後編

(さて、夜もけたし、そろそろ休むとするか)

 エイボンは安楽椅子から腰を浮かせ――鈍い痛みに、眉をしかめる。この世に生を受けて、すでに百三十年。さすがにもう、自分も若くないと実感する。

 私室に戻る途中、ツカサに与えた部屋の前を通る。ドアの隙間から、明かりが漏れていた。最近では、修行のかたわら、独自の研究もしているらしく、毎晩遅くまで、屍獣脂の蝋燭ろうそくから火を絶やさない。

 弟子入りから、一年。ツカサは、すでに一人前と呼べる腕前になっていた。普通なら、十年は掛かるところを、だ。

(来年辺りは、独立のことも考えてやらねばならんな)

 エイボンの苦笑は――寂しげだった。

 父と師と彼女と死に別れ、大勢の弟子を送り出してきたが、未だに別離の痛みには慣れない。

(サイクラノーシュに旅立つ決心が着かんのも、要するに――)

 寂しいからだろう。この醜くも美しい、愛しき世界と別れるのが。

 自分が去った後、自分を覚えている人々すら死んだ後、この世界には残るだろうか。

 自分が生きた証が。

(世の王侯貴族が、城だの彫像だの墳墓だの、大袈裟な物を建てたがるのも、そのせいかもしれんな)

 覚えていて欲しいのだ。己が生きていたことを。百年後には、皆、氷河の下に飲まれる運命だと、薄々分かっていても。はかない抵抗をせずにはいられない。

 だとしたら、自分も彼らと変わらない。

(どうも、歳のせいか――)

 感傷的になっていけない。本でも読んで落ち着こうと、書庫に向かう。

 書棚を巡っていると――。

(おや?)

 膨大な蔵書のリストは、全て把握している。だから、すぐに気付いた。

 見慣れない本が、紛れ込んでいる。

 何の獣か判然としない皮で装丁そうていされており、題名はBook of Eibon――見たこともない文字だ。

 ぱらぱらとめくってみるが、思った通り、ページは同じ文字で埋め尽くされており、さしものエイボンにも全く読めない――。

(! これは――)

 捲る手が止まる。そのページは、半分程を挿絵が占めていた。

 エイボンが、とてもよく知るものが描かれていた。

 ぎいい、背後の扉が開き。

「あっ、お、お師匠様――」

 ツカサが狼狽ろうばいしているのを見て、エイボンは瞬時に悟った。

「これは、そなたの物かな」

 この文字は、おそらくツカサの故郷で使われているものなのだろう。

「す、すみません。うっかり、この本と取り違えちゃって――」

 彼が狼狽しているのは、しかしそんな理由ではない。なぜなら、挿絵のページが開かれているのに気付いて、ますます狼狽を激しくしたから。

 見られてはいけないものだったに違いない。

「無用心だぞ。モルギ辺りに見られたら、異端審問に掛けられ兼ねん」

 それは、羽のない蝙蝠とも、太った蛙とも判別できない姿だった。

 そう、サイクラノーシュへの扉に刻まれた浅彫りとそっくりだ。

 ――そして、扉の贈り主自身の御姿にも。

「しかし、驚いたな。異国の書物で、ツァトゥグァの御姿を見ようとは」

 ツァトゥグァ、またの名をゾタクア。

 聖なる蟇蛙ひきがえる、暗黒の深淵をべるもの。

 かの神がサイクラノーシュからこの星に降臨したのは、遥か太古であるという。ちょうどその頃、絶頂期を迎えていた蛇人間の文明が、忽然こつぜんと断絶してしまっているのは、おそらく無関係ではない。

 人には理解し難いその神性を崇拝すうはいするのは、主に野蛮なヴーアミ族であり、人の間でその信仰が広まったことはない。あらゆる異教の神を、邪神と断じ排するイホウンデー教の台頭で、その機会はますます減っている。

 若き日のエイボンは、ある出来事から、かの神の現在の居住地が、魔の山ヴーアミタドレスであることを知った。運命に対抗する力を求めていた彼は、若者らしい無鉄砲さで魔の山に挑み、かの神との邂逅かいこうを果たしたのだ。

