最後の弟子
上倉ゆうた
前編
ハイパーボリア――
永遠の氷河に埋もれし、失われた大陸
百の魔道士が術を振るい、千の奇跡が
彼の地が
神官は
ハイパーボリア――北風の向こう側
*
「カー、レギ、トゥーラ――目覚めよ、火精――」
エイボンの呪文に反応して、火の紋様を刻まれた炉が起動する。紫色の炎に照らされて、実験器具が
太陽系を模した測時盤の目盛りが、きっちり三つ進んだ瞬間を見計らって。
「オルグ!」
炉の炎を止める。
そして、すかさず鍋の中で沸き立つ、赤い液体を――。
――ヴァラード焼の茶器に注いだ。
「うむ、やはりアボルミス茶は、エイグロフ山脈の雪解け水で飲むに限る」
さすが大魔道士。茶にも、並々ならぬこだわりがあるようだ。
その芳しい香りを楽しみながら、エイボンは――溜息を
分かっている。これが、現実逃避であることぐらい。
エイボンは、壁に掛けられた、奇妙な物体に目をやった。
卵型の金属板。黄金とも銅とも異なる、ぬらぬらした赤い輝きを放っている。
その表面には、羽のない
この品こそ、彼の
(長かったな、ここまでは――)
飛行竜の骨で作られた安楽椅子にもたれながら、ここに至るまでの長い
彼の生涯は、運命との絶え間ない戦いだった。
エイボンの父ミラーブは、イックァ大公家に仕える文書管理官だった。特別裕福ではなかったが、真面目な働きぶりで、公子ザクトゥラの信頼という、何よりの財産を得ていた。
いずれは彼も、父の跡を継ぐはずだった。しかし、運命は彼に、そんな平穏な生涯など許してくれなかった。
権力欲旺盛なイホウンデー神官達は、ザクトゥラ公子に取り入るために、ミラーブを邪魔者とみなし、異端の嫌疑をかけたのだ。
イックァを追放された父は、過酷な荒野の暮らしで持病が悪化し、間もなく死亡。一人取り残されたエイボンを救ったのは、父の旧友ザイラックだった。それが、師との出会いだった。
荒野の大魔道士――
大ザイラックの弟子となったエイボンは、師の黒片麻岩の館で、若き日々を魔術の修行に
雲を呼び雨を降らせ、青銅の像に生命を吹き込み、あるいは水鏡に遠い異界の光景を映し出し――間近で見る師の技は、若きエイボンに、魔術こそ己の道と信じさせるに十分だった。
何の迷いもなく、師の背を追っていたエイボンに、しかし運命は再び嘲笑を浴びせた。
エイボンが四回目の大祓いを迎えて三年目(二十三歳)、まだまだ半人前の彼を残してザイラックは死んだ――魔術の実験に失敗し、無惨な姿になって。
かつての面影すら留めない師の
魔術の業に恐れを生した彼は、師の館から、魔術の道から、一度は逃げ出した。王都ウズルダロウムの路地裏に
鮮烈な印象と共に、彼女は現れた。
秋の麦穂のような黄金の髪、オンドーアの湖面のような青い瞳。その姿は、今でも
彼女は、エイボンを生涯忘れえぬ旅に誘った。しかし、その旅程は短かった。三度、
そして、エイボンは魔術の道に戻る決意を固めた。運命――時に権力に、時に魔術の業に、時に人智を超えた存在に、様々な姿で現れては自分を
ムー・トゥーランに戻った彼は、師の館を引き継ぎ、さらなる高みを目指した。館に
野蛮なヴーアミ族の大群を追い返し、ウスノールを侵食する異界の幻を払い、ファルナヴートラ王を誘惑する夢魔を
その名声を聞きつけた多くの若者達が、弟子入りを求めてエイボンの元を訪れた。運命と戦い続けるには、仲間が必要だと感じていた彼は、喜んで彼らを受け入れた。
エイボンの教えを受けた弟子たちもまた、各地で活躍。その師エイボンの名はますます高まり――いつしか、彼は亡き師ザイラックと同じ称号、すなわち大魔道士と呼ばれるようになっていた。
それでも彼は、満足することなく研鑽を続け――ついに、究極への扉を手に入れたのだ。
それが、あの金属板だ。
輪を
それなのに。
(なぜ
未だに、自分はここに留まっている。
彼に、あの扉を授けた存在は忠告した。これは一方通行の道であり、
何かが、自分を引き止めている。
(フッ、臆病風に吹かれただけだろう。私も人の子よな)
今夜も、決心は付きそうになかった。使い魔に片付けを命じると、エイボンは私室の寝台に向かった。
窓から
*
翌日、エイボンは久し振りに館を出て、近くの村に向かった。切れかけているアボルミス茶を補給するためだ。
無論、使い魔に行かせることもできるのだが、あえて自分の足で歩いた。村人達に会うのが楽しみだったからだ。大魔道士と言えど一人では寂しいし、寂しいという感覚を忘れてはならないと思っている。
忘れてしまったばかりに、
ムー・トゥーランでは珍しい、穏やかな風を楽しみながら歩くと、やがて村が見えてきた。最近この辺りにでき始めた、新しい開拓村の一つだ。未知の荒野にも果敢に切り込む人の勇気は、魔術にも匹敵する力だと思う。
今年の畑の実りはどうだろうかと思いながら、村の門を潜った時だった。
(おや?)
