最後の弟子

上倉ゆうた

前編


 ハイパーボリア――

 永遠の氷河に埋もれし、失われた大陸

 百の魔道士が術を振るい、千の奇跡が顕現けんげんせし、魔法の王国

 彼の地がつむぎしは、栄光と破滅、賢者と愚者の物語

 神官はおごり、魔道士は邪神にまみえ、コモリオムの都は栄え、そして滅びた

 劫初ごうしょの記憶を伝える、禁断の書のみがその名を記す

 ハイパーボリア――北風の向こう側


 *


「カー、レギ、トゥーラ――目覚めよ、火精――」

 エイボンの呪文に反応して、火の紋様を刻まれた炉が起動する。紫色の炎に照らされて、実験器具が禍々まがまがしい影をおどらせる。

 単眼獣カトブレパスの強酸にも耐える真銀ミスリル製の鍋に、皮袋から黒く縮れた物体を数片取り出し、ぱらぱらと投入する。

 太陽系を模した測時盤の目盛りが、きっちり三つ進んだ瞬間を見計らって。

「オルグ!」

 炉の炎を止める。

 そして、すかさず鍋の中で沸き立つ、赤い液体を――。

 ――ヴァラード焼の茶器に注いだ。

「うむ、やはりアボルミス茶は、エイグロフ山脈の雪解け水で飲むに限る」

 さすが大魔道士。茶にも、並々ならぬこだわりがあるようだ。

 その芳しい香りを楽しみながら、エイボンは――溜息をいた。

 分かっている。これが、現実逃避であることぐらい。

 エイボンは、壁に掛けられた、奇妙な物体に目をやった。

 卵型の金属板。黄金とも銅とも異なる、ぬらぬらした赤い輝きを放っている。

 その表面には、羽のない蝙蝠こうもりとも、太ったかえるとも付かない生き物の姿が刻まれていた。

 この品こそ、彼の研鑽けんさんの到達点そのものだった。

(長かったな、ここまでは――)

 飛行竜の骨で作られた安楽椅子にもたれながら、ここに至るまでの長い道程みちのりを思い起こす。

 彼の生涯は、運命との絶え間ない戦いだった。

 エイボンの父ミラーブは、イックァ大公家に仕える文書管理官だった。特別裕福ではなかったが、真面目な働きぶりで、公子ザクトゥラの信頼という、何よりの財産を得ていた。

 いずれは彼も、父の跡を継ぐはずだった。しかし、運命は彼に、そんな平穏な生涯など許してくれなかった。

 権力欲旺盛なイホウンデー神官達は、ザクトゥラ公子に取り入るために、ミラーブを邪魔者とみなし、異端の嫌疑をかけたのだ。

 イックァを追放された父は、過酷な荒野の暮らしで持病が悪化し、間もなく死亡。一人取り残されたエイボンを救ったのは、父の旧友ザイラックだった。それが、師との出会いだった。

 荒野の大魔道士――畏敬いけいの念を込めて、人々は彼をそう呼んでいた。

 大ザイラックの弟子となったエイボンは、師の黒片麻岩の館で、若き日々を魔術の修行にささげた。

 雲を呼び雨を降らせ、青銅の像に生命を吹き込み、あるいは水鏡に遠い異界の光景を映し出し――間近で見る師の技は、若きエイボンに、魔術こそ己の道と信じさせるに十分だった。

 何の迷いもなく、師の背を追っていたエイボンに、しかし運命は再び嘲笑を浴びせた。

 エイボンが四回目の大祓いを迎えて三年目(二十三歳)、まだまだ半人前の彼を残してザイラックは死んだ――魔術の実験に失敗し、無惨な姿になって。

 かつての面影すら留めない師のむくろを前に、エイボンは思い知った。魔術とは全てを与えると共に、全てを奪いもする諸刃もろはの剣であることを。

 魔術の業に恐れを生した彼は、師の館から、魔術の道から、一度は逃げ出した。王都ウズルダロウムの路地裏にもぐり込み、詐欺師の真似事をして糊口ここうしのぎ――このまま、どこまでも転がり落ちていくのかと思われた、その時。