 己の信仰がすたれてひさしいというのに、ツァトゥグァはまるで頓着とんちゃくする様子もなく、ひたすら惰眠だみんむさぼっていた。だが、そんなツァトゥグァにも、好奇心というものはあったらしい。

 己の眼前に現れた、奇妙な訪問者に興味を示したかの神は、エイボンに取引を持ちかけた。自分の飢えと好奇心を満たしてくれるならば、宇宙の神秘を教えようと。

 それ以来、エイボンは大量の供物くもつと土産話を捧げに、ツァトゥグァの御座を度々訪れた。褒美に授けられたかの神の教えが、エイボンを後に大魔道士の地位に導いたのだ。まさに、彼のもう一人の師匠と呼ぶべき存在だ。

 そして、長年の奉仕の証として贈られたのが、あの扉なのだ。

 そんな、ツァトゥグァとの切っても切れない関係を、この弟子は何故か――。

「知っておったのだな、最初から」

 万が一にもイホウンデー神官達の耳に入らないよう、ツァトゥグァの御名は限られた高弟の前でしか口にしてこなかったというのに。

「私に弟子入りしたのは、ツァトゥグァの力を求めてのことか」

「はい――すみませんでした、黙っていて」

 かの神の名を出すと、警戒されると思ったらしい。

 なるほど、他のどの魔道士でもなく、エイボンに弟子入りする必要があった訳だ。一部が解けると、次の謎も芋蔓いもづる式に解けていく。

 すなわち、何のために。

「敵――でもおるのか」

 項垂れていたツカサが、はっと顔を上げる。

 手掛かりは、すでに与えられていた。

『お師匠様、逃げて下さい! こいつの狙いは、僕なんです!』

 そう、ツカサは必要としているはずなのだ。

 運命と戦うための力を。

「やっぱり、お師匠様はすごいなぁ――」

 ツカサの弱々しい笑みは、すぐに消え――。

 残ったのは、沈痛な表情。

「ええ、おっしゃるとおりです。僕には、敵がいるんです。とてもとても、強大な敵が――悔しいけど、人間の力では敵わない。対抗するには、どうしてもツァトゥグァの力が必要なんです」

 ツカサの“敵”。

 彼の運命が、どのような形態を取っているのかは分からないが、いずれにせよ、この弟子はまさに――。

(若き日の私と、同じ道を辿ってここへ来たのだ)

 一を教えれば、十も二十も学んでしまう。その驚異的な歩みは、持って生まれた才故と思っていたが。

 あるいは、己に課した、使命のせいでもあったのかもしれない。

(私が代わってやることは――)

 理由は分からぬが、できないのだろう。そうでなければ、説明が付かない。ツカサの双眸に宿る、くらい覚悟の輝きの。

 かつての自分へ――

 ――老いた自分がしてやれることは、唯一つだ。

「よかろう。準備が済み次第、ツァトゥグァに会わせよう」

「お、お師匠様――」

 ツカサは、目を丸くしている。

「――信じてくれるんですか、ずっと黙っていた僕を」

 苦笑するエイボン。確かに答えは言わなかったが、手掛かりは山程出していただろうに。しかし、それを言ってしまっては、ツカサも立場がなかろうから。

「ああ、信じるとも」

 いい話ということで、まとめておくエイボンであった。

(まあ、確かに――)

 感涙に咽ぶツカサをなだめながら、しかし思う。

(かつての自分を疑いたくは、ない)


