奇談拾遺

黒桐

噂話の顛末

 2015年11月の末、東京のとある公立高校にて、こんな噂話が広がったことを私は記憶している。

「ここら一帯には昔からオソレガミという怪異が棲んでいて、出会って目を合わせてしまうと、腕を掴まれて向こうの世界に連れ去られてしまう。そうならないためには…」

 ここから先は話し手によって内容が千変万化するから、諸君の頭を余計に乱さないように省略しようと思う。私が書きたいことは、つまりこの噂話にまつわる一人の少年の物語なのだから…。



 都内某高校に、生嶋という生徒が在籍していた。普段クラス内では目立つことがないおとなしい性格で、クラスメイトとの関係は可もなく不可もなく、目立った付き合いのある友人はいなかった。教師の言うことには素直に従い、雑務も頼まれればこなし、掃除も怠慢せずにこなした。クラスメイトは総じて彼を「のっそり」と呼んでいた。それには彼の控えめさへの称賛もあったかもしれないが、自我の薄弱さを揶揄する趣のあることは疑いがなかった。

 ある日生嶋は悩んでいた。彼の性格についてであった。別に今の自分が嫌いなわけではない、ただこのまま一生を暮せば、きっと自分は後世の誰にも(子孫にさえ)覚えられることはあるまい、なら何か、一つでいいから衆目をギョッとさせるようなことをしたい、さあどうする。……おとなしい人間にはままある、発作的な名誉欲であった。それはその日の夜まで消えずに、入浴時も、食事時も、掃除のときでさえ頭から離れず、蛇のような狡猾さで彼の脳髄にこびりついていた。

 彼が自室でテレビを見ていた時のことである。適当にチャンネルを変えていると、ある番組が彼の目に留まった。それは都市伝説の特集番組であり、口裂け女、こっくりさん、ヒキコさんなどの現代の怪異について、うさんくさい専門家が論評を添えているところであった。これを見た彼の脳裏に、花火のように一つのアイデアが花開いた。つまり、彼は、都市伝説を自作しようという気になったのである。その日彼は寝る間を惜しんで、自分のノートに、思いつく限りのぞっとするような特徴を書き込んだ。


 1週間もしないうちに、校内は彼の流した噂でひしめいていた。それが冒頭で簡略的に紹介した話であることは、察していただけるかと思う。

 彼の顔は満足に綻んだ。なにしろ自分を原因とする他愛もない創作が、不特定多数の口に膾炙されているのである。彼の名誉欲は満たされた。あとは頃合いを見計らって、すべてを打ち明けるだけであった。そしてここから彼の人生の始まりと終わりは始まったのである。

 話とは言わば純粋無垢な少女のようなもので、穿ったり叩きつけたりすれば、それ相応に容姿や性格の変化するものである。噂話はその典型的な例だった。いつしか彼の流した噂は、民衆の強張りがさついた手で乱暴に弄ばれ、原形を留めないくらいに変わり果てていた。

「この地域には古くからオソレガミという妖怪が棲んでおり、それは気に入った子供を見つけると、その額に誰も気づかない速さで、己の印を刻み付ける。それは洗っても引っ掻いても消えない。妖怪はその印に導かれてやって来て、その子を食らうという……」

 彼がこの話を聞いた時には、そのあまりのおぞましさに身震いした。同時に自分の創作物が、すでにその手を離れていること、したがってもはや、それは彼の一声で収集のつく事態ではないことを悟った。彼は肩を落とし、誰にも何も言わずに、家に帰った。

 帰宅してから彼の頭はさっきのことでいっぱいであった。なぜ噂は肥大化するのか? なぜ作者の意図に従わないのか? そもそもあれは噂なのか? ひょっとすると現実に起こりうる事態ではないのか? だから彼の手を離れたのではないのか? 彼は頭を抱えた。働きの良いほうではないから、少し慣れない考え事をすると、すぐに悲鳴を上げるのだった。

 その日彼は夢を見た。目の前に一人の美しい女が立っている。自分は思念のみがある。なんだかフワフワしていて落ち着かないようである。女が手を伸ばしてきた。彼はそれに己の手を添えようとしたが、彼には肉体がなかったので無駄なことであった。女の口が動いた、「ああ、かわいいわが子よ…還りなさい」と。そのとき生嶋の心は安らぎを覚えた。そこで目が覚めた。

 あの女の人は何者だったのだろう? 彼は考えた。だが、いくら首をかしげても一向に分からない。ただの夢とすれば容易に片づけられるが、さっきのはひどく鮮明で、細部まではっきりと覚えている。結局、彼女が誰なのかはわからなかった。


 その日彼が学校へ行くと、担任の女教師が沈鬱な面持で教室へ入ってきた。心なしか、クラスを漂う雰囲気も重い。教師は言った。

「今朝未明、中山太一君が自室で変わり果てた姿となって発見されました。遺体は酷く損壊しており、辺りには血の海ができていたということです。」

 それが風となって、クラスにざわめきの波が立った。たちまち教室内は収まりのつかないほどになった。ある者は泣き、ある者は憤慨し、またある者は祈っているように見えた。だがその中で、あらゆるクラスメイトに共通していた思いは、「オソレガミだ」というものであったことは論を待たない。その日はクラスの誰もが授業に集中できなかったので、午前中で皆が帰された。家路につくものは皆、わが身を心配して恐怖に震えた。

 生嶋は極めて冷静だった。その心には波もなければ風もなく、ただ彼自身が屹立していた。彼はもはやすべてを知った。家路につかずに、近くの川の土手へ走った。

 川は沈みゆく夕日に照らされ黄色に染まっていた。土手に生えた名もなき草は、そよ風に揺らされ悲哀を催していた。彼はそこに立ち、茜色に暮れる西の空を見た。

 後ろに気配を感じ、振り返ると、そこには昨夜の女が白いワンピースを着て立っていた。女は近づいた。生嶋も歩み寄った。お互いの距離は腕一本分もないほどに縮まった。

 女は手を伸ばした。彼はその手をとった。途端に、自分が消えゆくことを悟った。もう体に感覚は残されていなかった。ただ精神だけがあった。微笑む女を見て、彼はつぶやいた。俺も、人の噂に過ぎなかったか、と。



 物語はここで終わる。女は何者なのか、オソレガミはその後どうなったのかという謎が残るが、それは話の本筋には関わらないことだ。要は、生嶋が還ったということに過ぎない。噂が噂を創ったのかもしれない。あるいは、噂など最初からなくて、事実があっただけだったのかもしれない。あるいは、女さえもが…だがここから先は、世人の想像力の領域である。私はここで手を引こうと思う。

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