 鮮烈な印象と共に、彼女は現れた。

 秋の麦穂のような黄金の髪、オンドーアの湖面のような青い瞳。その姿は、今でもまぶたの裏に焼きついている。

 彼女は、エイボンを生涯忘れえぬ旅に誘った。しかし、その旅程は短かった。三度、執拗しつような運命の追撃に遭い、彼女は――。

 そして、エイボンは魔術の道に戻る決意を固めた。運命――時に権力に、時に魔術の業に、時に人智を超えた存在に、様々な姿で現れては自分を翻弄ほんろうする、この強大な敵と戦う力を、魔術に求めて。

 ムー・トゥーランに戻った彼は、師の館を引き継ぎ、さらなる高みを目指した。館にもって、書物ばかり読んでいた訳ではない。自分と同じように運命に翻弄される人々を、魔術で救うことこそが、何よりの修行だと彼は考えた。

 野蛮なヴーアミ族の大群を追い返し、ウスノールを侵食する異界の幻を払い、ファルナヴートラ王を誘惑する夢魔をらし――次第に彼の名は、尊敬と共に人々の口に上るようになった。

 その名声を聞きつけた多くの若者達が、弟子入りを求めてエイボンの元を訪れた。運命と戦い続けるには、仲間が必要だと感じていた彼は、喜んで彼らを受け入れた。

 エイボンの教えを受けた弟子たちもまた、各地で活躍。その師エイボンの名はますます高まり――いつしか、彼は亡き師ザイラックと同じ称号、すなわち大魔道士と呼ばれるようになっていた。

 それでも彼は、満足することなく研鑽を続け――ついに、究極への扉を手に入れたのだ。

 それが、あの金属板だ。

 輪をいだく星サイクラノーシュ――異形の神々が住まうという伝説の地へ、その秘宝は一またぎで連れて行ってくれる。遠く上古の時代より、全ての魔術師が求めてきた謎、その答えを目にすることができるだろう。

 それなのに。

(なぜ躊躇ためらう、エイボンよ――)

 未だに、自分はここに留まっている。

 彼に、あの扉を授けた存在は忠告した。これは一方通行の道であり、くぐれば二度と戻ることは叶わぬと。だが、この世に、サイクラノーシュで待っている体験以上のものなどあるだろうか。弟子達も、今では皆一人前になって独立している。躊躇う理由など、何も無いはずなのに。

 何かが、自分を引き止めている。

(フッ、臆病風に吹かれただけだろう。私も人の子よな)

 今夜も、決心は付きそうになかった。使い魔に片付けを命じると、エイボンは私室の寝台に向かった。

 窓からのぞく満天の星空を、一筋ひとすじの流星が横切った。


 *


 翌日、エイボンは久し振りに館を出て、近くの村に向かった。切れかけているアボルミス茶を補給するためだ。

 無論、使い魔に行かせることもできるのだが、あえて自分の足で歩いた。村人達に会うのが楽しみだったからだ。大魔道士と言えど一人では寂しいし、寂しいという感覚を忘れてはならないと思っている。

 忘れてしまったばかりに、おのれこそが宇宙の中心と驕り、破滅の道を辿った魔道士達を、彼は幾人も知っているから。

 ムー・トゥーランでは珍しい、穏やかな風を楽しみながら歩くと、やがて村が見えてきた。最近この辺りにでき始めた、新しい開拓村の一つだ。未知の荒野にも果敢に切り込む人の勇気は、魔術にも匹敵する力だと思う。

 今年の畑の実りはどうだろうかと思いながら、村の門を潜った時だった。

(おや?)

