三
シモンさんの家の前には黄色い「立ち入り禁止」と書かれたテープが貼られていた。
検閲課の人は全員中に入ってしまったようで、外には誰もいない。家の扉は閉ざされている。
(よし……!)
気合いを入れ、ドアノブへ手を伸ばしかけたとき、私の目の前で扉が開いた。
中から出てきたのは白いだぶだぶのローブをまとった青年だ。まだ年若い、私と同年代だろう彼は生気のない表情をしている。その顔は青いというより白く、とてつもなく気分が悪そうだ。青年は戸外に人がいるとは思わなかったのか、私を見てぎょっとしている。
「あの……」
話しかけると、彼はハッとしたように私を押し戻そうとする。
「あーダメダメ、近寄らないでください。危ないんで」
「えっと、何があったんですか?」
「下がってください。とにかく、ここに近づいちゃダメです!」
ぐいぐいと私の肩を押してくるその勢いに抵抗しながら、私は部屋の奥を覗きこもうとする。部屋内は影になっておりよく見えない。しかし扉が開いた瞬間に、私はその異変に気づいていた。
(この匂い……ライムだ)
部屋のなかから強烈な柑橘の香りがする。扉を開けただけでこれなのだから、中はさぞかし匂うだろう。
「私、隣に住んでるんです! 何があったのか気になって」
青年はぴたりと動きを止めた。
「……隣? えっ、てことは貴方は」
私の肩から手を放し、ローブのポケットから小さな帳面を取り出して、彼はなにかのリストを指でなぞりはじめた。ようやく探しものにいきあったのか、「ああ」と強張った顔で頷いている。
「それじゃあ、あなたがこの部屋のお隣に住む……
「はい、アイカです。アイカ・376」
私は少しだけむっとした。人を識別番号で呼ぶなんて無礼きわまりない。
(わたしにはちゃんとアイカって名前があるのに)
人は産まれると同時に数字の識別番号を与えられる。私の「376」やカイの「
(人を番号で呼ぶなんて……やっぱり、検閲課は私たちを見下してる)
公的な書類には番号と名前の両方が記されているし、検閲課が私の名前を知らないはずはないのだが。それとも、彼の見ているリストには識別番号しか書かれていないのだろうか。じろりと睨んだこちらの剣幕に青年は口をへの字にしていた。彼はかぶっていた白いフードを外すと、ため息とともに頭をかいている。
「いや、申し訳ない。それどころじゃなかったというか、どうでもよかったというか……」
「どうでもよかった?」
「なにしろ、非常事態なもんで」
気だるげに息をつく彼は、非常に嫌そうに扉の脇へ身を引いた。
「アイカ・376さん。この部屋の住人のお隣さんですね。わかりました、中へどうぞ」
「え……入っていいの?」
のろのろと頷く青年は、いまにも倒れそうな顔色で気だるげに室内を見ている。
「何があったか知りたいんですよね? ご自分の目で確かめてみてくださいよ」
なんだかとても嫌な感じだった。けれど青年はそれ以上口を開く気はなさそうだし、部屋の中では複数名の検閲課の人の声もしている。ここから見える室内はなぜか薄暗く、中がどうなっているのかはっきり見えないのだ。
(どうしてこんなに暗いの?)
それは不気味な違和感だ。
私は開いた戸口に立っている。
けれど部屋のすぐ入り口のここからでも、数メートル先の中の様子が暗くて全然見えない――非常におかしなことだった。
たしかシモンさんの部屋はうちと同じで、それほど大きなつくりではないはずだ。
窓はないが、外へつながるこの扉を開けば当然、外の光が中へと入り込む。
それなのに扉を開けてなお、部屋の様子がうかがえないほどに中はうす暗い。
まるでそこだけ、空間がぽっかりと切り取られたかのようだ。
(どうして中の人たち、部屋の明かりをつけないのかしら?)