村の様子が、いつもと違うことに気付いた。広場に村人達が集まって、ぼそぼそと
「あ、エイボン様、ちょうどいいところに!」
エイボンの姿を認め、一斉に駆け寄ってくる。村の創立当初から、気さくに相談に乗ってくれているこの大魔道士を、村人達は心から信頼していた。
「何かあったのかな?」
「ええ、それが――」
村に、奇妙な
「走竜飼いのグルカスが、広場に倒れていたのを見つけたんです」
村人ではないのは、すぐに分かった。なにせ人口は五十足らず、村人全員が顔見知りなのだ。
「旅人か? こんな辺境の地に珍しいな」
「いや、それが――」
それだけなら、別にエイボンを頼る必要はない。普通に介抱してやれば済むことだ。
問題は、そいつの風体だった。
「一応、人間のようではあるんですが――」
奇妙な容貌に、奇妙な服装――村人達の
それでも、やはり放っておく訳にはいかない。とりあえず、村長の家に運び込み、介抱することにした。幸い怪我などをしている様子はなく、間もなく意識を取り戻したのだが。
そこで、新たな問題が生じた。
「言葉が、全く通じないんですよ」
何やら必死で訴えているのだが、一体どこの言葉やら、村人達にはチンプンカンプンだった。
唯一つ、“エイボン”と聞こえる部分を除いて。
「私の名を?」
「はい、繰り返し言うんです。エイボン様に会いたがっているんじゃないでしょうか」
はてさて、そんな奇妙な闖入者が、自分に一体何の用だろう。エイボンは、久し振りに血が騒ぐのを感じた。
興味深い謎は、アボルミス茶と並んで彼が好むものの一つだ。
「分かった、会ってみよう」
村長の家へ向かうと、果たして謎の運び手は、寝台の上で所存無さ気にしていた。
(なるほど――)
確かに、変わっていた。この世の、神秘という神秘を見尽くしているエイボンの目から見てさえ。村人達が、旅人と断定できなかったのも無理はない。
形はごくシンプルなシャツとズボンなのだが、織り方が分からない程木目細かい布地で、見事に
男性だ。まだ若い。
小動物を思わせるくりっとした
エイボンの姿を認めると、村人達にはチンプンカンプンだという例の言葉で話しかけてくる。
「アヤシイモノジャアリマセン、ヒトヲサガシテイルンデス――」
(これは――)
「どうです、エイボン様。何て言ってるんですか?」
村人は、偉大なるエイボン様に分からぬことなど、何もないと信じきっているようだったが。
「うむ、分からん」
「ほう、そうですか――って、ええっ!?」
あらゆる言語に精通する――それこそ、太古の蛇人間の楔形文字にまで――エイボンを
唯一つ。
「えいぼんサマヲシリマセンカ、マドウシノえいぼんサマヲシリマセンカ――」
エイボン――そう、確かに、その名だけは、聞き取れる。
そして、そこに込められた必死の想いも。
(一体、どこから来たのか。そして、私に何用なのか――)
この世にも、まだ自分の知らないことは残っていたらしい。とりあえず、昨夜サイクラノーシュに行くのを延期したのは、正解だったかもしれない。
「そ、そうですか、困りましたねえ」
「何、問題ない」
エイボンは
「何せ、書物と違って、人には脳と心があるからな」
エイボンは独特の匂いを放つ黒い丸薬を、袖から取り出し――。
「ンガ!?」
ひょいと、若者の口に放り込んだ。吐き出すでもなく、素直に飲み込む若者。
「どうだ。私の言葉が分かるか?」
「うええ、苦い――あれ!?」
若者が目を丸くする。無理もない。エイボンや村人達の言葉が、突然理解できるようになったのだから。それどころか、自らも同じ言葉を話せるようになっている。
いかに魔道士が多い国とは言え、やはり驚異には違いない。
