四
にわかに外が騒がしくなった。
大勢の人の足音がして、その中でひとりだけがこちらへやってくる。
現れたのは白いローブを着た青年だった。
「ヘスチア様」
私の横にいたおじさんが、慌ててお辞儀をする。後ろにいる検閲課のふたりも深々と頭をたれている。私は座りこんだままで、その見覚えのある顔に驚いていた。
(シン――?)
目の前に現れたのは間違いなく、隣の部屋にいるはずのシンだった。
珍しい水色の髪、うす茶色の瞳……いつもは笑っているその表情こそ今は硬いが、間違いなくシンだ。私はここ一週間、やつと一緒に共同生活してきたのだ、その顔を見間違えるはずもない。白い絹地に豪奢な金の刺繍入りのローブをひるがえすと、青年はシンとはまるで別人のように冷たく室内を見回した。
その瞳が、部屋の最奥に留まる。
シモンさんのいる方へ歩くその姿に、奥にいた検閲課の二人が慌てだした。
「お、おやめください! 危険です!」
「ヘスチア様、どうかおさがりを――っ」
青年はすこしだけ首を傾けた。その仕草はシンとうりふたつだった。
「下がれ。問題ない」
「し、しかし」
「不要だ。俺も夢はみない」
下がれ、と言う口調は凍てつくような響きで、シンとはまるで似ても似つかない。シンならもっとふんわりと、やわらかな声で微笑みながら話すだろう。
にこりともしない威圧的なその物言いに、ふたりは仕方なくひきさがった。
じっとシモンさんの方を見つめる青年に、おじさんが後ろからおずおずと言う。
「ヘスチア様。近辺のソムニウム異常は彼が原因です。おそらく、バイポーラの泉を長く覗きこみ、その間にあれに遭遇したのではないかと……」
青年は片手を挙げ、言葉の続きを制した。
なにかを見つけたらしく、シモンさんの左手あたりへ手を伸ばすと、見つけたものを無造作につかみ取っている。わずかに残されていたシモンさんの腕の形が崩れ、バラバラとライムが数十個ほど転がり落ちた。苦しげに呻くシモンさんの声がして、私は耳を塞ぎたくなった。こちらへ転がってきたライムはすべて、以前はシモンさんの腕だったものだ。
「ヘスチア様、あまり衝撃を与えては死んでしまいます」
思わず、といった風に他の人から苦言を呈されても、青年は表情ひとつ変えなかった。
彼は今しがた拾ったばかりの白い紙片を、細めた瞳で見ている。
「構わん。どうせ長くはもつまい」
「し、しかし……まだ再生の余地もありますが」
「不要だ。それより、
「い、いえ。まだ」
「探せ」
ぽい、と興味をなくしたように捨てられたその紙が、ひらりとシモンさんの上に落ちる。
そこには写実的に描かれたライムの絵があった。
外へ出ていこうとした青年を、慌てたようにおじさんが引き止めた。
「お、お待ちください! ヘスチア様、いったいこれからどうされるおつもりです? このままではまともに絵を集めることもできません! それに、たとえ鯨が見つかったとしても、泉がこの状態では町が」
青年はぴくりとも顔色を変えなかった。
「イルカを使え。残っているものをすべて出せ」
絶句するおじさんを無視して歩いていたその足が、ふと私の前まで来て止まる。
冷たい瞳で軽蔑するように見下ろしてくるその顔に、私はそれが確実にシンではないと実感した。
「これは何だ?」
私の方を見て吐き捨てられた言葉に、検閲課の人たちの方が飛び上がった。
慌てておじさんが寄ってくる。
「か、彼女はこの部屋の、隣の住人です」
「処分しろ」
「し、しかし」
「危険因子だ。お前ができないというのなら」
青年はローブの袖から四角いなにかを取り出した。
外側は青く塗られ、平たい箱のように角ばった形をしている。
それがパラリと開かれて、そこに白い紙がたくさん束ねられているのを見て、私はそれがなにかようやく理解した。
(ひょっとして――「本」!?)
はじめて目にした。噂には聞いていたが、まさか生きているうちに見られるなんて思いもしなかった。
本とは、私たちが集める絵をもとに作られる最高級品だ。
私はそれがどのようにして作られるのか知らないし、そもそもなんのためにある代物なのかもわからない。絵はエネルギーの源なので、本もなんらかのエネルギー体だとは思う。
(あれだけの絵を束ねているってことは、いったいどれだけの)
あの本一冊で、この町が数か月稼働するだけのエネルギーになりそうだ。
それを取り出し、私に向かって彼はなにかしようとしている。
これはよくない。
非常によくない。どころか、下手をすると殺されてしまいそうだ。
(どうして。なんで私が)
喉がカラカラだった。
青年の理不尽な行動も、この部屋で起きたことの意味も、まったく理解できないことだらけでムカムカする。
逃げなければと思うのに、私の足はすくんでしまい立ち上がることもできない。
なにかを言わないと。
このまま何も主張しないで殺されるなんて嫌だ。
喉から絞り出すようにして口をついて出たのはけれど、頭の中でそうして並べ立てたのとはまったく異なるひと言だった。
「シン」
ぴたり、と青年の手が止まった。
かすかに見開かれたうす茶色の目が、すぐに訝しげなものへ変わる。
「なぜ、知っている」
「え……?」
ぼそりとつぶやいたその顔が、憎々しげに歪められた。
「俺の名を……
私はなにも答えられない。
言われている意味がわからなくて茫然としてしまう。
しばらく眇めた目で睨んでから、彼は踵を返し外へ歩いていった。
ひとつだけ、検閲課の人へ指示を残して。
「こいつを上へ連れてこい。検体房へ入れておけ」
夢の破片は物語をかたち造るか? 冷世伊世 @seki_kusyami
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