六 戦闘
赤、白、黒。音もなく現れた三つの扉が灰色の壁を飾った。
カノンは嬉々として赤の扉の前に立つ。
「カノンは赤~!セレナは白で、湊は黒ね!ソフィア姉行くよ?」
「ひとりで行くの?」
「ひとりひと部屋なんだよ~。カノンはつよいからへーき!」
胸を張るカノン。頭に響いてくる声も自信満々だ。フューラーがそのあとを継ぎ、説明書をそらんじるように言う。
「例外はありますが今回のようにオフェンスである場合、スタートの時点では1つの扉から1人しか入室できません。扉の先にはキールームと呼ばれる部屋があり、基本的にはそこで1対1での戦闘が始まります。部屋は個々のプレイヤーに用意されており、プレイヤーは好みに応じてそれをカスタマイズし、ディフェンス時に使用します。ソフィア様の部屋はここ、映画館がマスタールームと呼ばれる部屋となりますので、ゲームが終了しましたら使いやすいようにアレンジしてください。今回アルフィノーレはオフェンスのためゲーム開始時はキールームの使用はできません。ですが、敵のキールームで一定条件を満たすことで自身の部屋に”反転”させることができます。そしてひとつ注意事項がございます。ナイトを除くプレイヤーはマスターの意志によって行動が制限されます。もしマスターの意志に反する行為を行う場合、重力の負荷が増し、動きが鈍くなる恐れがあります。戦闘に影響が出ますのでご注意くださ――」
「ちょっと待って。戦闘ってなにするの?今の説明だと肉体戦のように聞こえるけど。まさか怪我したり死ぬなんてことは……」
知恵はあくまでゲームの内容を知るために言っただけのことだったが、カノンにはそれが自分を気遣う言葉に聞こえたらしい。少女は愛らしく笑みを浮かべて言った。
「んもぉ、ソフィア姉は心配しすぎぃ~。武器だってあるし、カノン負けないもーん。行くよー?」
「お待ちください。説明の途中です」
再び扉に手を伸ばすカノンをフューラーが制止する。カノンはなんで?と問いたげな顔をするが、セレナと目が合うとその顔がぱっと輝いた。セレナの頭にちょこんとのっている小さな帽子に触れ、その位置を直す。少年の周りを一周し、満足そうにうなずくと、ゲームの最中であることを忘れたかのようにセレナとお喋りを始めた。
フューラーはそれを確認してから、セーガに目を移し、それから知恵を見た。
「多少の違いはありますが、仮想空間であると考えて頂いて構いません。ここは神との約束の地です。ゲームが進行している間はこの空間で怪我をすることは一切ございません。攻撃によって身体に重力が増すか、軽度の痺れを感じるのみとなります。それにより身体に異常をきたすことはなく、体力を回復することでそれも癒されます。外傷を負う危険はございません」
「じゃあ、相手を倒すってどういう意味?」
「致命傷になる攻撃を受けたとき、または、体力がゼロになった状態を表します。それによりプレイヤーはゲームから離脱、キールームは消滅することになります。離脱によりゲーム内で受けた痺れ、疲れ、ともに治癒されますのでご安心下さい」
「……けどこれ、本物の体でしょ?」
「はい。しかし、人間の死を我らが神は望んでおられません」
知恵は浮遊するパネルにその目を向けた。今から戦うというのに、小さな双子は背を丸くして笑っている。知恵の目はそれを写真のように記憶する。
双子には笑顔があった。しかし、そこに知恵には見えないものがある。それは神かも知れなかったし、なにか別のものであるかもしれなかった。湊の言った”世界とのズレ”とはこのことなのだろうか。
「話は終わった?」
湊の声が脳内ではなく、スピーカーから聞こえた。スクリーンにいるフューラーの背後に、パネルと同じ映像が映った。