「私が作った、言語習得の秘薬だ。脳に情報を刻むことで、どんな言語も即座に習得できる」
作り方については、あえて言わない。言語学者の脳を乾燥させた粉末を練り上げて――等と言われて平然としていられるのは、魔道士だけだろうから。
「す、すごい! あなたは魔道士ですか!?」
若者は、子供のように目を輝かせている。こういう目で見られるのは慣れているエイボンでさえ、くすぐったくなる程の、それは強烈な憧れだった。
「まあ、そのようなものだが」
「で、では、エイボンという人を知りませんか!? あなたと同じ魔道士なんですが――」
一転して、懸命に身を乗り出す。やはり、そうだった。この若者は自分を探していたのだ。それにしても、ここはどこだとか、今はいつだとか、もっと優先順位が高い質問は、いくらでもありそうなものだが。
(余程、必死に探していたと見えるな)
もう少し、その謎について考えてみたかったのだが、
「エイボンは私だが」
つい、素直に名乗ってしまったのだが――
――それを聞いた若者の反応は、劇的だった。
あんぐりと大口を開き、次いでぶるぶると肩を震わせ――。
「ぼ、僕は、何て幸運なんだ――こんなに早くお会いできるなんて――!」
がばぁっ! 寝台から飛び降り、蛙のように床に
そして、叫んだ。
「エ、エイボン様、僕を弟子にして下さい!!」
(な、なるほど――)
謎の一端はあっさり解けた。弟子志願だったようだ。考えてみれば、若者がエイボンを訪ねてくる理由としては、至極真っ当なものである。彼のあまりの奇妙さに、一番ありそうな可能性をすっかり失念していた。
いや、それにしても――。
「お、お願いします、何でもしますから! ええ、“死ね”以外なら、どんなことでも――!」
数多くの弟子を取ってきたエイボンだが、ここまで必死の――いやはや、文字通りの――志願者は初めてだった。きっと、その願いだけを支えに、言葉も通じない異郷を渡ってきたのだろう。
だから、とても申し訳なかったのだが。
「若者よ、そなたの覚悟を疑うつもりはないが――」
疑うつもりはないからこそ、いい加減な返事はすべきではない。
「見ての通り、私はもう老いぼれだ。そなたが一人前になるまで、指導してやれる保障はない」
少しだけ嘘を
とりあえず昨夜は取り止めたが、その内、嫌でもサイクラノーシュに向かわなければならなくなるかもしれない。
感じるのだ。あの底意地の悪い運命が、またしても
修行
「幸い、私には、すでに独立している弟子が多くいる。その中の何人かを紹介しよう」
しかし、若者は頑として聞き入れなかった。相変わらず、床に這い蹲ったままの姿勢――
そのあまりの必死さに、エイボンは――。
「ほう、それはどういう意味かな」
僅かに、瞼を細めた。それを感じ取ったか、若者の背にぴくりと緊張が走る。
「何を好き好んで、こんな老いぼれに弟子入りを?」
エイボンは〈魔道士エイノクラの物語〉に登場する魔道士ゴッドラムのことを思い出していた。対立する魔道士エイノクラを暗殺するため、素性を偽って彼に弟子入りする策謀家だ。
ゴッドラムと同じようなことを考えそうな連中には、心当たりがある。最近感じている運命の策動は、あるいは目の前のこの――。
だが、すぐに、エイボンは己の深読みに苦笑することになった。
「そそそ、それは、その~、そう! 小さい頃、お祖父ちゃんからエイボン様のご活躍を聞いて、ずっと憧れてて――いやあ、ウスノールの街を、異界の幻から救ったお話は有名ですよ~、あははは――」
冷や汗だらだら、視線は右に左に自由遊泳。
こんな正直者に
(まあ、人手不足ではなかろうな)
だが、それなら、なんの目的で?