 *


「うひゃああ」

 一気に五百エルもの眼下に遠ざかる大地、ツカサは師匠の旧友の羽毛をしっかりと掴んだ。

 途端に上がる、ギャッともグエッともつかない奇声。

「あっ、ご、ごめんなさい、痛かったですか?」

「心配するな、久し振りの遠出で興奮しているだけだ」

 シャンタク鳥。

 異界から、時空を越えて飛来するという魔鳥。

 広げた長さ五エルに及ぶ翼、煉獄れんごくの風景を思わせる極彩色の羽、馬を醜悪化させたかのような面構え。

 見上げる者達に、恐慌を巻き起こさずにはおかないであろう、彼を――。

「ふむ、こうしていると、昔を思い出すな、ファラアポントゥスよ」

 エイボンは個体名で呼び、友として扱っていた。

 彼との出会いについては省略するが、若かりし日のエイボンの足となって、王国中を飛び回ったものだ。

「初めてあそこに行った時も、そなたの背に乗ってであったな」

 エイボンが見つめる先には、王国を南北に分断するエイグロフ山脈が、城壁の如く聳えている。

 その中でも、頭一つ抜きん出ている最高峰こそ。

「魔の山、ヴーアミタドレス――ツァトゥグァ様は、あそこに――」

 ツカサの肩は、緊張で強張こわばっている。無理もない。

 死ぬかもしれないのだ。

 考え直せ等とは、エイボンは今さら言わなかった。ツァトゥグァの眼前に立つ危険性は、十分説明した。何せ、相手は神だ。本来、人など下僕か餌としか見做みなさない。

 エイボンに示したような好奇心を、ツカサにも示す保障はない。もし、そうなれば――彼に向けるのは、好奇心ではなく食欲かもしれない。

 そう聞かされても、ツカサの覚悟は折れなかったのだ。

「まあ、そう硬くなるな。私の紹介なのだ。ツァトゥグァとて、そう無碍むげにはすまい」

「そ、そうですよね」

 弟子の緊張をほぐそうと、あえて気楽そうに言ったが。もしかの神がツカサを生贄に要求してきたら、長年の聖恩をあだで返すことも辞さない覚悟だった。ふところに忍ばせた、流星召喚の巻物の感触を確かめる。

 ファラアポントゥスの翼は、ぐんぐんヴーアミタドレスとの距離を縮めていく。やがて、その山頂付近に走る、巨大な亀裂が見えてきた。

 迷わず、その暗黒の深淵に飛び込んでいく。

「う、うわわ」

 ツカサが、慌てて頭を引っ込める。

 ごおおとうなりを上げて過ぎ去る岸壁に、しばらくすると異変が現れた。

 くすんだ灰色だった壁が、異様な色合いに染まり、果ては生き物の内臓のように、ぐにゃぐにゃと変形し――。

 次元の揺らぎだ。

 ツァトゥグァは、ヴーアミタドレスの地下に住まう。その表現は、正確ではない。かの神の御座は、この亜空間通路の彼方にあるのだ。時空を越えて飛べるファラアポントゥスの翼でなければ、時空の狭間はざまに囚われ兼ねない。

 だからこそ、有り得ないはずの訪問者エイボンに、ツァトゥグァは興味を示したのかもしれない。

 ファラアポントゥスが、ようやく地面に降り立つ。そこは、果てしない暗黒の空間だった。

 古文書が記すその名は、暗黒世界ンカイ。怠惰たいだな神が創造した、寝心地良い揺篭ゆりかごの世界。

 二人がかかげる魔力光の周囲以外は、一面の闇だ。

 にも関わらず、分かる。

 感じる――それが放つ、圧倒的な存在感が、この広大な闇を満たしている。

「よし、急ぐぞ」

「は、はい」

 二人はファラアポントゥスの背から、用意してきた供物を下ろす。急ぐ理由は他でもない、ぐずぐずしていると、ツカサを供物だと勘違いされる恐れがあるからだ。

「我が神ツァトゥグァよ! 供物を受け取りたまえ!」

 真闇やみの虚空に木霊こだまする、エイボンの請願に応えて。

 びゅおうッ!

