二匹の神聖な白い獣

水野 洸也

第1話

 庭を散歩しているといつもみたいに二匹の白い獣が庭沿いの道を歩いていった。庭とその道とは垣根で隔てられているため獣は見えたり見えなくなったりする。それが一層それの厳かさというか、妙々しさというか、そういうものを効果的にしている。大きさはヒョウよりも大きくサイよりは小さいといった範囲に収まりそうではあるが、表情だけを見ればとても動物とは思えない。その目はどこを見据えているのか。普通の獣のように他の獣に仲間意識を感じることはなさそうで、たとえ逆方向からそれの天敵が現れたとしても、だからなんだといった調子でやり過ごすだろう。また自分と同族の獣に対して他の獣が抱く愛情意識、あるいは敵意意識なるものもこの白い獣とは無縁らしい。同じメスを勝ち取るためにまずは視線で以って対峙し、その後で徒競走の子どもみたいに元気よくお互いに飛び掛かる、そういうことも印象としてはしなさそうだし、異性の尻穴をくんくんと嗅いで相性を確認したり、それがうまくいったのちに繋がり合う、といったことも多分ないだろう。これらすべては憶測でしかないのだが、これらは間違いなく当たっているという確信が僕の中にあった。憶測がそのまま真実となる世界にじゃあ自分は今属しているのだろうという推論がその後で成り立った。そもそもある世界のうちで推論し、その世界について知る、という順序ではなく、まず推論があり、その推論によって当の世界がいわば事後的に導かれる。そのような場所に自分が属しているわけだから、何だかおかしな話ではあるが。しかしこういうことも起こりうるのだろうということで、須らく納得することができた。


 さらに次に憶測を語ろうとするならば、二匹の白い獣が日常的に一体どこを見据えているのかという問題になる。これもまた、憶測がそのまま真実となってしまうわけだから言葉に注意すべきだろう。だが元来、自分はどうにも生き急ぐ性質に支配されているようで、考えは考えるのだが、その考えが実は何の根拠にも基づいていないということがしょっちゅうある。そのせいで人を困惑させたり、自分自身をも混沌に巻き込んでしまうことがある。それには注意しようと、のそのそと目の前を横切る二匹の白い獣を眺めながら思う。


 よく見てみると、二匹の獣に挟まれるようにして、身長百八十センチくらいの小太った男が歩いている。その男は僕の叔父さんにそっくりだった。だが今現在の叔父さんではなく、どうやら十年くらい前の叔父さんらしい。今の叔父さんにあれほどのことができるはずがないだろうし、十年前だったらあり得るだろうということが僕の頭に確固として結びつく。すると自分もまた十年前なのだろうかと思うが実はそうではないらしい。こうして今現在の自分の頭で考えられているわけだから、十年前ではあるまい。この世界では往々にしてこのようなことが起こるのだから、この齟齬に関しては無視しておいた方がよさそうだった。後々これが大問題へと繋がる可能性は残っているが、今はさしあたりそのようなことにはならなさそうなので無視することに決める。するとその齟齬は僕の頭から離れていく。齟齬は齟齬ではなくなり、この世界でしか通用しない独自の意味内容を持った言葉として僕の頭に結実し、当の世界を覆う。すると、その国の習慣がその国の法律よりも根源的に強い拘束力を持つように、あらゆる文化、あらゆる科学、あらゆる生活にそれが浸透していくのを感じることができた。実際僕の位置しているのは自分の家の庭なのだから、当然家の中には母親がいるのだろうし、父親もこの世界のどこかに可能的に存在しているのだろう。今は本筋とは関係していないから登場していないだけであって、なにせ叔父さんが登場したわけだから、これから登場することは充分考えられる。それに備えておくのも一興だが、やはり今という時間とは関係がないためこれもまた無視が最善であるという結論に達する。今はとにかく獣だ。


 垣根に遮られてよく見えないが、どうやら二匹の白い獣は赤いリードで繋がれてしまっているらしい。すると十年前の叔父さんが彼らの飼い主ということになる。それはいい。僕がさしあたり問題にしたかったのは、あの獣たちがどこを見据えているのかということだ。それ以外のことはとりあえず停止させる。そうしようと真に願う。するとその通りになった気がした。その証拠として自分の頭が少し風通しが良くなった感じがした。おかげで獣たちがどこを見ているのかについて大いに考えられそうだった。


