練乳と砂糖で出来ている
春義久志
練乳と砂糖で出来ている
「嫌いじゃなかったっけ」
自販機で買って来たアルミ缶を眺め、尋ねてきたのは准の方。
平静を装うワタシは、さも気のないフリで惚けてみる。
「コーヒーは前から飲んでたでしょ」
プルタブを引いて封を切った。溢れて吹き出した黒い雫が勿体無く、手の甲を口元に近づけ、舌で掬った。准のさもしいぞーという言葉に、ワタシは少しだけ顔と耳を熱くする。
「いや、そうなんだけど、なんか違う気がする」
今の准の関心は、ワタシの顔色ではなく、両手で握った内容量250gの筒にあるようだった。額にシワを寄せ腕を組みながら、必死に現在と過去との差異を思い出そうとしている。暗記系科目の評価に如実に現れている彼の記憶力のなさをワタシは知っていたが、期待とは裏腹に彼は何かに思い当たったらしい。
「思い出した。ブラックだよブラック。メーカーまで思い出せないけど、飲む時は決まってブラックだっただろ?」
そう言いながら准は、彼の机の上に乗る、少し太目の黒い缶とワタシの持つ黄色い缶を交互に指差してみせた。驚いた。確かに今、ワタシの手の中にあるのはブラックコーヒーではない。
「あ、今「こいつよく思い出せたな」って小馬鹿にしてたろ」
「してないしてない」
昼食の間中、延々と頭を捻り続ける姿を眺めて時間を潰すつもりだったのは黙っておこう。
「嘘つけ。顔に出てたし」
「わかったわかった」
そういうことには気付くのに、ったく。
こころの中で悪態をつかれてることなど想像もしないのか、准はワタシの顔を覗き込んでくる。心なしが不安げそうだ。
「もしかしてあれか、ビョーキのせいか」
「これだけ様変わりして、今更好きな缶コーヒーの味が変わったどころで、どうってことないさね」
気遣われているはずのワタシが茶化すように口にしても、准の表情は浮かない。
「でもさ、好きなものを嫌いになったり、嫌いだったものを好きになったり、そういう変化が急に起こるって、なんだか怖いことなんじゃないかって思って」
「そんなことない」
遮るように放たれた語気の強さに准が、そして他でもないワタシ自身が驚いた。仕切りなおすように、明るめの口調を努めることにする
「変わっていくこと怖がってちゃ、前には進めないでしょ。そして現に変わってしまったんだもの、前に進むしか無いじゃない。だからワタシは、無糖コーヒーが飲めなくなったんじゃなくて、練乳と砂糖でできているこれが好きになったって思うことにしてんの」
ふっと一つ息をついて、ワタシは椅子を発つ。
「ちょっとトイレ行ってくる。膀胱も前より短くなってるって言われてるからさ。戻ってくるまで待っててよ?」
准の返事も聞かないままに教室をあとにした。巫山戯た口調と裏腹に、うまく笑えていたかどうかの自信はなかった。
無糖コーヒーを飲まなくなったのは、いつからだったろうか。
洗面台で手を洗いながらぼんやりと考えていた。取り出したハンカチで手を拭き、ポケットに仕舞う。スカートにポケットが付いているという、考えてみれば当たり前のことを、日々身に纏うようになるまで考えもしなかった。
気紛れで、鏡に向かって手を伸ばしてみる。自販機のあったかい飲み物ですらやけどを起こしそうなほどにか細くて小さい掌。髪はこの十ヶ月でようやくショートと呼べそうな長さにまで伸びた。スカートの丈は、学校の規定よりも少しだけ長い。女の子一年生のワタシにとって、制服のスカートはまだまだ頼りなく思えて、
鏡面に映る何もかもが、病気に罹る以前とは決定的に違う。そしてそれは、紛れも無く今のワタシ自身の姿なのだ。
どこか、多分便器の水面かなにかに雫が一滴落ちた音で、我に返った。准が教室に置き去りにしていることを思い出して、そそくさと女子トイレを後にする。そうだ、待たせたことへの詫び代わりに缶コーヒーのおかわりでも買っていこう。
自販機の前でどれにするか悩みながら、ワタシの思索は再び、洗面所にいた時と同じ道を辿る。即ち、いつごろから甘いコーヒーを飲むようになったのかどうかについて。
准の言うように、昔―ほんの少し昔まで、缶コーヒーを買うときは決まって無糖のものを選んでいた。特段甘いものが好きなわけではなかったし、背伸びをして飲み始めた無糖コーヒーそのものをいつの間にか好きにもなっていたから。
転機が病気であるのは確かだろう。発症以来、甘いモノが以前よりも好きになっているし、逆に辛いものはあまり食べられなくなった。味覚の変化も病気の症例の一つとして考えられているらしい。つまりワタシの身の上を考えれば、そんなこと別段珍しくもないのだ。
だけど、本当は。
がしゃこんと音を立てて、缶が降りてきた。廊下を歩くワタシが左手に持った加糖コーヒーを飲むようになったのは、右手に持った無糖コーヒーを渡したい相手のせいなのだ。
