五 陣地



 ――あか。




 ――あかい。





 ――めのまえが、











 ――――まっ赤だ。





 勢いよく立ち上がった知恵は目を見開いた。あれだけうるさかった喧騒は消え失せ、耳が詰まるような静けさが漂っている。短い呼吸を繰り返すが、そんな異物を呑み込もうとする静寂が重たく襲ってくる。薄暗く、目が慣れるのにしばらく待った。幅の広い階段の一段一段に整然と列を成す椅子、目の前の壁には大きな白いスクリーン。映画館だ。客はいない。


 知恵は中心よりやや上の辺りにいた。手をついたところは硬い椅子の背で。最初に目に入ったのはカーペットだった。知恵は茫然としたままそれを眺めていた。両方ともひどく濃い赤だった。まるで、たんまりと血を吸い込んで重たくなったかのような――。


 「テレポートだよ。君はゲームの中に来たんだ」


 静かな声が下方から聞こえ、そちらに目を向けた。いつの間にか、ひとり、席を埋めている者がいた。最下段に座っていた黒い影が立ち上がる。真っ黒なローブを纏い、フードを深く被っているせいで顔は見えない。しかし知恵は、パネルで見た湊で間違いないと確信していた。その手には背丈よりも長い杖があった。死神という言葉が頭をかすめる。どこか背景に馴染めずにいるが、それでいて何故か、そこにいることが当たり前のようにも思えた。


 知恵がその存在を認めると、彼はゆったりとした足取りで階段を上り始めた。


 「待ってたよ。少し、気分が悪いみたいだね」


 叫んでいるわけでもないのに、不思議と声がはっきり聞こえる。リン、と一度だけ鈴の音がした。


 「疲れた?不安も大きいし、世界とのズレもある。擦り合わせは大切だけど、ストレスが溜まりそうだね。でもそんな顔はこの世界に似合わない。笑ってなきゃ。君はオレたちにとって大切な大切なマスターなんだから」

 「あなたは」

 「うん?」

 「私のことを知ってるの?」


 湊は知恵のいる場所まで数段残して立ち止まった。ほんの少し首を傾げる。フードから、ちらりと髪が覗く。知恵はそれをじっと見つめる。些細な動作も見逃さないというような瞳で。

 湊は薄い唇に微かな笑みを滲ませ、吐息をつくように言葉をのせた。


 「いや、君に会ったのは初めてだよ。もちろん君の存在を知ったのもね」


 湊はそこで言葉を切り、知恵が話し出すのを待っているようだった。この答えで十分か、と湊が問うてるようだ。十分じゃない、と知恵は口を開こうとした。しかし、


 「何かあったんですか、湊さん」


 聞こえてきたのはセレナの声だった。申し訳なさそうでいて、どこか怒気を含んでいる。


 「カノンが怒ってるみたいなんですけど」

 「えー?」


 湊の前にパネルが現れる。カノンとセレナが映っており、2人の声が交互に聞こえてきた。


 「もう湊に紅茶いれてあげないもん」

 「ていうか何で湊さんそっちにいるんですか」

 「あ、自分だけソフィア姉に会ってないからくやしかったんでしょ~。へえ~?」

 「へえ~?お店に入り浸ってないで少しは動いたらどうです?」

 「ちょっとふたりとも落ち着こうか?」


 知恵はしばらくやり取りを聞いていたが、そっと手を顔の前に持ってきた。手のひらを外側に向け、スライドさせる。手の動きに沿って、パネルが現れた。湊と同じく、カノンとセレナが映ったパネルだ。2人はどこか別の部屋にいるらしい。何も無い灰色の、無機質な場所だった。


 「興味はあるようだな」

 「ちょっと……!!」


 セーガが一段後ろに立っていた。湊と同じくローブを纏っている。知恵は数歩横に移動し、セーガを睨みつけた。パネルも一緒に付いてきた。


 「あ!ソフィア姉!」


 パネルのカノンと目が合った。カノンもセレナも服装が変わっている。ゴスロリとでもいうのか、黒と白を基調とした服に十字架の柄が描かれている。おそろいであることを強調するかのように耳には十字架のイヤリングが揺れ、頬には小さくハートのマークが描かれていた。


 「やっぱり似合ってる!カノンが選んだの!ね、ね、キレイでしょ?」

 「え?」


 カノンの言葉で初めて自身の服装も変わっていることに気付いた。白いワンピースを着て、腰には太めのベルト。思わず眉根を寄せた。制服以外にほとんどスカートを着ない知恵には慣れないものだった。意識した途端に奇妙に思えて仕方がない。


 「なにこれ」

 「コスチュームだよ!ゲームの中だけで着れるの!」

 「どんなマスターさんが来るのか分からなかったので、無難なものにしようってことになってそれになったんです。ね、カノン」

 「ね、セレナ!」

 「はぁ、カノンが毎度毎度女性用の服を選ぶから女のマスターしか来ないんじゃない?」


 湊がカノンを見やり、気付いたカノンはぷいと顔をそらす。


 「まあ、本当はスカートは戦闘向きじゃないんだけど、マスターが動くことは稀だから問題ないよ。それに、ほら、このチームさ、女の子が二人しかいないから寂しいじゃない?」


