呼び声

T長

呼び声

 「そこ」で誰かが呼んでいるのは確かだった。それはカナツカミキオにとって絶対の真実だった。だが、「そこ」に行く事がどうしてもできないのだ。カナツカには「そこ」がどこなのかわからなかった。ただ彼方から、声ともいえない、言葉ですらないさざ波のようなものが繰り返し、繰り返しカナツカの心臓に呼びかけるのだった。「Come on」であるのか、「Hello」であるのか、或いは「Help me」であるのかもはっきりとしない。カナツカには呼ばれているのは自分だという確信があった。この10年ずっとだ。10年の間、カナツカは辿り着けないその場所を探していた。

  

 はじめに彼はその場所を海ではないかと考えた。その当時中学生だったカナツカはしょっちゅう授業をさぼって海へ向かった。電車で5駅、自転車で1時間と15分。フジツボだらけのコンクリートの護岸から、彼は尋ねた。「おれを呼んだか」と。当然だが返事はなかった。海ではなかったのだ。1年間を費やしてせっせと海へ通ったのち、カナツカはようやく「ここは違う」と判断を下した。とても似てはいたが、そこではなかった。

 カナツカとて闇雲に目星をつけたわけではない。海が「そこ」だと思ったのにはちゃんと理由があった。海は人間用の場所ではなかったからだ。通常、カナツカが生活をして生きているのは人間用の場所である。その人間用の場所とは違うどこかから呼ばれる、ということはつまり、カナツカが行かなければならないのは人間用ではない場所だということになる。その点を海は満たしていた。無論、釣り人、ヨット、船、岸辺に座り込む男女、水と戯れる家族など、海にも人間の姿はある。しかしそれらはあくまでも間借り、偶然の利用に過ぎない。海は人間の生まれるより遥か昔に既にただ海として存在していたのだ。その部分はとても信頼できる、とカナツカも思う。特に冬の荒れ狂う海と来たらそれはもうひどく、水平線の向こうから拒絶の意思に似たものがむくむくと盛り上がる気配すらあり、カナツカは海のそういうところをとても好ましく感じていた。

 けれどもある日、いつものコンクリートの上から彼は見てしまった。水面をきらきらと光るものたちがある。魚の群れであった。カナツカには魚の種類はわからないが、魚というものが間違いなく海のものである事は見ていて容易に知れた。彼の中で、テレビや本で目にする海の中の画像と目の前の海が完全に結びついた。そうして彼は知ったのだ。「海にはさかながいる」と。さかなは自分を呼んではいない、と。呼ぶものが求めるのはカナツカただ1人だけであるはずだった。呼ぶものがもしも海にいるのだとしたならば、これほどさかなに溢れているのだ、さかなを呼べばよい。それが最良の選択だとカナツカは思った。海はさかなの「ここ」であって、カナツカの求める「ここではない、そこ」とは違う。おそらく呼ぶものは、人間も、さかなもいないもっと厳しいどこかにいるはずだった。

「一体、どこにいる?」

 カナツカは海に行かなくなった。海が嫌いになったわけではない。ただ単にもう行く理由が無かったのだ。


 ぎりぎりの成績で中の下ランクの高校に合格したカナツカは、次に山に登った。山岳部を目当てに学校を選んだカナツカであったが、最初に部活動の練習の一環として登った低い山は植物や虫たちに溢れており、彼は落胆した。

「これでは海と同じだ。豊かだ。ぜんぶある。山ではない。ぬるい」

「金塚、おまえが何を言っているのかオレにはわからないが、これはあくまでも練習だ。3000m級の山、それも冬の山はまったく違うぞ。あらゆるものを拒絶しているような気がする」

「それはほんとうか!」

 山岳部の3年生に告げられ、カナツカは思わず笑みをこぼした。

「本当だが、それよりおまえは先輩に対してもう少し口の利き方というものを考えたほうがいい。オレは気にしないが、それでは色々やりにくくなる事がある」

 先輩の2つ目の言葉の意味は、カナツカにはわからなかった。

「意味不明だ。それよりもおれははやく大きい山にいきたい。いつ行けるのか。明日か」

「お前は謎の生命体だな……」

 卒業するまでカナツカは結局この先輩の名前を覚えないままであったが、カナツカにとって先輩といえばこの人物を指す。カナツカは当時も今も携帯電話というものを一貫して持たなかった。だからもう先輩と連絡をとることはできない。

