王の到来

 とある裏路地を通りながら、佐藤一はため息をついた。

 彼は都内のうだつの上がらない大学生である。特に大きな出来事に遭遇することなく、嵐のない大海原を往く船のように、挫折も努力もない人生を送ってきた。アルバイトを始めても長続きせず、無能なわけではないが、有能な人材が入ると真っ先にはじかれた。人は彼を嘲笑して「日陰者」と呼んだ。

 大手の喫茶店にて彼が安らいでいると、中学生ほどの背丈の男女が4人、ガヤガヤとわめきながら入ってきた。部活からの帰りに寄ったようで、そのジャージは砂や汗に汚れており、かすかながら異臭も放っていた。折しも混雑している時間帯で、どこもかしこも席が埋まっており、ただ佐藤の隣の窓に向かった席が、3つ空いているだけであった。中学生らは声を潜めて横目で佐藤を見ながら談合したのち、つまらなそうに去っていった。佐藤はそんなことなどなかったかのように、黙って外の景色を眺めていた。

 大学の講義室に入ると、既に多数の生徒が着席しており、あるいは予習をして、あるいは本を読み、あるいは友人とくだらない話をし、あるいはゲームをして、各々思い思いに時間を潰していた。そこには統一感は生まれていなかった。彼は教室の一番後ろの、誰も座っていない窓際の席に腰を下ろし、荷物を隣の椅子に置いた。そんな彼の様子を見ているものは誰もいなかった。彼は顧みられなかったのである。講義の途中に女学生がやってきて隣に腰を下ろしたが、まるで彼の存在に気が付かないかのように振舞った。

 夕方になり、バイトを終え、彼は一人暮らしをしているアパートに着いた。そこは六畳の1Kで、都内の大学生にはぜいたくな部屋であった。彼はベッドに大の字に寝ころんだ。これは彼の数少ない楽しみの一つだった。疲れが取れるような気がした。カレンダーを見ると、10月11日を示していた。

「あと1週間か……」と、彼はつぶやいた。

 彼は1週間が経つまで、極めて退屈な時間を持て余した。晴れた日には散歩をすればいくらかの気晴らしにはなるが、雨が降るとそうもいかなかった。彼の部屋にはテレビもパソコンもなく、衣類やコップなどが無秩序に散らかっていた。

 ある日は酒を飲んで1日を明かし、ある日は煙草を喫んで夜を明かした。またある日には、生まれて初めてゲームセンターへ行ってみたが、どれもこれもあっけにとられるほどつまらない。利用者の感覚を疑わずにはいられなかった。30分も経たないうちに、彼は逃げるようにそこを後にした。彼には現代の嗜好品で役に立つものは、限りなく少なかった。

 ただ漫然と過ごしているうちに、10月15日が来た。彼はその日珍しく、隣に住んで1年になる女子大生と積極的に言葉を交わした。その内容は、「今日の予定は?」とか「最近流行ってるものは?」とかいう、全く愛嬌のないものだった。そしてその会話は、彼の一方的な会話に始まり、終わった。彼は早歩きでそこを

去った。あとには呆然としている、肌着のままの女子大生が残された。

 この頃世情はよくなかった。犯罪数の増える一方で検挙率は上がらず、未成年の見境ない性的交渉が盛んになり、路上で事を行う者も増えた。政治家は保身のために有効な対策を出さず、またそれを批判する政治家も、実質はたいして変わらなかった。経済は滞り、かわりに守銭奴と憂国の士が増えた。誰もがこの国の短命を確信していた。ある芸能人はアメリカでの舞台劇の後のインタビューで、「日本には帰りたくないですね。あそこは動物園よりも無秩序な国だから」と答えたという。

 佐藤は連日流れるそのようなニュースを、どこからともなく耳にしていた。そして何も思わなかった。彼の心はいつまでも平静だった。


 やがて10月18日になった。佐藤は朝の9時に起きた。もう大学の講義は始まっている。しかし彼は一切の焦りを見せなかった。それは彼の心の絶対的な平静のせいではなかった。彼は緑のTシャツと黒いジャージを合わせ、念入りにひげを剃り、部屋の掃除にたっぷり時間をかけ、鍵をかけずに家を出た。彼が向かったのは、大学とは反対の方向であった。

 彼は一つの真新しいビルの前に立った。それは30階建ての高層ビルだったが、人の出入りの乏しく、ここらを通る人にとっては不気味でないまでも、妙な建物であった。

 エレベーターの地下1階のボタンを押し、廊下を突き当たりまで行ったところの、右側の部屋の扉を開けた。かなり薄暗く、部屋の奥までは見通せない。コンクリートで冷えた空気が、外側へ漏れ、彼の頬と首筋を撫でた。

 そこには、総理大臣、政界の重鎮、文豪、数学者、哲学者、天文学者、法律家、占い師、企業家などの、日本人なら誰もが知っている大物がすべて顔をそろえていた。そして彼を見ると、皆一斉に平伏し、言った。

「ようこそ、我らが王、世界を変える者、万物の長。貴方が我々の主人です。これまでも、そしてこれからもずっと……」

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