永劫

 私は高い壁に囲まれた所にいた。触ると冷たく、真上を見ても果ての分からないほどに高い。壁も分厚く、登ったり突き破ったりできないことは明白だった。

 右側に沿って進むと、やがて左手と真っすぐへの分かれ道にたどり着いた。私はさんざん悩んだ挙句、左のほうへ行った。曲がるとすぐに壁に突き当たり、私はそれに沿って右へと進んだ。そしてまた先刻と同じような分かれ道に出会った。今度は真っすぐ行くことにした。だが、そこは行き止まりだった。舌打ちをして引き返し、今度は壁に沿って左側に進んだ。

 そうしているうち、この壁は円形であるらしいことが分かった。故に、私が今その円の中心へと向かっていることも。何百もの壁がそびえ立っている。おそらく中心へ進めば、引き返すことはできないだろう。その証拠に、分かれ道のうち外側へ出られるものが存在していなかった。

 壁に手を当てて歩いていると、何かが刻まれていることを発見した。私は目を凝らしてじっと見つめたが、それは相当年季の入ったもののようで、よく読めないほどに磨り減っている。また、どうやらそれが象形文字のようなものであるらしいことが分かると、私はため息をついて先に進んだ。

 太陽は白い輪郭を帯び、蒼茫とした空の中に浮かんでいる。その日差しが強く私を苛む。喉が渇いたが、水は辺りに見当たらない。体温を下げるためには、壁に身を当てることしかできなかった。

 遠くから鳥の詩を吟ずる声が聞こえる。そして海のさざめきと砂の声。私はここが島であることを理解した。では何故私はここにいるのか? それは分からなかった。記憶はおぼつかないし、今の私の意識が朦朧として、輪をかけて何も思い出せなくさせていた。私はただ歩いた。

 日が暮れた。空を見上げると、今度は月が漆黒のカーテンに包まれていた。相も変わらず終わりは見えない。ふと、足もとに何かが落ちているのを発見した。それは紙片だった。「s」とだけ書かれている。私はがっかりして、丸めてポケットに入れた。

 夜も更けて、月がだんだん群雲に隠されていく頃、私は悪魔の誘惑に遭遇した。彼は山羊の口から肉食獣の歯を光らせる。

「辛いか。そうだろう。困難なことだ。お前は今この上ない理不尽に見舞われている。もううんざりだろう。俺を求めろ。お前が一言俺に忠誠を誓えば、今すぐにでもこんなところから連れ出してやる。それだけじゃない、ありとあらゆる幸福を味わわせてやるぜ。なあ、お前はもうわかるだろう? 俺がメフィストフェレス様だってことがな。魂を寄越せ。そうすりゃお前に服従を誓ってやるさ」

 私はただ一言、「去れ、化け物!」と言った。悪魔はもういなかった。幻覚かもしれない。だが、それはどうでもいいことだ。

 夜が明けるにつれて、私は己の悪が減少するのが分かった。同時に、我が光は増加していた。昨日ほど渇きの辛さはない。私はいくらか元気を取り戻して歩いた。もうかれこれ10回は分かれ道に立っている。しかし中心は見えない。

 昼になって、視界が明瞭になった。壁の色が、黒から白へと変わった。触り心地もザラザラとした感覚が増してきた。と思うと、私の触っている部分が、壁に描かれている人間の脚であることが分かった。それは槍を構えていて、ほんの前方にいる牛のような角を生やした、黒く塗りつぶされた動物を狙っている。目は煌々としていて、異様に大きい。シュメール人を想起させるような形象であった。

 暫く歩くと、今度はビザンツ的なモザイク画が現れた。中心に一人の王が立っていて、その周りに臣下が控えている。だが臣下の顔は一様に醜く歪んでいて、その視線は王ではなく、王の持つ黄金の笏に向けられていた。おそらく国家転覆の前夜をモチーフにした作品であろう。私は暫く立ち止まってそれを眺めた。

 また歩いていると、今度はロマン主義的な絵画が、壁をキャンバスに描かれていた。それは寒色をふんだんに使っており、ある巨人が、パリのような街並みを、そこの住人を踏みつぶしながら咆哮を上げている。見る人は誰でも、鳥肌を走らせずにはいられないであろう見事な絵だった。注意深く鑑賞していると、隅のほうの家のドアから、一人の老人が顔を覗かせているのに目が留まった。彼は、ほかの全ての登場人物の浮かべるような恐怖の表情とは縁のない、何か生まれて初めて見るようなものを見る好奇心に満ちているようだった。そして奇妙なことに、彼は巨人のほうには目もくれずに、こちらをじっと凝視しているのだった。その場違いな振る舞いになぜ気づかなかったのかと、自分でも不思議に思ったほどだった。

 今度はほとんど間をおかずに現れた。といっても、それは写真だった。白黒で、かなり年季が入っていた。私が持ってみると、それはパリパリとしてて今にも崩れ去りそうであった。そこには一組の男女が肩を並べて写っていた。男は髪を短く切っており、人の好さを滲ませる眉が、ゆるやかに横たわり、その下に一重の目が彫られている。女は椅子に座り、ほっそりとした手を合わせて膝に置き、やんわりと微笑んでいる。それは極めて穏やかで、戦時中の雰囲気を出す写真とは不釣り合いである。そしてまた、その笑顔は、春に立つ霞のように儚く、手すさびに無頼漢が手折る桜の枝のように脆い。二人とも、穏やかに笑っている。私は拍子抜けした。何しろ先の三枚の画が壮麗で、サロメやアメノウズメのように壁一面で舞踏を舞っていたのだから。

 次の分かれ道を左に曲がると、そこには壁は無く、私はついに、円形の神殿の中央に来たことを悟った。そこは薄暗く、敷き詰められた白砂の、風にたなびく音が耳に響く。

 中心には、真っ赤に燃える炎があった。それは球形であった。私はそれに近づいた。熱さは感じない。私ははらはらと涙を流し、それに向かってひざまずいた。私は自分が救われることを悟ったのである。

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