中編

「ミクト、シュブクァル、ブオ=ノーア――」

 ツカサは、霧の海の只中にいた。彼の立つ岩場が突き出している以外は、全く平板な無色の世界だ。

「我、嘆願たんがんす――現世のことわりを越え――我が誓約せいやく――夢幻境へささぐ――」

 色だけでなく、音もない。ツカサの詠唱する呪文以外は、完全な無音――いや。

何かが、聞こえる。ばさばさという――羽音?

「大いなる深淵しんえんの大帝の騎士よ、霊峰ングラネクの庇護ひご者よ、夢幻境の虚空を駆る翼よ――」

 ツカサの呪文に応えるように、羽音は徐々に近付いてくる。やがて、分厚い霧のカーテンに穴が開き――。

 差し込む月光に浮かび上がる、黒い影。

「出でよ、夜鬼ナイト・ゴーント――――!」

 全体としては、人に近い。しかし、その表面はなめらかな漆黒の皮膚に覆われ、背中には、蝙蝠を思わせる翼を広げている。

 だが、何より奇怪なのは、その顔だ。

 何が奇怪って――何もないのだ。目も口も鼻も。それは、のっぺりとした黒い平面に過ぎなかった。それにも関わらず、ちゃんと己の召喚者を認識しているようだった。

 はっと我に返るツカサ。同時に、霧の海――彼の心象が作り出した、夢とうつつを分かつ境界の風景は消え去り、現実の風景が戻ってくる。月光に照らされる館の庭、その中心に描かれた五角の星。

 ただ一つ。

「や、やった――」

 ツカサの召喚に応じて現れた、有翼の黒い影だけは、変わらずそこにいる。

 夜鬼。人々の夢が織り成す世界、夢幻境の夜空を飛び交うという魔物。一説には、深淵の大帝と呼ばれる存在に仕えており、豊かな夢を生み出す人間を守護するよう、命じられているのだという。

 その為か、召喚者に忠実で、魔物としては御し易い部類に入る。

 とは言え。

「よ、呼び出せましたよ、お師匠様!」

(入門して一ヵ月で、ここまでぎ着けるとは――)

 自分には、魔術の才能がないのではないかと、案じていたツカサ。

 とんでもない。

 “童心に帰る”ことで、鮮明な心象を描くという裏技に加え、幼い頃から魔道書に親しんでいるせいで、理解の素地が出来ており、複雑な呪文も魔方陣も、すんなり覚えられる。

 彼は、まさに生まれながらの魔道士だった。

「それ、試しに、何か命じてみるがよい」

「は、はい、それじゃあ――」

 ツカサのおずおずとした命令に応え、夜鬼がたくましい腕を差し伸べる。

 そして――。

「うわぁぁ――!」

 二人を背に乗せ、夜鬼は翼を羽ばたかせる。たちまち小さくなる館。視界をさえぎる物が眼下に去り、全方位に開ける展望。北に広がる白き大地は、極北のポラリオン。南にそびえるのは、王国の屋根エイグロフ山脈か。

「ありがとうございます! お師匠様のご指導のお陰です!」

「いいや、この力強い翼は、始めからそなたの背にそなわっていたのだ。私は、その動かし方を教えたに過ぎん」

 びょうびょうと吹きすさぶ風が、ツカサの黒髪をなびかせる。この新しい弟子は、今、自らの翼で、未知という名の大空に飛び立とうとしている。

 館に戻った後、エイボンはツカサに位階を授けた。見習いとは言え、これで彼も、正式な魔道士である。普通なら、一年は掛かる道程だ。早過ぎるとは思わない。彼の実力は相応ふさわしいものだし、これで驕って、道を誤るような男ではないと信じている。

 位階の証に授かった黒の長衣に、大喜びで袖を通すツカサを見つめながら、エイボンは深く深く問い掛けていた。

(そなたは、その翼でどこへ行こうとしているのだ――?)

 その謎は、あるいはサイクラノーシュの真実以上に、深遠なのかもしれない。


 *


 エイボンは、風の噂に耳を傾けていた。

 文字通りの意味で。

 館の屋上に描かれた、風精の魔方陣。その中心に立つエイボンの耳には、王国中でささやかれる噂が、風に乗って運ばれて来ているのだ。この術のおかげで、彼はこの館にいながらにして、執政官並に王国の情勢に精通していた。

 彼は、ある単語が含まれる噂を、特に重点的に聞いていた。

 ――イホウンデーをたたえよ! イホウンデーは偉大なり!