 村の様子が、いつもと違うことに気付いた。広場に村人達が集まって、ぼそぼそとささやき合っている。

「あ、エイボン様、ちょうどいいところに!」

 エイボンの姿を認め、一斉に駆け寄ってくる。村の創立当初から、気さくに相談に乗ってくれているこの大魔道士を、村人達は心から信頼していた。

「何かあったのかな?」

「ええ、それが――」

 村に、奇妙な闖入ちんにゅう者があったのだという。

「走竜飼いのグルカスが、広場に倒れていたのを見つけたんです」

 村人ではないのは、すぐに分かった。なにせ人口は五十足らず、村人全員が顔見知りなのだ。

「旅人か? こんな辺境の地に珍しいな」

「いや、それが――」

 それだけなら、別にエイボンを頼る必要はない。普通に介抱してやれば済むことだ。

 問題は、そいつの風体だった。

「一応、人間のようではあるんですが――」

 奇妙な容貌に、奇妙な服装――村人達の語彙ごいでは上手く説明できないようだったが、とにかく、変わっているのだという。

 それでも、やはり放っておく訳にはいかない。とりあえず、村長の家に運び込み、介抱することにした。幸い怪我などをしている様子はなく、間もなく意識を取り戻したのだが。

 そこで、新たな問題が生じた。

「言葉が、全く通じないんですよ」

 何やら必死で訴えているのだが、一体どこの言葉やら、村人達にはチンプンカンプンだった。

 唯一つ、“エイボン”と聞こえる部分を除いて。

「私の名を?」

「はい、繰り返し言うんです。エイボン様に会いたがっているんじゃないでしょうか」

 はてさて、そんな奇妙な闖入者が、自分に一体何の用だろう。エイボンは、久し振りに血が騒ぐのを感じた。

 興味深い謎は、アボルミス茶と並んで彼が好むものの一つだ。

「分かった、会ってみよう」

 村長の家へ向かうと、果たして謎の運び手は、寝台の上で所存無さ気にしていた。

(なるほど――)

 確かに、変わっていた。この世の、神秘という神秘を見尽くしているエイボンの目から見てさえ。村人達が、旅人と断定できなかったのも無理はない。

 烏賊墨いかすみの様に黒い髪、ヴーアミ族のような丸い耳、黄色がかった肌。こんな人種、見たことも聞いたこともない。辺境に住む、未知の蛮族――という判断は、服装を見て即座に撤回した。

 形はごくシンプルなシャツとズボンなのだが、織り方が分からない程木目細かい布地で、見事にむら無く染め上げられている。相当高度な技術が使われているに違いない。

 男性だ。まだ若い。

 小動物を思わせるくりっとした双眸そうぼう、ちんまりした鼻、丸みのある頬には、まだ少年のあどけなさが残っている。おそらく、四回目の大祓いはまだだろう――彼の属する文化に、大祓いの風習があるのかどうかは定かでないが。

 エイボンの姿を認めると、村人達にはチンプンカンプンだという例の言葉で話しかけてくる。

「アヤシイモノジャアリマセン、ヒトヲサガシテイルンデス――」

(これは――)

「どうです、エイボン様。何て言ってるんですか?」

 村人は、偉大なるエイボン様に分からぬことなど、何もないと信じきっているようだったが。

「うむ、分からん」

「ほう、そうですか――って、ええっ!?」

 あらゆる言語に精通する――それこそ、太古の蛇人間の楔形文字にまで――エイボンをってしても、さっぱり分からない。他の言語との、類似性すら見出せない。

 唯一つ。

「えいぼんサマヲシリマセンカ、マドウシノえいぼんサマヲシリマセンカ――」

 エイボン――そう、確かに、その名だけは、聞き取れる。

 そして、そこに込められた必死の想いも。

(一体、どこから来たのか。そして、私に何用なのか――)

 この世にも、まだ自分の知らないことは残っていたらしい。とりあえず、昨夜サイクラノーシュに行くのを延期したのは、正解だったかもしれない。たわむれに、そんなことも思ってみた。

