第14章 飢餓の城

「米を回漕する。船を三艘、漠陽江の河口に着けてくれ」

 葛徳からの一報が入った。

 年貢米を広州で渡さず、建康の都で渡すことに広州刺史蕭映が同意したという。正規の年貢米だけなら、上納することに冼夫人も異存はない。ましてや都へ直接運ぶのは、はじめての試みだ。米価の急騰を抑え、まいないの悪習を禁じるのにすこしでも役立つなら、なおのこといなやはない。

 ワスケとお玲は、新造の帆船を漠陽江河口の江城の港へ回し、葛徳の連絡を待った。シロと黄金丸が同乗している。仲良く舳先に立って、岸壁を見つめている。

 やがて、二匹が吠えだした。それに呼応するかのように、岸壁からクロの遠吠えが響いた。米俵を積んだ荷車が列をなして岸壁を埋めはじめた。葛徳が指揮していた。

「馮宝さまと冼夫人はどうされました」

 ワスケの問いに、葛徳が顔を曇らせた。

「馮宝さまのご容態がすぐれず、臥せっておられる。冼夫人も看病で来られぬ」

 朝廷の御用船として、内外の航海を許されてはじめての就航だ。高凉俚人の悲願ともいえる海人の伝統を蘇えらせる第一号船の就航に、立ち会えないほど重篤なのか。

「おぬしの見立てでも、よほどお悪いのか」

「懐郷病だ。ご先祖の呪いに悩まされている。外部の呪いなら、わしにも排除できるが、体内の呪いは容易に消せぬ」

 ふだんは快活な葛徳の顔が、苦渋でゆがんだ。


 懐郷病――いまでいうホームシックのことだ。祖先の霊が故国回帰を願望し、馮宝の身に宿って、心身を責めつけている。馮宝の故国は陝西始平郡、いまの咸陽付近、当時は北朝の版図にある。馮宝は、馮氏一族三十数代が望んで果たされなかった故国復帰願望を、一身に担っている。馮宝自身はすでに断念し、嶺南の地で終える意志だったが、ここへ来て揺らぎはじめている。

 悪魔がささやき、祖霊があおる。精神の葛藤が、馮宝の病を重くしている。

「天下を分け合おう。おぬしは北を取れ。わしは南を取る。ともに起って、中原に覇を競い合おうではないか」

 高州刺史李遷仕が、馮宝の心の隙につけいり、耳元でささやいている。

 陳覇先との黙契に、北は含まれない。

 冼夫人は、俚人は五嶺を越えてはならないという。

 ――ならば、馮一族が五嶺を越えて、北を切り取ることは許されるか!

 馮一族は、もともと北の出自だ。一族の悲願を達成するのに、なんの遠慮がいるか。熱で麻痺した頭脳に妄想が沸き立った。

 ――北への回帰だ!

 悪夢に、馮宝はうなされた。


 飛奴フェイヌー(伝書鳩)の羽ばたきで、葛徳はわれに返った。鳩を抱いたお玲の明るい声が、葛徳の懸念を吹き飛ばした。

「お英ねえさんからの伝言よ。船の名前は『黒狗号』(クロ号)と命名する。ワスケさんは高凉の海人を代表して堂々と務めを果たしてきてもらいたい。葛徳さんには――、これよく意味がわかんないけど、都で諸悪の元凶を取り除いてきてもらいたい。葛徳さん、いいですか」

「ああ、こころえた」

 葛徳がもとの表情に戻って、肯んじた。

 帆船は舳先に「黒狗号」(クロ号)と大書された。黒狗号は、部族の象徴である「狗頭人身」の俚人族の旗印をたなびかせ、帆に風をはらんで、沿岸伝いに北に向かって進んだ。

 やがて南海から東海に入り、広大な長江河口から、ゆったりと大河を遡行する。しかし都に近づくにつれ、岸辺の風景は一変した。黒煙が上がり、破壊された街並が、船上からも見てとれたのだ。都から避難する難民の群れが、引きも切らずつらなっている。