手元も見えない暗闇のなかで、彼らはいったい何をしているのだろう。
ちらりと青年の方を見ると、彼は青白い顔で口もとを押さえ、そっぽを向いている。顔色の悪さとも相まり、なんだか吐きたいのをこらえているみたいだ。私はしかたなく部屋の中へと一歩踏み出した。
「わっ……」
まず目に飛びこんできたのは光だ。
眩しい――数回目を瞬かせて、ようやく明るさに目が慣れてくる。
部屋には電気もついているし、天井の明かりも煌々と灯されていた。
外から見たときにはあんなに暗かったのに、中に入ってみるとそこは光で満ちている。室内の様子もクリアに隅々まで見える。
(外からは暗く見えたのに、どうして――……)
外と中の明暗の差。
そのことに驚く暇もなく、私の目にそれは飛び込んできた。
部屋中に広がる一面の緑の果実――緑、緑、緑、はてしなく転がっている。
それは大量のライムだった。
小さな果実が床の八割を埋め尽くし、部屋にあふれかえっていた。
クリーム色の机や赤いソファーのシルエットが緑の中に混じりかろうじて見えるが、大量のライムの海にそれらは埋没してしまっていた。これでは足の踏み場もない。
まるで誰かが部屋をライムで埋め尽くそうとして、天井から果実を大量に流し込み、それを途中でやめてしまったようだ。
部屋の最奥では山となった緑の果実が人の背ほどまで積みあがり、入り口の方へ向けてなだらかな坂状になっていた。
きつく立ちこめる柑橘の香り。
いまや刺激臭のように強くなったそれに、私は無意識に鼻を片手でおさえていた。
「あ、ちょっと! 勝手に入って来ちゃ困るよ」
入り口で茫然としていると、部屋の左からおじさんが近づいてきた。
年配のその男性は、外に立っていた青年と同じく染みひとつないだぼだぼの白いローブを身にまとっている――検閲課の制服だ。彼も検閲課の職員なのだろう。
私がなにか答える前に、入り口から青年が顔をひょっこりのぞかせ言った。
「僕が入れたんです。その人、お隣に住む376さんですよ」
「あー、そうかあ。隣の……そりゃぁ」
何かを言いかけて詰まらせたその先を、私はなんとなく「お気の毒に」ではないかと予想した。だっておじさんの顔にそう書いてある。
(どうしてそんな憐れむような目で――?)
同情するような視線をよこしてきたおじさんは、いたわるような口調になった。
「まだ若いのになぁ。まぁ、なんだ。アンタなら見てもいいが、見ない方がいいと思うぜ」
なにを、と問う必要もなかった。
おじさんの視線は部屋の最奥、積みあがったライムへ向けられていた。
そこには一段とうず高い緑の小山がある。
白いローブ姿の検閲課の人が二人、なだらかなライムの山すそのあたりでメモをとっていた。彼らの足元にも当然ライムが積もっている。
私はそちらへと歩いていった。
一歩踏み出した段階で、よけようもなく敷き詰められたライムを踏むことになる。
ぐじゅり、という音がしてフレッシュな香りが強まった。
足場に気をつけゆっくり歩く途中「そいういえば」と思い出した。
(あの小山ができてるところ。たしか、シモンさんの家のバイポーラの泉があったところだ)
以前この部屋へ遊びにきたとき、私はそれを目にしたことがあった。
どこの家にもあるバイポーラの小さな泉が、シモンさんの部屋の奥、その位置で青く燦然と輝いていたところを。
けれどいまそこにあるのは、私の目線よりもうず高く積まれたライムの山だ。
ちょうど泉があっただろう場所を頂点として、ゆるやかな緑の坂道となっている。
検閲課の二人はなにかを凝視していた。近づく私に気づく様子もなく、真剣な口調で話し合っている。
「生きてるのか?」
「どうだろうな。上の連中が生体サンプルをほしがるだろうが」
「運ぶのか? これを――街中を輸送して?」
「それはありえん。ソムニウム汚染が広がるのはまずい」
いったい何を見ているのだろう。
彼らの視線の先にはライムしかないのに。
私が後ろからそう凝視していた時だ――パチンと泡がはじける音がして、小山の中腹あたりから緑の果実がひとつ転がり落ちた。
ライムは丸いし、たくさんあるからバランスを崩し転がったのだろう。
そう思ったが、実際は違った。
ライムが転がってきた先にそれがあった。
はじめはそれが何か理解できなかった。
一瞬だけ遅れて理解すると、わかった瞬間に悲鳴を上げそうになった。
体が無意識に強張ってしまう。
検閲課のふたりの視線の先にあったもの、それは――。
「しかし上から人を呼んでも、間に合わないかもしれないぞ。せっかく生きているのに」
「構わない。間に合わなくても俺たちのせいじゃない」
「それもそうだな。このありさまじゃあ俺たちだって、おちおち夢も見られない」
「なんだそりゃ、はははっ。たしかに、俺たちは夢を見ないが……」
