終 章
帝位について三年、陳覇先はあっけなく崩御した。陳朝五代三十二年、短期王朝を象徴するかのように、早々と己が舞台の幕を引いたのだった。
その後、北周が北斉を攻略し、北朝を統一する。やがて北周は隋にとってかわられ、隋の
武帝陳覇先の崩御から、ちょうど三十年たっていた。
「ばばさま、お加減はいかがですか。おかわりありませんか」
ヤスケが顔をのぞかせた。ブチをつれている。冼夫人の横で寝そべっていた茜が起き上がり、ブチに近寄った。二匹とも若いころの奔放なじゃれあいはない。くんくんと臭いを嗅ぎあって、いんぎんに久闊を叙す、おとなびたあいさつだ。
ブチも茜も四代目になる。黄金丸を初代とすれば、二代目ブチの毛並みは白と黄色の二色だったが、いまの代は黒と赤を交え、四色にかわっている。
ヤスケはもの心つくまで冼夫人の手元で育てられ、その後、羅浮山で方士の修行をしてきた。いまは葛徳の下で動いている。
「陳朝が隋に攻められ滅んだと、隋の晋王楊広なるものから知らせがあった。嶺南のすみやかな帰順を求めている」
冼夫人は二匹を撫でながら、おだやかな口調でヤスケに語った。
楊広は文帝楊堅の次子で、のちの
「で、ばばさまは、どうされますか」
「ほどなく、隋将
このころ冼夫人は九十歳に近い。高凉に住み、聖母と呼ばれて久しい。嶺南を守り、部族民の安寧を保つ象徴の意味が込められている。軍政の実務はすでに孫の
「隋につくか、離れるか。かなわぬまでもせめてひと言、ものもうすか」
九十近い老人には酷な判断を、託されていたのだ。
「その判断、茜にゆだねてはどうか。葛徳さまからの伝言にござりまする」
ヤスケは顔を上げずにいいきった。鼓動が高鳴った。冼夫人の怒りを恐れたのだ。
「なんとーー」
思いがけぬ提案に、冼夫人はことばを失った。
馮・冼両族の軍をひきつれ、長孫馮魂を陣頭に立てて、冼夫人は広州へ向けて出陣した。
ブチをつれている。茜はヤスケに托し、先発させた。半信半疑ながら、なかば葛徳の意向に沿ったかたちだ。
軍列は大雲霧山の高台につらなった。冼夫人は、山上から高凉を振り返った。
――二度と戻れぬかも知れぬ。
冼夫人は祖霊の地に向き合って、両手を合わせた。
ヤスケは駆けた。茜とともに空を飛ばんばかりに地を駆けた。広州からいまの韶関、さらに楽昌、宜章を駆け抜けた。
――五嶺にて韋洸の軍を待て。
葛徳の心言が、脳裏に届いている。精神感応――いまでいうテレパシーのことだ。
騎田嶺の山上で、ヤスケと茜は隋軍の到来を待った。
襄陽を出立し、武昌を攻め落とした襄陽郡公・南征軍総管の韋洸は、洞庭湖・湘江伝いに南嶺を目指し一路進軍した。長沙を経由し、さらに南下、騎田嶺を越えれば韶関だ。
闇が天空を覆っている。雲が厚い。常ならば、陽が上っておかしくない刻限だ。一瞬、ひとすじの光線がするどく天空の闇を突いた。闇は破れ、みるまに光が地上いっぱいに溢れでた。
北の方角を注視していた茜が、耳をそばだてている。前方からゆっくりと近づく影が、光を浴びて全身をあらわにした。
狼か、と見紛う獰猛そうな大型犬だ。蒼い眼を光らせ、唸りながら茜に近づいてくる。がっしりと引き締まった無駄のない体躯は、青味がかった毛並みで覆われている。
小さな獅子の異名をとる茜が、赤紫色の長い毛をぶるっと振るわせた。前方の蒼い犬は唸り声を静め、その場にうずくまった。攻撃を放棄し、茜に身をゆだねた恰好だ。
――これは、葵か!
