九 不快
その女性はコートを羽織っていないにもかかわらず、一切寒さを感じさせることはなかった。長い髪を凍るような風になびかせ、カツカツと地面を鳴らし、ただ黙って目的地を探す。レディースショップ、レコードショップ、スーパー、薬局、コンビニ。次々と視線を移し、右へ左へと忙しなく目を彷徨わせる。
「お姉さん、何を探してるの?一緒に探してあげるよ」
ひとりの学生らしき男が近寄ってくる。言われるがままに暗い路地裏に入っていくが、数分後には違う男を連れて戻ってきた。女は憤慨するように背の高い男をねめつける。
「邪魔しないでちょうだい。どうしてこうも知能の低いヤツばっかりなのかしら。とてもいいところだったのに、わかるでしょ?」
「わかるがね、いいところを攫うのは性分てもんだよ。わかるだろう?」
男は分厚いコートの下からステンレス製のスキットルを取り出した。目敏い女はそれがウイスキーであることを瞬時に嗅ぎ取る。しかし興味が湧いたのは年季の入った容器の方だった。
「それどこで?」
「イギリスの古い骨董屋だ」
「イギリス?」
ああ、と頷く男にそれ以上話す気がないことを悟ると、女は一瞬のうちにいまの会話をすべて忘れ去り、歩く速度を速めた。男も後に続くようについてくる。女はある一点を見つけると目を輝かせ、一直線にそこを目指した。
「ふん。まあいいわ。今とても気分がいいの。そんなことで怒ったりしないわ。おなかが空いたらあとで食べ直せばいいんだもの。そうよ、きっとあの女の子の方がおいしいわ。わかる?赦してあげるって言っているのよ」
「そりゃよかった。で、どこへ行くんだい?」
「私ね、ついに見つけたの。それから、約束を取りつけたのよ。ああ、本当にいるのね」
女は興奮した様子で男に見向きもせず、比較的新しい様相の店に入った。荒っぽく開けた扉のベルが鳴り、香ばしい匂いが鼻をくすぐる。ずらりと並べられたパンには”焼き立て”の文字が多く見受けられた。通勤帰りの会社員を捕まえる戦法は功を奏し、スーツを着た者がレジに列を作っていた。女は大きく舌打ちすると、つかつかとレジを打つ店員に近づく。
「ねえちょっと」
顔を上げる店員の腕をぐいと引き、耳元に顔を近づけた。何事かを囁き、腕を離す。店員はレジ横にあったベルを鳴らすと、何事もなかったかのように会計に戻った。女は満足そうに微笑む。
「ああ、今日は良い日だわ。最高に良い日。これでやっと入口を見つけられる」
「おい」
「あらまだいたのね。でも残念。今日はもう行かなくちゃ。ごめんなさいね、あなたに構っていられないの」
「嬉しそうでなによりだ。その羨ましい奴は一体誰なんだろうな」
男が投げやりに言う。スタッフルームから店員が出てきた。店員は女に微笑みかけ、奥へと促す。女はにぃっと口元を歪めた。
「かくれんぼが大好きななんでも屋さんよ」
****
カノンとセレナは着替えるために部屋を出ると、入れ違いで食器を片付けに行ったセーガが戻ってきた。セーガは知恵に玄関の方に立つように言った。
「一度しかやらない。部屋をよく見ていろ」
「……?わかった」
知恵はセーガの言葉に従ったが、それに一番反応を示したのは湊だった。湊は知恵が玄関の扉に向かうのを怪訝な様子で眺めていたが、セーガが宙に手をかざすのを見るとピタリと動きを止めた。
セーガの手が指揮棒を振るように一度、動く。その瞬間、窓にあった暗幕が消え、店の中に光が差し込んだ。天井をクモの巣のように飾っていたヒモもなくなり、食べかすのあったテーブルは綺麗に磨かれ、調味料がきちんと揃えて置かれていた。
「魔法……?」
「似たようなものだ。行きたいところへ行くことができるように、欲しいものは簡単に手に入れられる。やりたいことは一瞬で終わる。お前の世界から来る者たちはなかなか信じないが、願えばこの世界ではなんでもできることを覚えておくといい。ここにいれば嫌でも目にするだろうがな」
セーガは湊に目を向ける。
「これで公平だ」
そう言ってセーガは二階へ上っていった。
「ふふっ」
小さく笑った湊の声が、知恵には不快だった。とても、寒気がする。
「公平か。やられたなあ」
「……どういうこと?」
「ちえちゃんをマスターとして受け入れるって話さ」
「今までは仮だったわけ?」
「正真正銘のマスターだよ。ただ、辞めさせることもできるってだけで」
「辞められるなら辞めたいんだけど」
「それはこの世界に留まるっていう条件付きだけどね」
「ならいい」
「だろうね」
湊はおかしそうに笑い続ける。