セーガが少しの間を置いて答える。
「ああ、もういいだろう」
「こっちも子どもたちが飽きはじめる頃――ん?セーガ?」
言葉を止めた湊は何もない天井を見上げ、次にきょとんとしているカノンとセレナを見、それからニタニタと笑みを浮かべた。
「今の声はセーガだよね?それともマスターは男だった?」
湊のわざとらしい声が劇場に流れる。
ナイトはこの部屋の外にいる者の声は聞こえないと言っていたはず。そう思いセーガを見上げるが、セーガはいたって冷静だった。
「おまえの声がスピーカーから聞こえている。俺の声は全員に聞こえているか?」
「はーい!カノン聞こえるよ~!」
「部屋の能力ですね。マスターを通さなくても双方に声が届くようです」
「これは便利だねぇ」
「始めるぞ」
セーガの合図で、カノンはひょいと赤の扉の前に立つ。少女は小さな身体に似合わず「たのもー!」と大声を上げて扉を開け放った。一歩先さえ見えない暗闇だった。それでも少女は何の迷いもなく、金の髪をなびかせて足を力強く踏み出す。
「さあ、カノンがきたよ!」
「威勢がいいのは若さの証かね」
ざぁっと壁が、天井が現れる。杉の床に裸足で立ち、道着と袴を着たおじさんがひとり、竹刀を持って姿勢よく立っていた。知恵に最初に話しかけてきた人だ。決して若いとは言えない風貌だが、すらりとした背丈や掘りの深い顔立ちには未だ彼が青年であった頃の真面目さと熱意とが同居しているようだった。その出で立ちに未熟さは微塵も残っておらず、彼が倒せない敵のように知恵には見えた。
しかし、知恵をそう思わせたのはそれだけでなかった。
「初回とはいえ、待った分だけ楽しませてくれんとな」
「はいはい!まかせて~!」
カノンは壁に掛かっていた竹刀を持ち、男と向き合う。その動作は竹刀の重さを感じさせないものであったが、男との体格差は明らかだった。
「はあっ!!」
男が動いた。少女は竹刀を振り上げてそれを受け止めようとする。しかし無理だと悟ったのか、驚いたことに彼女はすぐに竹刀を捨てた。小さな身体で男の脇をすり抜け、背後にまわる。そのまま膝裏を目がけて蹴りを入れようとするが、男は器用に竹刀を操り彼女の足を掬い上げる。少女はくるりと側転して着地し、すぐに男に向かっていく。それはもはや知恵の知る剣道ではなかった。剣道に詳しい知恵ではないが、竹刀を捨てた少女はもちろんのこと、男の方も所作を気にしている風ではないのが見て取れる。そのせいか攻撃が激しくなっているようだった。間髪入れずに蹴り上げ竹刀を振り腕を叩き込む。少女が応戦していることが不思議なほどだった。それでもギリギリだということは少女の下唇を噛むその表情からわかる。
そもそも彼らは防具を身に着けていない。小さな少女に一発でも竹刀が叩き込まれれば終わりだ。
「キールームを抜けた者からマスタールームへと続く通路に出ることができます。ここからその通路へ出るための条件は、オフェンスは部屋の主の鍵を奪うこと、ディフェンスは相手を倒すことです。マスター以外に関しては必ずしも戦闘不能にすることが目的ではありません」
知恵はスクリーンに映る彼らを瞬きもせず食い入るように見つめ、気付かぬうちに歯を食いしばり、握りしめた拳に力が入る。フューラーの言う通りであったとしても、鍵を奪うには相手を倒すしかない。鍵をどこに隠し持っているのか、知恵には分からなかった。
カノンが一旦下がった。しかし男はその長い足で簡単に追いつき刀を振るう。カノンは床を転がり、なんとか避けるが男は容赦ない。
「おや?」
「……っ」
カノンの腕にしなる竹が当たり、知恵は咄嗟に立ち上がろうとして足に力を入れた。
