真珠のペンダント

上倉ゆうた

真珠のペンダント

 彼の人生は、おおむね順調と言えた。

 若くして事業に成功し、大金持ちとまでは呼べないが、それなりの余裕はできた。

 閑静かんせいな郊外に建てた新居では、貧乏だった頃から苦楽を共にしてきた美しい妻が、毎日手料理を用意して、彼の帰りを待ってくれていた。

 彼は、現状に十分満足していた。

 それでも、強いて問題点を挙げるとするなら、未だに子供が授からないことぐらいか。

 病院で調べてもらったところ、どうも妻の体に原因があるらしい。それを知った時、妻はひどく落ち込んだ。私が至らないばっかりに、ごめんなさいごめんなさいと繰り返し謝る妻を、彼は君のせいじゃないと慰めることしかできなかった。

 それから妻は、ありとあらゆる不妊治療を試した。治療の権威がいると聞けば、どんな遠方にでも訪ねに行き、特効薬だと聞けば、どんな怪しげな薬も躊躇ちゅうちょせず飲んだ。普段は大人しい彼女に、こんな行動力があったのかと、彼が驚く程だった。

 しかし、彼女の必死の努力も空しく、子宝が授かることはなかった。いざとなったら、養子を貰うという手もある、あまり根を詰めすぎるなと彼がいさめても、どうしても自分で産みたいのだと、妻は聞き入れなかった。女性の母性本能の強さに、彼は感心すると同時に――正直、少し不気味なものを感じていた。

 そんなある日のこと。出張先で、彼は偶然、その店を見つけたのだった。

 路地裏にひっそりとたたずむ、洋館風の建物。その入口に掛けられた、よく見ないと見逃してしまいそうな小さな看板には《海外アンティーク各種取り扱い》と書かれていた。

 西洋アンティークの蒐集しゅうしゅうは、彼の唯一の趣味だ。掘り出し物はないかと入ってみると、店内には異空間が広がっていた。

 ツタンカーメンのマスクのレプリカ、魔神がひそんでいそうなランプ、占い師が使うような水晶球等、ありとあらゆる奇妙な品が雑多に積まれ、ほこりを被っている。

 これはちょっと、自分の専門分野ではなさそうだと感じた彼は、冷やかしで帰るつもりだったのだが、ふと、ある品に目が留まった。

 ガラスのケースに収められたペンダント。古代文明の象形文字のような形のチェーンを連ね、トップには大粒の真珠があしらわれている。それは薄暗い店内にあっても美しく輝き、同時に年代物らしい古々しさも兼ね備えていた。

 店主に由来を尋ねてみたが、アフリカから伝わった品ということ以外、よく分からないとのことだった。由来不明な分、アンティークにしては手頃な値段だったこともあり、彼は迷わず購入した。

 それから数日後の結婚記念日、彼は妻にそのペンダントを贈った。少しでも元気付けられたらと思ったのだ。幸い、妻はペンダントをとても喜び、久し振りに心からの笑顔を見せてくれた。

 それから妻は、お洒落しゃれの機会がある度に、ペンダントを身に付けた。そんなに気に入ってもらえて、彼も贈った甲斐かいがあったと思った。

 それにしても、ペンダントは妻によく似合っていた。一風変わったデザインも、彼女が身に付けると、全く違和感がない。ペンダントを胸元に輝かせた妻は、まるで遠い異国の女王のようで、彼女が妻であることに、彼は改めて喜びを感じるのだった。

 その喜びに、困惑が混じり始めたのは、結婚記念日から一ヵ月が過ぎた頃だった。

 久し振りに二人で外食をした帰り。その時も、妻はペンダントをしていたのだが、それを見た瞬間、彼はふと違和感を覚えた。

 何だろう、以前とどこか違っているような――家に着くまで考え続けて、ようやく気付いた。

 トップの真珠が大きくなっている?

