シモンさんにお礼を言いに行こう。

 そう思った矢先のことだった。

 なぜだか部屋の外が騒がしい――遠くからサイレンの音が近づいてくる。

 どこかで事件があったのかもしれない。すぐに通り過ぎるだろうと思っていたそれは、しかしどんどん大きくなり、やがてぴたりと止まった。

「え、あれ?」

(うちのすぐ前に……?)

 部屋には窓がないので、私はドアを少しだけ開いて、その隙間から様子を窺ってみる。

 家の前に止まった白いワゴン車には『検閲課』と黒字で大きく書かれてあった。

 車の上部で黄色のサイレン灯がクルクルと回り、辺りを眩しく照らしている。

「げ……」

 思わず扉を閉め、鍵をかけてシンを振り返った。

「やっぱり、なにかした!?」

「なんにもしてないよ。まだね」

 シンはライムを片手にオーバーに肩をすくめてみせた。すこぶる腹立たしいジェスチャーだ。

「じゃぁなんでうちに『検閲課』が来るのよ!? そ、それ。そのライムの件でしょ!」

 シンがなにか重大な犯罪に関わったにちがいない。

 あの大量のライムをお隣のシモンさんからもらったというのも、考えてみれば嘘かもしれないのだ。

(やっぱりこいつを引き渡すしかない! 大丈夫、私はなにも関係ないんだから)

 ひとたび『検閲課』に目をつけられたら、非常に厄介なことになる。バイポーラの泉の使用を禁止されたり、悪くすると逮捕されて強制労働所行きになってしまうのだ。

(私はなにもしてないのに! なんでこんなことに)

 もうだめかも、と怯えながらドアがノックされるのを待っていたが、しかし不思議なことにいつまで待っても『検閲課』の人はやってこなかった。

「お隣に行ったんだと思うな。ソムニウム値が異常だったから」

「そ、そむにうむ……なに?」

 シンはいつの間にか部屋に転がっていたライムを3個手にとると、それを器用にくるくるとジャグリングしていた。その視線は天井あたりに据えたままで「ほっ、ほっ」とライムを回しながら答える。

「夢の、破片だよ。人間ってのは、本当に欲のつきない生き物だよねぇ。僕、感動しちゃった」

「……」

 私は無言で足元にあった熊のぬいぐるみをシンの方へ思い切り投げつけた。

 柔らかなそれはシンの顔に命中し、空中で回転していたライムがバランスを崩してバラバラと落ちる。シンはきょとんとした顔になり、「うーん」と腕組みして唸りはじめた。

「きみ、いまとても怒ってるね。なんで?」

「ふざけないでよ。ちゃんと説明して」

「なにを?」

「っ、本当にこのライムは、シモンさんからもらってきた物なの?」

 シンはぽん、と手を打った。

「君は知らないんだね。だから理解できないんだ」

「は、はあ? 私にもわかるようにちゃんと、説明して!」

「『バイポーラは1時間以上覗いてはならない』」

 その言葉に思わずぎくりと身が固まる。

 ライムの話とはまったく関係のないその単語に。

 いきなり飛び出てきたそれは、バイポーラの泉を使用するにあたり検閲課から言い渡されている禁則事項だ。私は数日前にそれを破り、1時間以上泉を覗きこんだ――。

 シンはどこまでも澄みきった水色の瞳で、さしたる思惑もなさそうに訥々と続ける。

「それを破ったから、こんなことになったんじゃないかな。このあたりのソムニウム値が異常に高いのは、そのせいかもね」

「ちょっ……と待ってよ、どういうこと? じゃあなに。私がバイポーラの泉を1時間以上覗いたから――?」

 だから『検閲課』が来たというのか。

 泉を使うにあたっての禁則事項を破り、それが彼らにバレてしまったから?

(でもそんなこと、みんなやってるじゃない。それこそカイやシモンさんだって)

 そうだ、私だけじゃない。

 絵が取れないからとバイポーラの泉を覗き続けているのは、この辺りの住人ならみんな同じだ。そもそも私が禁則事項を破ったのだって、カイやシモンさんが先にそうしたと話を聞いたからだ。

(べつに問題なかったって。なにも起こらなかったって聞いていたから、大丈夫だと思って。だから)

「君じゃないよ。問題はシモンさんの方」

 けれどシンはさらに意味不明なことを口にした。ゆるりと憂うように首をふっている。

「どういうこと?」

「気になるなら隣に行ってみなよ。どうせ聴取のために彼らはここに来る。僕はここに隠れているから、君が外に行って、外で彼らと話してきて」

 シンの言う『彼ら』とは検閲課のことだ。もし本当にお隣でなにか事件が起きたなら、私の部屋にもいずれ事情を聞きにやってくるはずだ。シンはやはり検閲課が嫌いなようで、こそこそと布団の中にもぐりこみ始めている。私に外で話をしてこいというのは、シンが検閲課からわが身を隠したいがためだろう。

(検閲課が部屋に入ってきて、はちあわせるのが嫌なのね)

 クリーム色のシーツにくるまってしまったミノムシ男にむかって、私はもう一度足元にあった熊のぬいぐるみを思いきり投げつけてやった。

 ふかふかのそれがぽてりと奴に命中して、あえなく床に転がる。つぶらな熊のぬいぐるみは文句をたれるように私を見ていた。シンはシーツの中に丸まったまま、眠る体勢になってしまいぴくりとも動かない。

「もういい、わかった!」

 そうだ、最初からわかりきっていたことだ。

(こいつと話してもらちが明かないんだった! どうせ意味不明なことしか話さないんだから)

 こうなったら直接、自分の目で確かめに行くしかない。隣に行き、検閲課の人に何があったのか話を聞くのだ。私は腹に力を入れて覚悟を決める。

「よし……大丈夫」

 こういうときにカイがいてくれればと思ってしまうと、すこし悲しい。

 けれどカイはとっくに地上へと引っ越したし、私はこれまで通り、そしてこの先もずっとひとりで生き凌いでいくしかない。すでにいない者に頼ることはできないのだ。

(私は誰にも頼らない。現実だけを見て、今この瞬間だけをやり過ごすのよ)

 ずっとそうして生きてきたのだから。夢すら見ず、欲しいものですらできるかぎり切り捨ててきた――それが私だ。

「だから君は、平気なんだね……」

 シンがぼそりと呟くのが聞こえたが、無視する。

 私は部屋の扉を開け、お隣のシモンさんの家へと向かった。

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