若者の瞳を、正面から
オンドーアの湖面のような瞳だった。底の底まで澄み切って丸見えで――にも関わらず、真意は見えない。
おそらく、それもまた、純粋であるが
(ああ、また悪い癖が出てきたな)
解かれざる、謎。
それを放置しておくことは、エイボンにとっては、目の前に置かれた贈り物の中身を、確かめずにおくに等しい。
彼を買収するのに、金も宝石も必要ない。謎を用意すれば十分だ。
異邦の言葉を話す、熱烈な弟子入り志願者。
この若者は、まさに自分自身を
(駄目だ。サイクラノーシュ行きは、当分延期だな)
何とか、運命の邪魔が入らないことを祈ろう――
――この謎を解き明かす、その時までは。
「分かった。弟子入りを認めよう」
あまりにあっさり。
「ほ、本当なんです、信じて下さ――え?」
おかげで、何を言われたのか、若者も
「ただし、そなたが一人前になる前にぽっくり
「あ、ありがとうございます!」
お
「ところで、何と呼べばいいのかな、我が新しき弟子よ?」
「あ、はい、トガミツカサと言います」
「トガミツ――変わった名前だな」
「な、長かったら、ツカサと呼んで下さい」
こうしてエイボンは、生涯最後の弟子を迎えたのだった。
*
「うわぁ――!」
館に着いても、新たなる弟子ツカサの歓喜は続いていた。門番の魔石像に、掃除中の使い魔に、呪文一声で明かりを灯す
祖父にエイボンの活躍を聞かされて
「あれは、マンドラゴラの根に、ワイバーンの毒袋に――あの赤いのは、火霊石ですね! あんなに純度が高そうなのは、初めて見たなぁ」
(ほう)
棚に並ぶ魔術の
「詳しいではないか。どこで学んだのだ?」
「お爺ちゃんの家にあった魔道書で見たんです。祖父はミスカドダイガクでジンルイガクのキョウジュをしていて――」
言語習得の秘薬が上手く効いていないのだろうか。後半は良く意味が分からなかったが。
そこで、不意にツカサは表情を沈ませる。
「そこに書かれていた魔術も、一通り試したんですけど、全然上手くいかなくて――僕には、魔術の才能がないんでしょうか」
「ふむ、では試してみるか?」
テーブルに飛竜の皮を敷き、その上に罪人の骨の粉で魔方陣を描く。中心にパピルスの繊維で編んだ人形を置き、
「エクト、ラ、オーム――来たれ、意思。
それは一見、お
「あっ!」
その効果は、確かに魔術だった。どくんどくんと脈動するように、人形の胸が上下し始め――。
ぴょこりと、起き上がる。
「す、すごい――」
「さあ、やってみるがよい」
「ええっ!? む、無理ですよぅ」
「私のやり方は見ていたであろう? あの通りにすればいいのだ。簡単ではないか」
「ほ、本当に、それだけで、できるんですか――?」
「ああ、できるとも」
「え、エクト、ラ、オーム――」
しかし。
「うう、何で――」
今度は、人形はぴくりとも動かない。項垂れるツカサとは対照的に、エイボンは何やら納得顔だ。
「案ずるな。できなかったのは、そなたに才能がないからではない」
「そ、そうなんですか?」
「よいか、そなたは、私の手順を完璧に真似て見せた。ただ一つのものを除いてな。それが何か、分かるか?」
「え、えーと――呪文の発音が不正確だったんでしょうか。それとも、魔方陣を書き間違えたとか――」
「そうではない。そなたに足りなかったものは――
「心象――ですか?」
「左様、心象こそ、魔術の基礎にして奥儀――」
そもそも、魔術と技術の違いは何か――どちらも、道具を用意し、手順を踏む必要があるのは同様だ。だが、魔術にはそれらに加え、もう一つ必要なものがある。
それが、術者が心に思い浮かべる具象、すなわち心象だ。
「私は魔方陣を描き、呪文を唱えながら――」
エイボンは、儀式をゆっくりと再現しながら解説する。
「思い描いていたのだ。呪文の一語一句が虚空に浮かび、魔方陣を中心に練り上げられ、仮初の魂となり人形に宿る様を――魔方陣も呪文も、術者の心象が
魔術の原型は、天地自然に捧げる祈りだという。雨を降らせたまえ、疫病を
だが、まずは心象ありきなのだ。
「そうか――僕は何も考えずに、ただ手と口を動かしていただけだったから」
「左様、心象が伴わぬ呪文は、ただの寝言。心象が伴わぬ魔方陣は、落書きに過ぎぬ」
できなかったのは、ツカサに才能がないからではない――確かに、こんなものは、才能以前の問題だ。
