、確かに三班は俺達より前にゴールしていた」

 あそこで鏡なんかを操作していたら全力疾走で駆けていった俺達には追いつけやしない。だが、俺達がゴールにたどりついたときには全員がゴール地点にちゃんと到着していた。

 しかもこの方法では首は「消えたように見える」に過ぎない。いくら暗くても鏡が置いてあれば俺達はともかく、目と鼻の先にあった佐藤が気付かないはずがない。

「そっか……これもダメか」

 とそのとき、俺の頭の中で何かが唐突に閃いた。いや、前触れのある閃きなんてないだろうが、不意を突かれたのだ。

「どうしたの高橋?」

「ちょっと待ってくれ、『やっちゃん』が分かりそうなんだ」

「へぇー。首を消した方法も?」

「いや、そんなことはどうでもいい……」

「何か気付いたみたいだね」

「……」

いや、これは急な閃きなどではなかった。俺は最初からやっぱりそうじゃないかとは思っていたのかもしれない。とりあえず、いま俺の考えている内容が一番可能性が高い。今までの彼女との議論で考えられる可能性は大方出た。きっとこれで、大丈夫だ。

 ともかく俺は、一つの結論を得た。


  *


 歩くというのは怖いことだ。色々な空想を脳内でめぐらせてしまって、頭の中身が次から次へと移り変わる。歩くと今まで考えてきたことがすべて他のものに取って変わってしまうような気がする。いろいろなことを考えるのは楽しいことだが、今は全部憶えておかなければならない。なのに俺は歩いてしまった。止まりたいが足が勝手に老ノ坂の上を動いてしまう。

「『やっちゃん』のことだが……。俺は、多分、誰が『やっちゃん』なのか分かったよ」

 坂の途中で放った俺の声は、不思議なほどよく響いた。

「じゃあ聞かせてもらおうか名探偵さん」

「やっちゃんは、子供だ」

「それはもう私にも分かってるよ」

 そう。「やっちゃん」が子供だという可能性はかなり高い。これは今までに議論でもう触れたことだが、大事なのはここからだ。

「俺達は首が、実物なのか映像なのかで議論していた。だが、これは無駄なことだったんだ」

「どういうこと? やっぱり首は幽霊だなんて言うつもりじゃないよね?」

「いや、そんなことじゃないさ。だがな、映像でも実物でも、お前が首に近づいたところでちょうどタイミングよく消すなんてできると思うか?」

「確かにそんな都合よく消せるとは思えないね。でも、実際にタイミングよく消えたんだからそこは認めるしかないよ。近づいたら像が消えちゃう不思議な仕掛けでもしておいたんじゃないの?」

「仕掛けってどんな仕掛けだ?」

「さあ? っていうかそれが分かったら苦労しないわよ」

「そんな仕掛けを子供ができるとは思えん。高校生が考えたトリックはもっと単純なものだろう。とりあえず、普通ならタイミングよく消すことはできないが、都合よく消す方法が一つだけある。しかも、いたって単純な方法で、だ」

 心臓が不規則に脈を打っているんじゃないか、そう思えるほどどきどきしていた。問題を解決すること自体は何度も経験しているが、今回のものは少し特殊だ。自然と気分が高揚する。

「何?」

「それはな、俺が映像説の話で言ったこととかぶるが、直接見てたってことだ。『やっちゃん』は俺達のことを見ていたんだ。それならお前が駆け寄ったときにすぐに消すことができる」