ひとりが話の途中でふと振り返り、私がすぐ後ろに立っていることに気づくと驚愕の表情を浮かべた。慌てて口を開きかけた彼がなにか言う前に、部屋の入り口から先ほどのおじさんが大声で事情を説明していた。
「ああ、いいんだ彼女は。この部屋のお隣さんだって」
「えっ、隣!? それは……運が悪かったですね」
私はそのやり取りをどこか遠くに聞いていた。
それまで歓談していたふたりの、憐れむような視線ですらも気にならない。
視界にはライムの山。
その真ん中、坂になっているところに緑に膨れ上がった人型がある。
頭、肩、胸、両腕と両足――ちょうど人が仰向けに横たわるような形で、ライムが不自然に盛り上がっているのだ。
砂浜で、誰かが砂人形を作るように。
緑色のそれはライムの一個一個を集めて作られた果実のオブジェのようだった。
それはシモンさんだった。
本来であれば肌色であるはずの皮膚はつぶつぶとしたライムの形へ細かく膨れ上がり、人の形をほとんど留めていない、輪郭だけがかろうじて残された状態になったシモンさんだ。見る限り服や毛髪はなく、指などの細かな形は崩れてしまっている。
それでも私がそれをシモンさんだと気づいたのは、顔の形が他にくらべるとまだ残されていたからだ。ボコボコと緑色に膨れ上がった顔の皮膚の中に、見慣れた鷲鼻と見開かれた両目が見える。同じくうす緑に変色してしまった唇の隙間から、ときおり微かに風の音がした。
瞼はすでになく、眼球だけが比較的白さを保っている。しかしそれも目の周辺からうす緑色に染まり始めており、瞳孔だけがやけに黒く見えた。
私が声もなく絶句していると、その両目がぎょろりと動きこちらを見た。
「ひっ……!」
得体のしれない男性の低い唸り声が、その緑の塊から漏れ出した。
白目の端から黄色い汁が流れ出す。その汁が、空気に触れたとたん泡のように膨れあがり、パチンとはじける。ライムがまたひとつ産まれ出た。コロコロと転がり落ちてくる。緑の果実はなにもない空間から突然に現れていた――否、シモンさんの体を溶かすようにして出きあがっていたのだ。
そしてシモンさんは生きている。
この状態でもたしかに意識がある。
私は後ずさろうとしてバランスを崩し、その場に尻もちをついていた。
床に積もっている固いライムの表皮が両手足に触れ、それすらも気持ち悪い。
「な、なにこれ。どうして……っ」
あれはシモンさんだ。けれど本当にシモンさんか?
だってあんな状態で生きていられる人間がいるなんて、信じられない。
「なんなのよあれ!?」
悲鳴じみた声をあげると、いつの間にかこちらへやってきていたおじさんが私の視界をふさぐよう、前にきてしゃがんだ。
「まぁ、見ればそうなるよな。大丈夫だ、落ち着けって。ほら、これをよおく見て」
そう言って目の前にかざされたのは金の懐中時計のようだった。
けれどよく見てみると、そのメモリは時間ではなく不思議な文字が書かれてある。
私はハクハクと息をしながら、目だけでその不思議な時計の針を追っていた。
「お、落ち着けって、言われたって、なんなのよあれは!?」
「お前のお隣さんだよ。シモン・138だ――ところでお前さん、最近バイポーラの泉を1時間以上覗いたことがあるな? そりゃいつだ」
「っ、な、な……私」
「いいから」
いきなりなんの話をしているのだろう。
私は動揺する頭で、機械的に記憶をさぐる。
(私が泉を1時間以上覗いたのは――そうだ、たしかシンがうちに来た日のことだったから)
「い、1週間前……」
「1週間前?」
おじさんはハテナ? と首を傾げた。
目の前にかざしていた時計を確認すると、ため息とともに立ち上がった。部屋の外にいる青年に向かって呼びかける。
「おい、
60と呼ばれた青年は、部屋の外から嫌そうに顔をのぞかせた。
「異常です。ふつうなら、もう溶けだしている頃です」
「だよなぁ。でもこいつは1週間か、へたすりゃそれ以上もってるぞ」
「とても興味深いですね。けれど、その話は後回しに」
そういった青年は、相変わらず気分が悪そうな顔色で口もとを押さえ、こちらへやって来た。彼が歩くたびにぐじゅ、ぶちゅと足元でライムがつぶれ、私は急激に吐き気をもよおした。
「なんだよ、どうした?」
「間の悪いことに……もしくは、とんだラッキーかもしれませんが、ヘスチア様が今日、偶然にも地下に降りていらっしゃいました」
「なにぃ? 地下のどこに」
怪訝と聞き返したその後ろで、先ほどまでライムに興味津々だった他のふたりもぎょっとした顔で振り返る。
すると青年は部屋の外へ視線をやって気だるげに言った。
「すぐそこに」
もうお見えになっています、と。
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