「よい練習の仕方を教えよう。そうだな――うむ、これがいいか」
大きめの銀貨をツカサに渡す。古い十分の一パズール銀貨だ。
まず、銀貨をじっくり見て、その形状を覚える。覚えたら、目を閉じ、瞼の裏に銀貨の姿を思い描く。
これをひたすら繰り返すのだ。形、重さ、手触りなど、現実のそれと変わらないぐらい、リアルな心象が思い描けるようになるまで。
「これが、そなたの修行の第一歩だ。魔術の世界へと飛び立つために、まず翼の動かし方を学ぶのだ。呪文の発音だの、魔方陣の構成だのは、その後だ」
ツカサは戸惑ったように、銀貨を見つめている。こんな、何の変哲もない物体が、驚異に満ちた魔術の世界への鍵になるとは、正直――。
「信じられぬか?」
「あ、いや、そんなことは――」
その気持ちはよく分かる。かつての自分も、そうだったから。
「まあ、焦らずやることだ」
「は、はい、がんばります!」
*
それから一週間。ツカサは、掃除や食事の支度などの弟子の勤め――まだ、儀式や実験の手伝いはできないので――の
今も、鍋の湯が沸くまでの時間を無駄にすまいと、銀貨を手に取る。
じっと見つめ――ぎゅっと瞼を閉じる。
古びて黒ずんだ銀の色、ひんやりした感触、表面に刻まれたロルクァメスロス王の肖像――細部まで目に焼き付けたはずなのに。
「うう~」
瞼を閉じた途端、それらはぼやけて霧散してしまう。
ツカサの苦戦が、エイボンには手に取るように分かる。他でもない、ザイラックに弟子入りした彼自身が、最初に挑んだ修行だからだ。
「どうだ、簡単なようで難しかろう?」
「はい、自分がいかに眼にばかり頼っていたのか、よく分かりました」
「そなたは、まだましな方だ。王都の貴族連中などは、もっとひどい。眼に見えるものしか信じず、金銀で己を飾ることにばかり腐心しておる。眼に見える範囲など、事象のほんの表面に過ぎんというのに」
「――僕らが魔術を使えなくなったのも、そういった理由なんだろうなぁ」
「? 何のことかな」
「あ、いえ、何でもありませんっ。も、もうすぐ、お食事できますよ」
ショングア豆のスープとパン、そして魚の酢漬けという質素な食事を終えた後で、エイボンは思い出した。
「そう言えば、あの部屋をまだ見せていなかったな。来るがよい」
「は、はい」
いくつもの扉を開錠の術で開けつつ、正五角形の館の中心へ向かう。そう、その部屋はまさに、この館の中心だった。館の分厚い黒片麻岩の壁は、そこを守るためにあると言っても過言ではない。
そして、
「わぁぁ――!」
ツカサが感嘆の溜息を漏らす。
その部屋は、館のどの部屋よりも広かった。おそらく、二、三階分の吹きぬけになっているであろう、天井もとびきり高い。その壁一面に、ぎっしりと本や巻物が詰め込まれている。
これぞ、エイボンの魔道の軌跡、魔道書庫だった。
「カダス録、ヴーアミ碑板群――わっわっ、ナコト写本まで!」
ツカサが目を回している。言語習得の秘薬のおかげで、背表紙の題名も読めるようになっているのだ――世に数冊とない、稀な魔道書達の。失われかけていた知識に、この書庫が永遠の生を与えたのだ。
まさにここは、時を超越した奇跡の空間。
「暇な時にでも読むがよい」
「ええっ!? よ、読んでいいんですか」
ツカサが驚くのも無理はない。魔道書の中には、魔物の召喚術なども記されている。無断で召喚でもされたら、えらいことだ。そのため、弟子の位によって、読める魔道書を制限しているのが普通なのだ。
「無論だ。書物は読むためのものだ」
だが、エイボンは一切そういったことはしていない。学びたいという弟子の熱意を尊重したいし、何より弟子を信じているからだ。
ツカサは、震える手でナコト写本を開き――たちまち、素材不明の紙のページに釘付けになる。苦笑するエイボン。とりあえず、今日の用事は免除してやろう。そっと部屋を出る。
――そして、翌朝を。
エイボンは、大いなる驚きと共に迎えたのだった。
「お師匠様、できました!」
ツカサが何を言っているのか、エイボンは分からなかった。
結局、徹夜したらしい。眼の下には
それを見て、ようやくエイボンは悟った。
「――心象がか?」
「はい!」
(まさか――)
普通なら、半年は必要だ。エイボンでさえ、三ヵ月掛かったのだ。それを、一週間で成し遂げた?