「そ、そうですか、困りましたねえ」

「何、問題ない」

 エイボンは長衣ローブの袖を探った。その内部は館の魔具庫に繋がっており、空間を越えて物品を取り寄せることができるのだ。

「何せ、書物と違って、人には脳と心があるからな」

 エイボンは独特の匂いを放つ黒い丸薬を、袖から取り出し――。

「ンガ!?」

 ひょいと、若者の口に放り込んだ。吐き出すでもなく、素直に飲み込む若者。

「どうだ。私の言葉が分かるか?」

「うええ、苦い――あれ!?」

 若者が目を丸くする。無理もない。エイボンや村人達の言葉が、突然理解できるようになったのだから。それどころか、自らも同じ言葉を話せるようになっている。

 いかに魔道士が多い国とは言え、やはり驚異には違いない。

「私が作った、言語習得の秘薬だ。脳に情報を刻むことで、どんな言語も即座に習得できる」

 作り方については、あえて言わない。言語学者の脳を乾燥させた粉末を練り上げて――等と言われて平然としていられるのは、魔道士だけだろうから。

「す、すごい! あなたは魔道士ですか!?」

 若者は、子供のように目を輝かせている。こういう目で見られるのは慣れているエイボンでさえ、くすぐったくなる程の、それは強烈な憧れだった。

「まあ、そのようなものだが」

「で、では、エイボンという人を知りませんか!? あなたと同じ魔道士なんですが――」

 一転して、懸命に身を乗り出す。やはり、そうだった。この若者は自分を探していたのだ。それにしても、ここはどこだとか、今はいつだとか、もっと優先順位が高い質問は、いくらでもありそうなものだが。

(余程、必死に探していたと見えるな)

 もう少し、その謎について考えてみたかったのだが、らすのも気の毒で。

「エイボンは私だが」

 つい、素直に名乗ってしまったのだが――

 ――それを聞いた若者の反応は、劇的だった。

 あんぐりと大口を開き、次いでぶるぶると肩を震わせ――。

「ぼ、僕は、何て幸運なんだ――こんなに早くお会いできるなんて――!」

 がばぁっ! 寝台から飛び降り、蛙のように床につくばる。

 そして、叫んだ。

「エ、エイボン様、僕を弟子にして下さい!!」

(な、なるほど――)

 謎の一端はあっさり解けた。弟子志願だったようだ。考えてみれば、若者がエイボンを訪ねてくる理由としては、至極真っ当なものである。彼のあまりの奇妙さに、一番ありそうな可能性をすっかり失念していた。

 いや、それにしても――。

「お、お願いします、何でもしますから! ええ、“死ね”以外なら、どんなことでも――!」

 数多くの弟子を取ってきたエイボンだが、ここまで必死の――いやはや、文字通りの――志願者は初めてだった。きっと、その願いだけを支えに、言葉も通じない異郷を渡ってきたのだろう。

 だから、とても申し訳なかったのだが。

「若者よ、そなたの覚悟を疑うつもりはないが――」

 疑うつもりはないからこそ、いい加減な返事はすべきではない。

「見ての通り、私はもう老いぼれだ。そなたが一人前になるまで、指導してやれる保障はない」

 少しだけ嘘をいた。寿命が尽きるのは、まだ大分先だ。だが、それまであの館にいられるかどうか分からないのは、本当だ。

 とりあえず昨夜は取り止めたが、その内、嫌でもサイクラノーシュに向かわなければならなくなるかもしれない。

 感じるのだ。あの底意地の悪い運命が、またしてもうごめき始めているのを。

 修行なかばで、師をうしなう――この若者にまで、自分と同じ苦労はさせたくない。

「幸い、私には、すでに独立している弟子が多くいる。その中の何人かを紹介しよう」

 しかし、若者は頑として聞き入れなかった。相変わらず、床に這い蹲ったままの姿勢――懇願こんがんを意味するらしい。当人は必死なのだろうが、はっきり言って珍妙だ――で、あなたの元で修行できなければ意味がないんですと言いつのる。