そのじつ、ヤスケは葵を知らない。
――そうだ。これが葵の四代目だ。
葛徳が心言で教えた。
――茜も葵も、互いにはじめての出会いだ。それにもかかわらず、前世の
老方士葛徳は韋洸をともなって、同じ騎田嶺の山上、隋軍の側にいる。
「見られたか。赤紫の犬が冼夫人、蒼い狼犬が恐れながら楊広さま。かくすれば、天下は安らかに収まります」
のちに葛徳は、冼夫人に説いている。
「かつて韋洸の先々代が、漠北の戦場で葵の二世を捕獲し、中原に連れ帰ったそうです。さらに二世代を経て、いま葵は嶺南に戻った。茜もおなじ四世。縁というより、まさに神の引き合わせというべきではありませんか」
「
「高凉のみならず、嶺南すべての民というべきでしょう。隋朝も元をただせば、北の胡族。われら南の蛮族とかわるところはありません。さらにいえば漢族とて、黄河と長江流域のあいだに巣食う、雑多な諸部族の融合体にすぎません」
――人民の生活をこそ第一に考えるべきで、民族を盾にとって争うべきではない。
南北、さらに嶺南の実情を知る、葛徳ならではの主張だった。
「嶺南の領土は広大で、気候は炎熱、北の民族が容易になじめる地ではない。俚人部族の人びとは、ともに冼夫人を聖母として尊崇し、領内を保全し民心を安定させている。隋が天下を一統したとはいえ、なお北方には突厥がおり、虎視眈々と機をうかがっている。陳朝の各州郡を平定した隋の兵が、いつまでも現地に駐留しているのは好ましくない。はやく秩序を整えて、すみやかに兵を引くべきである。襄陽の韋洸軍にしても援軍はなく、長期の戦となれば孤立する。嶺南に深入りしてはならない。談判が済めば、速やかに引き上げるべきだ。冼夫人を説得し、嶺南の安撫を条件に、隋朝に帰順させるのが上策である」
南北の統一は成ったばかりだ。戦闘を拡大してはならない。
隋の文帝は詔勅を発した。
「嶺南と事を構えず、和平帰順させよ」
武力を封じられた韋洸は、葛徳の説得に応じた。
嶺南とて、各州郡の軍事集団は、けっして一枚岩ではない。帰趨をめぐって、帰順派と抗戦派が拮抗していた。しかし各地の部族連合は、一貫して冼夫人を共同で盟主に推挙し、嶺南各州郡の領界の保全と民族の安寧を前提に、冼夫人に判断をゆだねていた。
葛徳の意を受けて、ヤスケは広州へ戻った。茜について、葵もしたがった。
馮魂らは陳朝残党がこもる広州に入城し、城内を制圧、広州刺史を拘禁した。広州に集結した各州郡の将領は、ともに冼夫人を「嶺南の聖母」に奉じて、決着を託した。
一時的にせよ、各州郡の内紛を押しとどめ、嶺南全体の社会秩序の安定を優先したのだ。
さいごに冼夫人は決断し、ひとり城の外に立った。茜と葵をつれただけだ。
征南総管韋洸が、やはり供回りの兵を数人つれただけの軽装で、あらわれた。葵が前へ出て、韋洸の裾をくわえて、冼夫人の方へと引き寄せた。韋洸は葛徳からすべてのいきさつを知らされている。立ったまま、膝に手を置き、冼夫人に頭を下げた。冼夫人もあいさつを返した。
ふたりは城門をくぐった。
隋軍は城外に留まり、軍事力による威嚇をすることなく、穏便に広州城を接収した。
高齢の冼夫人を代理して、孫の馮魂が立ち会った。
「新たに広州を接収管理したばかりで、土地の事情にうとく、民心もまだ安定していないので、ぜひにも馮魂どのをお借りしたい」
韋洸は、冼夫人に要請した。
武力衝突を回避した冼夫人は、馮魂を城に残し、高涼へたち返った。
嶺南各州郡の矛盾は、仮にふたをして鎮めたにすぎない。これから時間をかけて各地の領袖をひとりずつ説得し、和解させてゆかねばならぬ。己が寿命との競争になる。
――せめて三年ほしい。
冼夫人は葛徳に延命を訴えた。
――民族間の矛盾は三年では解決できぬ。ひとのいるかぎり、永遠につづく。ならばあなたのいのちも永遠であればよい。
葛恩同様、
冼夫人は五色のブチ犬に転生することを願った。
「よもや南蛮炎熱の地に、冼氏のごとき、まれなる
戦を回避し、対等の立場で堂々と降服した冼夫人の姿勢を聞いて、文帝は称賛した。
詔勅を発して、すでに物故した馮宝に広州都督・
ちなみに「巾幗」とは、往時、女性がつける髪飾りの頭巾のことで、転じて婦人のことをさす。巾幗英雄とは、つまり女性の英雄をいう。また「譙国」とは大所高所から国を見つめ、意見することだ。さしずめ、「天下の女性ご意見番」といった役割だろうか。
冼夫人は、民族の自決に力をつくし、ことに民族間の融和の面で多大な貢献をし、諸民族の人びとに敬慕された。九十一歳で天寿を全うしたその事績は、千数百年を経たこんにちなお「冼夫人文化」として讃えられている。
嶺南各地にとどまらず、ワスケやお玲の開拓した海のシルクロードに通じる東南アジア・ヨーロッパ、さらにはアメリカなど全世界の華僑・華人に、「聖母冼夫人廟」として祀られ敬われている。
冼夫人亡きあとも、高凉俚人は五色のブチ犬を神犬と仰ぎ、代を重ねたという。
(完)
嶺南神犬伝 ははそ しげき @pyhosa
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