 さらに長江を逆流し、国都建康に近い京口(いまの鎮江)に着き、そこで積荷を引き渡した。都まで直線距離で約七十キロある。朝廷側から受取人が派遣されていた。

 屈強な役人に護られ、米問屋の人足らが手際よく荷を積替えた。

 ――米を運んでいる。

 飢饉にあえぐ江南では、貴重な宝物だ。ひと目見ようと、両脇に人垣ができた。

 地におちた米粒が白い点線を描き、やがてあたり一面に白くひろがりだすと、難民が目ざとく見つけ、役人の制止を振り切り、米粒を拾いはじめた。ひとりふたりのうちは役人も、黙認していた。しかし数が増えだし、作業者の邪魔になりだすと、見逃すわけにはゆかなくなる。手で払いのけ、脚で追い散らしていたが、めんどうとばかり、やにわに手にした槍を振り回した。前列の難民は逃れようとあと退りするが、うしろから殺到する難民には見えない。最前列の難民が犠牲になった。人垣はさっとうしろへ引くが、また揺り戻す。役人は悪鬼の形相で、次の列に槍を突き出す。

 群集がもみ合い、押し合うなか、怒号が絶叫をかき消した。

 作業が終った船着場の広場には、ぼうぜんとして立ちすくむ難民の群れが残された。うずくまってうごめく人の姿が、夕暮れの広場に影を落としている。

 血塗られた赤土を手で掬い、米粒を拾っては口に入れる母親がいる。赤子を抱いている。己が口中で米を溶かし、赤子に口移すのだ。

 たまりかねたお玲が駆け寄り、子を抱き上げた。愕然とした。子はすでに息絶えていた。

「われわれの米が残っている。せめてものことに、炊き出し、粥にして施そう」

 葛徳が提案した。反対する海の男はいない。空腹の腹に障らぬよう薄い粥にし、施した。

 たちまち長蛇の列ができた。

「どこからきた」

 訊ねるとほとんどが、「都から逃れてきた」と答える。


 決起から二ヶ月、侯景は国都建康の城門を突破し、外城を制圧した。そして宮城である台城に籠った人びとと五ヶ月におよぶ攻防戦をくりひろげたすえ、ついに台城を攻め落とし、梁の武帝蕭衍を幽閉したのだった。

 籠城のはじめ十余万人をかぞえた兵士や市民のうち、戦闘要員は三万人いた。いまや武器をとりうるもの、わずかに二、三千。多くの民が極度の飢餓で、瀕死の状態だという。

 梁の王朝は、ようやくその主をかえようとしていた。


 葛徳はワスケらとともに小船で、さらに西へ向かった。ワスケの若党が十人、そろって櫓を漕いだ。かつての白龍隊の少年たちも、いまは逞しい海の男たちに変身していた。

 クロと黄金丸が神妙な顔つきで、小船の片すみでうずくまっていた。二匹にとっても異常な体験であることにかわりはない。

「これは――」

 長江から秦淮水沿いに進み、朱雀航で上陸したかれらは、建康城の南門を北側に望んで、絶句した。かつて繁栄を誇った門外の市街地はことごとく焼け落ち、残骸のなかで食物を漁ってうごめく餓鬼の群れを目にしたのだ。

 城内は、さらに悲惨をきわめていた。

 悪臭が鼻を突いた。道ばたに人のしかばねが積み重なって放置され、腐って膿を垂れ流していた。見るに堪えない光景だった。クロと黄金丸も尻尾をたれ、人の後ろから隠れるようにして覗き見ていた。そんな葛徳らの動向を、藪の陰から野犬がうかがっていた。

 かろうじて雨露を防ぐだけの掘っ立て小屋に、人が重なり合って寝起きしていた。動けるものは、朝から起きだし、口にできる食べ物をさがしあるいた。動けぬものは、ただ死を待つだけだった。餓死寸前の身で、小屋を這い出たものが、野犬の犠牲になった。

