八 祝歌


 葉は完全に落ちていた。青々とした寒空に細い枝をむなしく広げた街路樹を通り過ぎる。登校中の小学生の列と一緒に信号を渡りながら、女の子のはしゃいだ声や車のエンジン音が嫌が応にも耳に入ってくるのを意識の外へ追いやろうとするが上手くいかない。

 知恵は普段しているヘッドホンをしていなかった。忘れたのではない。これは賭けだ。今日一日何もなければすべて忘れようと決めていた。

 あの世界へ行ってからもう10日になる。あれはおそらくほんの一瞬の出来事だった。魔女の言う通り、世界を行き来してから時間が経過した様子はなく、パンも温かかった。夢だったのかどうか今更考えても分からない。あの世界があるという確かな証拠は何も持っていなかった。だから、次に行ったときには証拠を持って帰ってこようと考えていたし、あの世界の仕組みが少しでも分かればと時計と携帯、それからわざわざ買ってきたコンパスも肌身離さず持っている。

 だけど、何もなかった。

 青白い魔法陣が現れる気配は全くないし、そもそも『呼ぶから』というのはどういう意味なのかきっちり確認しておくべきだった。初めて行った時でさえ突然の魔法陣に強制的に送られたのだから、こちらの世界にわざわざ呼びに来たりしないだろう。それともテレパシーか何かできるのだろうか。

 何にせよ、今日で考えるのは終わりだ。夢なら夢で。それ以上有難いことはない。

 知恵はコートの襟を手繰り寄せて地面に視線を落とした。



****



 「あ、あ、あああ、あの、は、はっ、ハシモト、さん」


 顔を上げると、机の上に立つ資料集の横からひょっこりと頭が出てきた。ぼさぼさの黒い髪が海藻のようにうねっている。彼の目はもじゃもじゃの前髪に隠れていて、知恵にはモップが飛び出してきたように見えた。

 日本史のプリントを埋めていた。好きな者同士自由に組んで調べ提出するようにという課題だ。いわゆるグループワーク。こういう時には必ずこの男と一緒になる。つまりは残り物だ。彼はいつもアバズレと呼ばれていた。


 「で、ででできた、から、こ、こ、これ、これ、はい」


 プリントを差し出してくる手は震えている。目は見えないが、口元は嬉しそうに歪んでいた。

 知恵はプリントを受け取り、自分の用紙に書き写していく。アバズレの書く文字はミミズのようだ。向かい合わせにした机でアバズレは、立っている資料集を鉛筆でトントン突ついている。


 「これなに」


 這うような文字に指を置く。


 「うい、うい、うぃ、りあむ、あだ、うす、あだ、む……ず」


 アバズレは資料集を閉じた。知恵はウィリアム・アダムズと鋭いシャーペンで書きこむ。

 知恵の書く文字を追っていたアバズレはひふぃっと声を出した。


 「字、き、きれいだよ、ね。ど、どど、どどーしたら、じょ、ずに、なるのかな」

 「これは?」

 「だだだ、だ、だい、だい、……だい、こくや、こーだゆー」


 偉人てすごいよね、と声を詰まらせながら語り出すアバズレ。知恵は黙々と作業を続ける。ふと、授業中に魔法陣が現れたりしないのだろうかと疑問に思った。授業中でなくても人目のつくところであんなものが出てきたらパニックになるだろうに。確か、この世界から呼ばれた人間が他にもいると言っていた。そんな大々的に魔法陣が現れればさすがにニュースになるだろうか。それともオカルトとして処理されるのだろうか。いや、やはりこういうのは人知れず現れる可能性の方が高いのかもしれない。だとしたら、人のいない場所にいた方がいい。


 「はい」


 自分とアバズレのプリントを一緒に渡す。アバズレはにこにこしながらそれを受け取った。それから自分のプリントの空白に知恵のプリントにある答えをそろそろと書いていく。4Bの鉛筆を使っているはずなのに薄く、削られていないせいで文字が潰れている。アバズレは口を閉じることを知らない壊れたおもちゃのように喋りながら、先ほど知恵に指摘された個所を消しゴムでごしごしとこする。丁寧に書き直すらしい。


