2. 4つのイドラを崩してはならない

 シンがうちに住むようになって、不思議と物が増えた。

 先日、地上へ引っ越していったカイが「自分にはもう不要だから」と置いていったものを、シンがこれ幸いとなんでもかんでも譲りうけたせいだ。

 衣類や寝具、生活備品はなるほど、増えても仕方ない。

 たとえ一週間という短期間であれ、私の家にはひとり分のベッドや布団、生活備品しかなく、シンがここに泊まるとなればもうひとり分それらが増えるのはわかる。

 それにしても、だ。

(なんでこんなに物が増えたんだろう?)

 絵の換金から帰宅し室内を改めて見て、私は首を傾げてしまった。

 私の部屋には左手にベッド、右手に台所と木の簡易テーブル・椅子が二脚、そして最奥にはゆらめくコバルトブルーのバイポーラの泉があるだけだった。

 それが今や、部屋の真ん中にはなぜかブラウン管テレビがでんと置かれてあり、そのまわりにはシンがどこからか拾ってきたぬいぐるみや玩具、お菓子などが散乱していた。そして何より私の目を引いたのは――。

「……ライム?」

 部屋中にたちこめるほんのりとした柑橘系の香り。その発生源がなぜか部屋に二個ほど転がっている。

 この部屋を汚した張本人はといえば、ブラウン管テレビの前に座りこみ、その画面を食い入るように眺めながらライムをそのままかじっている。

 後ろへ回りこみテレビの画面を見てみると、今日もシンは白黒映画の古典劇を呆けたように鑑賞していた。

「ちょっと、いい加減に部屋片付けてよね――――って」

 ふと視線を壁際にやったとき、とんでもないものを目にして思わず声が途切れた。

 バイポーラの泉のすぐ縁に、大きな竹籠に山盛りにされた大量のライムがあったのだ。

「なに、これ……」

 おそるおそる近づいてみる。

 どこからどうみても、それは大量のライムだった。

 竹籠は両手にもつものではなく背負うタイプで、おとぎ話の「おじいさんは山へ芝刈りに」に出てくるような、大人でもすっぽりと入れるサイズだった。そこにライムがみっちりと、あふれんばかりに入っているのだ。

 思わず喉がなった。

 緑のその視覚的暴力に自然と身が引けてしまう。

 果物はかなりの高級品だ。

 市場ではサプリメントや膨張食以外の「生の」食品は割高で取引される。

 私がライムを買うことはまずないし、普段食べているのもひと口でおなかいっぱいになる膨張食の「パン」や、最低限必須のサプリメントなどだ。

 けれどシンは時々、そういった高級品を自身で買ってくることがあった。

 彼のポケットにはまだいくつか絵が残っていたようで、それを売っては市場でかってに物を仕入れてくるのだ。

 だから部屋にいくつかライムが転がっていても、私は気にしなかっただろう。

 シンがまたぞろ無駄遣いを派手にしたなぁとは思うが、それは彼のお金なので私に口出しする権利もない。しかしこれは、この量は――。

(いくらなんでも多すぎるでしょ!?)

 竹籠の中のライムは絵の1枚や2枚では払いきれないほどに大量だった。

 これだけの量となると市場でも買えないだろうし、私でなくとも、誰が見ても絶句するはずだ。

(最近は生鮮食品ローフードなんて、市場でもあんまりお目にかかれないのに)

 地下に降りてくる物品はそもそもが少なく、加えて昨今のエネルギー不足で市場はどこも品薄だ。大量の生鮮食品はどこの店にも置かれていないはずなのだ。

「ちょっと、シン。これ……」

 私がじゃっかん青ざめながらライムの入手先を問おうとした先で、シンはすっくと立ち上がった。かじりかけのライムを片手に掲げ、テレビでちょうどやっていた古典劇の王子の真似をして、天を仰ぎ奴は呻くようにひとこと。

「ああ、人は食欲を前にしては無力!」

「どこかから盗ってきたの……?」

 ため息をつく私にシンはようやく気がついたとでもいう風だった。無邪気に目を丸くしてふんわりと笑う。

「あれ? お帰りー。どうしてそんなに呆れた表情なの?」

「呆れてない。脱力してるの」

「ふうん……ああ」

 ぽん、と手を打ったシンは思い出したように気取ってまたひと言、

「4つのイデアが崩れ、この世界は崩壊するであろう――!」

「どうでもいいけど」

 最近はずっとこの調子で、シンはテレビのもの真似ばかりしている。

 モノクロチックな古典劇がことのほかお気にめしたようで、仰々しい王子のポーズで片膝をおり天を仰ぎみては、意味不明なセリフを発作のように吐き出すのが彼の日課となっていた。