「セーガはさ、本当はなんでも自分の手でやるのが好きなんだ。ドームまで歩くのもそうだし、飾り付けをするのも、食糧をもらいに行くのも、ご飯を作るのも食べるのも、お風呂に入るのも、なんだってそうさ。何もしなくたってこの世界じゃ生きていけるんだ。セーガはなんでもできるその便利さが嫌いなんだよ。オレには理解できないけどね。でもセーガがそれをやるのは、それがやりたいことだからだ。オレはそんなセーガを見ているのが好きなんだよ。バカみたいにしなくてもいいことをして、わざわざ遠回りをして、意味もなく暇を潰しているセーガを近くで眺めることが、オレの暇潰しなんだ」
「……それって面白い?」
「そうだね。セーガが生まれてからずっとこうしていられたくらいだから、面白いんじゃないかな」
湊の”面白い”は分からない。彼の言葉はどこか空虚だ。面白いと言ってはいるが、本当に面白がっているのかと知恵は疑ってしまう。
「ちえちゃんてまだ広場とドームぐらいしか見たことないよね?息抜きに街を散策してみたら?」
「いい。それよりゲームでいろいろカスタマイズできるって聞いたんだけど、どうやってやればいいの」
「へえ、やるんだ?」
「やらないと終わらないでしょ」
「ははは!その通りだ!えーと、鍵を持ってないとできないな」
そのとき、カランと音を立てて店の扉が開いた。少女が控え目に顔を出す。しかし知恵と視線が合うと、持っていた鞄で素早く顔を隠した。
「ああ、大丈夫だよ。おいで。いま部屋で服を選んでるんだ」
「お、お邪魔しま、わっ」
少女は敷居を跨ごうとしてつまずくが、鞄は顔から離さず、そそくさと階段を上がって行った。双子の友だちのようだが、随分と恥ずかしがり屋だ。
「はいマスター」
湊が鍵束を知恵に放る。
「マスタールームの鍵と二階の部屋の鍵だよ。カスタマイズは自由だけど、初めはフューラーの指示を聞くのがいいかも」
「ホームに行けばいいの?」
「ははは!それはセーガのやることだね。ここからでも行けるよ。マスタールームを想像して。そこに行きたいって願うだけでいい。その鍵さえ持っていれば――」
湊の声が途切れたと思ったら、知恵は映画館の中にいた。フューラーがスクリーンに現れ、頭を下げる。
「お帰りなさいませ。本日はどうなさいますか」
「カスタマイズをしたいんだけど」
目の前にパネルが表示される。さまざまなメニューがあったが、普段ゲームをしたことがない知恵はどこから手をつければいいのか分からなかった。ゲームに関しては完全に初心者だ。
「マスターはすべてのプレイヤーのカスタマイズを行うことのできる権限を持っておりますが、どなた様のカスタマイズを行いますか?」
「……じゃあ、私の」
パネルが変化する。
「コスチューム、武器、マスタールームの模様替え、お好きなものをお選び下さい」
「武器って、私も使うの?セーガは戦わないって言ってたけど」
「はい。マスター戦でのみ必要になります。マスター戦は両者のマスターのみ、またはマスターとナイトのみが生き残っている状態で発動します。部屋の壁が取り払われ、両者のマスタールームが繋がり、ひとつの部屋になります。この時点でマスターはマスター戦を行うか、棄権するかを問われます。ゲームを続行した場合、マスターは椅子から立ち上がることを許され、ナイトと共に戦うことができます。その際防具だけを身に付けているよりも、攻撃武器があった方が勝利の確率を上げることができるでしょう。アルフィノーレ全体の戦績で見ますと、97戦中3度マスター戦を行っております」
セーガや双子のように剣や鎌を使う気にはなれないなと思いながら武器一覧を見る。やはり敵の近くで戦うのは躊躇われた。銃や弓など遠距離攻撃ができるものがいいだろう。しかし、武器も武装もコインを消費するらしい。性能の良さそうなものの値段は高い。
「ソフィア様。願うだけでは扱えるようになりません」
「え?」
てっきり願えば使い方がわかると思っていた知恵はフューラーに目を向けた。言葉のように、意識しなくても身体が勝手に使い方を覚えていると思っていたのだ。
「ここは楽園とは違う次元にあります。ゲーム内はあくまで怪我をしないというだけであり、基本的にソフィア様の住む世界と同じものです。セーガ様やセレナ様、カノン様はここで練習をして、実践に臨んでいます」
「ふーん……。じゃあ重い物は重いって感じるんだね」
「その通りでございます。ゲームにあの世界の恩恵はありません。ここでは出来ないことは出来ないのです。ソフィア様の世界と同じように、空を飛ぶことはできません。あの世界ではやりたくないことは世界がすべて補正します。意識して願わずとも、世界は人の深くにある願いを汲み取り、すべてを意のままに成してくれるでしょう。ですので、練習を行うならこの中ですることを推奨します」
いやに現実味のあるゲームだ。面倒くさいと思いながら椅子に深く沈む。高い天井を見上げると、明りのない照明がかすんで見えた。こちらに来てそれほど経っていないのに疲れを感じていた。普段こんなに人と話したりしないからだろう。
