第2話 はつ音のキーホルダー
--ドカッ!!
「いっっっってぇぇぇぇ!」
左脇腹に衝撃が走り、僕は飛び起きた。そして、壁一面にライブポスターが貼られているのが目に入って理解する。ここは渋谷のスクランブル交差点ではなく、僕の部屋。そう、あれは夢だったのだ。僕はよろよろと腹を押さえながら顔を上げた。母さんが仁王立ちして僕を睨んでいる。
「さっさと起きなさい!遅刻するわよ!」
--え、遅刻?
枕元の時計の時間を見て僕はぎょっとした。いつもならもう出てる時間。今まで学校に遅刻したことなんかないのだ。だいたい姉貴の目覚ましに起こされるから。そういえば今日は鳴ってなかったな。さすがに反省したんだろうか。
制服に着替え、慌てて部屋を出かけたところで思い出す。そういえば夢でヘッドホンを忘れそうになったんだっけ。僕は部屋に戻り、部屋中を見渡した。……ない。そもそも買ったことすら夢だったのだろうか。
きょろきょろとしていると、その声は聞こえてきた。
「ヘッドホン、もう着けてるコケッ!」
「え……?」
耳を包むパッドの感触。確かに僕はすでにヘッドホンをつけていたようだ。しかしいつ着けたんだろう。いくら音楽好きとはいえ、眠りの浅い僕は就寝時は何も聴かないようにしている。今も別にヘッドホンからは何の音も聞こえなかった。
「やっと気づいたコケ……鈴太はずいぶん鈍いコケね」
また声がする。なんだこの声は。口調とこのざらざらした電子音……
「こっち向くコケッ!」
声がした方を振り返ると、そこには吉原のカバンについていたはずのゆるキャラのぬいぐるみが浮いていた。
「な、なんで? え、ていうかもしかして……喋ってる?」
僕は思わずゆるキャラの腹部を押してみたが、音は鳴らない。代わりにゆるキャラはフェルトでできたクチバシと羽を動かして「苦しいコケ……」と言った。
「鈴太ー! 何してるの! もう出発の時間でしょ!」
「い、今いくよ!」
母さんが叫ぶ声が聞こえて、僕は慌てて一階へ降りた。ぬいぐるみもフワフワと浮きながらついてくる。父さんはもう出発したみたいだった。TVはいつもの8ch。しかし音が聞こえない。
「母さん、何で無音にしてるの?」
すると、弁当を差し出してきた母さんは不思議そうに首を傾げた。
「何言ってるの。あなたがノイズキャンセルしてるだけでしょう」
--ノイズキャンセル?
ああ、ヘッドホンのことか。だけど母さんの声がちゃんと聞こえて、TVの音だけ聞こえないのは何故だ。そんな高度な機能ではなかったはずなんだけど……
TVの画面では、やはり不倫の女子アナが出ていて、悲痛そうな顔でニュースを読み上げている。トップスは爽やかな黄色。あれ、夢でやってたニュースと同じ服を着ているのか。不思議に思って音の出ないTV画面を眺めていた僕は、次のニュースを見て目を疑った。テロップには「SAKU、Tubotterで無差別ひき逃げ予告」と書いてあって……そしてやっぱりうお座は12位で、NGワードは「交差点」らしい。
***
「どういうことだよ、これ取れないじゃん」
学校に着き、滅多に人が来ない資料室に入ると、僕はどこまでもついてくるゆるキャラのニワトリに向かって話しかけた。さっきから何度も試してみたが、ヘッドホンが耳から外れないのだ。
「当然コケ。だってここは鈴太が望んだ世界なんだから」
「僕が望んだ世界?」
「そうコケ。君が聞きたくないノイズは全部遮断される、とっても便利な世界コケッ!」
ニワトリは自慢げに羽を広げ、そう言った。
「それでノイズキャンセル、ね……それを言うなら僕はお前の声が一番不愉快なんだけど」
「コッコの声はキャンセルできないコケ。なぜならコッコは鈴太の世界の案内人だからコケッ」
あーはいはいそうですか。ちっとも便利じゃないじゃないか。お前のおかげで今日は遅刻しかけて……
「そうか、じゃあこれからは姉貴の目覚ましに起こされることもないんだな」
「そうコケ」
「うざいやつから話しかけられることも」
「ないコケ」
よっしゃ。確かにこのニワトリが言った通り、この世界は僕が望んだ通りになっているのかもしれない。つまり、これからは吉原のあの甲高くて大きな声もキャンセルされるってことなんだ。
早速試してみようじゃないか。僕は早足で教室に戻った。教室の後方の扉を開けると吉原がこっちを振り返って何か話しかけようとした。が、何の音も聞こえない。僕が耳のヘッドホンを指差すと、吉原は諦めて前に向き直る。少しだけしゅんとしているようにも見えた。そうだよ、普段からそうしていればまだ可愛げもあるのに。