「!?」

 桃色の疾風、としか形容できない現象と共に、供物が消え失せる。山のような食用竜の肉とスヴァナ果、王宮の宴にすら耐えられそうな量が、一瞬で。

 ――なぜ、今まで気付かなかったのか。

「こ――これが――」

 人の存在に気付かず、その足元をうろつく蟻のように。

 相手があまりに大きいと、かえって見過ごしてしまうものなのか。

「ツァトゥグァ様――!?」

 ンカイの主は、最初から二人の前にいた。

 羽のない蝙蝠とも、柔毛に覆われた蛙ともつかない――サイクラノーシュへの扉や、Book of Eibonに描かれた似姿は、まずまず正確なものだったようだ。

 小山のような大きさと、それが放つ威圧感以外は。

 にやにや笑いを浮かべているようにも見える口が、もぐもぐと動いている。それを見て、ツカサにはようやく分かったようだ。あの大量の供物は、伸縮自在の神の舌に巻き取られて、その無限の胃袋に消えたのだということに。

 死ぬかもしれないという師の忠告を、今こそまざまざと実感しただろう。あの舌が、自分に伸びてきたら――大人しく食われる以外、何ができよう。

 だが、真におそれるべきは、舌などではなかった。

 固く閉じていた――おそらく、数年前エイボンが訪れて以来――神の瞼が上がり始める。

「――――!」

 その下から現れた双眸は、蝙蝠のそれでも蛙のそれでもなかった。

 この星に存在する、そしてかつて存在した、いかなる生物にも似ていなかった。なぜなら、そこには知性の深みがあったからだ。それも、人には到底理解し得ない、異界の知性だ。

 その目は、全て知っていた――。

 星々の合間を満たすエーテルの潮流も、惑星シャッガイを襲った悲運も、数万年に渡ってヴーアミ族から捧げられた祈りの内容も、この星に生命が生まれた顛末てんまつも、サクサクルースより続くサイクラノーシュの神々の系譜けいふも。

 そして、たかだか数千年の人類の歴史も。

 神の目は、全て知っていた。

 彼が怠惰なのも、むべなるかな。あまりに多くを知りすぎてしまった、神の退屈故なのだ。

「あ――あ――」

 全知の目が、自分を見つめている。

 ツカサの儚き魂は、その無限の深みにすうと吸い込まれ――。

「くっ――!」

 ――る、寸前で、辛うじて踏み止まる。

 弟子は見事、気絶も発狂もしなかった。

 この一年で身に付けた知識と、己に課した使命を、支えにして。

(これなら――)

 すっくと立つ弟子の姿に、期待が確信へと変わる。

 ツカサなら、できる。

「我が神よ、聖なる眠りをさまたげることを、しばし許し給え!」

 エイボンの目配せを受け、ツカサは膝を震わせながらも、師の背後から歩み出る。

 その様子を、ツァトゥグァは眠たげに見つめていた。が、それが奇跡に等しいことを、エイボンは知っている。例えるなら、人が、舞い散る木の葉の一枚に注目しているようなものだ。

 だが、自分はその一枚になったのだ。

 ならば、ツカサにもできるはずだ。この、大いなる謎を背負った弟子なら。

 神の退屈を、紛らわせることができる。

「私はもう十分、貴方の恩寵おんちょうに浴した! 此度こたびの供物の報酬は、我が弟子にお与え下さい!」

 エイボンの請願を、聞いているのかいないのか。ツァトゥグァは微動だにしない――。

「う!?」

 先に変化を現したのは、ツカサだった。頭を抱えて、膝を付く。

「あ、頭の中に何かが――」

「落ち着け、ツァトゥグァがそなたの心を探っているのだ。正直に思い浮かべるのだ。かの神に、何を望むのかを」

 心の内をいじられるという慣れない感触に、焦点を失っていたツカサの瞳が、次第に澄んでいく。ツァトゥグァの全てを映す目とは対照的な、しかしその深みはよく似ている目。

 二対の双眸が、いかなる合わせ鏡の無限宇宙を見ているのか。

「僕は――」

 我知らず漏らした、ツカサの呟き――と呼ぶには、あまりに強い決意を秘めた、その声に応えるように。

 ツァトゥグァのねじくれた指が放った光が、ツカサを撃った。

 思わず懐の巻物を探ったエイボンの手は、しかしすぐに思い留まる。

 彼は無事だった。

 その手首には、いつの間にか腕輪がはまっていた。

 黄金とも銅とも付かない、ぬらぬらとした赤い輝きを放つ金属製の――そう、サイクラノーシュへの扉と同じ材質。おそらく、ツァトゥグァが自らの力を物質化させて創造した――。