 やがてカナツカは冬の山に登る機会を得た。先輩の予想通りカナツカは他の部員たちからは疎まれたが、彼は特に気にする事はなかった。もとよりカナツカにとっては「先輩」以外の部員は名前どころか顔も記憶に留めていない存在だったのである。顧問の教師は厳しかったが、そういうシステムの機械のようなものだとカナツカは考えていた。呼び声に近づけるかもしれないと思えば、訓練や練習メニューも大した苦労ではなかった。1年の終わりに集大成としてそれなりの雪の山に登るというのがこの部の伝統らしかった。 有名な山らしいがカナツカにとっては山の名前もやはりどうでもよかった。山は山だ。

 吹雪いてこそいなかったものの、山は真っ白であった。生き物の姿もほとんど見かけなかった。先輩に尋ねると、動物は冬眠しているのだという。山頂に近づけば近づくほど植物すらもまばらになってゆき、カナツカはいよいよ呼ぶものの存在を間近に感じた。

「会えるのか! そこにいるのか!」

 だが問題があった。カナツカは白い世界で呼ぶ者に呼びかけ、その気配を聞こうとする。けれどもその度に邪魔が入るのだ。

「少し黙れ金塚、うるさいぞ」

「どこへいくつもりだ、隊列を離れるな」

「危ない、何をしているんだ」

 山小屋で先輩はカナツカに言った。

「金塚、お前が何かを探しているのをオレは知っている。でもお前は今日それをここでは探せないかもしれない」

「なぜだ。きっと近い。おれは探せる」

 カナツカにはやはり先輩の言う事がわからなかった。先輩はしばらく言葉を選んでいたが、やがて小さな、囁くような声で答えた。

「というよりも……たぶん、あまりそっちに行ってはいけないんだ。お前は人間で、部員だから、ほかの者に迷惑をかけてはいけない」

「迷惑をかけられるのが嫌ならば、見捨てればいい」

「そういうわけにはいかないんだ、オレはお前を知ってしまった。だからもう見捨てられないんだ、そういうことなんだ、人間とはそういうことなんだ……金塚、すまない……」

 先輩の声は更に小さくなった。カナツカは何か反論したかったが、ふと周囲を見渡すと自分や先輩の被るシュラフと同じものが小屋のあちらこちらに、カラフルななめくじのように寝そべって群れている光景が目に入り、何を言おうとしたのか忘れてしまった。小屋の外の風の音が急に耳障りに感じた。「我々は外で荒れ狂う山に対し、寄り添って隊列を組んで戦っているのだ」という当たり前のことを、カナツカはここで初めて理解した。

「さがせないのか……」

「そうなんだ」

「だが近い気がする」

 カナツカは山岳部に所属している間、回数にして7度ほど冬の山に登った。山はとても「そこ」に近かった。だがどうしても辿り着くことはできなかった。カナツカは死にたかったわけではない。死なないためには人間は隊列を組まないわけにはいかなかった。疎まれてはいてもカナツカにも役割は与えられ、部員達と共にロープで身体を繋いだ。それは人間という呪縛だった。先輩は卒業して大学生になってもOBとして山に同行した。そしてカナツカを見捨てなかった。カナツカは人間の呪縛を解くことができなかった。呪縛は強く、やさしかった。

 呼ばれている。すぐ傍まで来ている。だが辿り着けない。カナツカは徐々に気付く。もしかすると、「そこ」と近いのは山ではない。もしかすると「そこ」と近いのは――

  

 先輩から本格的な山岳サークルのある学校を薦められたりもしたが、カナツカは結局大学には行かず、単純な肉体労働の会社に就職した。相変わらず言葉遣いは正さなかった。彼にとってはどうでもいい事であった。高校の頃以上に、人の顔を覚えることができなかった。ただし例外がひとりいた。

「おはよう金塚くん」

「おはやくもない。おれは遅刻をした」

「じゃあなんて言えばいいのさ、おそよう? そう言ってほしい?」

「よう、はいらない。遅い、でいい。いや……そもそも何も言わなくていい」

「いま一瞬ほどけかけたね」

「ほどけるも何もない」

 5歳ほど年上の事務の女性だった。カナツカはやはり彼女の名前を憶えず彼女のことを「事務」と呼んでいたが、その事務だけはカナツカによく話しかけた。当初は面倒だとしか思わなかったカナツカだったが、次第に会話が増えた。「事務」はカナツカの話を聞きたがった。奇妙な趣味の女だと思いつつも、邪険にする理由もなかったので放っておいた。

