七 条件


 椅子に座っていた。赤くて硬い椅子ではない。木製の、優しい風合いの椅子に、紺の座布団が敷かれている。終わった、そう思った時にはここに座っていた。服も元の姿に戻っている。

 気だるい目つきで知恵は様々な木目を眺めた。細長い木の板が列を組み、机や壁、天井を成している。木造の建物は山小屋か、あるいは避暑地にあるような別荘を思い起こさせた。家具は最低限で、目の前にある長方形の机がひとつと、椅子が6脚、顔を横に向けると大きめのキッチンがある。それだけだった。

 

 「どこ?」

 「喫茶店だよ。魔女のね」


 ひとつ席を開けたところに湊はいた。透明なティーポットから紅茶を注いでいる。


 「正確に言うと下の階がね。ここはオレとセーガとあの子たちの共有スペース。アルフィノーレが思い思いに集まる場所だ」

 「ふーん」


 背中が温かい。窓から日が差していた。生きている、なんて、そんなことを思ったのは久しぶりだった。


 「そのまま委ねればいい。何もかも。それこそ、何も考えずに」

 「……なにか言った?」


 知恵には湊が何を言っているのか分からなかった。その声は空気に溶けていくようにさりげなく、発したそばから霧散していく。聞き取ろうと耳を傾けても、それは言葉になる前に意味を失い、知恵にはただの音にしか聞こえない。風のささやきや、葉の擦れる音と同じだった。


 「疲れることなんてしなくていい。嫌なことは君が身を任せればなくなるんだ。簡単なことだよ。とても、簡単なことだ。そうしたら呪縛だって解いてあげられるのに。なのにオレはそれを教えられない。君たちは頑張りすぎたんだよ」

 「だから……なにを、いって……」


 知恵は瞼を閉じた。眠かった。しかし、机の向こうに感じた気配に目を開ける。


 「終わったね~」

 「ちょっとあっけなかったね」

 「さくらだったもんね」


 いつの間にか双子が立っていた。知恵は驚き、なんとなくいたたまれなくなって立ち上がる。2人には傷ひとつなく、疲れた様子もなかった。


 「さくら?」

 「はい。マスターが初めてゲームに参加するときはそういう人たちに頼んでるんです。負けてもらうように。そういうことも、勝ち抜くためには必要なんです」

 「おじさんたちは勝ちたいわけじゃないんだって。だからいいの」

 「次からはもうやりませんよ」


 すると別の声がキッチンの方から聞こえた。


 「おかえり、楽しく観させてもらったよ」


 キッチンの向こう側にちょこんと白髪の老婆がいた。椅子に座っているようで、知恵からは浮いているようにも見える。


 「ほんと~?カノンもすっきりした」

 「ああ、そうだろうねぇ。湊、あとで観返すといいよ」


 えー、と苦笑いする湊。カノンは知恵と湊の間に座り、セレナはカノンの前に座った。


 「セレナの隣にいきなよ」


 湊が言う。カノンはにこにこと笑みを浮かべ、セレナも澄ましたように座っていた。

 知恵も再び腰を下ろすと、キッチンにいる老婆を見た。


 「あなたが魔女ですか」


 知恵には老婆が魔女かどうか半信半疑だった。しかし、おとぎ話に登場する魔女は大体が醜い老婆であったし、ここにいる老婆は鉤鼻ではないものの、目が見えないのではないかと思われるほど瞼が垂れてひどい顔立ちをしている。


