第3話 ねこまんま

「そんな馬鹿な」

 墓標は消えたのではない。初めから太郎の目の前に、堂々と姿を現していた。たった二日。それだけの間に、成木へと変化してしまったのだ。

 彼はべしべしと墓標の木の幹を叩いた。頑丈で、しっかりした手ごたえだ。つくりものとは到底思えない。木の皮の感触が本物だ。

「亀一、お前ずいぶん大物になっちまったなぁ」

 供え物の小魚を出してやる。

 これで酒があれば、どんなにいいだろう。酌み交わす友がいれば最高だ。

 太郎は根元にあぐらをかいた。背を幹にもたせかけて、水平線を見つめる。陽光がまぶしくて、目を細めた。しばらく同じ姿勢のまま、ぼんやりしていた。

 潮風が砂粒を運んでくる。口の中がじゃりじゃりして、太郎はつばを吐いた。今日もいい天気だ。きっと忙しくなる。毎日こうだったら、亀一も村に受け入れてもらえていたかもしれない。余裕があれば、人はおおらかになる。

「まったく、間の悪いやつめ」

 太郎は腕を背後に回し、木の幹を軽く、こぶしで二度叩いた。

 さて。

 仕事へ行くとするか。

 片膝を立てると、太郎は腰をあげた。尻についた砂を払い落す。足元へ視線が向いた。

「うおっ!」

 思わず後ずさる。いつの間にか、供え物の魚が大きくなっていた。

 なんだこれは。いったいどうなってしまったのだ。よもや、俺の頭がおかしくなったのか?

 おそるおそる、根元へ近づく。魚は砂にまみれ、生気がない。完全に死んでいる。太郎の見間違いではなかった。たしかに魚のからだは、体積が増えていた。

「亀一、おまえ……」

 何なんだ、これは。

 太郎は脇に、いやな汗がしみ出すのを感じた。

 薄気味悪い。闇の中を、亀一と担いで帰った、あの生き物の姿を思う。太郎は漁師になってそれなりにたつ。海の怪談も、いくつか聞かされた。船底に穴をあけて沈没させる怪異。水平線に浮かぶ幻の都。水底へと引き込む手。しかし、そのどれとも違う。

 足が砂浜からほんの数寸ばかり、浮き上がっている感覚だった。どうも自分がおぼつかない。

 唇をなめる。しかし、舌はからからに乾いていた。

 うぅ。

 死んだ魚の目が、太郎を恨めしそうに見つめている。もう、帰らなければ……。

 そのとき、

「に゛ゃあ゛ぁぁぁ」

 足元から獣の鳴き声がした。

「うわぁ!」

 思わず太郎は悲鳴を上げる。びくりと肩がこわばった。すぐ視線を左右に走らせる。

 茂みの中から、小さな体躯が姿を現した。黒いぶちの、険しい顔つきをした猫だった。

 太郎の様子を窺いつつ、そろり、そろりと距離を詰めてくる。亀一の小屋近くで見かける野良猫だった。亀一は、

「俺は飼ってねえよ。かってに寄りついてくるんだ。気まぐれに魚の骨をやってたから、たぶん味を占めたんだろう。来るたび食い物くれてたら、俺の食うもんがなくなっちまう」

 とぼやいていた。

 すまんが亀一も小屋も、なくなってしもうた。ここには、お前さんの欲しいものなど、もう残っておらんぞ。

「に゛っ」

 それはまさしく早業だった。

 太郎の持ってきた魚をくわえると、あっという間に猫は茂みへ姿を消した。

「あっ! こら!」

 後を追うが、草に紛れて居場所がわからない。それに本気で捕まえようという気力も湧かなかった。亀一だって、あの野良猫になら供え物を奪われても許してくれるだろう。

 あの魚、食べてしまっても大丈夫なんだろうか。

 死んだら死んだで、それまでだ。想像すると、いくぶん可哀想な気はするが、しょせん猫よ。化けて出ないことを願うのみ。

 太郎は防砂林を抜け、今度こそ家へと戻った。

 朝飯をかきこむと、仕事へとりかかる。船を出し、昼を過ぎて浜へ戻ってくると、収穫した魚と村中で格闘した。売るもの、家で食べるもの、保存食にするもの。滅多に見られない魚介類が網にかかっていた。やることは山ほどあった。日が暮れてからも作業は続き、晩飯はいつもよりずっと遅い時間になった。