 まさか、気のせいだと、その時は流してしまったが、それからさらに一ヶ月後、彼は自分の思い過ごしではないことを確信する。

 大学の同窓会から帰ってきた妻の胸元で揺れる真珠は、一目で分かる程大きくなっていた。彼が購入した時の倍近いだろうか。

 彼が指摘すると、妻は始めてその事実に気付いたようだった。だが、さして気にしている様子もなく、何だか得をした気分だと笑っていた。

 一方、彼は妻ほど暢気のんきにはなれなかった。未だ貝の内部にるかのごとく、勝手に膨らみ続ける真珠――不気味なものを感じずにはいられなかった。

 それからも、真珠は膨らみ続けた。ゆっくりと、しかし確実に。最早、真珠としては規格外のサイズだろう。

 気味が悪かったが、あれ程気に入っている物を、まさか捨てろと言う訳にもいかない。きっと、科学で説明が付く現象なのだ。そう、真珠の成分が、化学変化でも起こしているに違いない。彼は自分に、そう言い聞かせた。

 そんな日々がしばらく続き。

 ある日を境に、彼女はぱたりとペンダントを身に付けなくなった。どうしたのかと尋ねると、失くしたら大変だから、仕舞っておくとのことだった。

 とりあえずしばらくは、身に付けることはなさそうだ。彼はほっと一安心――したのも束の間。

 次の日、仕事から帰った彼を、妻は飛び付かんばかりに迎えた。

 ついに、子供ができたと言うのだ。

 もちろん最初は、彼も喜んだ。妻を抱き締め、祝福し――ふと、当然の疑問が浮かんだ。

 どうして、自分が妊娠していると分かったのかと。

 病院で調べてもらったのかと聞くと、妻は首を横に振り、でも、自分には分かるのだと断言した。その、一片の迷いもない瞳に、寒気すら感じている彼を他所よそに、彼女は嬉しそうに呟いた。

 きっと、あのペンダントのおかげね、と。

 次の日から、妻は早速、準備を始めた。ベビー用品をそろえ、本を読んで妊婦の心得を学び、傍目はためには、もうすぐ母になる幸せに満たされているようにしか見えなかった。

 しかし、彼の懸念けねんは的中した。いくら待っても、妻のお腹が膨れる様子はなかった。それにも関わらず、彼女は、自分が妊娠していることを信じて疑わず、赤ちゃんの名前は何にしましょうか、等と無邪気にくのだった。

 もう、間違いなかった。妻は子供を望むあまり、現実を見失ってしまったのだ。自分の手には負えないと判断した彼は、精神科医に相談した。

 妻の症状を聞いた医師は、無闇に説得するのは危険だと助言した。現実を知った彼女が、ショックでどんな行動に出るか分からないからと。

 どうして、こんなことに――嘆息する彼に、医師は言った。以前から抱いていた出産願望が、何かのきっかけで妄想化したのではないかと。心当たりはないかと訊かれた彼が、とっさに思い浮かべたのは妻のあの言葉。

 きっと、あのペンダントのおかげね。

 あの時は、軽口だと思って流してしまったが、考えてみれば、なぜ、妻はあんなことを言ったのだろう。子宝祈願のお守りならともかく、ただのアクセサリーなのに。

 まさか、あれのせいなのか。妻が現実を見失ってしまったのは。

 しかし、彼は結局、そのことを友人に告げることはできなかった。妻の治療が懸かっているのに、憶測は言えない――などと言うのは口実で、本当は怖かったのかもしれない。

 あのペンダントを意識することが。

 しかし、彼が躊躇ちゅうちょしている間にも、事態は刻一刻と進行していたのだ。一週間後の朝、全てのチャンネルで同じニュースが流れた。

 T県S市で陥没かんぼつ事故があり、現場にあった店が倒壊、中にいた店主が行方不明になっているというのだ。

 地名に聞き覚えがあった彼は、よもやと思ってニュースに耳を傾けた。アナウンサーが、被害に遭った店の名前を読み上げる。間違いない、ペンダントを買ったあの骨董店だ。

 画面が切り替わり、映し出された事故現場に、彼は目を見張った。陥没事故――そんな範疇はんちゅうにカテゴライズしていいのだろうか、この有様を。

 ヘリコプターからの空撮だろう、現場に開いた穴が、上空から映し出されている。穴の直径は二、三十メートルといったところか。それだけなら、普通の陥没事故でも見られなくもない。

 だが、問題は穴の深さだ。とにかく、深いとしか言いようがない。真上から見ても、底が見えないのだ。その上に建っていた店は、当然、板切れ一枚残っていない。最早、倒壊と言うより消滅だ。

 懸命な救助活動が行われているが、穴があまりに深く、難航しているようだ。もっとも、被災者の生存は、元より絶望視されているのは言うまでもない。

 不可解な事故。それでも、世間一般の人々にとっては、対岸の火事だろう。しかし、彼にとってはそうではない。あの店と自分は、忌まわしい糸で結ばれている。

 言うまでもない、あのペンダントだ。

 まさか、あれを置いていたせいで、あの店はあんな目に?