 「一応そうは呼ばれてはいるけどねえ、たいしたことはしてないよ。ここで喫茶店を開いとるだけじゃ。おまえさんは、橋……いや、そうさね、ソフィアと呼ぶことにしよう」


 老婆は何を危惧したのか、言葉を変えた。

 魔女が本名を知っていることにさほど驚きはしなかったものの、ソフィアという呼ばれ方にはまだ馴染めそうもなかった。自分には似合わない響きだとも思う。


 「あなたがこの世界を管理していると聞きました。ここはどこなんですか。私は元の場所に帰れるんですか」

 「おや、話していないのかい?」

 「話したよ」


 湊が答える。


 「優勝しないと帰してくれないんでしょ?私はもっと簡単に帰る方法がないか知りたいの」

 「まーたそんなことを言ったのかい」


 魔女がケタケタと笑った。湊がぶっと紅茶を吹き出す。「きたない!」カノンが怒鳴る。


 「ソフィアちゃんてっ、くくっ、いい子だねえ。勝つまで帰さないとは言ったけど、なにもっ、優勝しないと帰れないなんて、言って、ない、よっ」


 腹を抱えて机に突っ伏す湊に、知恵は驚いたように目を見開いた。


 「……帰れるの?」

 「もちろんですよ」


 湊に代わってセレナが答える。肩の力が抜けた気がした。ここまで気を張っていた自分が馬鹿らしくなる。


 「けどね」


 笑いながら湊は無理やり言葉を続けた。


 「優勝するまでは、向こうの世界とこことを行き来することにはなる」

 「……最初からそう言ってくれない?」

 「セーガは口下手だからね」

 「どうしたら優勝できるの」

 「勝ち続ける、かな」


 一言。湊は笑った。それがどんなに無謀なことかはゲームを初めてやった知恵でも十分に分かる。


 「一回も負けないってこと?無理でしょ」

 「ポイント制でね、とにかくポイントをたくさん稼げばいいらしいよ。ただマスターを変えるとゼロに戻っちゃうんだよねえ。スタートが遅れてるわけだから負けない方がいいんだけど、それはこれから考えるよ。マスターは座ってるだけでいいって、セーガ言わなかった?」

 「なにそれ」


 言外に何もするなと言われているようで、知恵は湊を睨んだ。そのフードを引っぺがしてやりたくなる。湊はそんな知恵の目を悦んでいるようだった。フードをぎゅっと握って笑いをこらえている。


 「あぁー、くっ、ははっ、いいんじゃない?ほんと、興味あるなら勝つの、手伝ってよ。人は多いほど助かる」

 「興味なんかない」

 「そう?なら座ってるだけでいいよ?」

 「……その言い方、いらつく」

 「そう?」


 悠々とカップに口をつける湊。時折出る意地の悪さに、笑い上戸はそれを誤魔化すための嘘なんじゃないかとさえ思う。

 再び渦を巻き始める嫌な感覚を振り払うように知恵は言った。


 「セーガは?」

 「後片付けとか?あと、あいつはこだわりが強いからねえ、ここまで来るのが遅いんだ。でも待つのは好きじゃないし、知恵ちえちゃんはそろそろ帰ろうか。あぁ、セーガにも一応伝えるよ?」


 確認するように知恵の方を向くが、知恵が了承する前に湊のパネルは動いていた。知恵は湊の手が触れてもいないのに画面が切り替わっていくさまを眺めながら、それがどんな仕組みで動いているのかや、セーガのこだわりとは何なのか、今彼と話すのは躊躇われること、それからこの世界とゲームについてなど、様々なことが頭の中を巡っていた。実際に帰れるとなると言いたいことも聞きたいことも山ほどあったが、どれもそれほど重要なことではないように思えたし、それと同じくらい大切なことのようにも思えた。

 結局口をついて出たのは、一番差し障りなく、一番どうでもいいことだった。


 「なに、ちえって」


 振り返った湊は、いたずらっ子のような笑みを浮かべていた。魔女があからさまに溜め息をつく。彼は杖を振るようにしてその文字を空中に描いた。


 「読み方を変えればそうとも読めるんだろ?ソフィアって長いし」

 「自分で付けといて何を言っとるんだか。余計なことはおよし」

 「いいじゃん。あだ名だよ」


 気付くと、カノンとセレナは眠っていた。

 魔女が「またおいで」としゃがれた声で言う。


 「いつでも歓迎するよ。まあ、あんたが来なくても勝手に呼ぶことになろうがね。元の世界に帰ってもほんの数秒しか経っとらんはずじゃ、特に問題にもなるまい。セーガに言わせれば刹那の夢のようなものじゃと」

 「夢……」

 「ちえちゃーん。こっちこっち」


 湊が廊下で呼んでいる。もう一度魔女の方を向くが、老婆の姿はすでになかった。

 廊下は狭い階段に繋がっていた。ここを下りると魔女の喫茶店とやらに行くのだろう。


 「セーガ、ちえちゃんのお帰りだよ」

 「……」

 「そう呼ぶことにしたんだ」

 「そうか」


 パネルの中のセーガは変わらず淡々としていた。

 湊は階段横にある部屋の扉を開け、知恵に中へ入るように促した。しかし中を覗いた知恵は入口で足を止めた。


 「本当はちえちゃんが来るときここに着くはずだったんだけどね。魔法陣がすねちゃったから、さ」


 湊は屈んで床に落ちていた布を拾い上げた。知恵が通された部屋には服や鞄に本、ミシンや布類など、主に手芸用の道具が散乱していた。


 「さあさ、住めば都だよ」

 「住まないから」


 湊にもう一度促され、床に針が落ちていないかと目を凝らしながら知恵は部屋に足を踏み入れた。


 「湊、少しは片づけておくように言ったはずだが」

 「はははっ、食べ物が落ちていないだけ勘弁して」


 しかし湊は、知恵が床にある邪魔な物を拾ってはベッドに投げるのをただ眺めているだけで、扉の前から一歩も動こうとしない。


 「ここね、前のマスター…ていうか、うちのチームのマスターが代々使ってる部屋なんだ。まあこんな所だからね、魔法陣がお怒りだったのかな。ちえちゃんが街に飛んでも仕方ないね」