 途端、キッとカノンが湊を睨んだ。


 「ソフィア姉にセクハラしたらカノンが許さない」

 「うそでしょ。そんな言葉どこで覚えたの?」


 不服そうにしながらも知恵は文句を言うことはなかった。そんな知恵に湊は微笑み、ひとつ、問うた。


 「ソフィアちゃんはさ、神様の存在を信じてないの?」


 カノンとセレナが押し黙る。セーガが湊を見た。全ての音が映画館の壁に吸い込まれるようにして消えた。そこに異様な統一感があることに、知恵は気付かなかった。ただ思ったのは、彼らが神の存在を信じているということだけだった。


 「……信じないといけないの?」


 数秒の沈黙ののち、湊が腹を抑え、前屈みになるように腰を折った。何事かと思うと同時に、金属を叩くような軽快な声が彼の背を震わせる。


 「なんで笑ってんの」知恵が不愉快そうに顔を歪める。

 「頭がおかしいのよ」カノンがとげとげしく言い放つ。

 「笑いのツボが個性的というか」セレナが眉を下げる。

 「そろそろ時間だ。湊、起きろ」セーガが冷たく言う。


 階段に座り込んだ湊が笑い声とともに途切れ途切れに何かを言っている。それが言葉になる前に、セーガは知恵に席に座るよう促した。

 腰を下ろした知恵は息を吐き、湊のそばに行くセーガを目で追う。椅子は硬く、少し冷たい。それなのに、とても居心地が良かった。心を不安や嫌悪へと向けさせていた何かがすっかり取れた気がする。

 知恵は失敗したと思っていた。ゲームはするべきではなかった。結果的にすることになったとしても、優先すべきは魔女に会うことだったのだ。それなのに、よく知りもしないものに手を出してしまった。焦っていたのだと今ならよくわかる。冷静ではなかった。普段の自分なら、不明瞭なものは調べ上げるまで絶対に手を出さない。それなのに――。


 『  』


 知らない声が聞こえた気がして後ろを向いた。しかし、そこには誰もおらず、その思考も湊の大声にかき消された。


 「だって今までのマスターと反応が違うからさあ!」


 湊は知恵が見えるように身体をずらす。笑いがおさまっても立ち上がる気はないらしかった。


 「このゲームはさ、言ってしまえば神様に願いを叶えてもらうために存在するゲームだ。もちろん娯楽のためだけに参加する人も多いけどね。この世界じゃ大抵の願いは魔女が叶えてくれるし」


 知恵は何も言わない。


 「神様という概念をさ、どう考えてるのか、教えてほしいなあ」

 「……そんなことよりも、ゲームのルールを教えてくれない?」

 「ははっ、そっか、そうだよね。うん。もっと楽しい話しがしたいんだけど、マスターがそう言うなら」


 湊は自分の前に静かに佇むセーガを見上げた。


 「ソフィアちゃんを怒らせちゃった。早くこんなの終わらせて、みんなのご機嫌取りしなきゃ。ついでにお前のこともね。ああ、まったく。面白いなあ」


 嬉しそうに笑いながら湊は立ち上がる。彼の独り言に近い呟きも、知恵には届いていた。どうやらこの空間にいるものの声はどんなに小さくても聞こえるらしい。すぐ近くで喋っているように聞こえるのに、これだけ離れているのは不思議な感覚で、距離感が鈍りそうだった。

 湊の姿が消えると同時に、知恵の目の前に複数のパネルが現れる。様々な角度からカノンとセレナ、そして湊が映っていた。


 「あの場所がスタート地点だ。ゲームが始まればこの部屋以外でパネルを使うことはできないが、あいつらの話し声はこのパネルから聞こえてくる。会話をしたければここで話しかければいい。あいつらの頭の中に直接声が聞こえる。あちらからも大切なことはテレパシーで伝えてくるが、それはマスターにしか聞こえない。俺には聞こえないから、何か言っていたら伝えてくれ」


 知恵の後ろに戻ったセーガが事務的に言葉を並べていく。


 「これは5対5で戦うチーム戦だ。マスターとそれを守るナイトは自陣で待機、残りの3人は敵のマスターを倒しに敵陣に乗り込む。今は俺がナイトの役目だ。先に敵のマスターを倒したチームが勝つ。細かいルールはフューラーが教えてくれる」

 「フューラーって?」

 「このゲームの案内人だ」


 その時、映画館のスピーカーから場内に音が伝った。それは湊でもセレナでもカノンのものでもなかったが、無機質な抑揚のない声は、この場所にテレポートするときに聞いたものとよく似ていた。


 「時間になりました。プレイヤーは所定の位置に着いてください。残り30秒で開始します」


 スクリーンが明るくなる。女の子が映っていた。ロボットのように、表情の無い女の子だった。


 「ソフィア様、ようこそフリーダムキングダムへ。そしてグラントデザイアへ。私はこちらのチームで補助を務めさせて頂きますフューラーでございます。ソフィア様は初めての参加ということですので、私からこのゲームについて説明させて頂きます」

 「基本的なことだけでいい」

 「かしこまりました、セーガ様。ではソフィア様。ゲーム開始後、席を立つ行為は降参とみなされますのでご了承ください。カウントダウン残り10秒。9、8、7、6、5、4、3……グラントデザイア、開始します」


 「いくよ!」とカノンの一際大きな声と共に、彼らの目の前に3つの扉が現れた。

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