 ――ズスの街にも、イホウンデーの神殿を――。

 ――やれやれ、イホウンデーの神官様方には逆らえん――。

 エイボンは、ふさふさした眉をしかめた。思った通り、イホウンデーの教団は、ますます勢力を拡大しているようだ。

 旧王都コモリオムの崩壊、ヴァルダナクス皇帝の急逝きゅうせい――暗殺という噂もある――、そして、じわじわと進む氷河の侵攻――相次ぐ危難に、人々はすがるものを求めているのだ。

 いや、違う。別に、父の仇め許すまじ等と思っている訳ではない。もう昔の話だし、第一教団の人間全てが、父をおとしいれた訳ではない。

 ただ、少し悔しいような気は、した。

(所詮、魔術で人を救うことなどできぬか――)

 その時。

 エイボンの首から下がった護符が、ぶるぶると震えだした。

(ツカサの身に、何かが?)

 護符には、彼の黒髪が編みこんである。本体に何らかの危険が迫ると、こうして知らせてくれるのだ。

 ツカサは、今、あの村に買出しに行かせている。

 弟子入りして、すでに三ヵ月。その間、彼も、エイボンの共で、何度か村に通っている。最初は気味悪がっていた村人達とも、今ではすっかり打ち解けていた。エイボンの保障付きだし、何より彼の人柄は、ちょっと会話すれば、まあすぐ分かることである。

 だから、村人との騒動とは考えられないのだが。

 ふと、嫌な予感が、脳裏をぎる。

(よもや、運命の奴が――)

 これまでの、運命の手口を思い起こす。そうだ、奴はまず、大切な人達からさらっていく。

 そして、今度はツカサを? エイボンの表情が、にわかに険しくなる。

(それだけは――)

 許せない。

(ぐずぐずしてはおれんな)

 久し振りに、彼の力を借りるべき時かもしれない。エイボンは、虚空に向かって、その名を呼んだ。

「出でよ、ファラアポントゥス!」

 その響きが消えるより早く、羽音が黒片麻岩の館に近づき――。


 *


 それから、僅か数分後。エイボンは村外れにいた。

 久し振りだったが、“旧友”の翼は衰えていないようだ。

「ご苦労だった、もう帰ってよいぞ」

 エイボンのねぎらいに返ってきたのは、ギャーッともグエーッともつかない奇声だった――心配してくれているのだと理解できる者は、この世でエイボン唯一人だろう。

 運命が、手薬煉てぐすね引いて待ち構えているかもしれない。確かに、同行してもらいたいのは山々だったが、さすがに村が大騒ぎになるだろう。何とか説き伏せ、エイボンは一人村の門を潜った。

 焦りを押し殺して、まず村人に話を――聞くまでもなかった。広場の騒ぎは、嫌でも目に付いた――何だか、最近、この村は平穏に縁がない。

 おろおろと顔を見合わせる村人達。

 そして、彼らの素朴な服装とはあまりに対照的な、けばけばしい一団。

 金糸銀糸で飾り立てた法衣姿と、その護衛であろう、装飾過剰な鎧の兵士達。そいつらが自慢気に被っている、鹿の角を模した額冠サークレットに、彼は忌まわしい程に見覚えがあった。

(イホウンデー教団の連中か)

 ご苦労にも、こんな辺境にまで進出を図っており、神殿建築の計画もあるらしいと、以前村長から聞いていた。あるいは、その下見にでも来たのかもしれないが。

 何故、ツカサを取り囲んで、槍を突き付けているのか。

 しかも。

(やっかいな奴がいるな)

 法衣姿――一団を率いる神官の顔を見て、ますます眉間のしわを深めるエイボン。

「あっ、エイボン様! た、大変なんです。お弟子さんが――」

 びくっ! 村人達の口から出た名に、そいつは一瞬、背中に緊張をみなぎらせ――。

「これはこれは、大魔道士エイボン殿。このような所で、奇遇ですなぁ」

 ――しかし、振り返った顔には、意地でもそんな内心は浮かべまいとしている。

 傲然ごうぜんと天を指す太い眉。法衣の下の腹は、脂肪だの我欲だの様々なものを溜め込んで膨らみ、猛禽もうきんを思わせるぎょろっとした目は、絶えず相手の急所を探っている。