僕が自分の席に着くと、すでに来ていた数学教師が黒板を叩いて言った。
「今から抜き打ちテストするぞー。範囲は昨日までの課題からな。50点以下のやつは補習だぞ。じゃあ……始め!」
そうだ、夢でも確か抜き打ちテストをやっていたな。それで、前の休憩時間に吉原に聞かれていた課題がそのまま出てきて……
僕は慌てて机の上に置いてあったプリントをめくった。夢で見たのと、全く同じ問題。あの図形問題もそのまま出題されている。どういうことだ。正夢だったのだろうか。そう思うと背筋がぞっとする。僕はふと吉原の席の方を見た。僕に課題について聞けなかった彼女の手は、ぴたりと止まったまま動かない。
***
何も、一緒に残ってくれなくても良かったのに。
吉原の口はそう言いたげに動いたが、やはり僕に聞こえていないのを知って途中で言い
数学の抜き打ちテストで50点以下なのは吉原だけだった。しかも、あと一問合っていれば補習は免れた点で。その一問になんとなく責任を感じた僕は、補習で教室に一人残る吉原に付き合っている。
「はつ音の声はノイズだったんじゃなかったコケ?」
コッコは二頭身の頭を横にひねる。吉原には見えていないらしい。
「吉原はうっとうしいけど……僕のせいで補習を受けるハメになったんだったら、後味悪いだろ」
時計を見やるともう16時半になろうとしていた。夢では今頃TATSUYAに行って、CDを漁って、そのあとスクランブル交差点で……
考えていると、今朝母さんに思いきり蹴られた左脇腹がじんじんと痛んできた。
そういえばあの夢……最後は一体何が起きたんだ? 吉原はなんであそこにいて、僕を見て何を言おうとしたのだろう。もしあれが正夢だったとしたら、今渋谷で起きていることは一体……
僕は慌てて制服のポケットからスマートフォンを取り出し、Tubotterのアプリを起動した。
タイムラインは僕の好きなアーティストの活動報告、新譜情報、ライブハウスのイベントスケジュール……違う違う違う違う。普段からタイムラインを好きな情報だけ流れるようにカスタマイズしすぎたせいで、音楽以外の情報が全くない。心地いい環境を作ったつもりだったのに、なぜか今は無性にそれが綺麗事だらけの気持ち悪い世界のように感じた。
僕が頭を抱えていると、吉原が何かを察したかのように自分のスマートフォンの画面を見せてきた。
彼女のタイムラインは、いろんなアカウントがフォローされていた。クラスの友人、アイドルの公式アカウント、アパレルショップのアカウント……雑多なアイコンが並んでいるが、皆スクランブル交差点で起きた事故について話題にしていた。
『マジ怖かった……車が信号無視していきなり交差点のど真ん中に突っ込んできた』
『【閲覧注意】スクランブル交差点、死傷者で溢れる』
『運転席の男は即死らしい。なんかこの顔見たことあるな……』
『犯人SAKUじゃん。まじでやったの』
僕は思わず口を覆った。吐きそうだ。もし夢と同じ1日を過ごしていたら、僕は、きっと……
吉原がスマホで何やら文字を打って、僕に画面を見せる。
『鈴太が渋谷にいなくてよかった』
気付いたら僕は吉原が目の前にいるのも忘れて、ニワトリのぬいぐるみの首の部分をわしづかみにしていた。
「ぐ、ぐえ……鈴太、何するコケッ?」
「ノイズキャンセルなんてもういらない……世界を元に戻してくれ……!」
コッコは不思議そうに首を傾げる。
「自分で……耳を閉ざしたくせにコケ?」
顔がカッと熱くなる。恥ずかしくて、悔しくて。
「そうだよ……! 僕が間違っていたよ……! 吉原はきっと僕を助けようとしてたんだ! 僕なんかを……! 吉原の声が聞きたい……お願いだ、コッコ……!」
コッコはゆるキャラとは思えないほど哀愁を帯びた深いため息を吐いた。
「後悔しても、知らないコケよ?」
***
「……鈴太! 意識が……!」
吉原の声がする。鼻をすする音、むせび泣く音。そこは電子音が定期的に響く、静かな空間だった。
「ここは……」
確かめようにも僕の目は開かず、暗闇のまま。
声だけが、よく聞こえた。
〜END〜
ノイズキャンセル・シンドローム 乙島紅 @himawa_ri_e
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