第15章 民族自決
「おやめください。行ってはなりません」
いつになく緊迫した口調で、冼夫人が夫馮宝の出立をとめた。
「李刺史の目的は、高凉軍の兵馬と軍糧を手に入れることです。誘いに乗ってうかつに高州へゆけば、かれの思う壺です」
「軍事を協議するので、高州治所
馮宝に会見を要請したのだ。
「ゆかずばなるまい」
病身に鞭打ち、馮宝は身支度をはじめた。その矢先に、冼夫人が異を唱えたのだ。
「李刺史に組してはなりません。あなたを高州へよんで軍議をはかるは、高凉を一党に加えんがためです。李刺史は朝廷からの命を奉じて建康の台城救援のため出兵していたはずなのに、いつのまにやら高州へもどってきています。高州の兵力が手薄なので、増強せんとの思惑です。あなたを騙して高州へよびよせ、高凉軍の兵馬をかれの部隊に編入し、軍費や糧秣の徴用を迫る考えです。かれは朝廷に叛く企みを抱いています。もしあなたがしたがわなければ、殺してでも高凉を力で奪い取るに違いありません。あなたはかれの誘いに乗って、うかつに高州へ出向いてはなりません」
李遷仕は、孫冏のあとをうけて高州刺史についたいわくがあり、高要太守・西江都督の陳覇先とは、なにかと張り合うライバル関係にある。馮氏が陳覇先に加担していることは、承知のうえだ。だからこそ、なんとしても自陣営に引き寄せておきたい。甘言を弄して、祖霊を尊ぶ馮宝の弱みに付け入った李遷仕の意図は、分かりきっている。
「あなたは書状を書いて、李刺史に届けさせてください。流行り病にかかり、床に臥しているので、じぶんは動けない。かわって妻の冼氏を夫の名代で遣わし、兵糧や
李遷仕の目論みの裏をかいて、ぎゃくに高州を乗っ取ってしまおうという、大胆な計画だ。
おりしも、冼夫人が陳覇先軍の陣中に派遣していた「探子」(密偵)が、馬を飛ばして高凉へ帰還し、馮宝、冼夫人に急報を告げた。
「江西の
はたして李遷仕は、馮宝の合意を待たず、謀叛に踏み切ったのだ。冼夫人の推測が当たった。じぶんはだしに使われただけか、馮宝は歯噛みし、ようやく目が覚めた。
冼夫人の読みを是とし、ただちに高州取りの策謀に取り掛かった。
「朝廷にご謀反の疑いをもたれてはなりません。このたびは正規兵の出動は見合わせ、わたしの手勢だけで、奇襲をかけましょう」
かつて雲霧山中のゲリラ戦で猛威を振るった冼英の
冼夫人にしても思いは同じだ。夫に留守を預け、みずから勇んで出動した。
娘子軍は全員、農婦のいでたちで集合した。武器は手にせず、大量の糧秣と礼物の荷駄のなかに隠した。
真夜中の出立だ。陽春の郡城から南に向かってゆっくりと進発し、明け方には郡境を越えた。茜が冼夫人を守り、先頭に立った。娘子軍のそれぞれがわが家の番犬を帯同していたから、千人のおんな人夫と千匹の綱引き犬たちの異様な集団だった。
道々、
柵城と呼ばれた高州治所の城下は、急ごしらえの府衙(役所)だった。李遷仕は高州刺史に就任以来、横暴な支配を露骨に示していたから民心がついていかず、工事に割く人力も金力も乏しいなかで、とげのある竹や大木で柵を囲み、護城河を掘っただけの仮設の城門にすぎない。
門衛の多くは俚人だ。柵門の物見櫓のうえから一行を認め、李遷仕に報告した。
――すわ、なにごとか!