 まあ、一度見たら、忘れられない容貌ではある。

「モルギ殿、我が弟子がどうかしたかな?」

 異端審問官次席、教団の勢力拡大の急先鋒として知られる男だ。

 以前、オッゴン=ザイの街で進めていた強引な改宗運動を、エイボンにくじかれて以来――ほんの、意趣返しぐらいのつもりだったのだが――、彼を目の仇にしているのだ。

(どうやら――)

 嫌な予感が、的中したようだ。運命は、今度はこの男を、刺客に仕立て上げるつもりらしい。

 だとしたら――。

(この男も、災難だな)

「ふん、どうしたもこうしたもない!」

 まさか、同情されている等とは夢にも思わず。モルギは、傲然と背を聳やかす。一方、護衛の兵士達は、あからさまに腰が引けている。思わずツカサの包囲を解きかけ――上司に睨まれ、慌てて槍を構え直す。

「見よ、この男の異様な風貌を! 魔性の者が化けておるに違いないぞ!」

「ち、違います! 僕は人間です、信じて下さい!」

「ほう、では証明してみせよ」

「しょ、証明と言われても――」

「できまい? では、信じる訳にはいかんなぁ」

 異端審問官モルギお得意の論法だ。この手口で、教団の敵に異端の嫌疑を掛け、排除するのが彼の役目なのだ。

 だが、彼の真の敵は、もちろんこんな若造ではなく――。

「しかも、聞けば此奴こやつ、貴殿の弟子などと申しておるではないか! 大魔道士エイボンともあろう者が、よもや気付かなかった訳ではあるまい。魔性の者と手を結ぶなど――イホウンデーの審判は、何者に対しても公平であるぞ?」

(なるほど、そう来るか)

 モルギも、何も本気で魔性の者云々等と言っている訳ではあるまい。狙いは、あくまでエイボンなのだ。たまたま村で見かけた風変わりな若者が、憎きエイボンの弟子と聞いて、こんなことを思い付いたのだろう。

(さて、どうしたものか)

 単に、この連中を排除するだけなら簡単だ。緑の崩壊の術で、腐ったジャムに変えようが、ナスの谷から大妖虫ドールを召喚して一飲みにさせようが、どうにでもなる。

 だが、そんなことをすれば、教団全てを敵に回すことになり兼ねない。

(それに――)

 苦笑するエイボン。自分でも不思議なのだが、この男のことが決して嫌いではないのだ。まあ、喧嘩友達のようなものか。

 彼にとって、敵と呼べるものは唯一つ。運命だけだ。

 ――その時。

 異様な刺激臭が、一同の鼻をいた。

「!? な、何だ、この匂いは――」

 否、それは匂いなどではない。たかが匂いで、村人や兵士達はともかく、エイボンやモルギまでもが、この状況で気をらすだろうか。

 それは、悪臭と脳が錯覚する程――

 ――濃厚な、悪意だった。


 *


「ま、まさか――」

 真っ先に反応したのは、なぜかツカサだった。

「い、いけない! みんな、逃げて!」

「こ、こら、大人しくしろ――え!?」

 ツカサを取り押さえようとした兵士が、絶句する。

 愛用の槍の穂先にまとわり付く、得体えたいの知れないものに気付いて。

 黒い、もやのようだった。

 しかし、その主成分は水蒸気などではない。なぜなら、それは――。

 蠢いていた。脈動していた。生きていた。

 そして、にごった緑の目をかっと開き、周囲に悪意の衝撃波を叩き付ける。

 ねたましい、と。

「う、うわああああ!」

 兵士が、槍を放り出して逃げ出す。村人達も後に続き、広場はたちまちがらんと空いた。その間、黒い靄は、空気力学を完全に無視した動きで、逆巻き、膨張し、り固まり――。

 四本足の、獣のような形に成っていく。

「こ、こら、逃げるな!」

「――モルギ殿、そなたも逃げた方がよいぞ」

 エイボンの忠告に、しかし皮肉の響きはない。真剣そのものだ。

「お、おのれ! イホウンデーの神官に歯向かうか!」

「勘違いするな。その魔物は、私が召喚した訳ではないぞ」

「な、何?」

「――こいつを召喚することなど、誰にもできはせん」

 召喚とは、魔物との契約である。魔物が欲するもの――餌であったり、術者の魔力であったり――を代償に、奉仕ほうしを約束させる。だが、こいつには代償を払うことが不可能なのだ。なぜなら、こいつが欲するものは――。

