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「退屈だな、おい。時間はまだか?」がやがやとした人混みの傍らで、稲葉が時計を見ながら不満そうに呟いた。「――まだみたいだな。こうして手持ち無沙汰にただ待っているってのは、どうも性に合わないぜ」

「それより、僕達は本当に、こんな所に居て良いのかい?」僕は周りの人には聞こえない様に小さな声で尋ねた。自分がこうしてこの場所にいることが、成りゆき上ごく当然の事であるにせよ、奇妙で場違いな気がしていた。

「良いも何も、他にどうしようも無いだろ。もうしばらくここで待つしかないさ」稲葉はそう答えた。僕と違って、彼はただ言葉通りに退屈しているだけの様子だった。

 僕達は二人並んで腰掛け、目の前を目まぐるしく通り過ぎていく人々を眺めていた。様々な人々があちこちからやって来て、各々の行き先へ向かって行った。皆が各々自分の意思で進んでいるものの、それでも同じ目的地へ向かう人は同じ様に歩んでいくので、見ると所々に人の流れが出来ている。多くが自然に出来ていたが、一人が先頭に立って人の流れを作り出すこともあった。流れに乗って移動する人もいれば、それをしゃにむに突っ切って進む人も稀にいた。脈々と続く大きな流れであっても、ふと霧散することもあった。それでも人々の往来は絶えることなく、常に無数の流れを形作っていった。

「時間はまだ少し先ですね、総理」

 行きかう人々の間からさっと、真っ黒なスーツを着た女性が現れた。僕は補佐官さんと稲葉を思わず交互に見比べたが、二人とも別段変わった素振りは見せなかったので、僕も何も言わないでおいた。

 一瞬の沈黙の後、その空いた間を埋めるように、稲葉が口を開いた。「さ、これで全員揃ったことだし、積もるような話でも始めようぜ」




 嵐は激しさを増すばかりで、停電が回復する気配も無い。稲葉が来るのを待つ間、次第に僕は補佐官さんに連絡すべきではないかと思い始めていた。アゴラを管理しているのが彼女なら、事情を説明すれば何らかの処置をとってくれるかもしれない。しかし、以前補佐官さんと交わした約束をこちらが一方的に破棄してこうなった手前、今さら彼女に相談するのはどうしても気が進まなかった。おまけに最後に彼女に会ったときにはあのような別れ方をしている上に、今こちらに向かっているのはよりにもよって稲葉なのだ。二人が接触する可能性を考えると、なおさら補佐官さんには頼みづらかった。

 電話が切れてから二十分後、稲葉は軽くふらつきながら玄関先に現れた。外は目を覆う程の風雨で、蝋燭の明かりに照らし出された彼は頭のてっぺんからつま先までずぶ濡れになっており、体からはうっすら湯気が立っていた。

「こんな中を突っ切って来るなんて。よくここまで無事に来れたね」

僕はタオルの束を手渡して、呆れつつも感謝して言った。稲葉は俯いて顔を拭いながら、片手だけ上げて握っていた情報端末をこちらに見せた。

「人工衛星だ。相手の住所さえ入力できれば、後はその目的地まで前を見なくても辿り着ける」

彼は息を弾ませながら鞄を開け、ビニールに包まれたノートパソコンを取り出すと、モデムを接続して僕に渡し、疲労困ぱいした様子でその場に崩れ落ちた。

「ちくしょう。ジョギングには最悪の天気だ。停電させた奴め、覚えてやがれ。……それよりどうだ、アゴラの様子は? 投票は?」

 僕は稲葉のパソコンを机に置いて起動させ、それでやっと再びアゴラに入る事が出来た。ページの一番上には僕が停電前に送信した草案が表示され、国民からの投票を受け付けている。ページの端には投票総数が表示され、早くも既に一千万近くもの票が投じられていることが分かった。投票開始の際にあれだけ騒がしい告知が起こる上、個人の情報端末からでも手軽に投票できる為に、短時間でも大量の票が集まるのだろう。しかし寄せられた票の内訳は伏せられていて、賛否の程は知れなかった。人々からの反応を知るために、僕は掲示板の方を眺めてみた。

:戦勝から早一ヶ月、そろそろ総理の次の一手を拝見したい。

:あの方の仰る事なら、私は何でも従いますよ! 浦嶋総理万歳!!

:!? おいみんな、浦嶋さんがアゴラに草案を出したみたいだぞ

:ついに動き出したか。さて、今度はどんな妙案を見せてくれるのかな…?

 ここで、発言は止まっていた。最後に寄せられた発言の日時を見ると、法案が掲載されたのとほとんど同じ時間だった。それから実に三十分近くの間、この広いアゴラのどこの場所でも、誰も何も喋っていない。

どこか薄気味悪い感じがして、僕は背後の友人に尋ねた。「反応が何も無いよ。稲葉、投票期間は普通どれぐらい用意されているんだ? 一週間とか、一カ月とか、そんなのんびりとしたペースで投票できるものなの?」

「……どうした? 不安になったか?」

「そんなことは無いよ。全国民がこの僕の意見に賛成してくれるに決まってる。だけど、ただ、まだ誰も何も意見を言っていない事が少し気に掛かってさ。皆じっくり慎重に考えてくれているんだろうけど」

「――投票期間は特に決まってないぜ。選挙とは違って、賛成か反対かどちらかが有権者の総数の半分を上回ったその数分後に締め切られる。得票が足りないとそのままずっと放置されるが、そうなるのはどうでもいいような法案ぐらいだ」