 そのあまりの必死さに、エイボンは――。

「ほう、それはどういう意味かな」

 僅かに、瞼を細めた。それを感じ取ったか、若者の背にぴくりと緊張が走る。

「何を好き好んで、こんな老いぼれに弟子入りを?」

 エイボンは〈魔道士エイノクラの物語〉に登場する魔道士ゴッドラムのことを思い出していた。対立する魔道士エイノクラを暗殺するため、素性を偽って彼に弟子入りする策謀家だ。

 ゴッドラムと同じようなことを考えそうな連中には、心当たりがある。最近感じている運命の策動は、あるいは目の前のこの――。

 だが、すぐに、エイボンは己の深読みに苦笑することになった。

「そそそ、それは、その~、そう! 小さい頃、お祖父ちゃんからエイボン様のご活躍を聞いて、ずっと憧れてて――いやあ、ウスノールの街を、異界の幻から救ったお話は有名ですよ~、あははは――」

 冷や汗だらだら、視線は右に左に自由遊泳。

 こんな正直者に間諜スパイをさせる程、あの連中も――。

(まあ、人手不足ではなかろうな)

 だが、それなら、なんの目的で?

 若者の瞳を、正面から見据みすえる。

 オンドーアの湖面のような瞳だった。底の底まで澄み切って丸見えで――にも関わらず、真意は見えない。

 おそらく、それもまた、純粋であるがゆえに、透明で。

(ああ、また悪い癖が出てきたな)

 解かれざる、謎。

 それを放置しておくことは、エイボンにとっては、目の前に置かれた贈り物の中身を、確かめずにおくに等しい。

 彼を買収するのに、金も宝石も必要ない。謎を用意すれば十分だ。

 異邦の言葉を話す、熱烈な弟子入り志願者。

 この若者は、まさに自分自身を賄賂わいろに持ってきた訳だ。

(駄目だ。サイクラノーシュ行きは、当分延期だな)

 何とか、運命の邪魔が入らないことを祈ろう――

 ――この謎を解き明かす、その時までは。

「分かった。弟子入りを認めよう」

 あまりにあっさり。はたから聞く分には、そうとしか聞こえなかっただろう。

「ほ、本当なんです、信じて下さ――え?」

 おかげで、何を言われたのか、若者も咄嗟とっさに理解できなかったようである。

「ただし、そなたが一人前になる前にぽっくりっても、恨んでくれるなよ?」

「あ、ありがとうございます!」

 お道化どけるエイボンに、ようやく若者の顔に歓喜が広がり始める。例の蛙姿勢のまま、もういいと言うまで頭を下げ続けた。

「ところで、何と呼べばいいのかな、我が新しき弟子よ?」

「あ、はい、トガミツカサと言います」

「トガミツ――変わった名前だな」

「な、長かったら、ツカサと呼んで下さい」


 こうしてエイボンは、生涯最後の弟子を迎えたのだった。


 *


「うわぁ――!」

 館に着いても、新たなる弟子ツカサの歓喜は続いていた。門番の魔石像に、掃除中の使い魔に、呪文一声で明かりを灯す燭台しょくだいに、いちいち子供のような歓声を上げている。

 祖父にエイボンの活躍を聞かされて云々うんぬんという話はともかく、魔道士に憧れていたと言うのは、本当らしい。

「あれは、マンドラゴラの根に、ワイバーンの毒袋に――あの赤いのは、火霊石ですね! あんなに純度が高そうなのは、初めて見たなぁ」

(ほう)

 棚に並ぶ魔術の触媒しょくばいを、ことごとく当ててみせるのを見て、少し感心する。知らない者の目には、がらくたにしか見えないはずだ。魔術に関して、全くの素人ではないようだ。