 さいしょ異様に気付いたのは黄金丸だった。黄金丸は低く唸ると跳躍し、人を襲った野犬に喰らいついた。二匹はもみ合い、野犬は尻尾を巻いて遁走した。騒ぎに気付いた人々が筵を挙げて外を覗いた。黄金丸を見た。痩せこけた野良犬とはちがう。特上の獲物だ。人々は黄金丸に殺到した。黄金丸はぼうぜんとして身動きできなかった。じぶんが慣れ親しみ、信頼してきた高凉の人びととは、明らかに異なる人種だった。

 ワスケが駆けつけたとき、黄金丸は引きちぎられた肉塊と化していた。

「どうして、どうして逃げなかった」

 信じられない思いで、ワスケはつぶやいた。怒るまえに悲しかった。

「黄金丸はわが身を犠牲にして、己が肉を引き裂いて人々に施したのです。畜生が神の心になって、畜生になった人に酬いたのです。人を責めることはできません。畜生にならなければ、生きのびられない、そんな時代に生まれた不幸を、だれが責められましょう」

 葛徳は一瞬、悲しげな横顔をワスケに見せた。しかし次の瞬間、葛徳の面貌から慈悲の面影は掻き消えていた。

「だが、たった一人、あの男だけは許せぬ。この世の極楽と人をたばかり、無辜の民をこのような地獄の奈落に突き落とし、はては悪鬼羅刹あっきらせつ化生けしょうせしめた――梁の武帝蕭衍。素っ首刎ねて、冥土へ放ってくれる」

 梁の武帝蕭衍こそ、紛う方なき諸悪の元凶なのだ。

 クロもまたあぜんとして肉塊を手にする人々を見つめていたが、悲しげに唸るのみで、人を攻撃する風はなかった。

「人もまた生まれたはじめは、おなじ畜生です。成長するにともない経験を積み、智慧をつけ、友を見つけ、愛を知り、子を育てて生活する過程で、畜生が人となるのです。犬も同じで、人と深く接した犬は、人の愛情を享けいれ、己を人と思い、他の犬と区別します。しかしクロよ、おまえには人の愛情ではなく、人の憎しみをけてもらわねばならぬ。さいごに畜生働きをしてもらう――」

 クロの頭をなぜながら、葛徳はゆっくりとクロに語りかけ、台城を見やった。

そこに蕭衍は幽閉されている。張りつめた空気が、異様な緊張をかもしだしていた。


「この城下の復旧には、十数年かかります。わたしは陳覇先どのを手伝い、まず南朝の立て直しからはじめます。冼夫人には嶺南の民族自決という大きな仕事が待っています。そしてワスケさん、あなたには西方との航海ルートの開拓――海のシルクロードの再現を託したい。あなたは高凉の俚人部族ではないが、犬たちを通じて狗郎の心が理解できる人です。お玲さんとともに四海に雄飛し、俚人の福地を築いてください」

 福地とは、道教にいう仙人の住む地、神郷楽園、転じて幸福をもたらす豊饒の地のことだ。富、権勢という物質欲を満たすか、世の中の安寧、家族の幸せに心の満足を得るか、福地といえど人界にある限り、浮世のしがらみと無縁ではない。

 ワスケは無言でうなずいた。黄金丸なきいま、ヤマトへ急ぐこともない。西の方、海のシルクロードを開拓し、東のヤマトへつなぐことも男の本懐か。ワスケは黄金丸の首輪を形見に、若党をしたがえ、お玲とシロの待つ黒狗号へ立ち返った。

 シロはワスケが近寄ってもいつものようにじゃれて抱きつこうとしなかった。ワスケが手にした首輪をくわえると首を落としたまま、物陰にうずくまった。そして懐かしむように、首輪に鼻を寄せ、臭いをかいでいた。