 眠りにつく前、横になりながら太郎は、船の上で見た光景を思い返していた。浜辺は白く、防砂林は茶色と緑に塗り分けられている。どこに亀一の墓があるかなど、ちぃともわからなかった。彼はもう、太郎の前には姿を現さない。そういう実感があった。さざ波の幻聴に耳を澄ませ、太郎は亀一のことを思った。

 数日に一度だった墓参りは、週に二度になり、一度に減り、とうとう二週に一度へとペースが落ちた。もうしばらく、猫の姿を見かけなかった。あれから、魚を供えるのはやめてしまっていた。そのせいだろうか。

 また魚が大きくなりでもしたら、と思うと気味が悪い。

 三年がたち、太郎の墓参りは一年に一度になった。どんどん浜から魚が失われた。まるでかくれんぼでもしているかのようだった。亀一が消えたころ起こった大漁の、反動が訪れたのだと村人は口々に言った。異常気象はない。しかし、なぜだか近海で魚がとれなくなっていた。

 一日に一食の生活。

 子供は腹が減ったと泣きわめく。大人だって泣きたかった。子供に食わせる飯がないのがつらい。幼子の泣き声が、神経を逆なでる。いらだちと無力さ、そして拗ねたまなざし。太郎のよく知る村の姿だった。

 気を紛らわせようと、久々に太郎は墓参りへ出かけた。亀一によく、愚痴を聞いてもらったものだ。なつかしい。まるで前世の記憶みたいだ。たった数年前の出来事が、かすみがかっていく。このまま、どんどん忘れていってしまうのだろう。事実、亀一の顔を克明に思い出せずにいる。

 防砂林を抜けて、やたら雑草の生い茂る一帯へたどりつく。果たして、そこには丸々と太った猫がいた。

「あいつ、あのときの」

 太郎は離れた場所から、間隔をとって様子を窺う。

 そうだ、間違いない。亀一の墓に供えた魚を、ねこばばしたやつだ。

 二回りは体が大きくなっている。村は飢えで苦しんでいるというのに。

 太郎は理不尽さに打ちひしがれた。

「こんな、馬鹿な」

 いや、待てよ。

 待て待て。大切なことだ。

 思い出せ。この猫、死ななかったのか。あの魚を食べて、無事だった。無事どころか、でっぷり太って、貫禄まで出ている。

 いったいどこに、そんな餌がある?

 ――!

 ひらめきが、太郎の身体を打ち抜いた。てっぺんからつま先へ、血が巡るのを感じる。この考えが正しいかどうか、見極めなければならぬ。そうとなったら観察だ。とにかく猫が餌を食べている姿が見たい。

 太郎は辛抱を重ねた。結局、丸一日、変化がなかった。すごすごと引き返す足取りは重い。それでも、時が訪れるのを待った。もしかしたら家族を、村を腹いっぱいにしてやれるかも、という希望。それがスカスカになった太郎の腹を満たす。

 警戒した猫に、逃げられることもあった。天候に恵まれず、家で閉じこもるだけの日もあった。無論、仕事だってある。無駄足だと思いながら、かすかな希望にすがるように船を出す。そして、落胆を乗せて戻っていく。

 忍耐が実を結んだのは偶然だった。猫の食事風景に、太郎はようやくありつけたのだ。

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ウラシマタロウ・ビギニング 花木理葉(HANAKI Riyou) @flowercut

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