パネルに戻り、適当にいじっていると知らない名前が目に入った。
「マーボ……?」
そう言えばまだ紹介していない人がいると魔女が言っていた。どんな人なのかとプロフィールを見ると、顔写真があった。長い黒髪で、美人という言葉がしっくりくるような綺麗な顔立ちをしていた。女性かと思ったが、プロフィールには男性とあった。それが分かってからもう一度写真を見ると、不思議と男性にしか見えなくなる。
『 その人には気を付けた方がいい 』
はっと顔を上げる。まただ。誰のものかわからない声が耳に伝わってくる。
『 信用しないで。誰もが嘘をついてる。あの人たちの感情はすべて偽物だ。作られたものだ 』
「……誰?」
知恵の問いに答えるかのように、部屋の隅に黒い
「どうかいたしましたか?」
フューラーには何も見えなかったようで、彼女は顔色ひとつ変えずに目を瞬かせた。
「ただ今複数のゲームが行われていますが、視聴しますか?参考になりそうなものを抽出します」
頷くと、スクリーンに実況が映った。スポーツ中継のように解説者が進行状況を暑苦しく語っている。知恵はプレイヤーの表情が気になった。どのプレイヤーも、それほど真剣にやっているように見えなかった。遊び感覚、そんな様子が伝わってくる。複数の試合を観戦するが、アルフィノーレのように絶対に勝ちたいという意思があるチームは見受けられなかった。しかし知恵はそれが当たり前だと思う。何でもできる不便のない世界で、何を必死になる必要があるのだろう。こんなに
『 だって、ここには何もない 』
誰かの呟きが悲しげに響く。
『 神なんかいても助けてくれない。ここは誰も信用できない。自分の力で出る。嫌いだ、こんなところ 』
椅子から立ち上がり、部屋全体を見渡す。誰の姿もない。知恵は背もたれに手をつく。眩暈がした。
「出る」
額に手を当て目を瞑る。再び目を開いたときには噴水の広場に来ていた。
「イチゴ大福をふたつと、豆大福をひとつくださいな!」
耳障りな甘い調子の甲高い声につられ、しかめっ面のまま屋台を見た。期待を裏切らないゴージャスなドレスを身に纏った女だった。化粧が濃く、縦ロールの髪に大きなリボンをつけて、元の姿が想像できないほどに着飾っている。執事らしき男が側に寄り添っており、女は大福の入った袋をその男に渡した。
屋台のおばさんは2人の様子にうっとりしたように目を細めた。
「見ない顔だね。どこから?」
「遠く海を越えた向こう側から。……といっても一瞬ですけれど。ここはとても懐かしさがありますわね」
「どこも住み心地はいいよ。あんたらの居場所も素敵なんだろうね」
「ええ、もちろんですわ。わたくしのところは澄んだ柔らかな朝のようなトキメキが絶えませんの」
その鼻につくような口調や仕草に不快感が込み上げ、その場から去ろうとした。しかし一足先に知恵の視線に気付いた女は紅をひいた口もとを微笑ませた。
「あら、もしかしてあなたマスターさん?来たばかり、とお見受けしますわ」
「……それがなに?」
ふふっとまつ毛の長い目を細めると、女は隣に立つ男の腕に絡みついて男の耳元で何事かを囁いた。男がひとつ頷く。女はさらに男にすり寄り、視線だけ知恵になげて言った。
「わたくしと勝負してくださいませんこと?」
「……」
知恵は女の腰に下がっている鍵を見た。女の自信のありそうな様子からして相当やりこんでいる可能性がある。独断で判断するのは危険だ。知恵は踵を返すと、女はその背に笑みを
「ふふっ、逃げるんですの?制服姿の可愛いマスターさん」
知恵はぴたりと足を止め、振り返って女を睨み付けた。
「逃げる?まさか。あなたのように何も考えずに勝負を挑むようなことはしない」
「わたくしには、負けるのが怖いから逃げる、と聞こえましたけれど?」
女の顔が歪んだように見えた。
その赤い唇が嫌いだ。睫の下に見え隠れするとろけるような瞳が嫌いだ。マニキュアを塗った長い爪が嫌いだ。その細い足も手も顔もすべて、嫌いだ。
通りすがりの人が手を叩く。やれ、と言う。面白い、と言う。
世界が回る。誰も彼もが笑っている。笑顔の面を張り付けて笑っている、蔑んでいる。みんなが同じ顔をして手を叩き始める。何度も無責任な言葉を吐き出す。誰も信じられない。誰も助けてはくれない。誰も誰も――。
「お姉さ、」
小さな身体が手を伸ばしたことに、知恵は気付かなかった。
「わかった。早くして」
「そうこなくっちゃ!」
女が不敵に笑い、知恵は地面に目を落として、頭に響くスタートの合図を聞いていた。
Freedom Kingdom 夕 @yuudokei
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