「シロは黄金丸の子を孕んでいます。わたしたちのように」

 聞いてワスケは驚いた。あらためてシロの腹を見、お玲の腹を見た。


 台城陥落から二ヶ月、蕭衍は宮中淨居殿の臥床に身を横たえていた。夢とうつつの境が分からなくなっていた。八十六歳の老躯は骨と皮になり、餓死が目前に迫っていた。もはや空腹感は失せ、ただ口中の苦さだけが耐えがたかった。

目のまえで蜜が浮遊していた。宙に滴り落ちた蜜汁が、大気のなかを舞っている。

「蜜じゃ、蜜じゃ。わしに一滴の蜜をくれ」

 過去の名声も、栄華の誇りも、蜜の一滴におよばない。朽ち果てる寸前の老人は、なりふりかまわず憐れみを乞うた。

「悟りの波羅蜜はらみつをこそ求めるべきに、この期におよんでなお現世快楽げんせけらくの蜜を求めるか」

 夢のなかで揶揄する声があった。ぎょっとして、蕭衍は夢から覚めた。

「たれじゃ。皇帝菩薩のわしを愚弄するは、なにやつだ」

「お見忘れかな、蕭衍どの。葛恩じゃ。もと同門の葛恩じゃよ」

 葛徳の顔が闇に浮かんだ。

「若いな。まるでともに修行したころの顔ではないか」

「さよう、いまは孫のからだを借りておるでな」

「はや、尸解仙しかいせんになりおったか」

「尋常に修行を続けておれば、おぬしとて尸解仙になっておったものを」

「――」

 短い会話はそこで途絶えた。暗闇のなかでクロの影が動いた。


 深更、台城に満月がかかっている。

 その満月に影が映った。西に向かい、長江めがけて跳躍するクロの影が映し出されたのだ。食いちぎった蕭衍の首をくわえていた。

 空腹で寝もやらず、城内で餓死をのみ待つ多くの民が、満月に映るクロの姿を目にした。

「これは、神か仏か」

「犬神だ。噂に聞く、高凉の神犬ではないか」

「わしらに命を与え給うか」

 人々は影の神犬を伏し拝んだ。

 もう一度顔を上げたとき、雨粒が口に入った。久しぶりに降る雨は口に甘く、からだに温もりを与えてくれた。

「ありがたや。神犬が慈雨をくだされた。われらに生きる望みをくだされた」

 人びとは表へ出て雨をいただき、天に向かって合掌し、叩頭した。白い石畳の路面が雨に打たれ、たちまち黒く染められた。


 のちに葛徳は冼夫人に述懐している。否、じつは葛徳の肉体を借りた葛恩というべきか。

「わしが手をつけるまでもない。蕭衍の寿命はすでに尽きており、結局、わしがさいごを看取ることになった。わしと蕭衍は若いころ道教の熱心な学徒で、江南の句曲山で修行をともにした同門の仲だった。そのころから蕭衍はたいへんな逸材で、そのまま修行をつづけておれば尸解仙しかいせんまちがいなしの折り紙を付けられていた」

 尸解仙とはしかばねを解く、つまり蝉が殻を抜けるように、魂魄が屍を抜け出て永遠の生命を得た仙人をいう。死んで葬られた己が肉体とはべつに、必要なつど他人の肉体を借りて生身の姿で再生する。天仙・地仙にならぶ仙人のことだ。

 これに反し、首と胴をふたつに断たれた肉体から分かれた魂魄が、再生することはない。地獄ですら受入れを拒まれ、あの世とこの世のはざま――幽明のさかいを永遠にさまようことになる。魂魄といえど断じて再生復帰を許さず、死んでなお安住の地を得られない。行き場がないから、子孫からも祀られることがない。死者がもっとも恐れるのがこの断首なのだ。

 さらに首が死後、人の手によって胴に戻されることのないよう、首をくわえたままクロは長江に飛び込んだ。河口から大海に流され、沖合いの海底深く沈めてしまう意図からだった。

 葛徳もまたクロに祈りを捧げ、台城をあとにした。次の狙いは侯景にほかならない。

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