緊張が城内にはしった。
しかし先頭集団が近づき、一行が唄う俚人の里唄が耳に入るころには、すっかり気勢をそがれていた。いつしかじぶんもいっしょに、その俚謡を口ずさんでいた。
ほとんど統制の取れていないバラバラの人群に見えた。馬や馬車に積んだ荷駄をさも重そうに押し、引きずっている。近づくにつれ、婦女子の一団であることが見て取れた。
「それにしてもなんとだらしのない一行だ。唄うばかりか、なかには踊っているのさえいる。手にした瓢箪は、酒ではないのか。胸をはだけたあの女は、おお、おれの好みだ」
もはや門衛の関心は、女に移っていた。
その門衛のもとに、刺史付の武官から再度の問詰があった。
「柵門に近づくのは、なにものであるか」
「荷駄を運ぶおんな人夫の一群であります」
門衛は躊躇なく、復命した。
先頭をゆく冼夫人は、柵門の下まで来ると、高凉太守の
「高凉太守の家内にございます。夫の名代にて、兵糧・礼物を持参仕りました。ご開門賜ります」
女と聞いて李遷仕は油断した。柵門を開いて全員をなかに入れてしまった。この千人の婦女子が、冼英娘子軍団の精兵だとは夢にも思わなかった。
冼英軍団は、日ごろの軍事訓練を怠っていなかった。その成果は一糸乱れぬ行動に表れた。だらけきった女人夫の一群は、城内にはいるや、一変した。ただちに荷駄をほどき、武器を取り出した。刀槍を手にした一団は隊伍を組んで、城内の兵を威嚇し、要所を押さえた。弓矢を装備した一団は高みに陣取り、城兵の動きを止めた。千匹の犬軍団はいっせいに吠え立て、ところせましと城内を駆け回った。
城内は攻守ところを変えた。度肝を抜かれた高州の守備兵は、抵抗しなかった。武器を捨て、おとなしく冼英軍団の下知にしたがった。
冼夫人は女人部隊を指揮し、高州刺史の衙署を猛攻した。李遷仕はあわをくらって武器を放りだし、少数の随従をつれただけで、東に向かって遁走した。杜平虜の部隊を頼って江西に逃げ落ちたのだ。茜を先頭に犬軍団が大挙して駆け、追い散らした。
この間、一滴の血も流していない。無血開城だ。この戦果は誇っていい。
冼夫人は高州軍を解体し、帰郷を希望するものは、自由に放った。俚人兵ら帰属を願うものは、高凉軍に編入した。
このとき陳覇先から、救援要請の書状が、冼夫人の手元に届けられた。
江西大皋口の戦況が思わしくない。なんとしても援軍がほしい。たっての要請だった。
陳覇先の盛衰は高凉の自立にかかわる。冼夫人は決断した。
馮宝が兵をひきつれ入城したあと、冼夫人は事後措置を馮宝にまかせた。馮宝は、高州刺史の管轄領内を接収管理し、各郡県の安定を保障した。郡民は高凉の一体化を喜んだ。
一方、冼夫人は五万の俚人兵をひきつれ北上し、
李遷仕が逃げ込んだ杜平虜の部隊は豫章太守蔡路養の部隊と連合し、大皋口に陣取っている。形勢不利な陳覇先軍は贛石まで退いていた。贛石は大皋口から直線距離で南に六十余キロ。鄱陽湖にそそぐ贛水の上流にあたる。
「五嶺を越えて、よう来てくだされた。百万の味方を得た思いがする。このうえは目前の敵を蹴散らし、一気に都へ上がり、南朝に仇なす侯景を討ち取ってくれる」
もはや躊躇するときではない。陳覇先軍は冼軍とともに大皋口に向かって進撃した。高凉の兵は大都老冼夫人の指揮のもと、俚人銅鼓を打ち鳴らし、右に左に兵を動かして、高州兵に立ち向かった。陳軍は大皋口に攻め入り、李遷仕、杜平虜を討ちとった。蔡路養もまた敗死した。陳覇先の勤皇軍をさえぎる敵はことごとく討たれた。
陳覇先は諸将を一堂に集め、酒席を設けて成功を祝った。
ついでかれは部隊の編成をかえた。勤皇軍と嶺南守護軍を明確に分けたのだ。
精兵三万人を選抜し、船で贛江から北伐する勤皇軍の先発隊とした。本隊は陸路、兵の数を増やしながら地歩を築き、北上する。冼夫人は残りの嶺南守護部隊をひきつれ、高要、高凉、高州ヘ帰還した。
陳都督は勤王軍が北上したあと、じぶんが持つ高要太守・西江督護の軍事権限を馮宝、冼夫人に託して、嶺南をかためさせた。