「詳しいではないか。どこで学んだのだ?」

「お爺ちゃんの家にあった魔道書で見たんです。祖父はミスカドダイガクでジンルイガクのキョウジュをしていて――」

 言語習得の秘薬が上手く効いていないのだろうか。後半は良く意味が分からなかったが。

 そこで、不意にツカサは表情を沈ませる。

「そこに書かれていた魔術も、一通り試したんですけど、全然上手くいかなくて――僕には、魔術の才能がないんでしょうか」

「ふむ、では試してみるか?」

 テーブルに飛竜の皮を敷き、その上に罪人の骨の粉で魔方陣を描く。中心にパピルスの繊維で編んだ人形を置き、賦活ふかつの呪文を詠唱えいしょう

「エクト、ラ、オーム――来たれ、意思。なんじが肉体、ここに在り――」

 それは一見、おまじないとでも呼ぶべき手軽さだったが。

「あっ!」

 その効果は、確かに魔術だった。どくんどくんと脈動するように、人形の胸が上下し始め――。

 ぴょこりと、起き上がる。

「す、すごい――」

 唖然あぜんとするツカサの前で、仮初かりそめの意思を与えられた人形は、くるくると踊っている。

「さあ、やってみるがよい」

「ええっ!? む、無理ですよぅ」

「私のやり方は見ていたであろう? あの通りにすればいいのだ。簡単ではないか」

「ほ、本当に、それだけで、できるんですか――?」

「ああ、できるとも」

 躊躇ためらいながらも、ツカサはエイボンのやり方を、忠実に真似てみせる。

「え、エクト、ラ、オーム――」

 しかし。

「うう、何で――」

 今度は、人形はぴくりとも動かない。項垂れるツカサとは対照的に、エイボンは何やら納得顔だ。

「案ずるな。できなかったのは、そなたに才能がないからではない」

「そ、そうなんですか?」

「よいか、そなたは、私の手順を完璧に真似て見せた。ただ一つのものを除いてな。それが何か、分かるか?」

「え、えーと――呪文の発音が不正確だったんでしょうか。それとも、魔方陣を書き間違えたとか――」

「そうではない。そなたに足りなかったものは――心象イメージよ」

「心象――ですか?」

「左様、心象こそ、魔術の基礎にして奥儀――」

 そもそも、魔術と技術の違いは何か――どちらも、道具を用意し、手順を踏む必要があるのは同様だ。だが、魔術にはそれらに加え、もう一つ必要なものがある。

 それが、術者が心に思い浮かべる具象、すなわち心象だ。

「私は魔方陣を描き、呪文を唱えながら――」

 エイボンは、儀式をゆっくりと再現しながら解説する。

「思い描いていたのだ。呪文の一語一句が虚空に浮かび、魔方陣を中心に練り上げられ、仮初の魂となり人形に宿る様を――魔方陣も呪文も、術者の心象がともなって、初めて力を持つのだ」

 魔術の原型は、天地自然に捧げる祈りだという。雨を降らせたまえ、疫病をしずめたまえ――ただ只管ひたすら心で願うだけだったものに、次第に言葉や儀式を補助に用いるようになり、現在の形になっていったのだ。