 しかしそのことについて考える前に別のことに気を取られてしまう。家には外付けの大きなヴェランダがあり、その右端はほとんど物置きと化しているのだが、そちらを見てみると、数匹の子猫がじゃれ合っているのを見かけた。彼女たちはまるで、二匹で一匹の獣であるかのように丸く合成されていた。時々、二対の眼とか、柔らかそうな爪とかが覗くのだが、それ以外の時間となると、それはまるでモコモコしたアフリカのボールみたいだった。二、三匹の子猫はいずれも灰色だったため、アフリカといっても灰の多く見られるであろう地方、火山が活発でよく灰の降る町が発祥のスポーツにおいて使用されるボールを僕は想起した。ルールはサッカーと同じだが、その協議では足ではなく手が使われる。互いにボールを回して、相手陣地のゴールに入れることで得点が加算されることもそっくりだ。唯一違う点といえば、それが国際競技ではなく、地元でしか通用しない、競技人口の限られた伝統的なそして閉じられたスポーツであるということくらいだった。


 あの白い獣も子猫たちのことが気になったようで、彼らはいつのまにか庭に侵入してきていた。襲われるのが怖かったので僕はすぐさま物置きの陰に隠れた。物が散乱しているので隠れ場所には困らない。そのうえ隙間がたくさんあるから、向こうに見つからないまま至極安全に相手を監視できるといった利便さだった。


 取って食おうとでもいうのだろうかと最初は期待していたがそんなことはなく、二匹の白い獣は、自らがボールとなってじゃれ合う二匹のそして一匹の子猫をしばらくくんくんと嗅いだ後、そっぽを向いてどこかに歩き去ってしまう。この光景自体は何のことはない、むしろ大きくて獰猛な獣が寛容な心で以って弱きものを弱肉強食的世界にもかかわらず赦したということで、感動すべき出来事だったのかもしれない。けれどもこの時、僕は一種の変な気持ちに襲われた、いわゆる嫉妬だった。どうして自分はこうしてあの白い獣を恐れてこんなにもびくびくして物置きに隠れるなんてこともしたのに、あの子猫たちはそういう恐れを抱かなかったのか、また実際に襲われるようなこともなかったのか。これじゃあ自分の完全な勘違いじゃないか。あの二匹の獣は実は神聖な生き物で、子猫を襲うような性質を元々有していないということだったのか。そもそもよく考えてみればあの神聖そうな獣は飼われ調教された獣なのだから、他の弱き動物をオオカミみたいにむやみやたらと襲撃するなんてことはしないはずなのだ。自分はそんなことすら考えられないままこうしてぶざまにも子猫に「敗北」したというのか。そのことを思うとむかむかした気分になってくる。


 次に僕のしようとしていたことは僕自身にも明らかだったし、この世界にもきっと明らかだったのだろう。いけないことであると本能的にわかってはいたけれども、抑えることがどうしてもできない。それを世界が察知したのか、またもや二匹の神聖な獣が現れた。今度は先ほどとは違って、僕という敵を、かつてはどこも見据えていなかったその目で見据えていた。この視線を感じて僕は身の危険を感じた、が、気づいた時にはもう遅いというよくある話で、飛びかかろうとする僕の後ろからさらにその二匹の獣が飛びかかってきて、背中に噛みついた。その獣はいくら僕が願っても消えてくれない特性を持つものたちだった。そういう諦めにも似た観念が頭の中ですでに出来上がっていたために、この獣をどこかに消し去りたいという欲望すらそもそも感じられなかった。消し去ってはいけないものなのだとすら考えられていた。おかげで僕の背中は血だらけになり、その場から動けなくなってしまったものの、これでいいのだと終末づける自分もまたこの世界に存在している。そういう世界なのだ、ここは。それを知って血だらけの僕はほっとした。最後までじゃれ合っている子猫が今度は羨ましいときた。本当に救いようのない男だなあとしみじみ感じたところで命の炎が尽き、そこでその世界は閉じられることとなった。

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