 湊は笑みを浮かべているが、こんなところに呼ばれたら自分の身が危なかっただろうと思う。


 「ま、次は綺麗になってるだろうから自由に使ってよ。基本的にここが君の出入口になってるから」


 床に物がなくなったところで部屋の中央に来るように指示される。


 「用があるときまた呼ぶよ。あ、もちろん、ちえちゃんからこっちの世界に来てもらってもいいんだけど。どう?」

 「私が来ると思う?」

 「これはオレの意見だけど、いつか、来たいと思うようになるんじゃないかな」

 「湊」


 セーガが湊をたしなめるように言う。


 『セーガさんか魔女さんに頼めばたぶん、帰れるんじゃないかなー。でも、きっとね、帰りたくなくなるよ』


 なぜか、黒髪の男の子を思い出した。この世界に来て一番最初に会った男の子だ。

 知恵は湊を見上げた。


 「私は帰る。こんな気味の悪い世界に興味はない」


 湊は何も言わなかった。ただ口元に手をあて、何か思案しているようだった。

 知恵の足元が鈍く光り出す。青白い、気味の悪い、光。


 「それじゃあ」


 湊はフードを深く被り直した。口元がゆるりと弧を描く。


 「君は向こうの世界がよっぽど好きなんだね」


 知恵は目を細めた。

 光がいっそう強くなった。


 「これからマスターとしてよろしくね、ちえちゃん」


 その言葉を最後に目の前が真っ暗になった。



***



 目を瞑る少女の姿が消え、青白い光が完全に収まると、湊は部屋の前に座り込んだ。パネルは音声のみに切り替えた。そのまま寝転んでしまいたい気分だったが、背は壁にもたれかけたままセーガに問う。


 「どう思う?」

 「片付けるべきだろう」

 「いや、いや、そうじゃなくてさ、新しいマスターのこと、どう思う?」


 小さな笑いが込み上げてくる。起きているだけの気力は湧いてきた。


 「いいんじゃないか」

 「なぜ?」

 「刺したが死ななかった」

 「あっはははははっ!やっぱり刺したのか!!」

 

 湊はぱたりと床に倒れた。急に静まり返った廊下の床は、木材の見た目とは裏腹にコンクリートのように冷えていた。それが心地良くて、頬を、手を、押し付ける。

 

 「不満か」

 「んんー……不満だ。不満だね。オレもそこにいたかったな。カノンとセレナの動揺っぷりも見たかったし」


 口元には笑みをたたえたまま。ケタケタと弾む声音も申し分ない。世界は何を言わずとも余計な熱を吸い取ってくれている。湊は満足していた。今回も何事もなく終わるだろう。画面は切っているのだから笑っていなくてもいいのだが、これだけは性だから仕方がない。しかし、と思う。もしもこの世界に今日という日があったのなら、どんな日々にも勝る厄日となっただろう。彼女が選ばれたことだけは、何よりもいただけなかった。


 「オレはやめた方がいいと思うね」

 「なぜ?」

 「彼女は弱いよ。頑固で融通がきかない。仕舞いには悪魔につけ込まれる」

 「おまえが嫌と言うなら当たりだ」


 心なしかセーガが笑っている気がした。滅多に見せないその表情を拝まないことが勿体ない気もしたが、いま彼が笑うことは喜ばしいことでも何でもない。


 「まだ変えたって間に合うっていうのに。せっかちだねえ、セーガは」

 「適当なことを」


 湊は寝返りを打つように転がり、開け放したままのマスターの部屋を眺める。


 「オレはおすすめしない」

 「ああ。だが、何度言ってもこれ以上は変えられない」


 湊は瞼を閉じ、行きたい場所を思い描いた。そよ風と、湖と、森のある暗い場所。


 「……うん。今はもういいや。よく見極めて、考えておいて。あとは任せたよ」

 「ああ」


 事務的な了承を耳に残し、湊はその場から消えた。

 久しぶりの夜だった。


 

***



 嫌な感じだ。どこかに吸い込まれていく。

 目を開ける。暗い道だった。


 「……ああ、」


 人の声がする。車の音がする。ビルの光が見える。

 

 ――戻ってきた。


 ゆっくり立ち上がると、何かが足に当たった。鞄とパンの袋だった。拾い上げ、鞄を肩にかける。制服の裾を払い、息を吐く。しばらくそのまま立っていた。

 ふと思い立ち、パンの袋を開ける。芳ばしい匂いと、温かさがあった。


 「……」


 知恵はじっとそれを眺め、鞄に詰め込む。気味が悪かった。狭い小道で自動車のライトが知恵を照らす。隅に寄って車が通り過ぎるのを待ち、家へと急いだ。

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