 だが、まずは心象ありきなのだ。

「そうか――僕は何も考えずに、ただ手と口を動かしていただけだったから」

「左様、心象が伴わぬ呪文は、ただの寝言。心象が伴わぬ魔方陣は、落書きに過ぎぬ」

 できなかったのは、ツカサに才能がないからではない――確かに、こんなものは、才能以前の問題だ。

「よい練習の仕方を教えよう。そうだな――うむ、これがいいか」

 大きめの銀貨をツカサに渡す。古い十分の一パズール銀貨だ。

 まず、銀貨をじっくり見て、その形状を覚える。覚えたら、目を閉じ、瞼の裏に銀貨の姿を思い描く。

 これをひたすら繰り返すのだ。形、重さ、手触りなど、現実のそれと変わらないぐらい、リアルな心象が思い描けるようになるまで。

「これが、そなたの修行の第一歩だ。魔術の世界へと飛び立つために、まず翼の動かし方を学ぶのだ。呪文の発音だの、魔方陣の構成だのは、その後だ」

 ツカサは戸惑ったように、銀貨を見つめている。こんな、何の変哲もない物体が、驚異に満ちた魔術の世界への鍵になるとは、正直――。

「信じられぬか?」

「あ、いや、そんなことは――」

 その気持ちはよく分かる。かつての自分も、そうだったから。

「まあ、焦らずやることだ」

「は、はい、がんばります!」


 *


 それから一週間。ツカサは、掃除や食事の支度などの弟子の勤め――まだ、儀式や実験の手伝いはできないので――のかたわら、地道に修行を重ねていた。

 今も、鍋の湯が沸くまでの時間を無駄にすまいと、銀貨を手に取る。

 じっと見つめ――ぎゅっと瞼を閉じる。

 古びて黒ずんだ銀の色、ひんやりした感触、表面に刻まれたロルクァメスロス王の肖像――細部まで目に焼き付けたはずなのに。

「うう~」

 瞼を閉じた途端、それらはぼやけて霧散してしまう。

 ツカサの苦戦が、エイボンには手に取るように分かる。他でもない、ザイラックに弟子入りした彼自身が、最初に挑んだ修行だからだ。

「どうだ、簡単なようで難しかろう?」

「はい、自分がいかに眼にばかり頼っていたのか、よく分かりました」

「そなたは、まだましな方だ。王都の貴族連中などは、もっとひどい。眼に見えるものしか信じず、金銀で己を飾ることにばかり腐心しておる。眼に見える範囲など、事象のほんの表面に過ぎんというのに」

「――僕らが魔術を使えなくなったのも、そういった理由なんだろうなぁ」

「? 何のことかな」

「あ、いえ、何でもありませんっ。も、もうすぐ、お食事できますよ」

 ショングア豆のスープとパン、そして魚の酢漬けという質素な食事を終えた後で、エイボンは思い出した。

「そう言えば、あの部屋をまだ見せていなかったな。来るがよい」

「は、はい」

 いくつもの扉を開錠の術で開けつつ、正五角形の館の中心へ向かう。そう、その部屋はまさに、この館の中心だった。館の分厚い黒片麻岩の壁は、そこを守るためにあると言っても過言ではない。

 そして、一際ひときわ頑丈そうな、最後の扉が開くと。

「わぁぁ――!」

 ツカサが感嘆の溜息を漏らす。

 その部屋は、館のどの部屋よりも広かった。おそらく、二、三階分の吹きぬけになっているであろう、天井もとびきり高い。その壁一面に、ぎっしりと本や巻物が詰め込まれている。

 これぞ、エイボンの魔道の軌跡、魔道書庫だった。

「カダス録、ヴーアミ碑板群――わっわっ、ナコト写本まで!」

 ツカサが目を回している。言語習得の秘薬のおかげで、背表紙の題名も読めるようになっているのだ――世に数冊とない、稀な魔道書達の。失われかけていた知識に、この書庫が永遠の生を与えたのだ。

 まさにここは、時を超越した奇跡の空間。

「暇な時にでも読むがよい」

「ええっ!? よ、読んでいいんですか」

 ツカサが驚くのも無理はない。魔道書の中には、魔物の召喚術なども記されている。無断で召喚でもされたら、えらいことだ。そのため、弟子の位によって、読める魔道書を制限しているのが普通なのだ。

「無論だ。書物は読むためのものだ」

 だが、エイボンは一切そういったことはしていない。学びたいという弟子の熱意を尊重したいし、何より弟子を信じているからだ。

 ツカサは、震える手でナコト写本を開き――たちまち、素材不明の紙のページに釘付けになる。苦笑するエイボン。とりあえず、今日の用事は免除してやろう。そっと部屋を出る。

 ――そして、翌朝を。

 エイボンは、大いなる驚きと共に迎えたのだった。

「お師匠様、できました!」

 ツカサが何を言っているのか、エイボンは分からなかった。

 結局、徹夜したらしい。眼の下にはくまが出来ている。しかし、その瞳は、朝日を反射して、宝石のように輝いていた。

 それを見て、ようやくエイボンは悟った。

「――心象がか?」

「はい!」

(まさか――)

 普通なら、半年は必要だ。エイボンでさえ、三ヵ月掛かったのだ。それを、一週間で成し遂げた?