「そもそもなんで遅刻したの」

「眠かったからだ。考え事をしていた。呼ばれるから」

「きみは本当に謎の生命体だなあ」

 謎の生命体、という言い方にカナツカは懐かしいものを感じた。

「事務は少し先輩に似ている」

「へ?」

 やがて事務はカナツカの家に来るようになった。事務は何度も「愛してる」という言葉を使ったが、カナツカにはその言葉の意味はわからなかった。ただ、彼女が自分を求める様子と、自分が呼ぶものを求める様子は似ているかもしれない、とカナツカは思った。自らは幾度も口にしたその言葉を、彼女はカナツカには決して求めなかった。あなたは、どう?とも尋ねなかった。彼女は彼女の大きさのちょうどいっぱいの彼女であり、それ以上になろうとしない。カナツカは事務のそういうところが嫌いではなかった。けれど彼女と結婚をするつもりはなかった。なぜなら、カナツカは呼ぶもののいる「どこか」へ行かなければならないからだ。それを告げようとすると、事務はいつもカナツカの口を人差し指で塞ぐ。

「しってるよ、言わなくていいよ。きみは謎の生命体だから、仕方がないよ」

 柔らかな呪縛だった。事務はカナツカの全てを受け入れながら、同時にそれを拒絶する。時折、呼ぶものは彼女の柔らかい体温の中にあるのではないかとすら思う事があった。おれだけを呼ぶものが、彼女の肉に埋もれて、ずっと求めていたのではないかと。だがカナツカにはそれが錯覚だと判っていた。事務を抱いていても彼を呼ばう声はいっこうに近くならなかったからだ。

「ここではないんだ」

「しってるよ」

「ここではない」

「わかってるよ。だからかなしいけども、泣いてないでしょ、わたしは」

  

 冬のはじめのある日、カナツカは突然社長室に踏み込み、こう告げた。

「予定通り金がたまった。おれは辞める。世話になった」

 そうして彼は本当に会社を辞めてしまった。辞めてどうしたかといえば、彼は山に入った。ある程度の高さがあり、手入れもされておらず人が踏み込むこと自体ほとんど無い山奥だ。そこにテントを張った。生活に必要な最低限のものと、日持ちする食料を大量に買い込み、数回に分けて運び入れた。カナツカは事務に別れを告げなかった。事務の方も、彼が辞表を出してから家に来ることはなかった。そうする必要が無かったのだ。別れは既に毎日、告げられていたも同然であった。

 カナツカミキオは全ての人間と接触を断った。人間の呪縛を解くためだった。彼は冬が深まるのを待った。最初はあった動物の気配もやがて眠りに落ちた。植物も静かになった。皆がやりすごそうとしている。空気が「ここ」ではなくなってゆく。カナツカは呼び声を聴いた。「Come on」であるのか、「Hello」であるのか、或いは「Help me」であるのか、定かではないその声がゆっくりと近づいてきた。

「まだ、よくきこえない」

 カナツカは食事をとることをやめた。声は更に近くなる。

「そこにいるのか」

 吹雪とともに更に近くなる。

「いるんだな、そこに、」

 テントを出ると更に近くなる、カナツカは厚いジャケットをかなぐり捨てた。とても近い。

「おれを呼んだか?」


 よんだ

  

「そこにいるのか?」

  

 もうすこしだ まだとどかない

  

「あと何をすればおれはそこにいける?」

  

 すべてを すてれば

  

 カナツカの両の手のひらにはいつの間にか、丸くて透明な何かが数個、握られていた。ひと目でわかった。それは彼のすべてだった。青い丸は、海。カナツカの通った海だ。緑の丸は先輩。カナツカの先輩は1人だけだ。薄黄色の丸は、事務。愛して欲しいとは言わなかった女だ。

「すべてを、」

 カナツカは丸を抱くように胸に押し当てた。丸はあたたかかった。涙があふれた。カナツカは自分が涙を流している事に驚いた。丸を捨てる事は確かに苦しい。だが苦しくて泣いているのではなかった。丸がいとしかった。カナツカはただ、丸がいとしかった。

 とても長い間、カナツカは丸を抱きしめていた。けれど、彼は呼ばれていた。カナツカは頭を上げる。吹雪は透明だった。

「さようなら」

 黄色い丸を手放す。事務はカナツカを忘れた。

「さようなら」

 緑の丸を手放す。先輩はカナツカを忘れた。

「さようなら」

 青の丸を手放す。海はカナツカを忘れた。


 いいのか、と、言われた気がした。近いところできくと、声はカナツカ自身がものを考えるときに頭の中に響く、声ともいえない、言葉ですらないさざ波のような意思に似ていた。カナツカは答えた。

「いい。おれが忘れていない」

 吹雪の奥で何かが光った。カナツカはそこに向かって歩き出した。行かなくてはならない。

  

  

  

  

(了)

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