老母のもとへ
梅雨の合間の金曜日。
私は午後からの有給休暇を願い出て、遠く離れた実家に住む母のもとへ向かっていた。
新幹線を降りた私が、構内の長いエスカレーターを下ると、私鉄のホームが現れた。
やがて、定刻通りに、古ぼけた電車がやってきたが、乗る者も降りる者もまばらであった。
人の少ない車内。それは、都内の会社に務め、混雑している電車を朝晩利用している私からすれば、久しぶりの光景であった。これから二十分、私は電車に揺られる身であった。
私は席の端に坐り、電車が出発するのを待った。
すると、娘と思われる中年女性に手引きされた老女が、よたよたと電車の中へ入ってきた。彼女が坐る前に電車のドアを閉まった。電車が動きはじめると、老女はよろめき、その場へ坐り込んだ。
私も含めた少ない乗客は助けようとせず、彼女の娘が起き上がらせるのを、ただ黙って見つめていた。
近所のバスに乗ったとき、私は似たような光景を目にしていた。それが、今回、私を母のもとへ向かわせた直接的な原因になった。
私が右手を置いたシートは、毛羽立っているだけでなく、ところどころ剥げていた。
電車が進むと、やがて、海が見えてきた。なんとなく、車内に磯臭さを感じた。
海の近くに住みたいと、いま母がひとりで住んでいる場所に家を建てたのは、亡き父であった。
父は重度のヘビースモーカーでいつもタバコの臭いを漂わせていた。しかし、そんな彼の死因は肺がんではなかった。
タバコの臭い。そうだ。昔は電車の中でもタバコが吸えたのだった。昔は何とも思っていなかったな。
高校時代の平日。私は電車に乗って、学校に通っていた。毎日、眺めていた光景を目の当たりにして、私は学生の時のことをいろいろと思い出した。
海を目指す電車は小刻みに揺れていた。学生時代、毎日感じていた揺れ心地。
時計を見た。時刻は午後五時を指していた。会社の定時である。常は無機質なオフィスにいる私が、きょうはなつかしいセピア色に包まれている。
さまざまな出来事が、きのうのことのように私の脳内でたわむれた。
心地よい揺れのために、眠気に襲われた私を、キイイと、急カーブに差し掛かった電車が目覚めさせた。
電車が大きく揺れた。すると、先ほどの老婆が素っ頓狂な声をあげた。となりで、彼女の手を握っていた娘は、疲れ果てた顔をしていた。
つづいて、電車がトンネルに入ると、窓ガラスに、同じく疲弊した中年女、つまり私の顔が映った。私の追憶は完全に途絶えた。
目の前の母娘は、何の目的で市内へ出かけたのだろうか。荷物を持っていないところを見ると、買い物ではなく、病院であろう。
これから向かう先には、小さなスーパーとコンビニがあるくらいで、もはや病院やら何やらはない。過疎化が進んでおり、すべて撤退してしまっていた。
そのスーパーやコンビニも、いつまで居てくれるかわからなかった。それどころか、いま乗っている私鉄も廃線の話が出ていた。生活の足を失えば、海辺の町は独り暮らしの老女に住める場所ではなくなる。代わりにバスに乗って、母は出かけるのか。バス……。母はひとりで乗ることができるのだろうか。
母は週に二回、電車に乗って、市内に買い物へ出かけているそうだ。まだ足腰は大丈夫と本人は電話で言っていたが、その声は弱々しかった。
目の前の老女を見るにつけて、とにかく今回の里帰りで、何日かかろうとも母を説得して、私の住む都内へ呼び寄せなければならなかった。
決意を新たにした私の視界は夕焼けに染まっていた。
学生時代に見ていたのと同じ光景。
しかし、揺れる電車のリズムは微妙にちがっていた。
それは、電車の老朽化のせいだけではないように私には思えた。
ごたごた短編集 青切 @aogiri
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