 ――崇拝者との、契約の証。

「あ、ありがとうございます、ツァトゥグァ様!」

 何度も頭を下げるツカサに、怠惰な神はごろりと寝返りを打って応えた。

 つまり。

「成功か」

「はい! 力を貸して下さるそうです!」

 神との交渉は、時間は短くとも、密度はとてつもなく濃かったに違いない。ツカサは思わずよろめき、師の腕に支えられる。

 支えてやれるのは、これが最後だろう。

(ついに、現れたか――)

 ツァトゥグァとの契約。彼の魔道の、究極奥儀を受け継ぐ者が。他の弟子達も優秀だったが、ここまで辿り着いたのはツカサだけだ。

 聖なる惰眠を再開したツァトゥグァを、仰ぎ見る。自分がサイクラノーシュへ行くのを躊躇っていたことも、この神はお見通しだろう。

 その長い耳が、ぴくりと動く。

 それだけで、十分通じた。神の粋なはからいに感謝する。

(ええ、これで私も――)


 *


 翌日。

 二人は、葡萄ぶどう酒をかわわしながら談笑していた。

「あの時は傑作であったな」

「え~、ひどいなぁ」

 出会ってからの、短くも濃い一年。その間の出来事を、取り留めも無く――そんな二人は、師弟というより、歳の離れた友人のようだった。

 そして、エイグロフの頂から、月が顔を出す頃。

 葡萄酒の最後の一滴が――。

 尽きた。

「――――」

「――――」

「――行くのか」

「――はい」

 そう、これは旅立つ弟子との、別れの酒。

「何のお礼もできなくて、ごめんなさい」

「礼なら、十分してもらった」

「え?」

「そなたの謎――もう、一生退屈せずに済みそうだ」

 とぼける師に、ツカサも微笑みを返す。その表情は、出会った頃より、随分と大人びている。

「とっくに、解けているんじゃないですか?」

「さて、どうかな?」

 その後――。

 大地から天へ上る流星を、エイボンは一人館の窓から見送った。

 これで、もう思い残すことはない。自分の魔道は、ツカサが歩んで行ってくれる。自分には、決して辿り着けない地平の向こうまでも。これで、いつでもサイクラノーシュに旅立てる――。

 いや。

(そうだ――)

 その前に、一つだけ、やっておかなくてはならない仕事ができた。エイボンは、書庫に急いだ。

 

 *


 それから一年後。モルギ率いる異端審問団の襲撃から逃れるため、エイボンはサイクラノーシュへと旅立った。以降、彼の姿が、この星で見られることはなかった。

 さらに百年後。ハイパーボリアの大地は押し寄せる氷河に呑まれ、その輝かしい歴史に幕を降ろしたのだった。

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 そして、百万年後――。


 *


 ツカサは一人、南太平洋上にたたずんでいた。

 百万年前、師に別れを告げた時の姿のままで。

「ここが――」

 知識としては知っていたとは言え、始めて見るその光景に息を飲む。

 つい数日前までは、一面の海が広がるばかりだったそこは、今や異界と化していた。

 見渡す限りの、石造建造物群。それを構成する線に、一つとして真っ直ぐなものはない。およそユークリッド幾何学きかがくを無視した動きで、うねり、のたうち、からまり合い――その合間から、うみのように緑の粘液をしたたらせている。

 狂気の画家が呪いを込めて描いた抽象画か、四次元の立体を無理矢理三次元上に展開した数学モデルか、進化の樹から大きく外れた畸形きけいの生物の躯か。

 どれでもない。

 何と驚くべきことに、これは都市なのだ。

 ルルイエ、この地を聖都とする者達は、そう呼ぶ。

 地響きが、ツカサをよろめかせる。

 地震にしては、おかしい。揺れ幅が妙に規則正しく、しかも徐々に大きくなる――。

 それが足音であると、推測できる人間は、おそらくツカサだけだろう。

「来た――!」

 それがいるのは、まだ数キロメートル先、この異形の都の中心部だ。

 にも関わらず、その巨体は、十分目視できた。

 覚悟はしていたとは言え、ツカサの全身に震えが走る。肉体を構成する細胞全てが、拒絶反応を起こしている。逃げたい、あんな存在の側には、一秒たりとも居られないと。ツァトゥグァの目を覗き込んだ時とは、また別種の恐怖。