 突拍子とっぴょうしもない――と言うのは、あれを見たことがない人間の意見だ。

 すなわち、勝手に膨らみ続ける真珠を。現実を見失ってしまった妻を。

 とにかく、一度確認しなければ。そう言えば、もう随分長いこと見ていないが、あれから一度も身に付けていないのだろうか。

 ペンダントの所在を聞きにいくと、妻の子守唄が聞こえてきた――いや、子守唄なのか、これが?

 ナ・アルグフ――ングフ――ングフ――アルグフフフ、ク・ク・ク――ヒャフ・ユフ、ヒャフ・ユフ――。

 もちろん、日本語ではない。いや、言語なのかどうかさえ定かでない。獣のうめき声のようにも聞こえる歌を、妻は口ずさんでいる。相変わらず、全く膨らんでいないお腹をさすりながら。

 二、三日前から、妻の様子は、ますますおかしくなってきている。日がな一日この調子で、しかも、赤ちゃんが怖がるからと称して、風呂に入らなくなった。どういう理屈なのかは、おそらく彼女以外の誰にも分からない。

 彼に先んじるように、妻が口を開く。今日、赤ちゃんがお腹を蹴ったんですよ。幸せそうに微笑む妻を見て、訊いても無駄だと悟らざるを得なかった。

 結局、彼女が眠った後で、まるで泥棒のように、自宅を家捜しする羽目になった。しかし、どこを探しても、ペンダントは見つからない。ジュエリーボックスの中にも、化粧台の引き出しの中にもない。

 途方に暮れた彼が、ふと妻の寝台を見ると――その横に、小さな揺りかごが置かれているのに気付いた。無論、妻が買ってきた物だ。

 てっきり空だと思っていたのだが、よく見ると何かが納められている。丁寧に毛布に包まれて――何だろうと思って毛布を開いた彼は、ぽかんとほうけたように口を開けた。それが何なのか、一瞬分からなくて。

 理解した瞬間、全身が総毛立った。

 ペンダントの真珠だった。

 否、こんなものが、真珠である訳がない――

 ――

 あれからも、ずっと膨らみ続けていたのか。そして、とうとうこんな大きさに――。

 揺り篭の中で、妖しく輝く真珠を、妻は寝言を言いながら、愛しげにでる。

 私の可愛い赤ちゃん、と。

 それを見て、ようやく分かった。彼女は、これを自分の子供だと思い込んでいるのだ。

 もう、疑いようがない。これは魔性のものだ。このまま放置しておくと、どうなるのだろう。自宅も、あの店の二の舞になるのではないか。

 今すぐ、遠くへ捨ててこなければ。そう思い、震えをこらえて真珠を抱え上げた彼だったが。

 そこから伝わってきたおぞましい感触に、思わず放り出してしまう。

 中で、何かがうごめいている?

 戦慄せんりつと共に、彼は悟る。これは、何かの卵に違いないと。

 その時、床がびりびりと震えだした。地震か? いや、地震による揺れとは、何かが違う。縦揺れがいつまでも続き、横揺れに転じない。震動はどんどん強くなる。床の上を真珠が跳ね回る。まるで、これから起きることに、歓喜しているかのように。とうとう震動は、彼が立っていられない程になり――。

 雷鳴のような轟音と共に、家が倒壊し始めた。柱が折れ、床が傾き、天井が崩れ落ちる。彼は必死で、起きろ、逃げろと、妻に叫んだ――と、思った時には、すでに病院のベッドの上だった。

 そこで、何が起きたのか知らされた。

 一歩遅かった。彼の家も、陥没事故に遭ったのだ。彼だけは、穴の縁に引っかかって奇跡的に助かったが、家は完全に消滅、妻も行方不明だという。そして、あの真珠も――。

 連続して起きた謎の陥没事故に関して、世間では様々な憶測が交わされている。地下に埋もれていた洞窟が、地震で顔を出したのだ。いや、洞窟にしては垂直すぎる、あれは戦時中に掘られた地下通路だ――。