 勘違いじゃない、明らかに俺の心拍数は上がっている。彼女に気付かれてもおかしくないほどにどくんどくんという音が俺の中で響いている。

「でも、三班の人達は私達よりも前にゴールしていたよ」

 そう、だから「やっちゃん」は三班の奴らじゃない。

「ああ、ということは――」

 ごくりと唾を呑む音が聞こえる。俺が呑んだのかもしれないし、彼女が呑んだのかもしれない。それが分らないほどに俺は興奮していた。

 俺は立ち止まり、それを見た彼女も立ち止まる。

「『やっちゃん』は俺達四人の中にいた」

 俺は、犯人に一人だけ心当たりがある。そうして、彼女の方を見た。

「へぇー。で、その四人の中の誰が『やっちゃん』なのかな?」

 好奇心に満ちた言葉とは逆に、彼女は明らかに答えを知っているような顔をしている。

「白々しいな。棒読みになってるぞ」

 ふふん。と彼女は笑い、そして高らかに叫んだ。

「正解!」

 二十年前と変わらない若々しく溌剌とした声が響く。

ふう。パンパンに膨らんだ風船の口を離したように一瞬にして俺の緊張が抜ける。

「で、首を浮かせて消した方法は?」

「それは知らん」

「え?」

 佐藤が驚いたように言う。

「犯人が目の前にいればそいつに聞くのが手っ取り早い」

 事実を知るためにはそれが一番楽だ。

「変わらないね、昔から」

 彼女は小さく吹き出して一歩前へ出てこちらを振り返る。鏡を張ったような目がこっちを見つめる。

「お前ほどじゃないさ。で、どうなんだ? どうやったんだ?」

 俺の問いに対する、佐藤の解説はあっけないものだった。

「簡単だよ。虹玉流しで使った黒い風船をこっそり持って帰ってきたの。で、その風船に首の絵を描いておいて地面に結び付けた」

 確かこいつ、絵はやたらとうまかったらしいからな。それにあの日はリュックサックを背負っていた、おそらく風船はその中に入れてあったのだろう。

「いつの間にそんな仕掛けを……」

「みんなが私の落とした懐中電灯を取りに行っているとき」

「まさか」

 彼女の答えを聞くのと同時に、俺は口の中で小さく呟いていた。

「俺達全員で取りに行かなかったらどうしたんだ?」

 と聞くと、彼女は首を振って答えた。

「いや、行くと思ったよ。だってさすがに、麻衣一人に取りに行かせるわけないじゃん」

「じゃあ、田中も」

 そう聞くと佐藤は意外にも首を横に振った。

「ううん。あのメンバーの中で懐中電灯を落としてすぐに取りに行くのは麻衣かなーって予想はついてた。「行ってきて」ってちょっときつめに言ったら高橋は反抗してその間に麻衣が取りに行って二人がそれに続くだろうっていう考えはあったしね。ただ、可能性としては高くなかったから、誰かが残ったら、トイレに行ってくるふりでもしようかと思ってたんだけど」

 ずいぶんと機転がきくじゃないか。

「なるほど。だが、この方法は少人数のグループで行われなきゃ成立しない。もしもクラス全員で歩くことになっていたら仕掛けるときに誰かに見られるだろ」

 そうだ、俺は遠足が始まるまでみんなで歩くものだと思っていた。グループに分かれることなど予測できたはずがない。

「うん。だから、私が田口に言ったの『班分けして肝試し風にしたら面白いんじゃないか』って。で、くじも細工がしてあって私達は必然的に同じ班になった。っていうかあのくじ、実は仲のいい子同士が同じ班になるようになってたんだよ。親友との思い出作りのために」

 そうだったのか。俺と健太があのとき同じ班になったのは偶然なんかじゃなく必然だったということか。

「昔から、頭の回転と行動だけは早かったからな」

 久しぶりに話した佐藤相手に、本音が漏れる

「褒めてくれてるの? なら、ありがとう」

 少し照れながら彼女が言う。

 だが、まだ分からないことがある。

「浮かせた方法は分かったが、首を消した方法は?」

 すると佐藤は意外そうに言った。

「えっ、分からない? 私が転んだときに風船を地面につないであった糸を切ったの。懐中電灯の光さえなければ上に飛んでいっても分かんないでしょ。懐中電灯持っているのは私だけだったし、風船自体も黒いものを使ったし」