 髭のように触手を生やした顔――広げれば空を覆い尽くすであろう羽――一枚一枚がテニスコート程もある鱗――ああ、何と婉曲えんきょくな表現。これでは、髪の毛一本、爪一枚から、人の姿を説明するようなものだ。

 有史以来、人類が思い描いてきたあらゆる悪夢、その醜悪にして芸術的な集合体。それが触手、羽、鱗をそなえて実体化した――いや、それも違う。その姿は、人の矮小わいしょうな脳が捻り出す悪夢など、遥かに超えている。

 だが、神も悪夢にうなされるとしたら。

 例えば、あんなものを夢見てかもしれない――。

「大いなるクトゥルフ――」

 ツカサがその名を呟く。肉体を引き千切ってでも逃げようとする己が細胞を、意志の命令で踏み止まらせながら。

 狂える詩人アルハザードの手なる魔道書ネクロノミコンは記す。かの神が地球に降臨したのは、三億五千万年前。自らに従う眷族けんぞくと共に、太平洋上に浮かぶ大陸に降り立ち、奇怪ながらも壮麗な文明を築いた。

 だが。

 ある時クトゥルフは、聖都ルルイエの霊廟れいびょうで永い眠りに付いた。目覚めを願う眷属達の願いは届かず、やがて大地の変動でルルイエは沈下し始め、かの神諸共もろとも、海底へと消えていった。

 その後、魚類が陸に上がって両生類になり、やがて恐竜の時代が始まり――ようやく、我々が一般に知る“地球の歴史”が始まったのだ。

 しかし――。


 That is not dead which can eternal lie, and with strange aeons even death may die(そは永久とこしえに横たわる死者にあらねど、測り知れざる永劫のもとに死を超ゆるもの)


 ネクロノミコンにかの連句を記したアルハザードは、全て知っていたに違いない。

 数億年の眠りが、かの神にとっては、束の間の休息に過ぎないことを。

 201X年、X月X日――。

 その一報をもたらしたのは、チリ海軍の戦艦だった。南太平洋、南緯47度9分、西経126度43分地点に、それまでなかった島を発見したと。

 報告は、その後間もなく途切れる。島に広がるルルイエの光景と、霊廟から起き上がるクトゥルフを目にした、乗組員の断末魔の絶叫を最後に。

 それは、終わりの始まりを告げる、黙示録の号令となった。

 かの神が数億年ぶりに行った奇跡は、高さ数百メートルの津波で、世界地図の海岸線を一変させることだった。おそらく、留守中に自宅に沸いた、ゴキブリを駆除する程度のつもりで。この段階で、人類の総人口が二割減った。

 内陸部も無事ではいられなかった。クトゥルフが放つ思念波は、地球の裏側までも届き、人々を狂気に陥らせた。刃が、銃弾が、核ミサイルが、殺戮さつりくのための殺戮を撒き散らし、人類の総人口はさらに減った。

 そして、世界の海に散っていたクトゥルフの眷属達が、再び神に仕えるため陸に戻ってきた。あの御方の手をわずらわせてはならぬとばかりに、瓦礫がれきで身を寄せ合う生き残りの人々を、念入りに虐殺し始めた。

 人々は悟らざるを得なかった。自分達など、眠れる神が見ている夢の如き、儚い存在に過ぎなかったことを。

 夢は、目覚めと共に消える定め。

 ――だとしても、諦められないのは、人の強さか未練がましさか。いずれにせよ。

 ツカサ――三須角大学人類学部二年生、戸神司とがみつかさもまた、諦めることができない一人だった。

 戸神家の書庫には、数々の魔道書が並んでいた。三須角大学で教授をしていた、亡き祖父が集めた物だ。かつては人類学や宗教学の資料でしかなかったそれらは、今やれっきとした実用書であることが明らかになった。

 人類の、矮小な世界観の外から来た神。それに対抗する術は、外なる世界のことわりを記した、魔道書の中にあるのではないか。そう考えた司は、必死で難解な外国語と格闘した。