 「ひふぃっ、ぼ、ぼ、ぼくも、じょうっ、ずに、なりたいなぁ」


 アバズレが笑い、同時にチャイムが鳴る。昼休みだ。知恵は席を立った。どこ行くの?と、どもりながらアバズレは尋ねる。知恵は筆箱をしまい、鞄を肩にかけた。


 「それ提出しておいて」

 「うん!ま、まかせて!い、いってらっしゃーい」


 アバズレがにこにこと手を振る。一瞬周囲の目が集まるが知恵は気にせず教室を出た。図書室へと足を向ける。魔女や異世界に関して調べるためだ。形から入るのが知恵の基本姿勢だった。

 静かな図書室に入り、陽の当たらない一番奥の席まで行く。そこに誰もいないことを確認したそのとき、ぽうっと青白い光が足下に現れた。きたか、と思った瞬間にまたあの嫌な感覚が襲ってくる。知恵は唾を飲み込み、高鳴る心臓を抑えるように胸元をギュッと掴んだ。





 パン、パパン!

 

 ポップコーンが跳ねるような軽快な音とともに、目の前を赤やピンク、青や黄など色とりどりの紙吹雪が舞った。さすがに驚いた知恵は目を丸くした。クラッカーの爆ぜる音だと気付いたのはセーガがもうひとつのクラッカーを鳴らそうと、短いひもに手をかけた時だった。パン、と最後の紙吹雪が飛ぶ。知恵の頭に長いヒモがかかった。


 「ようこそ Freedom Kingdom へ」


 あらかじめ決められたセリフを言う出来の悪いロボットのようにセーガの言葉には何の感慨もなく、彼はすぐに床に散った紙切れやひもの片付けに取りかかった。言葉と裏腹に喜ぶ気も迎えようとする気も全く感じられない。


 「マスターの就任祝いだ。下へ行け」

 「……就任祝い?」


 知恵が呆気にとられていたのも束の間、くるくると長いひもを巻いていくセーガの後ろから軽快な笑い声がした。事の成り行きを見守っていた湊がセーガを指差して笑っている。


 「セーガ、そこはっ、そこはもっと楽しそうにやらなきゃ!サプラーイズ!!って感じでさぁ!祝いの場だよ!やっぱりもっと練習しておくべきだった!ほらほらすぐに片付けない!!」

 「さっき掃除をしたばかりだろう」


 また汚くしてどうすると言いたげに眉根を寄せるセーガに、湊はケタケタと笑う。

 知恵は小さな部屋の中にいた。そこがこの間案内された、代々のマスターの部屋だという喫茶店の二階にある場所だと気付くのにそう時間はかからなかった。あの時は洋服やらミシンやら散らばっていて足の踏み場もなかったが、今はベッドとその横にある背の低い飾り棚のみ。床もベッド脇の窓辺も綺麗に磨かれていた。


 「汚してるんじゃなくて楽しさや嬉しさを振りまいたんだよ!これはまだゴミじゃないんだって!」


 セーガは手に巻きつけていたひもを見てもまだ納得いかない様子だったが、そっとそれを床に放した。湊は満足そうに笑み、大仰に手を広げて知恵に向き直る。


 「さあ、オレたちの新しいマスター。この世界に再び来るのを待ち遠しく思っていてくれた?何日も待たせてしまったから忘れられていないか心配だったよ。そんなのは寂しいからね。とは言ってもこっちでは一夜明けたばかりなんだけどさ」


 知恵は咄嗟に腕時計を見た。秒針が動いていない。電波時計は止まっていた。続いて鞄の中にある電池式のデジタル時計とコンパス、タイマー、携帯と順に取り出しては数秒眺める作業を繰り返した。驚いたことに、新しい電池に変えたはずのデジタル時計とタイマーは止まり、コンパスはくるくると回って定まることを知らず、携帯の電源は入ることがなかった。見事に使えないものと化している。

