にわかに外が騒がしくなった。

 大勢の人の足音がして、その中でひとりだけがこちらへやってくる。

 現れたのは白いローブを着た青年だった。

「ヘスチア様」

 私の横にいたおじさんが、慌ててお辞儀をする。後ろにいる検閲課のふたりも深々と頭をたれている。私は座りこんだままで、その見覚えのある顔に驚いていた。

(シン――?)

 目の前に現れたのは間違いなく、隣の部屋にいるはずのシンだった。

 珍しい水色の髪、うす茶色の瞳……いつもは笑っているその表情こそ今は硬いが、間違いなくシンだ。私はここ一週間、やつと一緒に共同生活してきたのだ、その顔を見間違えるはずもない。白い絹地に豪奢な金の刺繍入りのローブをひるがえすと、青年はシンとはまるで別人のように冷たく室内を見回した。

 その瞳が、部屋の最奥に留まる。

 シモンさんのいる方へ歩くその姿に、奥にいた検閲課の二人が慌てだした。

「お、おやめください! 危険です!」

「ヘスチア様、どうかおさがりを――っ」

 青年はすこしだけ首を傾けた。その仕草はシンとうりふたつだった。

「下がれ。問題ない」

「し、しかし」

「不要だ。

 下がれ、と言う口調は凍てつくような響きで、シンとはまるで似ても似つかない。シンならもっとふんわりと、やわらかな声で微笑みながら話すだろう。

 にこりともしない威圧的なその物言いに、ふたりは仕方なくひきさがった。

 じっとシモンさんの方を見つめる青年に、おじさんが後ろからおずおずと言う。

「ヘスチア様。近辺のソムニウム異常は彼が原因です。おそらく、バイポーラの泉を長く覗きこみ、その間にあれに遭遇したのではないかと……」

 青年は片手を挙げ、言葉の続きを制した。

 なにかを見つけたらしく、シモンさんの左手あたりへ手を伸ばすと、見つけたものを無造作につかみ取っている。わずかに残されていたシモンさんの腕の形が崩れ、バラバラとライムが数十個ほど転がり落ちた。苦しげに呻くシモンさんの声がして、私は耳を塞ぎたくなった。こちらへ転がってきたライムはすべて、以前はシモンさんの腕だったものだ。

「ヘスチア様、あまり衝撃を与えては死んでしまいます」

 思わず、といった風に他の人から苦言を呈されても、青年は表情ひとつ変えなかった。

 彼は今しがた拾ったばかりの白い紙片を、細めた瞳で見ている。

「構わん。どうせ長くはもつまい」

「し、しかし……まだ再生の余地もありますが」

「不要だ。それより、くじらは見つかったか?」

「い、いえ。まだ」

「探せ」

 ぽい、と興味をなくしたように捨てられたその紙が、ひらりとシモンさんの上に落ちる。

 そこには写実的に描かれたライムの絵があった。

 外へ出ていこうとした青年を、慌てたようにおじさんが引き止めた。

「お、お待ちください! ヘスチア様、いったいこれからどうされるおつもりです? このままではまともに絵を集めることもできません! それに、たとえ鯨が見つかったとしても、泉がこの状態では町が」

 青年はぴくりとも顔色を変えなかった。

「イルカを使え。残っているものをすべて出せ」

 絶句するおじさんを無視して歩いていたその足が、ふと私の前まで来て止まる。

 冷たい瞳で軽蔑するように見下ろしてくるその顔に、私はそれが確実にシンではないと実感した。

「これは何だ?」

 私の方を見て吐き捨てられた言葉に、検閲課の人たちの方が飛び上がった。

 慌てておじさんが寄ってくる。

「か、彼女はこの部屋の、隣の住人です」

「処分しろ」

「し、しかし」

「危険因子だ。お前ができないというのなら」

 青年はローブの袖から四角いなにかを取り出した。

 外側は青く塗られ、平たい箱のように角ばった形をしている。

 それがパラリと開かれて、そこに白い紙がたくさん束ねられているのを見て、私はそれがなにかようやく理解した。

(ひょっとして――「本」!?)

 はじめて目にした。噂には聞いていたが、まさか生きているうちに見られるなんて思いもしなかった。

 本とは、私たちが集める絵をもとに作られる最高級品だ。

 私はそれがどのようにして作られるのか知らないし、そもそもなんのためにある代物なのかもわからない。絵はエネルギーの源なので、本もなんらかのエネルギー体だとは思う。

(あれだけの絵を束ねているってことは、いったいどれだけの)

 あの本一冊で、この町が数か月稼働するだけのエネルギーになりそうだ。

 それを取り出し、私に向かって彼はなにかしようとしている。

 これはよくない。

 非常によくない。どころか、下手をすると殺されてしまいそうだ。

(どうして。なんで私が)

 喉がカラカラだった。

 青年の理不尽な行動も、この部屋で起きたことの意味も、まったく理解できないことだらけでムカムカする。

 逃げなければと思うのに、私の足はすくんでしまい立ち上がることもできない。

 なにかを言わないと。

 このまま何も主張しないで殺されるなんて嫌だ。

 喉から絞り出すようにして口をついて出たのはけれど、頭の中でそうして並べ立てたのとはまったく異なるひと言だった。

「シン」

 ぴたり、と青年の手が止まった。

 かすかに見開かれたうす茶色の目が、すぐに訝しげなものへ変わる。

「なぜ、知っている」

「え……?」

 ぼそりとつぶやいたその顔が、憎々しげに歪められた。

「俺の名を……40シン・ヘスチア・クーリエだと。さてはお前、?」

 私はなにも答えられない。

 言われている意味がわからなくて茫然としてしまう。

 しばらく眇めた目で睨んでから、彼は踵を返し外へ歩いていった。

 ひとつだけ、検閲課の人へ指示を残して。

「こいつを上へ連れてこい。検体房へ入れておけ」

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夢の破片は物語をかたち造るか? 冷世伊世 @seki_kusyami

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