 そして、ついに一筋の希望を見出した。

 Book of Eibon――エイボンの書。

 伝説の魔法文明ハイパーボリアで名をせたという、大魔道士エイボンの手なる魔道書。その中に記されていた、奇怪なその名。

 ツァトゥグァ――暗黒のンカイでまどろむ、神。

 そうだ、神に抗し得るのは、同じ神のみ。何とかして、ツァトゥグァを味方に付ければ――。可能性はある。現に、エイボンはかの神と親交を結び、恩寵をたまわっていたと、書には記されているではないか。

 しかし、問題があった。

 百万年もの歳月を、翻訳に次ぐ翻訳によって渡ってきたエイボンの書。その内容には、あちこちに欠落があり、ツァトゥグァに関する記述も例外ではなかった。神を味方に付けると言っても、具体的に何をすべきかはさっぱりだ。

 掴みかけたわらが、手をすり抜けていこうとした、その時だった。

 いつも身に付けているお守りが、何かに共鳴するように震えだしたのは。

 それは、精緻な細工が施された、純銀製らしき鍵で、祖父の遺品だった。

 そう言えば――幼い頃、祖父が話してくれたのを思い出した。これは、魔法の鍵。空間の鍵穴に差し込んで回せば、時空の扉が開き、持ち主の望む場所・時代に連れて行ってくれるのだと。

『ただし、司にとって、本当に必要な時が来るまでは使えない。だから、いつも肌身離さず持っておくんだよ――』

 そうだ、確かに祖父はそう言っていた。もしや、今がその時なのか。

 その瞬間、司に天啓が下った。

 望む場所・時代に連れていってくれる――ならば、大魔道士エイボンが生きるハイパーボリアにも行けるのではないか。そうだ、ツァトゥグァを味方に付ける方法なら、エイボンに直接教わるのが一番ではないか!

