ウラシマタロウ・ビギニング

花木理葉(HANAKI Riyou)

第1話 酔客ふたり

 いやに月の低い晩だった。太郎はこっそり、家を抜け出す。防砂林に紛れるようにして、浜を横切った。しばらく行くと、今にも崩れそうな掘っ立て小屋がある。そこが亀一きいちの住む場所だ。

「おーい! 邪魔するぞ」

 太郎は小さく声をかけると、木戸を開ける。土間を上がれば、すぐに囲炉裏だ。畳は潮風にすっかり傷んでいる。しかしどこから調達してくるのか、亀一の家にはなぜか、必ず酒があった。今日も徳利が鎮座している。

 しかし肝心の家主の姿が見えない。

 隠れるような場所などない。そもそも家財道具がない。十畳の空間は、がらんとしていた。

「自分から呼んでおいて、雲隠れかぁ? 酒、ぜんぶ飲んじまうぞ」

 風のない晩だ。木戸はそのまま、たたきに腰かける。手にとった徳利は、ゆすると重みがあった。

 しばらくぼんやりと過ごす。聞こえるのは、寄せて返す波の音だけ。風はおとなしい。これで潮風があると、小屋の中は砂だらけになる。よくこんなところに住めるものだ。

 亀一は若いころ、都で罪を犯したという。それがどんなものか、具体的には知らない。太郎は知りたいとも思わなかった。老境にさしかかろうかという、孤独なよそ者だ。村人ともあまり交わろうとしない。役人が来ると雲隠れする。数日、家を空けるのも珍しくない。

 都にいられなくなるほどの罪。

 そんなものは、過去の話だ。亀一は酒癖こそ悪いが、根は陽気で親切な男だ。太郎は彼の酒も好きだが、存外、馬が合う。脛に疵持てば笹原走るという。もしや、今夜は戻らぬかもしれぬ。

 太郎が立ち上がろうとした、そのとき。戸口を影が覆った。

「ぬ……おぬし、太郎か?」

「おう。いやに遅かったな。小便でもしてたか」

「ちょっと手伝ってくれ。得体のしれない生き物が倒れておる」

 太郎は笑った。

 得体のしれない生き物とはなんだ。

「もう酔ってるのか。俺も待たずに、ひとりで始めておればよかった」

「いいから来い。人手がいる」

「なんだ、いやに神妙だな」

 太郎は立ち上がると、亀一の横に並んで、足早に浜を歩いた。月の位置が動いている。木々の様子が、はっきりと見えた。

「あそこだ、ほれ」

 亀一が指さす先に、何かが倒れている。

 どうやら嘘ではないらしい。

「家まで連れて行って、休ませる。ここで寝てるよりはマシだ。肩を貸せ」

「おう」

 一糸まとわぬ姿かたちは、人間に似ている。しかし肌がまるで魚のようにざらつき、くすんだ緑色をしていた。波に打たれ、ぬらりとした髪は海藻を思わせる。

 とりあえず二人で肩を貸し、引きずるように浜を戻った。

「意識はないようだな。この……女か? 人なのか?」

 太郎が尋ねた。

「あやかしかもしれん。訊かれても、俺にだってわからんさ。さっき見つけて、しばらく様子を見てたが、ぴくりとも動かねえ。このままじゃ死んじまうかもしれんと思ってな」

「生きてはいるみたいだな」

 呼吸をしているのか、胸部が上下に動いている。

 あやかしの類を助けるなんて、化かされているんじゃないか。しかし太郎は、それでも別にいいと思った。妖怪変化に一杯食わされるなんて面白い。あとで村のみんなに自慢してやろう。

 いや、ほら吹きと馬鹿にされるかもしれん。むやみに人に話すのも問題か。

 小屋に戻ると、あやかしを横たえる。

 亀一は徳利をつかむと、

「今夜は外でやろう」

 と言った。月見酒としゃれこむのも悪くない。

 浜の灌木に並んで座り、海を眺める。泥のござが、うぞうぞとうごめいている気がして、太郎はすぐに空へと目をそらした。

「お前、あんなの見たことあるか。ここの生まれだろう」

「亀一の方が、あちこち見てきて詳しいんじゃないのか」

「さっぱりわからん。見たことも、聞いたこともねえ。よくないことが起きなきゃいいが……」

「亀一がわからんなら、俺にだってわからん」

 太郎は渡された徳利に口をつける。椀などない。回し飲みだ。

「ありゃあ、どっか怪我でもしてるんか。それとも気ぃ失ってるだけなんかな、亀一。ぐったりしとったけども、出血しとるようには見えんかったぞ」

「はっきりとは言えんが、全身ずぶぬれだった。ありゃ、海から流れ着いたんだ。運よく命はつなぎとめられたにせよ、今夜が山だろう。意識が戻らにゃ、なんもできん」

「どっちみち、この村に医者なんぞおらん。町まで行けばどうにかなるが、そんな金なぞあったら貧乏しとらんて。お前と飲み交わす酒が楽しみだというのに」

「なんだ太郎。殊勝なこと言いやがって。気にしてるなら、つまみくらい持ってこい」

「この前、小魚を持ってきてやったろう。この酒は、あれのつりだ」

 徳利をあおると、太郎は口元をぬぐい、亀一へと返す。

 粗悪品でも、ないよりはいい。酔いが全身にしみわたる。

「あんなの、昨日のうちになくなっちまったよ」

「うまかったろう」

「ああ。なかなかうまかった」

「俺の釣った魚だからな。まずいわけがない」

 太郎は笑う。亀一も笑っていた。

 会話が途切れる。

 どちらからともなく黙った。太郎にとって彼は、沈黙を苦なく共有できる相手だった。村人には大っぴらに言えないが、貴重な友人である。嫁よりずっと気を遣わなくてすむ。

 太郎は、今頃は家で眠っているであろう家族を思った。そして、今夜のことはまだ内緒にしておこうと考えた。どう伝えたらいいのか、決めあぐねている。

「飲むか?」

 差し出された徳利を受けとる。

 一気にあおると、中身が空になった。

「すまねえ、全部飲んじまった」

「かまわん。俺は昼間、飲んだ」

「こいつめ、うらやましいこった! 俺は今日は家でかあちゃんと内職仕事だ」

「そうだろう、そうだろう。妻子がいるから何だ。大いにうらやめ」

 亀一が豪快に笑う。俺なんて、とケチなことを言わないところに太郎は好感を覚えた。

「ふいぃ~」

 気を緩めると、思わずあくびがついて出た。

 少し寝てから来たが、酒が回ったせいか、眠気に襲われる。このままここで、朝まで横になってしまいたい。でも家に戻らなければ、嫁が心配するだろう。

「眠そうなツラしてやがる」

「眠いんだ」

「今日はもう帰れ。どうせ来客中で、うちには上がれん。家で寝ろ」

「酔いを醒ましたい」

「知るか。寝て起きれば、酒なんぞ抜けてるさ。俺も家に帰って、しばらく横になる」

「そうか、うん……わかった。今日はおひらきにしよう」

「じゃあな」

「また、明日の晩に様子を見にくる」

「今度は手土産を忘れるなよ」

 おう、と返事をして太郎は腰を上げた。それが亀一を見かけた最後になるとは露ほども思わず、防砂林を戻る。なぜなら彼は睡魔と戦うことで手一杯だったのだから。

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