「こののちわしが嶺南に戻ることはなかろう。嶺南のことはそなたら嶺南の民に任せる。南朝と心を一にして、戦乱の世を収めてもらいたい」
「しかと心得てございます」
へりくだる必要はない。冼夫人はこうぜんと胸を張って、陳覇先の言辞をうけた。
「嶺南のことはお任せください。後顧の憂いは無用にございます。このうえは前途の洋々たるをお信じ召され、本懐遂げられますよう願っております」
「かたじけない、礼を申す。ところで洋々といえば、大海への船出はいかがなっておるか」
「帆船五艘をつらねて、すでに出航いたしました。本懐遂げられた暁には、南洋あるいは西方の土産をもってご覧に入れましょう」
冼夫人は微笑んで答えた。
「うむ、されば急がねばならぬな」
陳覇先もまた破顔して応じた。
侯景の動静については、葛徳から逐一、報告されていた。
「遠からず、わしが侯景を討つ。そのあとは――」
陳覇先はことばを濁した。南朝梁の宗室はすでに統治能力を失っていた。
――わしが、とってかわるか。
現実主義を貫き、夢を語ることのなかった男に、天下取りの可能性が芽生えていた。
侯景の乱から三年、みずから皇位につき漢帝を称した侯景だったが、一年と持たなかった。竟陵太守王僧弁と陳覇先の東征連合軍に迫られ王都建康を放棄し、船で東方海上に逃れようとした。したがうもの数十人。
側近に
葛徳もまた一味に紛れ、乗船しようとした。これを憑依した葛恩が引きとめた。
「侯景はわしにまかせ、おまえは残れ。陳覇先を助け、都の復興にあたるのだ。もはや侯景は殺すにも値しない木偶の坊だ。羅浮山の正統につらなるおまえの手を借りるまでもない。過去の清算は一度死んだわしに任せ、おまえは新しい国づくりに命をかけろ」
葛恩の霊魂は葛徳の五体から遊離し、羊鯤に転生した。そして羊鯤が船中で寝込みを襲い、侯景の首を刎ねたのだった。
侯景の屍は建康に送られ、市にされされた。群衆が殺到し、争って取り合い、またたくまに跡形もなくなった。喰いつくされたのだ。
五年後、梁朝を廃した陳覇先は、陳朝を興す。
馮宝は新政府の要職を請われたが、あえて固辞した。高凉俚人民族自決の象徴である高凉太守にこだわったのだ。護国侯を加封された。高州刺史には陳氏の係累が任じられたが、高州全域は実質的に馮宝と冼夫人が統治した。
陳の二年目、馮宝は病のため亡くなった。長子馮僕は、齢いまだ九歳にすぎない。冼夫人が馮僕を補佐し、軍政の一切を代理した。
馮宝のさいごを看取ったのは、冼夫人と馮僕、そして葛徳だった。冼夫人は赤子を抱いていた。そのうしろで茜と葵、そして一匹の子犬が神妙に控えていた。
「あのとき止められていなければ、わしは李遷仕に加担し、皇帝陛下に弓を引いていたかも知れぬ。さすれば、馮家はもとより、冼家も危ういことであった」
当時、馮宝は熱病に犯されていた。夢幻の境で、祖先の霊が呼び寄せるまま、北への回帰にうなされていた。
「あくまで陳朝と心を一にし、嶺南の安寧と高凉民族の誇りを保ってくれ。くれぐれも独立割拠など考えてはならぬ」
さすがに慎重にことばを選び、馮僕をさとした。
「迷うことも多かったが、ときにわしをしかり、よう導いてくれた。このさきも馮僕がこと、よしなにお願いいたす」
葛徳の手をとり、請わずにいられなかった。
「北に未練があるわけではないが、わしもついに祖先の地を見ることはなかった。葛徳どの、頼みがある。葵に北の大地を見せてやってはもらえまいか。そこで葵を放つもよし。嶺南に戻るもよし。葵の意志にまかせてもらいたい」
「こころえた」
葛徳は握られた手に力を込め、同意した。
「こんなわしを見限らず、ようつくしてくれた」
さいごに馮宝は、冼夫人に眼を移した。
「お気をしっかりもたれませ。あなたにはまだまだやらねばならぬ仕事が、残っているではありませんか。北朝に対峙して陳の王朝を補佐し、嶺南に高凉民族の自決を勝ち取ること。南海から西方に向けた海のシルクロードを再開すること」