「あー……」

 私は眉間をもんだ。

 もう嫌だ、という気持ちとため息が混じり、唸り声になる。

 完璧にシンの存在を無視してしまいたい。しかし最低限必要なことは聞く必要がある。

 この大量のライムはどうしたのか。

 ことと次第によっては、今度こそ本当にこいつを『検閲課』へ突き出すことになる。

 シンはライムをまたひと口かじり、くぅと酸味をかみしめるような顔をしてから良い笑顔で、私へおかわりを要求するようにそれをつきだした。

「まずい! もう一杯!」

「やめんか。じゃなくて、そのライムどうしたの?」

「あ、食べる? たくさんあるけど」

 シンがさらりと示してみせたのは竹籠に入った大量のライムだ。

(いやだから、たくさんあるのはわかってるけどさ)

 私はかなりげんなりしながらも、ここ最近シンと会話する中で学んだコツを思い出していた。

(そうだ、こいつと話すときは言葉を明確に、わかりやすく繰り返さないと通じないんだった)

 なぜかはわからない。

 けれどシンとは上手くコミュニケーションがとれないことがあるのだ。

 言葉の意味のすれ違いや揚げ足取り、同じ会話の堂々巡りなど――思い出しても腹が立つが、シンと話していると時おり意思疎通がうまくいかなくなるのだ。そういったときには繰り返し、明確なセンテンスで意志を伝える必要がある。

(つまり根気が必要なんだけど)

 私はそれが苦手だ。すぅと息を吸い、静かに言う。

「シン。そのライム、どうしたの?」

 シンはライムを手のひらに乗せた。それをいかにも崇拝している風に掲げる。

「うーん。そは洞窟のイドラが生めし欲の果実なり! ……なんてどう?」

「…………うん、もう一回聞くね。シン。そのライム、どこで手に入れたの?」

 シンはきょとんとこちらを見て、ライムの匂いを嗅ぎ目を細める。水色の綺麗な瞳が柑橘の匂いにうっとりと潤んでいる。

「知覚の崩れたはざまから――あ、大丈夫。食べても問題はないから」

 だめだこりゃ。

 私はそうそうにシンとの会話を諦めた。

 しかたなくバイポーラの泉の方へ歩いていって、竹籠にこんもりとあるライムを眺める。

(どうしたもんかなこれ……)

 見つめているうちにまぁいいか、と私の中で誰かがささやいた。

 シンがこれをどこから持ってきたのかしらないが、こっそり食べてしまえば誰にもばれないだろう。なにしろライムなんてそうそう食べられるものじゃないし。

なんとなく犯罪の香りがするところだけが不気味だが。

「あ、そうだ。シモンさんにも分けてあげよう」

 私はその思いつきに名案だと手をうつ。

 シモンさんはうちの右手に住むお隣さんだ。この地下に長らくいるご老人で、御年七十歳。周辺では長老のように崇敬を集める人徳者だ。私も困ったことがあるとよく彼に知恵を借りていた。そうだ、シンのことと合わせて彼に相談すればよかったのだ――そのついでにライムも分けてしまおう。

(シモンさんならうまい解決方法を教えてくれるはずだわ)

 私がそうして2、3個ライムを手にしたところで、シンが怪訝と聞き返してきた。

「シモンさん? それって隣に住んでる人のこと?」

「……そうだけど」

 ようやく通じた会話に今度はなんだ、と振り返った先でシンは合点がいった風に頷いた。

「それ、全部シモンさんからもらったんだ。残念なことにさ」

 シンが「それ」と示したのは大量のライムである。

「え、そうなの?」

 私はすこしほっとした。

(なんだ、シモンさんからもらった物なら、最初からそう言ってくれればいいのに。でもそれのなにが残念なの?)

 シンはゆるりと首を振る。その顔は「諦めろ」とも「可哀想に」ともつかない微妙な表情で、私にはその憐れむような感情の意味がわからない。理解できない。けれどシンはいつだってそういう風だったし、感情だってつねに私とはでこぼこでちぐはぐなのだ。

「シモンさんに会いに行くなら、急いだ方がいいよ」とシンが言う。

 それはまるで死刑宣告するような口ぶりで、けれど言葉の意味は不明だしどこか浮世離れしているようで、私にはシンの様子がひどく滑稽に思えた。

「なんでよ? まぁ、これを本当にもらったんなら、お礼を言わなきゃだけど」

「溶けて還元する。無意識のなかに」

 少しずつだけど、とシンは言う。

「ほころび始めているんだ。僕も君も、シモンさんも」

 ――そしてこの世界も。

 重々しく頷くシンは裁決をくだす裁判官のように神妙な顔つきだった。

(またテレビのもの真似か)

 うっとうしいことこの上ない。

 シンの言うことは、私にはなにひとつとしてわからないのだ。 

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