 ふん。何て単純なんだ。まさに、高校生でも用意できる道具しか使われてないじゃないか。

「だが、俺達が風船に向かって走って行くとは考えなかったのか?」

「もしそうなら私も負けないように全力ダッシュ! それでも間に合わずにバレたら笑ってごまかす。それならそれで面白かっただろうし」

 はは。彼女らしさに思わず笑いが漏れる。

「動機は――」

「思い出作り!」

 彼女は右手でピースサインを作って言った。

「だろうな。びっくりだ。たかが高校生が起こした単純な事件が二十年もの間迷宮入りになったとは。全部計画通りだったんじゃないか?」

 俺の言葉に対して彼女は意外にも首を横に振った。彼女は右を向き、夕日で赤く染まった空を仰ぐ。

「でも、想定外なことが一つだけあったな」

 俯いて目を伏せ、彼女は呟いた。夕日が彼女の顔を赤く照らす。

「もうすぐある同窓会でタネあかしするつもりだったんだよ。あれ実は私がやったんだよ、てね」

 彼女は歩を一歩前へ進め冷たくなった手摺に身を預ける。その視線は遠く、ずっと遠くに注がれているようだ。

「もう、大人なんだね。高橋も」

 彼女は顔を上げ、視線が地上から天へと昇っていく。その表情はここからでは見えないため、そこから彼女の感情を読み取ることは俺には出来ない。

「楽しかったよ。私の十八年間は」

 その声は決して大きいわけではなかったが、不思議とよく聞こえた。

 見たい。

 俺は今、すべての謎が解かれた彼女がどんな思いで、どんな表情をしているのかが無性に見たくなった。だが、今は彼女の後姿しか視界に入らない。

 今見なければ。

 今見なければもう二度と見ることは出来ない。不思議とそんな感じがした。

強い風が吹いて、髪が揺れ、彼女の後姿が揺らぐ。はっと我に返る。桜が舞い、思わず目を閉じる。

 さー、という強風独特の風の音が耳元を捻りながら通っていく。服がバタバタと音を立て、桃色の花が飛び交う。

風が止んで、目を開くと、さっきまでとは違う不思議な静けさがあった。

 セーラー服に身を包み二十年前と全く変わらない姿をした彼女は、もう見えなかった。


  ***


 佐藤愛が死んだのは彼女が大学一年生のときだった。そのことが東京にいた俺の耳に入ったのは葬式が終わって一か月もたった後だった。新しい土地での新しい生活を求めて地元との関係を完全に断絶していたので当たり前かもしれない。聞くところによるとどうやら交通事故だったらしい。俺は彼女の死に対して特別な感情を抱かなかった。もう半年以上も会っていない。そうか、死んだのか。くらいのものだった。俺がそういうのにあまり心動かされない人間だったからかもしれないし、人の死を悲しむにはまだ十分に大人になれていなかったのかもしれない。おそらく両方だろう。

だが、彼女のことを忘れることはなかった。時々記憶が薄れることはあったとしても。寒さが和らぎ卒業式が行われて、毎年この季節が来るたびに、俺は、いやきっと俺達は、彼女のことを思い出していた。

 大人になった俺がまだ十八歳の彼女にかけられる言葉は、何かあるのだろうか?

「佐藤。これは俺が社会に出て実感したことなんだがな。人間は問題があるとその解を求めたがる生き物なんだ。こういった怪奇現象じみたものは特にな。好奇心なんてものは大人になっても持ち続けるものなのさ。だから、あのころのメンバーはきっと――」

 風が吹き、桜の枝を揺らす。

「春が来るたび、お前のことを思い出すさ」

 俺の言葉の何と安いこと。二十年も経ってこのくらいのことしか言えないのか。だが、俺の言ったことは事実だ。去る者は日々に疎し、と言うが俺は毎年春になるとこの事件を思い出している。その記憶は時と共に風化し、変化することはあるにせよ、きっと忘却されることはない。来週の同窓会でも、首塚騒動の話題が出るだろう。彼女の体は死んでも、俺達の記憶の中でまだ生きている。

 ふと、卒業式で校長先生が話してくれた言葉が頭の中で蘇る。

 絶対、大丈夫です――

 絶対大丈夫、か。さすが老練な校長だ。俺が彼女に向けた言葉よりもずっとシンプルに伝えている。

「ありがとう」

 その言葉は無意識のうちの俺の口から漏れていた。彼女のおかげで、俺は昔に戻り小さな満足感を得ることが出来た。彼女が死んだため、約束していた時代祭を見に行くことはなかったが、もし行っていればそのときにも彼女に会うことが出来たのかもしれない。

 当時、健太が酒呑童子についていろいろと説明してくれたが、首を埋めたのには別の理由があるのだと今、俺は思った。もしかしたら当時の人は、志半ばで死んだものを敬う気持ちで老ノ坂に葬ったのではないか。聞けば、酒呑童子は嫌われ、全国各地を追い出されてやっと見つけた安寧の地である老ノ坂に定住し、最後はだまし討ちのような形で死んだらしい。彼女も志半ばで死んだのだろうか?

 なぁ、佐藤。あの時首を消した理由は『思い出作り』って言っていたけど、誰の思い出作りだったんだ? あれはもしかして、一人東京へ行ってしまう俺への思い出を作ろうとしてくれたんじゃないのか? 彼女に聞いてみたかったが、それはだめだということは不思議と直感で理解した。それに彼女はもう見えない。聞きたいことも話したいこともまだ山のようにあったが、それももう叶わない。

 大人になっても行ってはいけない場所というのは依然として多い。法律で禁止されている場所、レストランや駅のスタッフオンリー。だが、誰かが禁止しているわけでもないのに行ってはいけない場所がある。俺は高校を出たのだ。出た場所には戻れない。いや、戻ってはいけないのだ。この坂にも、もう来ることはないだろう。

 あの時代は終わったのだ。と思い、葉叢の影の落ちる道を再び歩き始める。まだ後ろに彼女がいる気がしなくもなかったが、振り返るのも億劫だ。

「元気でな」

 夕闇迫る坂道で、俺は一人、呟いた。

 風に吹かれて揺れている桜はまるで彼女が微笑んでいるようだった。

 桜が、咲いている。

 もう、春か。

 と思った矢先、冷たい風が吹き抜けていく。

 寒い。

 あれからもう二十年か。

 もう、大人なのだ。二十年もあれば高校生は社会人になり、幽霊は成仏する。

 良いことも沢山あったし、嫌なことも沢山あった。そのどちらかに分類することが難しいような出来事も沢山あった。

 太陽が山の端にかかり、夕焼けに満ちていた周囲が少しづつ夜に近づいてゆく。

 年を取ったものだ。

 坂の終わりは、まだ見えない。

                                     了

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老の坂 藍川 陸里 @imaginary_organ

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