「動くな」
後ろからセーガの手が伸び、知恵の肩を背もたれに強く抑えつけた。
カノンの動きが鈍くなる。男の竹刀が少女の脇腹に食い込み、その拍子で少女は壁に打ち付けられた。
「っ……!もし何かあったらどうするの?神だのなんだの言ってもこっちは生身の人間でしょ?」
「ああ」
途端、肩の重りが消えた。セーガの手が知恵の目の前に出される。瞬間、警報のようなブザー音が鳴り響き、フューラーが冷淡な目をして告げた。
「マスター、体力43%減少。……50……65……徐々に減少中」
知恵は何が起こったのか分からず、目を見開いていた。セーガが手を出した瞬間、閃光のような痺れが身体中を駆け抜けた。それと同時に全身の力が抜け、知恵は座っているいるのさえやっとだった。カノンとセレナの声が遠くなる。腹部から腕に、足に、じわじわと痺れが広がっていく。
「お前は今、もしと言ったな」
セーガの手に柄が握られていた。恐る恐る、その刃に視線を沿わせる。
彼の手にした剣が、知恵の腹を貫いていた。
「この世に不確定な事柄はない。お前は死なない。双子も死なない。怪我1つ負うことすらできない。なぜならここは、そのためにあるのではないからだ」
ずるりと剣を引き抜かれる。内部から臓器が零れ落ちるような空虚があった。
「血は出たか。穴は開いたか。痛みはあるか」
知恵は震える手で腹に手を添え、空っぽの頭で、ただただ男の言葉をなぞる。
腹に、剣に、一滴の血もついていない。服にさえ穴は開いていない。少しの痺れは残っているが、痛みは感じない。
知恵は力なく首を横に振った。
「分かればいい」
カノンは知恵が素を失った瞬間の、身体が軽くなる瞬間を見過ごさなかった。少女はいつの間にか鎖鎌を握りしめ、知恵が正気を取り戻したときには敵のマスタールームへと飛んでいた。セレナもカノンに続いていた。天井まで届く本棚のある部屋だった。
「セレナ!」
「カノン!大丈夫、先にやろう!」
カノンは何かを思い出したようで、ちらりと周囲を見渡した。それに気付いたセレナが首を振る。カノンは見下すように、そこにはいないフードの男を見ていた。
「まったくもう、しょうがないんだからぁ」
双子は同時に駆け出し、カノンは自分の上に倒れてくる本棚に飛び乗り、もう一度、跳躍した。ナイトのおじさんは棚から棚へと飛ぶ少女を見上げ、感嘆の声を漏らし、少女を追うため本棚の間を駆ける。おじさんは俊足ではないが、年齢の割に体力はあるようだった。
「聞いてよもう、湊ったらさあ」
カノンはナイトのおじさんを視界にとらえた途端、愚痴をこぼし始めた。マスターであるおばさんは一番奥にある、どっしりとした樫の椅子に座っていた。
「あいつさぁ、カノンのいれた紅茶をつき返してきたんだよ!コーヒーじゃなきゃイヤとかあのとしでわがまま言ってしかも砂糖入りで!」
喋りながらもマスター目がけて駆けるカノン。それを追うナイトの背を、黒く先の尖った大鎌が引き裂いた。ナイトは悲鳴もなく消え去り、自身の背丈よりも大きな鎌を持った少年が苦笑しながら「それで?」と少女を促す。
「あいついつも自分のに砂糖なんかいれないくせに!カノンがあまい紅茶しか飲めないの知っててわざと砂糖をいれておいた紅茶をなにも言わずに返してきたの!カノン一瞬ね、一瞬だけね!ほんとうにあまくない紅茶が飲めるようになったかと!思ったじゃない!」
少女は本棚をいらだちのこもる足で蹴り上げ、天井ギリギリまで跳躍する。
「湊のバカァ!」
カノンは鎖鎌を振り下ろし、マスターは抵抗する間もなく消えた。
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