 何と突飛な発想、我ながら笑ってしまう。

 だが。

 神が実在するなら、奇跡だって起き得るのではないか。

 自嘲の笑みは、一瞬にして意味を反転させた。すなわち、この後に及んで、常識などにしがみ付いていた自分に。

『信じるよ、お祖父ちゃん。魔法は――在るよね』

 司は、銀の鍵を手に取り、目の前の空間に差込み――。


 かちり。


 回した瞬間、彼は確かにその音を聞いた。

 果たして、扉は開いた。

 あらゆる空間・時間と隣接する、混沌にして空虚の超時空への。

『う、うわああああああ!?』

 燃える氷山が、稲妻の結晶体が、唸りを上げてかたわらを通過していく。だが、危険は未分化エネルギーの奔流ほんりゅうだけではなかった。

 悪意の異臭をき散らしながら迫る、緑の目。

『ティンダロスの猟犬――!』

 時空の旅は、か弱き人の身には、あまりに過酷な試練だった。

 猟犬の牙から逃げながら、司は必死で目を凝らした。時の闇と、空間の霧の彼方に――見えた。百万年前、永遠の氷河に呑まれ消えた、魔法の王国。

 大魔道士エイボンの故郷、遥かなるハイパーボリア。

 あそこへ! あの時代へ! 司は激流に逆らう小魚の如く、死に物狂いで手を伸ばし――。

 そして。


「エ、エイボン様、僕を弟子にして下さい!!」


 *


 司は天を仰いで、祖父に報告する。

「お祖父ちゃん、魔法は確かに在ったよ――」

 自分は見事、大魔道士エイボンの弟子になって、ここへ戻ってきたのだから。そう、終わりの始まりの地。201X年、X月X日、浮上した直後のルルイエへ。

 記憶が確かなら、チリ海軍の戦艦がここを発見するのは、約半日後。それからいくらも経たない内に、終わりが始まる。

 つまり。

 今なら、まだ間に合う。運命を、変えられる。いや、変えなければならない。

「――――っ」

 司は拳を握り締める。真っ白になるぐらい、強く。

 運命がこの後用意している、悪趣味極まる“未来”を呪って。

 幼い頃亡くなった両親の代わりに、自分を育ててくれた祖父は、津波に飲まれる。優柔不断な自分を、いつも叱咤激励しったげきれいしてくれた親友達は、狂乱して殺し合う。

 そして、こんな自分を愛してくれた女性は。

「――――っ!」

 クトゥルフの眷属に襲われ。

「――――っっ!!」

 司君大好きよと、笑顔で言いながら。

 腕を食われ足を引き千切られ腹を裂かれ内蔵をぶちまけさせられ目玉を飛び出させられ頭を割られ脳味噌をちゅるちゅるちゅるちゅる@%#※k――。

「うわあああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああ――――――――――――――――っっっ!!!!!!!!!!!」

 来させない。

 あんな未来、絶対に。

 廃墟と化した街を一人彷徨さまよいながら、何度絶望しかけたことだろう。もう嫌だ、自分も早く皆の所へ行きたいと、暗い泥濘でいねいに身をゆだねかけた。

 そうしなくて、本当に良かった。

 激情の涙で濡れた双眸で、迫り来るクトゥルフを睨み付ける。相手は自分のことなど、気付いてもいないことは、百も承知でも。

「確かに、お前は大いなるものかもしれない――お前に比べたら、僕達なんか虫ケラでしかないのかもしれない――でも、お師匠様はこう言ってたぞ――ありの掘った穴が、巨大な堤防を崩すこともあるんだって!」

 右手を、天に突き出す。そこにはまっている腕輪を、奴に見せ付けるように。

「我が名は戸神司、大魔道士エイボン最後の弟子――虫ケラの力が、どれ程のものか! その寝惚ねぼまなこかっ開いて、よぉぉぉく見やがれぇぇぇぇぇぇぇぇ――――――っっっっ!!!!!」


 *

 

 それから、百万年と百一年前。

 だが、超時空的には同時刻。

 黒片麻岩の館の書庫で。

 エイボンは、最後の仕事に取り掛かっていた。

〈我はミラーブの息子エイボン。我は暗黒世界ンカイにて神と見えた。その名はツァトゥグァ――〉

 飛竜皮の紙に、烏賊墨に浸けた筆でつづる。自らの魔道の記憶を。

 Book of Eibon――あの本をたずさえ、いつか自分の元へやって来る、未だ生まれてもいない弟子のために。

(ツカサ――我が最後の弟子よ。人の未来を――!)


 *


 悠然としたクトゥルフの歩みが――止まった。

 ルルイエの建造物群を、砂ほこりのように舞い上げながら起き上がった、その姿を目にして。

 さすがの神も、動揺しているに違いない。さあ、これからだというところに、突然立ち塞がられて。

 同じ神に。

「見たか、これぞ魔術――運命にあらがう、人の力だ!」

 肩に乗せた司に同調するように。

 ツァトゥグァの全知の目が、カッと開かれる。おそらく、サイクラノーシュから降臨して以来の、完全な覚醒。

 炎の神が住まうという恒星フォーマルハウトの如く、ぎらぎらと輝いていた。自分がちょっと昼寝している隙に、人という絶好の退屈凌ぎを根絶やしにしようとした、あの生意気極まる新参者に、怒り心頭に発して。

 地が揺れる。

 空がざわめく。

 神と神と人の戦い。この星の歴史が始まって以来の、激震の予感に。

 司は、懐の感触を確かめた。そこに忍ばせたエイボンの書を通して、きっと届くと信じて。

 願う。

「お師匠様、サイクラノーシュから、見守って下さい――!」


【参考文献】


 クトゥルフ神話カルトブック エイボンの書(新紀元社、C・A・スミス、リン・カーター/著、ロバート・M・プライス/編、坂本 雅之、中山 てい子、立花 圭一/訳)


 ラヴクラフト全集2(創元推理文庫、H・P・ラヴクラフト/著、宇野 利泰/訳)より『クトゥルフの呼び声』


 暗黒神話大系シリーズ クトゥルー5(青心社、大滝 啓裕/編)より『ティンダロスの猟犬』(フランク・ベルナップ・ロング/著)

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最後の弟子 上倉ゆうた @ykamikura

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