(有り得ん――だが)

 この弟子の馬鹿正直ぶりは、よく知っている。

「――分かった、確かめてみよう」

 テーブルの上に、一週間前の術場が再現される。魔方陣が描かれ、人形が置かれ。

 そして、すうと息を吸い――

「エクト、ラ、オーム――来たれ、意思。汝が肉体、ここに在り――」

 ――呪文を唱えだした途端、ツカサの目の色が変わった。

(これは――)

 エイボンには分かった。弟子の目は、確かに見ている。

「サリ=パータ――」

 真理、を意味する呪文を縦糸に。

「フェウエル、ロァーダ、イェシダ――」

 自我、理性、情動の呪文が、横糸のように織り込まれ、半透明の人型――魂という名の織物を形成する様を。

 ともすれば、あっけなく四散してしまいそうなそれは、しかし魔方陣の生み出す力場に導かれ、するすると人形に吸い込まれていく。

 果たして、人形は――。

「! や、やった――!」

 よろよろとではあるが、確かに起き上がった。

「やったやった! ぼ、僕にもできましたよ、お師匠様!」

 感涙にむせぶツカサとは対照的に、エイボンは呆然としていた。長い魔道を歩む過程で、いくつもの奇跡や悪夢を目にしてきた。

 これは――あるいは、それらに匹敵するのではないか。

「――どうやったのだ?」

「はい、子供の頃を思い出してみたんです」

「子供の頃?」

「ええ――」

 ツカサは、懐かしそうに語った。

 彼は、外で遊ぶより、家で本を読んでいる方が好きな子供だった。それも、一般の子供が好むような絵本ではなく、家に代々伝わる怪しげな魔道書をだ。

「あの書庫にいたら、その時の気持ちがよみがえってきたんです」

 それを眺めながら、幼いツカサは思い描いた。魔道士や魔物、そして彼らが行使する魔術の姿を。

 そう、現実の事象のごとく、極めてリアルに。

 そこで、ツカサはひらめいたのだという。

「何となく、今回の修行に通じるものがあるように思えて――」

 ひょっとしたら、参考になるかもしれない。そのぐらいのつもりで、試してみることにした。

 幼い日々の境地に、今一度帰ってみることを。

 一晩中、魔道書を読みあさり、空想にふけった。やがて、ナコト写本から謎の海百合うみゆり状生物が立ち上がり、ヴーアミ碑板群は邪神に捧げる祈りを響かせ、カダス録は神の山の姿を描き出し――ツカサの精神は、夢幻の世界を漂い始めた。

「そして、はっと気が付くと――」

 自分が、何かを握り締めていることに気付いた。

 あの銀貨だった。

 無意識の内に、ポケットから取り出したのだろうか。いや、そうではない。なぜなら、ポケットを探ってみると、ちゃんと銀貨はそこにあった。

 銀貨が、二枚に増えていた。

 一枚は、師から貰った物だ。

 と言うことは、もう一枚は――。

「――と、言う訳なんです」

 ツカサは、片手でもてあそびながら言った――重さも手触りも、本物と寸分変わりない、心象の銀貨を。

「つまり、現実と夢の境目が曖昧あいまいだった、子供の頃の気持ちに戻ってみたら、自然に出来ちゃった訳でして――」

 照れ臭そうな弟子の顔を、エイボンは――ぽかんと見つめていた。

「くくく――」

 それが次第に苦笑に変わり、やがて呵呵かか大笑になる。

「はっはっは――これは参った。まさか、そんな裏技があろうとは! 童心に返る、か――くくく」

「だ、駄目ですか? こんな、ずるみたいなやり方じゃ――」

 なぜ笑われるのか理解していないらしく、ツカサは不安そうにしている。そんな弟子を見ていると、ますます笑いが込み上げてくるエイボンであった。

「狡などではない。そなたは真理に従ったまでよ。おそらく、これまで誰も気付いていなかった真理にな」

 ツカサに分かるはずもない。

 大魔道士たる師が、よもや自分をうらやんでいるなど。

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