裁縫をする男
東北のある田舎には奇妙な噂(というよりも事実)があった。近くの山奥に一人の若い男が住んでいる。彼の粗末な家の近くを流れる川に、破れた服や靴下などを置くと、次の日に見に行くとそれは無くなっている。最初は狐狸や盗人の仕業だと思うが、翌日に再びその場所へ行くと、先に置いたものが修繕されて、元のまま置かれているのである。眉唾物だと疑うよそ者が試してみても、やはり結果は同じになる。人々はこれを畏れる一方で、便利屋だといって利用することもしばしばあった。
ある娘の話である。幼い頃両親を盗賊に殺された彼女は、遠い血縁にあたる男の夫婦に引き取られた。だがこの妻の根性が頗る悪く、彼女は家事の一切を任され、当の妻は家で寝てばかりいた。娘は何度も逃げてしまおうかと思ったが、あてもなく、また死のうにも決心が付かなかったので、ずるずると生きてはや16歳になった。
ある日彼女はほんの不注意で、義母の服を破いてしまった。彼女はさんざん娘を棒で打ち、明日までにこれを繕わなければ家から追い出すと言い、同時にいくつかの雑用を押し付けた。もはや娘を追い出してしまおうと思ったのである。娘は途方に暮れたが、庇ってくれる人も無く、嘆いていても時間ばかりが過ぎていくから、しかだがなしに仕事に取りかかろうとした。と、その時、例の噂を彼女は思い出し、藁にも縋る思いでそれを試してみようと思った。
その晩、継母に見つからないように家を抜け出して、男の住んでいるという粗末な家を対岸に据える所に服を置き、逃げるようにしてそこを去った。
翌朝になって洗濯がてらにそこを見に行くと、驚いたことに、昨夜置いた服の姿がどこにも見当たらない。昨夜は気が動転していたから気が付かなかったが、もし服が本当は誰かに持ち去られていたらどうしよう、もし風に吹かれたりして川に流されていたとしたらどうしようと気が気でなかった。
夜になった。娘はもう一度川へ行った。服はそこに置かれていなかった。娘が絶望に沈んだまま引き返そうとすると、ふと、後ろから生き物の気配がする。獣だろうかと振り向くと、まさに川の対岸、粗末な家から一人の若い男が出てくるのを見た。手には昨夜娘の置いた服が握られている。
娘は慌てて隠れ、事の成り行きを見守ろうとした。どうやって川を渡るのだろうと思うと、男は無造作に川の上に脚をかけ、そのまま水面の上を歩き始めた。そして対岸に着き、そこに服を置くと、おもむろに娘の隠れている木の陰をじっと見つめた。
「怖がることはない。折角見たんだから、家に上がってみないか」
娘は好奇心から言うことに従い、男の手をとった。男は来る時と同じように水面を歩き、娘を自分の家に招き入れた。
中は薄暗く、一本の蝋燭が、橙色の炎をくゆらせているだけだった。周りには囲炉裏や竈もなく、生活感の感じられない部屋だった。ただ縫い針と糸が、部屋の隅に置かれてあるだけだった。
気が付くと男は汁物を娘の前に置いていた。それは出来立てで、とてもどこかから持ってきたようには思えなかった。吸ってみると、甚だ美味であった。
「君のことは知ってるよ。育ての親にいびり倒されているんだろう。」
男のからかい半分の言葉に娘は返事ができず、顔をうつむけた。つらい経験の数々が頭をよぎる。自分を叩く棒。自分に浴びせかけられる熱湯。真っ赤に燃えた炭を押し付けられる自分の顔。そしてそこには必ず、女の嫉妬に狂った顔と、なすすべなく見守る男の顔とがあった。
「暴力もそうだが、無関心は罪だね。二人でかかればなんとかなっただろうに」
娘の前に焼き魚が一匹現れた。香ばしいにおいを放っている。生まれて一度も食べたことのない味。娘はそれに噛みついた。
「嫉妬とは暴力の口実だ。そして暴力は自己の正当化だ。ある聖人は、石を投げつけられて死んだ。生活に苦しむ異端は、火にあぶられて死んだ。要するに、悪意などないんだ」
男は娘の手を取り、倉庫へと導いた。
扉を開けると、そこには何人もの若い女の死体が吊るされていた。それは生前の姿を留めたままだったが、ところどころ髪の毛が抜け落ちていた。
「俺が使うのは糸なんかじゃない。髪の毛だよ。それも若い女のみずみずしいやつをね。それを人々は着ているんだ。おそらく君の知ってる人もじゃないかな」
娘の意識が遠のいた。倒れる時の、男の美しくも哀れな表情が、彼女の見た最後の光景であった。
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