 唯一つ、人間の命だけだから。

「ティンダロスの猟犬――」

 悪夢からにじみ出てきたかのような色合い、別の生き物のようにうねる長い舌、そして緑の目に漲る暗い渇望かつぼう。犬との共通点など、四本足であることぐらいしかない。この魔物が猟犬と呼ばれるのは、外見ゆえではない。

 彼らは、この世界が属する時間軸の、外側の領域にひそむとされる。普通なら、遭遇するはずもない存在なのだ。

 だが、魔道士は別だ。彼らは、様々な目的、手段で、時の壁を乗り越えんと試みる。水晶玉で未来を見通し、秘薬で過去を幻視し――そんな彼らの目が、運悪く猟犬の緑の目と、視線を合わせてしまうことがある。

 そうなれば、奴はたちまち、不運な魔道士を標的に定める。なぜそうするのかは、知られていない。一説には、不浄の存在であるが故に、人の持つ純潔さを妬んでいるのだとも言うが。

 ただ確かなのは、その執拗さだ。奴は決して獲物を逃さない。どこまでもどこまでも追ってくる。まさに、うさぎを追い詰める猟犬の如く。

 それが、奴の名の由来だ。

「GROOOOOOッ!」

「ひ、ひいっ!?」

 エイボンに背を向けるのを躊躇ちゅうちょしていたモルギも、ついに耐えられなくなって逃げ出す。

 しかし、猟犬は彼には目もくれず――。

(! やはり――)

 ツカサを目指している。

 そうだ、猟犬が現れる直前、彼は確かに言った。

『ま、まさか――いけない、みんな逃げて!』

 狙われる心当たりがあったのだ。

(よもや――いや、間違いない)

 護符が知らせたツカサの危機は、モルギ達などではない。

 こいつのことだったのだ。

(しかし、なぜツカサが?)

 水晶占いや、幻視の術は、まだ教えていない。では、自分に秘密で、身に付け、り行ったのか。書庫には出入り自由だし、ツカサなら独学もできるのでは――。

 いや、それはない。できたとしても、この馬鹿が付くぐらい正直な弟子が、それを自分に隠しておけるはずがない。

 では、なぜ?

 分からない。しかし、これだけは言える。

 ツカサのこの受難は、自分の運命に巻き込まれたせいではない。

(この男もまた――)

 運命と、戦わされているに違いない。

「くっ!」

 ツカサが、黄玉トパーズをあしらった短杖を構える。エイボンが、護身用に持たせている物だ。

「アハト!」

 起動の呪文と共に 黄玉から黄金の稲妻が走り、猟犬を狙う。

 だが、稲妻がその汚らしい表皮を薙ぐ寸前。

 猟犬は、さっと黒い靄と化して宙に溶け――一瞬後、今度は村人が落としていったすきから、黒い靄が吹き上がる。

 カッと開く緑の目が、嘲りをたたえている様に見えるのは錯覚か。

「だ、駄目か――」

 猟犬が潜む、外側の領域。そこは、こちら側とは、物理法則すら異なる世界だという。しかし、僅かに共通する概念もあるのだ。

 それが“角度”、特に百二十セス以下の鋭角だ。

 その僅かな共通概念を門として、猟犬はこちら側にやって来る。逆に言えば、百二十セス以下の鋭角さえあれば、奴はこちら側のどこにでも現れることができるのだ。

 ゆえに、武器を振るっても当たらず、密室に立て篭ったとしても、部屋の角から、黒い靄が噴出すのを目撃するのみ。

 逃げられず、あらがえず。

 ティンダロスの猟犬、その名は絶望と同義語。

「お師匠様、逃げて下さい! こいつの狙いは、僕なんです!」

 こんな時でも、ツカサは正直だった。エイボンは苦笑しつつ、長衣の袖を探る――そう、彼は弟子を猟犬の餌にくれてやる気など、さらさらなかった。

(猟犬に襲われて生き延びた人間は、史上唯一人――かのエイノクラだけだそうだが)