(有り得ん――だが)
この弟子の馬鹿正直ぶりは、よく知っている。
「――分かった、確かめてみよう」
テーブルの上に、一週間前の術場が再現される。魔方陣が描かれ、人形が置かれ。
そして、すうと息を吸い――
「エクト、ラ、オーム――来たれ、意思。汝が肉体、ここに在り――」
――呪文を唱えだした途端、ツカサの目の色が変わった。
(これは――)
エイボンには分かった。弟子の目は、確かに見ている。
「サリ=パータ――」
真理、を意味する呪文を縦糸に。
「フェウエル、ロァーダ、イェシダ――」
自我、理性、情動の呪文が、横糸のように織り込まれ、半透明の人型――魂という名の織物を形成する様を。
ともすれば、あっけなく四散してしまいそうなそれは、しかし魔方陣の生み出す力場に導かれ、するすると人形に吸い込まれていく。
果たして、人形は――。
「! や、やった――!」
よろよろとではあるが、確かに起き上がった。
「やったやった! ぼ、僕にもできましたよ、お師匠様!」
感涙に
これは――あるいは、それらに匹敵するのではないか。
「――どうやったのだ?」
「はい、子供の頃を思い出してみたんです」
「子供の頃?」
「ええ――」
ツカサは、懐かしそうに語った。
彼は、外で遊ぶより、家で本を読んでいる方が好きな子供だった。それも、一般の子供が好むような絵本ではなく、家に代々伝わる怪しげな魔道書をだ。
「あの書庫にいたら、その時の気持ちが
それを眺めながら、幼いツカサは思い描いた。魔道士や魔物、そして彼らが行使する魔術の姿を。
そう、現実の事象の
そこで、ツカサは
「何となく、今回の修行に通じるものがあるように思えて――」
ひょっとしたら、参考になるかもしれない。そのぐらいのつもりで、試してみることにした。
幼い日々の境地に、今一度帰ってみることを。
一晩中、魔道書を読み
「そして、はっと気が付くと――」
自分が、何かを握り締めていることに気付いた。
あの銀貨だった。
無意識の内に、ポケットから取り出したのだろうか。いや、そうではない。なぜなら、ポケットを探ってみると、ちゃんと銀貨はそこにあった。
銀貨が、二枚に増えていた。
一枚は、師から貰った物だ。
と言うことは、もう一枚は――。
「――と、言う訳なんです」
ツカサは、片手で
「つまり、現実と夢の境目が
照れ臭そうな弟子の顔を、エイボンは――ぽかんと見つめていた。
「くくく――」
それが次第に苦笑に変わり、やがて
「はっはっは――これは参った。まさか、そんな裏技があろうとは! 童心に返る、か――くくく」
「だ、駄目ですか? こんな、
なぜ笑われるのか理解していないらしく、ツカサは不安そうにしている。そんな弟子を見ていると、ますます笑いが込み上げてくるエイボンであった。
「狡などではない。そなたは真理に従ったまでよ。おそらく、これまで誰も気付いていなかった真理にな」
ツカサに分かるはずもない。
大魔道士たる師が、よもや自分を
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