「男の子ってさ、かえるとかたつむり、子犬の尻尾でできてるんだってさ」
「何だか知らないけど、気持ち悪いなそれ」
缶コーヒーを二人分持ち帰ったワタシを出迎えたのは誰もいない教室。置いて行かれたという考えが頭をよぎったが、程なくして准が戻って来た。電気はついたままだったし、大方、トイレにでも行っていたのだろう。少し散らかっていた教室を片付けながら、少し無駄話をしてみることにした。
「マザーグースって名前、聞いたことくらいはあるでしょ」
「アメリカだか、イギリスだかの童謡だっけか」
「そう。「ロンドン橋落ちた」とか「メリーさんの羊」とか、英語圏の色んな所で親しまれてる。んで、さっきのはその仲間の「男の子って何で出来てる?」っていう童謡の一部なんだ」
「小学生男子の好きそうなラインアップではあるな」
「今も昔も、文化が違っても変わらないんだね」
「確かに。じゃあ鍵掛けるぞ」
「うん、任した」
施錠に使った鍵を職員室に持って行きがてら、さっきの話の続きをする。
「さっきの童謡、一番で終わりじゃなくて、二番もあるんだよ」
「まあ童謡だしな。一番が男の子なら、二番は女の子か?」
「正解。今日は冴えてるね」
「馬鹿にしくさって。んで、何で出来てんだ、女の子は」
「んとね、砂糖とスパイスと、素敵な何か、なんだってさ」
キリの良い所で職員室に到着した。中にいた先生に鍵を預けて立ち去る。あんまりちゃんとやらないと鍵を貸してもらえなくなるので、一応はこうしておかなければならない。
昇降口へと向かいながら、准が口を開く。
「マッカン飲むようになったのって、そういうことか?」
やっぱり今日の准は冴えてるよ。ピッチを上げて少し先を歩きながら、ワタシも彼の問いに答える。
「阿呆くさいよね。かえるやかたつむり、犬の尻尾で出来てるものに砂糖混ぜたって、それは、やっぱり違う何かだろうさ。なれても肥満体が関の山だっての」
別に苦いものが飲めなくなったわけじゃない。ただ、ベタ甘なあの乳飲料を摂取し続けて、この身が甘いものでいっぱいになって、身も心も女の子になれたなら、いつか、少し後ろを歩く男も、オレではなくワタシに気がついてくれるんじゃないか。そんな女々しい“おまじない”だ。
昇降口に着いた。切り出したのがワタシの方からだったとは言え、おまじないはバレてしまってはその効果を期待できないだろう。少しバツが悪いし、そそくさとローファーに履き替える。
「悟がなんで、そこまでして早くそうなりたいのか、ホントのことは分からない。けどさ」
駆け寄ってきて、ワタシの目の前に立ち塞がる。両肩を掴む力は、かつての、そして今のワタシよりもずっとずっと強い。ワタシの目を真っ直ぐに見つめてくる准の双眸。見上げるかたちのワタシの目はきっと、太平洋のマグロたちよりも泳ぎまくっているだろう。
「たとえお前が、かえるやかたつむりや子犬の尻尾でも、砂糖や練乳で出来ていなくても、全部混ざってぐちゃぐちゃになっててもだ。俺は今までだってお前の友達、味方でいたつもりだし、これからだってずっとそうだ。忘れないでいてくれよ?」
その刹那、5時のチャイムが鳴る。学校のものではない。町内に引かれた、放送用のスピーカーから聞こえてくる音楽で我に返った准は、弾かれたようにワタシから手を離した。
「頼りにしてるよ、親友?」
ちょっと小馬鹿にするようにそう言って、一足先に昇降口を下った。悪気はなかった!と弁解をしながら追いかけようとするも、まだ内履きのままだったことに気付き、慌てて下駄箱に向かう。そんな准の姿は面白かったので、さっきの非礼は、ひとまず水に流すことにしておこう。
「じゃあね」
また明日、と准の家の前で別れる。
「ニブチンめ」
背を向けた准に聞こえないよう独りごちた。こうして一緒に下校しているのも、ワタシが男だった頃とおなじ感覚でいるのだろうと思うと、少し腹立たしいような、諦めに似た感情が湧いてくる。もっとも、家まで送ってほしいの一言を口に出せないワタシにも非はあるけれど。
玄関の扉が閉まりきるまで准の背中を眺め続けた。ルーチンワークを終え、家路を辿りながら、ワタシは鞄から缶コーヒーを取り出す。ワタシが自販機で買ったものではない。教室に戻った時、トイレに行っていた准が机に置いていた飲み残しだ。ほとんど残ってはいないけど、このまま捨てるのは偲びない。
アルミのキャップを開けて、飲み口にそっと唇を寄せる。傾げた缶から食道を伝っていく僅かな液体は、甘い飲み物ばかりで渇いていた喉を舌を口腔を潤してくれる。
「やっぱり苦いや」
その時のワタシには、コーヒーの味がかつて好んで飲んでいた筈のものと少しだけ違うような、そんな気がした。
練乳と砂糖で出来ている 春義久志 @kikuhal
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