 そのどれもが、真相には程遠いことを知っているのは、彼だけだ。

 自分以外の誰に推測できよう? あの穴が、真珠の“親”が通った跡だなどと。

 どこから来たのか、何者なのか。そこまでは、分からない。しかし、あの店と自宅を襲った目的は、はっきりしている。ペンダントの飾りにされていた、自分の卵を取り戻しに来たのだ。

 数百キロ、いや、もしかしたら数千キロもの距離、地を穿うがちながら――想像を絶する力の持ち主だ。

 店の主人も、真珠の正体は知らなかった。そのせいで、訳も分からないまま、親の報復の対象にされてしまった。そして、妻も――自分があんな物を送ったばかりに。

 事故発生から十日後、何の成果も上がらないまま、救助活動は打ち切られた。原因究明のため、調査は続けられるそうだが、それは彼にとっては、どうでもいいことだ。

 そう、最愛の妻のいない世界になど、未練はない。夜中、病院を抜け出した彼は、妻の後を追うために、自宅跡に戻った。

 少し前までは、レスキュー隊や野次馬でごった返していたが、今はもう人影はない。月明かりの下、無限の深みを見せる穴は、まるで地獄への入口のようだ。

 それでも構わない。たとえこの穴の底が地獄でも、そこで妻に再会できるなら。そう思って、踏み出した、その時。

 彼は、はっと耳を澄ませた。

 穴に吹き込む風にまぎれて、かすかに聞こえてきたのは――妻の声?

 悲しみのあまり、幻聴を聞いたのだろうか。そう思っていると、再び聞こえた。確かに妻の声だ。彼に呼びかけている――

 ――穴の中から?

 まさか、生きていたのか。慌てて穴をのぞき込んだ彼は、見た。

 深淵から、ゆっくりと、しかし着実にい登ってくる、人影のようなものを。最初はよく見えなかったが、徐々に月明かりが、その姿をあらわに――しない。人影は真っ黒なままだ。

 穴の縁に、それの手が掛かったところで、彼はよくやくその理由に気付く。

 それは、タールのような漆黒の粘液の塊だった。二本の腕に足、そして頭。かろうじて人型と呼べる形をして、よろよろと穴から這い出す。

 がぼり。それまでのっぺらぼうだった顔に、唐突に口が開き、言葉をつむぎ出した。

 あなた、心配かけてごめんなさい、と。

 多少くぐもってはいるが、それは間違いなく、妻の声だった。

 あれ程願った妻との再会だというのに、恐怖しかなかった。悲鳴すら上げられずに立ち尽くす彼の足裏に、びりびりという大地の震えが伝わってくる。

 この感触、覚えがある。そう、この穴が開く直前に感じた――。穴に吹き込んでいた風が、逆に吹き出し始めている。まるで、巨大な圧力に押し出されるように。どんどん激しくなる震動。それに混じって、聞こえてきたのは――。

 ナ・アルグフ――ングフ――ングフ――アルグフフフ、ク・ク・ク――ヒャフ・ユフ、ヒャフ・ユフ――。

 あの、子守唄?

 天まで突き上げるような土砂の柱と共に、その歌い手が穴からおどり上がる。

 一本でも家を叩き潰せそうな触手が、無数にからまり合い、異形の巨体を形成している。その頭部には、目も鼻も見られない。判別できる器官は、粘液をしたたらせる口のみ。それが、あの子守唄を唄っているのだ。

 触手の何本かで、何か丸い物を抱えて――真珠だ。すでに直径四メートルを越えている。

 この怪物が、真珠の親なのだ。

 彼は最早、恐怖すら感じなかった。いや、それどころか、畏敬いけいの念に打たれていた。我が子を抱きしめるその姿の、何と神々しいことか。まさに異形の女神。

 恐怖が極限に達し、価値観が狂ってしまったのか。それとも、矮小わいしょうな人間の価値観の外にある、それが真実なのか。

 妻は女神の触手を這い登り、真珠を優しく撫でながら言った。

 見て下さい、あなた。もうすぐ、私たちの赤ちゃんが生まれますよ。

 その言葉で、彼は全てを理解した。骨董店の主人は、女神の卵を売り飛ばした不届き者として処罰されたが、妻はその逆。卵を守ってくれた恩人として、女神と一体化する名誉を授けられたのだと。

 真珠の中で、彼女たちの子供が元気に胎動した。


【参考文献】


 タイタス・クロウ・サーガ 地を穿つ魔(創元推理文庫、ブライアン・ラムレイ/著)

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