 ならば、自分が二人目になれば済むことだ。

 その程度の覚悟、あっさり決めさせてくれる程度には――。

 この弟子は、興味深い。

 エイボンが袖から取り出したのは、水晶球だった。その内部には、ここでないどこかが映し出されている。

 薄暗い場所で、ほのかに輝く魔方陣――。

「アハト!」

 起動の呪文と共に、水晶球は透明に戻り。

 その内部に映し出されていた魔方陣が、猟犬の足元に現れる。

 そう、この水晶球は、あらかじめ描いておいた魔方陣を、周囲の空間ごと取り込み、必要に応じて瞬時に呼び出せるのだ。

 そして使用後は、再収納することも出来る――。

「GYRUッ!?」

 さしもの猟犬も、予想外だったらしい。慌てて魔方陣から離れようとするが、時すでに遅し。

「ウクスナ!」

 ぐにゃり、空間が歪み、魔方陣と共に、その忌まわしい姿が消える。

 辺りに、静寂が戻ってくる。

「え?」

 あっけない結末。一見すると、そう見えたかもしれない。

「無事か?」

「は、はい。でも、あいつはどこへ――」

「安心するがよい、ここにおる」

 差し出された水晶球を見て、ツカサが息を飲む。

 猟犬の緑の目が、大写しになっていたのだ。

「三ヵ月かけて準備した、ファロール召喚の陣だったのだがな。まあ、諦める他あるまい」

 つまり、魔方陣の再収納に、巻き込んでやったのだ。こういう使い方もできるとは、たった今思い付いたのだが。

「い、いけません、お師匠様! こいつは、すぐに出て来ますよ!」

「それはどうかな?」

 エイボンの言うとおり、猟犬は魔方陣の上をうろうろするばかりだ。一向に、黒い靄に戻って――外側の領域に一時退避して――、水晶球から抜け出す気配はない。

「ど、どうして――あ、そうか!」

 水晶球の内部は、曲面の空間。百二十セス以下の角度など、どこにもない。故に、猟犬はもう出られない。

 見事、エイボンはエイノクラに続いたのだ。

「すごいなぁ、さすがはお師匠様――」

 あの絶望的状況を、ほんの一瞬のひらめきで切り抜けた師を、ツカサは尊敬の眼差まなざしで見つめ――はっと、表情を強張こわばらせる。

 それに気付いているのか、いないのか。

「ところで、茶は買えたのか?」

「は、はい」

「ご苦労だったな。では、館に戻ろうか」

「あ、あの――」

「ま、待てエイボン!」

 何か言いかけたツカサを、いち早く戻ってきたモルギが遮る。そういえば、こいつがいたと慌てるツカサとは対照的に、エイボンは悠然と振り返る。

「どさくさに紛れて逃げるつもりか!」

「弟子の疑いなら晴れたであろう? 魔性の者が、魔物に襲われるはずがあるまい」

 そう来るか。酢でも飲まされたような顔になりながらも、モルギは必死で食い下がる。

「き、貴殿の自作自演ではないのか!?」

 生憎だが、この反論も予想していた。エイボンは、すかさず答えた。茶目っ気たっぷりに。

「ほう、では“証明”してもらおうか?」

「――――」

 モルギが無言になる。

 名状しがたい金切り声と、地団駄を踏む音が聞こえてきたのは、二人が村を出てからだった。


 *


 館への帰途、師弟はずっと無言だった。

 ツカサは口を開きかけては中断し、エイボンは――腕を組んで、考え事をしている。

「あ、あの、お師匠様!」

 ついに耐えられなくなり、ツカサが声を張り上げる。

かないんですか――どうして、ティンダロスの猟犬なんかに狙われたのかって」

 苦笑するエイボン。つくづく隠し事のできない男だ。

「どうしても言いたいなら聴くが、できれば言わんでくれ」

「え?」

「せっかく、興味深い謎に出会ったのだ。もうしばらく、考えていたい」

 エイボンは振り返らなかった。声も素っ気無い。

 しかし、師の背中を見つめるツカサの顔からは、徐々に後ろめたさが消えていく。春の陽射しが、しもを溶かしていくかのように。

 後に残ったのは、照れ隠しの笑みだった。

「分かりました。じゃあ、言いません」


 *


 それからも、エイボンはツカサを導き続けた。

 地水火風の精霊を喚起かんきする呪文も、防壁の魔方陣の描き方も、宝石に魔力を付与する技術も、万物溶解液の調合法も、ゼシュの密林の植生も、狡猾こうかつなファロールのあしらい方も、天の星々の運行も――。

 無限に雨を吸い込む大地の如く、ツカサは尽く吸収していった。

 教えるのが、楽しくて仕方なかった。そんな時エイボンは、サイクラノーシュのことさえ忘れていた。

 そして、ツカサも。

「できましたよ、お師匠様!」

 目を輝かせて、そう言う時は、きっと――。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る