 異世界だとしたら電波が入らないのはわかる。だが、コンパスが狂うのは?電源が入らないのはなぜ――。

 そこで知恵はふと思い至ったことをぼそりと呟いた。


 「磁場が狂ってるってことは、そもそも世界の構造が違うってこと?なら持ってきたものは駄目か」


 ぶつぶつと呟いている知恵の横で、セーガが覗き込むようにして彼女の手元を見る。手を伸ばすことはないが知恵の持ち物に興味があるようだった。知恵はセーガに会うことを少しだけ恐れていた。彼の剣が自分に突き刺さったことが思い出されるのだ。魂が身体から抜け落ちる感覚は、そう簡単に忘れることはできなかった。しかし、いつも通り表情なく佇むセーガに、負けじと知恵もその恐怖を押し込めた。


 「何をしてる?」

 「……今、何月何日何時何分?」

 「マスターは今がいつだと思う」

 「春の朝10時前後」

 「ならそうなのだろう」

 「質問にちゃんと答えて」

 「……今がいつかは考えたことがない」

 「わかった、聞き方を変える。この世界には時間がないわけ?」

 「あると言えばある。ないと言えばない」

 「もっとはっきり言ってくれない?」


 顔をしかめた知恵に湊が肩をすくめる。


 「ちえちゃんは深く考えすぎなんだよ」

 「ちえじゃない」


 湊はそれには答えず、ただ口元に笑みを浮かべた。


 「時間は有限なんて向こうの世界では言うけど、ここでは違うってこと。ちえちゃんが春だと思えば春になるし、冬だと思えば冬になる。時間だけじゃない。空間もだ。西も東も北も南もない。行きたいときに行きたいところへ行けばいい。すべては気の向くままってね」

 「ずいぶんと大雑把な世界だこと」

 「その発想はすごくいい。そういう神様だったんだよ。この世界を創った神がさ」


 湊は「そのうち分かるよ」と言い残して踵を返した。階段を下りていく音が消え、コンパスの回転を眺めていたセーガが知恵に目をやる。知恵はどこか苛立たしげに湊がいた場所を見ていた。




 「ソフィア姉おかえりー!」

 「おかえりなさい!」


 一階に下りるとカノンとセレナが待ってましたとばかりにクラッカーを鳴らした。あたりに紙吹雪が散らばる。知恵は店内にわさわさとしたヒモや輪っかの紙を繋げた飾りが至る所に飾られているのに目を細めた。窓や玄関には暗幕が下がっており、いかにも魔女の持ち物らしいビンテージなランプがほの暗さを演出している。カノンとセレナはドレスやタキシードで着飾っていた。


 「ソフィア姉、そのイスに座って!」

 「ちゃんと見て、聞いててくださいね」


 カノンとセレナは言うが早いかカウンター横の扉から出て行ってしまった。セーガもいつの間にかいなくなっている。静かになった店内にはこぽこぽと水槽の音が響いていた。その音につられて玄関の側にある棚を見ると、四角い水槽の中には一匹の金魚が泳いでいた。ぱくぱくと口を動かし、広い水槽を悠々と泳ぐ赤と白の鱗の金魚を眺める。


 「なかなかそれらしいじゃろう?」


 カウンターを挟んだところに魔女が座っていた。魔女はその小さな身体にカノンと似たデザインのドレスを着ていた。知恵からは上半身しか見えないが、フリルをふんだんに使ったカノンのそれよりも大人しめなもののようだ。腕にはカノンと同じ黒のリボンを巻いている。


 「おまえさんに紹介できとらん阿呆がひとりおるんじゃが……あやつはまぁ、来るのか来んのか分からんでの。せっかくの歓迎会だと言うに……ん?」


 知恵の視線に気付いた魔女は自分がドレスを着ていることを今思い出したらしく、きまりが悪そうに裾をつまんだ。


 「いや、ねぇ、やっぱり似合わんよのぅ……。でも、なんじゃ……子どもにせがまれるとどうも断れんでね」


 似合いはしないだろう。知恵は冷たい瞳で魔女を眺めた。カノンもひどいことをする。ドレスが似合うかどうかは見た目が一番大事だ。ドレスだけではない。いくらその人に似合うものを選んだとしてもそれは意味がないというものだ。それを別の見目の良い者が着れば、そいつに敵うはずがないのだから。


