第2話 消えた墓標

 翌日、太郎はすっかり寝坊してしまった。彼ができたのは、村の衆から話を聞いて回ることだけ。すべてはもう終わったあとだった。

 曰く『日の出の時間に空があやしく光っていた。緑と紫と黄色が混ざり合って、なんとも不気味だった。よくないことでも起こるんじゃないか』

『防砂林に近づいたら、すばしっこい生きものと遭遇した。山でも見たことのない生きものだった』

『最初にたどり着いたときには、すでに火の柱は勢いが衰え、小屋は燃えおちとった』

『煙はたまらん異臭で、近づけたものじゃかなった。変なものを吸い込むといかんから、あの小屋には近づかん方がいい』

『どうせよそ者だ。身寄りもおらん。こういっちゃなんだが、手間が省けたわ』

 太郎は怒りよりも、悲しみよりも、虚しさが胸に打ち寄せた。虚無感というか、虚脱感というか、とにかくがっかりした。

 これでもう、余生の楽しみはなくなった。ああ、この先ずっと俺はこのままなのか。こんなことなら昨夜、強引に亀一の家に泊まってしまえばよかった。

 何をどうしても、後の祭り。

 太郎は同時にふたつの友を失った。酒と、酒を酌み交わす相手だ。とてもしらふではいられない気分なのに、肝心の酒がない。防砂林の陰に隠れてうつむけば、ぼとり、ぼとりと涙がこぼれた。ぬぐっても、ぬぐっても頬が濡れる。洟をすすると、彼は村の者の言葉を思い出した。

 よそ者で、身寄りがない。

 亀一を弔ってやるものは誰もいない。

 そうだ。墓を作ってやろう。寺で葬式を出してもらうのもいいが、生前そんな話をしたことがあっただろうか。

 太郎の脳裏に、亀一の肉声がよみがえる。

「坊主なんぞ、みんな生臭だ。あんなもん、身内に意地悪するのが楽しみで生きてるような連中だ。仏は信じられても、坊主は虫が好かん」

「なんだ亀一、お前さん出家でもしてたのか」

「よせよせ、冗談じゃない。俺の信心は修行なんぞしなくたって、ずっと心の中にある。坊主は仏が信じられんから修行してるんだ。あいつらの方が俺よりよっぽど腐ってる」

「悟りを開くため、修行してるんだろうに」

「結局おのれのためさ。他人のためじゃない。仏が慈悲深いのは、どこにもおらんからだ」

「俺には亀一の言ってることが、さっぱりわからん」

「坊主なんぞ、くそくらえってことだ。あんなもん、俺にだってできる」

「なら最初から坊主になりゃよかったんだ」

「ちげえねえ」

 寺で経を読んでもらうくらいなら、太郎が自ら黙とうした方が、亀一は喜ぶかもしれない。とにかく、小屋まで行ってみよう。どうせ今日は、仕事が手につかないだろう。やるだけ無駄だ。

 これは、俺にしかできぬことなのだ。

 意気込んで焼け跡に向かう。防砂林を抜けて現れたのは、見晴らしの良くなった浜辺であった。昨日までは存在したものが、今はもうなくなっている。なんとあっけない。

 小屋近くに立つ木の幹は、焦げ跡で黒くなっていた。

 灰は風に流され、ずいぶん少なくなっているようだった。しかし、それにしても妙だ。太郎は首をかしげた。

「こんなにきれいに燃えるものなのか?」

 あまりに何もなさすぎる。大火事でもないのに、いや、大火事であろうと木材くらいは炭になって残るだろう。しかし小屋があった形跡は完全に失われていた。

 全焼したって、柱くらいは焼け残るだろうに。

「亀一よぉ。どこにいるんだ」

 太郎の呼びかけを、波音がかき消していく。しばらく呆然としていたが、太郎は防砂林へと、とって帰った。適当な長さの枝を探す。はじめはへし折ろうとしたが、上手くいかない。のこぎりでもないと無理だろう。

 しかたなく、落ちている細い枝きれを拾い、もう一度戻った。

 そうして灰の残りをつつく。山もりだったであろうそれは、砂にまじって、だいぶ平たくなってしまっていた。

「ないぞ。こりゃ、どうなってんだ」

 火葬したって、骨くらいは残るものだ。なのに、その骨がない。小屋と同じだ。いったいどれだけの火力があれば、そんな芸当が可能なのだろう。ここは海辺だというのに。

「よもや亀一」

 生き延びたのではあるまいな。ああ、そうであったらどんなにいいだろう。太郎の心に、安らぎが染み出てくる。

 うぬ、ちょっと待った。昨晩、浜辺から連れ帰った生き物はどうなったのだ。一緒に燃えてしまったのか。

 つつけどつつけど、灰の山が崩れるだけで何も出てこない。ここにあるのは何の燃えかすなのだ?

 太郎は再び首をかしげた。何が起こったのか、さっぱりわからない。これで亀一が生きていてくれたらなぁ、と思わずにいられなかった。ともかく、棒切れを持って遊んでいてもしかたない。

 太郎は一念発起すると、減り続ける砂を尻目に、穴を掘り始めた。一晩あければ、灰すらなくなってしまうだろう。小屋のあった場所は海も見えるし、眺めがいい。墓標を立てるには申し分なかった。遺灰をどこかへ移動させずとも、このまま埋めてやるのがいいだろう。

 黙々と作業を続け、日が傾くころにはすべてを終えた。太郎が孤独な仕事をこなす間、近寄ってきたものは誰もいなかった。生前からこのあたりは、そういう場所なのである。

 墓石の代わりに、彼は持ってきた枝をさした。真っ黒に汚れた手足を、海水ですすぐ。ひとすくいほど両手に水をため、枝の上からかけてやった。俺が弔いに来てやらねば、と太郎は責任感にも似た思いで、浜を後にした。

 翌日はさすがに漁に出た。いつまでも休んではいられない。妻に心配されたが、体を動かしていれば気がまぎれる。海は穏やかで、船は大漁だった。太郎の船だけではない。村中の男衆が、恵比須顔で帰ってきた。魚がとりきれないほどだ。もったいねえ、もったいねえと誰もが口走る。それほどの漁獲量であった。悪いことがあれば、いいこともあるものだ。人間万事塞翁が馬とはよく言ったものである。村は祭りの騒ぎで、てんてこ舞い。女子供はみな手伝いにかり出された。

 その翌日、朝早くに目が覚めた太郎は、亀一と謎の生き物の墓参りをしに出かけた。昨日の出来事を報告しようと思ったのだ。防砂林を抜け、供え物片手に、おとといと同じ道筋をたどる。今日は少し風があった。

 このあたりだったはずだ。

 いやに雑草がしげっている。こんなに草深い場所だったか。もしや、道を間違えただろうか。

 いや、しかし。

 間違いなく、この場所だ。

 かつて小屋が立ち、今は墓となった場所へとたどりつく。

 しかし太郎は、自らが用意した墓標を見つけられず、当惑した。

 幹が焼けて黒くなった木がいくつかある。周囲の風景も同じだった。遠くに見える岩の様子、太陽の位置、浜に落ちている海藻。すべてが昨日のまま、形をとどめていた。なのに、墓標だけがない。

 まさか。

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