「ワスケとお玲はいかがしているやら」
「西方の宝物をたずさえ、ほどなく戻ってまいるころでしょう。赤子もほれ、かように大きゅうなったほどに」
ワスケとお玲が船隊をひきい、船出して二年になる。
生まれた子はヤスケと名づけられ、冼夫人が預かった。シロの子はブチと呼ばれ、ともに育った。黄金丸の忘れ形見だ。白毛に黄毛が混じったブチだった。
「思い出は尽きぬが、顧みて悔いはない」
あたかも眠るがごとくに、馮宝は逝った。
太守の副官である長史の張融以下高凉各峒の峒主をともない、馮僕は京城に上り、陳皇帝に朝見した。陰で葛徳が手引きした。
「馮僕にございます」
九歳の馮僕は臆せず、深々と下げた頭を上げ、はっきりと名乗った。
「馮宝が一子か。父似である。母は息災でおるか。わしが礼を申していたと伝えてほしい」
「母よりの土産にござります。西方の宝物一式、ご記憶であられましょうか」
ワスケとお玲の船隊は、半年ごとに一艘づつ帰港していた。船には南洋から西方、行く先々の国の特産品が満載されていた。
「けだし秘宝である。しかし戦災の復興いまだしのわが朝には過ぎたる秘宝。葛徳、いかがいたすか」
陳帝は、ガラスや銀の容器、象牙・ルビーなどの珍しい宝玉に手を触れ、ためつすがめつしながら、葛徳に訊ねた。
「御意のままに」
「して、その方策は」
「これら秘宝を持って、さらに北へのぼり、双方に掛け合ってみましょう」
算盤に
北方を統一した北魏が東西に分裂して久しい。その後、東魏は北斉に、西魏は北周にとってかわられている。
「北が分かれておればこそ、三方で鼎立しておれる。嶺南が成長して南朝の一翼を担ってくれるまでは、北の統一は先に延ばしてもらいたいものよ」
「嶺南は冼夫人健在なかぎり、民族の自決を保証する側につきます。北は巧みに漢族を取り込んでおりますが、主流は胡族、いずれは諸民族の大融合を模索しましょう」
陳皇帝はためらうことなく、その場で馮僕を高凉太守に任命し、護国侯夫人冼英の補佐を条件とした。高凉俚人大都老の冼英に嶺南の統治を委ねたに等しい。
「高凉のみに留まらず、嶺南全体をひとつにまとめてもらいたい」
北の二国にくらべ力量劣勢の南朝にとって、嶺南の興隆は潜在的な対抗力となる。
「ときがほしい。急いでもらいたい」
武帝陳覇先に残された時間は限られている。
葛徳は馬上の人となり、荷馬車の商隊をひきいた。
葵が先になり、後になりしてしたがっていた。北に進むにつれ、葵の本能が眼を覚ました。吐く息が白く見え、からだから湯気が立ち込めるころには、ときに狼の遠吠えに似た声を頻発し、生肉を好むようになっていた。前方に駆けだすと、そのまま二、三日戻らないこともあり、日増しに野性味を帯びるようにかわっていった。
北斉の都
たそがれが迫るにつれ、みぞれが雪にかわり、風が舞った。やがて激しい吹雪が一行の前進を阻んだ。風の鳴る音に混じり、狼の遠吠えが聞こえる。葵はピクピクと耳を動かし、声との距離を測っている。やがて行く手の白い大地に黒い斑点が見え隠れしはじめた。
「狼だ。それもそうとうな群れだ」
葛徳は前進をあきらめ、大木を背に野営の陣を張った。荷馬車をたおし防壁とし、赤々と炎を燃やして、狼が近寄るのを牽制した。
「火を絶やすな。狼が飛び込んで来たら、たいまつでやつらの顔を殴れ」
葛徳は部下に指示し、自らは弓を手にした。野生の狼は血に反応する。一匹を傷つけ、共食いで仲間割れを誘うのだ。ゆっくりと立ち上がった葛徳は、炎の外に出て矢を放った。
低く唸っていた葵が、矢の方角に向かって飛び出した。矢はあやまたず、群れのボスの胴体を深々と射抜いていた。葵は勝利の雄叫びを上げた。群れはボスの座を譲り、葵にしたがった。それきり葵は戻らなかった。
狼の群れを誘導し、祖霊の地、漠北に去ったのだと、葛徳は確信した。
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