私たちの物語

松本昆布

私たちの物語

 私が久しぶりに見た彼の顔は、やはり悩んでいる顔だった。パソコンのキーを慎重に叩きながら、時折頭を抱え、小さく唸り声を上げる。傍らにエナジードリンクの缶が置かれる。彼が作品を作るとき、しばしば目にする光景だ。

 私は真正面から、彼を見据える。その表情が面白いものかと問われるとそうでもないけれど、その苦闘の様子を見守り続けることしか私にはできないのだ。


「や、『ヒロインちゃん』。またこいつを見てたの」

「久々に書き出したねえ。今度こそしっかりやり切れるといいけど」


 いつの間にか私の横には、「三枚目くん」と「長身くん」がいた。三枚目くんの方は、露骨に嫌そうな、でもどこかコメディチックな雰囲気。長身くんの方は、名前通りの長身に、微笑みが似合う端正な顔。どちらも普段と全く変わりはない。

「今回はきっとやりきれるよ。念入りに準備してたみたいだしね」

 私がそう答えている間も、彼はディスプレイに文字を打ち込み続けている。

 改めて思い返すと、この人は作品に対するモチベーションというか気合というか、そういったものがはっきりと外から見える。私が初めて彼を見たときは、キーを触る指の動きがいちいち緩慢だった。他方、前に力作を書きあげたときなんかは、獲物を追いかける蜘蛛みたいに、手が忙しく走り回っていた。

「まあ確かに、今回はやれそうな気がしちゃうね~。癪だけど」

 三枚目くんは苦虫を噛み潰したような表情のままだ。ギャグをかます担当の人がそんなことでは、正直ダメだと思う。

「いいじゃん、ギャグなんか今更やる必要もない。むしろダークキャラでいようと思う」

「なんで」

「なんとなく」

 私の意見を率直に伝えても、三枚目くんはどこ吹く風といった様子だ。

「まあまあ、大丈夫じゃないかな」

 その光景を見て、長身くんが苦笑した。


「本来、僕らを動かすのは彼の仕事だ。彼がその仕事をしてくれる時がくるかは、知らないけどね」


 そう言って長身くんはまた彼を見る。二本目のドリンクの封が開けられた。今日はよっぽど熱を入れて書いているらしい。


 私たちの会話は、いつだってどこかで途切れる。話すことが尽きるから。

 尽きるのは、私たちが未完成だからだ。


「『今回はちゃんと書き上げる』に一票投じるよ」

「じゃ俺は、仲間が増えるに一票」

「さっき、やれそうな気がするって言ってたのに」

「あっさり同調しちゃつまらん」

 沈黙に退屈したと見えて、二人はまた彼についての論議を始める。

「ヒロインちゃんはどっち? 今ここには三人しか来てないから、君の投票で決まりだ」

 二人が私に目を向ける。

「さっきも言ったでしょ、今回はやれるよ」

「ヒロインちゃん、毎回そう言うよね」

 長身くんはそんなコメントを寄越す。私は今までこの手の議論において、常に物語の完結を信じていた。それが正しかったことは、多分半分も無いのだけれど。

「彼をいつも信じる理由は何?」

「私自身、そうであって欲しいからだよ」


 私の回答は、間髪入れずに口を飛び出した。


「そうであれば、思えるじゃない――『私みたいな没になったキャラだって、何かの役に立てたかな』――なんて」



 彼は私たちの創造者であり、そして私たちを放棄した人間でもある。

 小説家を名乗る彼は、いつもこのパソコンに作品を生み出す。生まれた文章ファイルの中には、日の目を浴びず眠っている作品がいくつもある。いや、厳密にはそれらは「作品」とは呼べない。その文章たちに、「完結」の二文字はついていないのだ。


 プロットに沿ったならば、私は本来、青春を謳歌する一人の女子高生として、同級生と旅に出るはずだったのだ。三枚目くんはどこかの会社のムードメーカーで、長身くんは日本を裏の世界から取り仕切る大物。そんな風に、私たちは何かになるはずだった。


 彼が心変わりを一つしただけで、私たちの未来は消えた。フォルダの中に残された誰かたちは、何が欠けているのかも分からないまま、ただただ進まない日々を食い潰す。けれど消されることもない。確かに彼の手にあるはずの「削除」という選択肢は、私たちには下されていない。それが気まぐれなのか未練なのか、少なくとも私には見当がつかない。ただ、その事実だけが、私たちの存在を繋ぎとめる。しっかりとした形が無くても、ここに不完全な証拠を残す。何にもなれないままで、私たちはこの電脳の虚空を彷徨い続ける。



「私は、きっとこれからもずっとこうしてるんだろうな、って思うんだ。このパソコンとかデータとかが、丸ごと新しいのに取り換えられる、その日まで」


 一度止まった作品が、何らかの理由で再び手を加えられる可能性というのは、決してゼロじゃない。しかし私が思うに、その可能性というやつは、物語の進み具合と密接に関わる。冒頭部分だけで切れてしまった私の物語と、ある程度の節目まで進んだ三枚目くんや長身くんの物語とでは、期待できる程度も違う。私にはきっとこれからも、未来が与えられない。


「だから、本当に消えちゃうときが来るまで、私は信じたいの」


 ――私にも、何かの意味が有ったんだ、って。


 きっとそうだ。私たちと、彼みたいな人間と。

 二つの間に、あえて共通点を見出すとすれば――きっと、意味が欲しいのだ。

 何かを成すことで、自分という存在に意味が欲しいのだ。

 間違っているかもしれない、証明する手立てなんかありもしない。

 それなのに、未熟な私にはその些細な一文が、どうしても真実であるかのように思えてしまうのだ。



「さて、また一寝入りしようかなあ」


 それから取り留めも無い雑談を少しして、三枚目くんと長身くんは伸びを一つする。

「丁度、執筆も一段落したようだし」

「とはいえ、まだ一番の山場には辿り着いてないみたいだけど」

 ずっと入力が続いていたけど、それでもまだ今回の作品は完成に至っていない。


「大丈夫。ここまで勢い付いて書き進められたんだから、必ずエンドロールまで行けるよ」


 私が二人に笑いかけたのと同時に、マウスポインタが保存のボタンへ動き出す。私たちを作ったのと同じように、また一つ生命を生み出したこの人は、また一つ存在をここに刻み付ける。

 眠る物語の横に、新しく産み落とされた物語が並ぶ。

 終わる日を待ちわびる、新しい存在が、終わらない私たちを見つめている。

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