 「そろそろかね。さぁお座り。灯りをおとすぞ」


 知恵はカノンが指差していった中央にある丸テーブルの席に座った。すぐに灯りが消され、真っ暗になる。自分の手がなんとか見える程度の視界で、知恵はなんとなく身構えてしまう。どこかでギターかなにかの鳴る音が聞こえ、正面にぱっと灯りがともった。ライトの下にカノンとセレナが背中合わせで立っていた。音の正体はセレナが肩から下げたアコースティックギターだった。なめらかな手つきで、穏やかに音色を響かせる。そこにカノンの声が重なった。綺麗で真っ直ぐな歌声。それはこの世界に舞い降りた天使の物語だった。





 人はとても脆かった その手は滑り落ちた

 白の使いは涙した その口は幸せを願った

 どうか ここに、世界の始まりを 

 

 なにもかもが耀かがやく幸せを あなたが望む限り

 聖なる狭間はざまを生み出そう 楽園そこはきっと夢のよう

 『この罪が赦されたとき 私はやすらぎの中に眠るだろう』

 思いを尽くして天使は言う 

 

 命の泉は天使の居場所

 どこまでも続く あなたの地





 カノンとセレナは知恵を見つめて笑顔を浮かべた。手を握り合うと、ふたりで大声を上げた。


 「フリーダムキングダムへようこそソフィア姉!」


 カノンはパタパタと駆けてくると知恵に抱きついた。よろめきながらそれを支えた知恵はどうしたらいいのか分からず視線を彷徨わせる。カノンは目じりを下げて、幸せそうに笑みを浮かべた。


 「あのね、ソフィア姉がこの世界に来るのずうっっと楽しみにしてたの!今までマスターは何人もいたけどね、ソフィア姉が来るのを待ってたの!だからソフィア姉も楽しんでいって!」


 それだけ言うとカノンはセレナのもとへ戻った。「ソフィア姉のために何曲でも歌うよっ!」と意気込みをマイクにぶつけると、今度はセレナも一緒に歌い始めた。


 「どう、うちの看板娘と息子は」


 湊がカウンター席に座っていた。知恵は湊を一瞥しただけで、黙ってカノンとセレナに視線を向ける。何故あんなにカノンが嬉しそうにしたのか理解できなかった。あんな、心から幸せそうな笑顔を向けられることはとても久しぶりで――。

 はたと、知恵は目を瞬かせた。久しぶり、だっただろうか。誰かにそんな顔を向けられたことがあっただろうか。誰かいたような気がするが、思い出せず、勘違いのような気もする。自分が動揺しているのが分かり、湊にそれを悟られないようにと、知恵は目を閉じた。


 「ふたりともこの喫茶店でたまに歌ってるんだ。カノンなんかはコンサートにお呼ばれすることもあるんだよ」


 透き通った声音が空気を伝わり、鼓膜を揺らす。見なくてもカノンがどんな表情で歌っているのか想像できるようだった。

 こら、と魔女の声が聞こえた。かと思うと頭上でセーガが湊をいさめる声がした。


 「ワインは一気に飲むものじゃない」

 「いいじゃないか。もう一杯ほしいな」


 かちゃんとグラスの擦りあう音がした。目を開くと、セーガがトレーに載せていたティーカップを知恵の前に置いたところだった。香りの良い紅茶だった。


 「料理も用意しているんだが、マスターは食べないだろう。これも無理しなくていい」


 ホームで出されたクッキーのことだろうか。セーガはほとんど確信していたようで、すぐに踵を返した。

 この世界のものを身体の中に入れることはあまりしたくなかった。少しでも取り込めば、内からこの世界に呑み込まれてしまいそうに思える。だけど――。

 顔を上げると、踊りながら笑みをたたえて歌うカノンと目が合う。

 知恵は戻ろうとするセーガに言った。


 「食べるものくらい、自分で決めていいでしょ」


 知恵はカップに口をつけ、ゆっくりと飲みこんだ。甘い、りんごの味がした。



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