「でもそれだと、投票する前に締め切られる人もいるんじゃないか?」

「半分超えた時点で後は全部死票になるだろ。投票しても無駄ってことだ。合理性を追求した結果だろうよ。……それより、悪いが少し休ませてくれ。パソコンを抱えてのマラソンはそれなりに応える」

稲葉は壁を背にもたれ掛かり、ぐったりと座り込んだ。

 その後もしばらく僕はアゴラの前で待ち続けた。ブラウザの機能によって数十秒ごとにゆっくりとページの自動更新が行われているものの、その都度掲示板には同じ文面が示されるだけで、アゴラは箝口令が敷かれたように無言のままだった。しかし表示された投票総数の数字だけは見る見るうちに増えていき、今ではさらに一千万票が追加されていた。何かがおかしい。おかしいが、原因が分からない。やがてそわそわしている僕を見兼ねたのか、稲葉が起き上って隣に来ると、パソコンを少し回して自分の方に向けた。

「お前は何の為にアゴラに掲示板があると思っているんだ? 感想が聞きたけりゃこっちから質問してもいいんだぜ。お前の言葉で国民に問い掛けてみろ」

 稲葉はキーボードに手を置き、入力する準備をした。僕が「『僕の案について、皆さんはどのように思いますか』って、頼む」と伝えると、彼は僕とは比べ物にならない速さで正確にそれを入力し、アゴラの掲示板にそれが書き込まれた。

 しかし、それでも何の反応も起こらない。人々は沈黙したままで、アゴラはずっと静かだった。念のためにもう一度、同じような文章を書き込んでみたが、やはり誰も何も言わない。まるで一人で、だだっ広い空間の中をもがいている気分だった。その空間には出入り口が見当たらず、周りを囲う壁も無い。天井や地面すら存在しない。その中では僕の発した言葉は何にも引っかからずただまっすぐに突き抜けていき、僅かな反響さえ残さずに消えるしかない。そのくせ、見えない何かに縛られている様な圧迫感ばかりが常に感じられて、気を抜けば知らず知らずの内に窒息してしまいそうな息苦しさがあった。

 心の中で不安と焦燥が高まっていった。時間が過ぎ、投じられた票の数だけが増えていく。しかし僕は何もできない。堪らない気分だった。気付くと投票総数は三千万を超えていて、僕は不安を紛らわせるために口を開いた。

「この国の有権者って何人だっけ? 全国民が選挙権を持つんだから一億人、その半分なら五千万人、だからまだまだ締め切りには――」

 僕がまだ言い終えない内に、稲葉は無言で二つのキーを同時に押した。一瞬画面が静止した後、ページの再読み込みがなされ、それまで表示されていたアゴラの情報が一度に最新のものに更新された。

「そろそろだとは思っていたが、まさかこれ程早く終わるなんてな」

 画面には『投票受付終了:総数約37175000票、現在集計の精密確認中』と表示されていた。

僕は息を呑んだ。これを見る限り投票総数はまだこの国の総人口の半分にも達していない。困惑して言葉も出ない僕に向かって、稲葉は淡々と説明した。

「この国の国民すべてが有権者だったら、確かに最低でも五千万は必要だろうさ。でもお前も知ってるだろ、アゴラに入る資格すら持たない連中がいるってことを。兵労隊さ。そいつらの人数を差し引いた上で、しかも――」稲葉は再びページ更新の操作をした。アゴラの様子が再び変わり、今度は投票の結果が表示された。「得票がどちらか一方に偏ったとしたら、これだけでも十分過半数になるんだよな」

 僕は投票結果を無心で見つめた。本来なら悔しがったり悲しんだりするものだろうが、この時は不思議とそういった嫌な感情は少しも湧いて来なかった。画面上の表示は『賛成1、反対37174799:よってこの法案は否決となりました』となっていて、それは支持率九十九パーセントを誇る総理大臣の法案が国民のほぼ全てから拒絶された事を意味していた。僕は意識するともなく、ふうっとため息を吐いた。失意からではなく、疲労でもなく、安堵から出たものだった。それまで投票の情勢が不明だった分、このようにはっきり明示されたおかげで肩の荷が下りたように感じられた。目の前の霧が晴れたような気分だ。

「なんでだろう?」僕は疑問を口にしていた。「ねえ、何でこうなったんだろうね? 何故だろう。僕にはとても、不思議だよ」

「その不思議ってのは、法案が否決されちまった事がか? それとも、自分がそんな法案を提出しちまった事がか?」稲葉はさっきと同じ、淡々とした調子で尋ねた。

 僕は少し頭を捻ったが、それでも何の考えも出て来なかった。そのまま率直に放言した。

「どちらもだよ。何で否決されたんだろう。何で僕は、可決されるなんて自信を持っていたんだろう」

 稲葉は答える代わりに、マウスを操作してアゴラの掲示板を画面一杯に拡大して表示した。そこは数分前とは大きく変わり、投票の結果が出た直後から人々が次々と発言を始めていて、今では蜂の巣を叩いたような騒ぎとなっていた。

:『どう思いますか』って、こんな案に賛成するわけねーだろフツー

:英雄だった浦嶋総理がこんな愚策を言い出すとは。残念極まりない。

:調子に乗っちゃったんだろうねえ。王様にでもなったつもりだったのかもねえ

:まあ戦争の時点で軽率な奴だと判明してたし、いつかこうなるって思ってたよ。

:それよりおい、賛成票が一票あるぞ。誰だよ賛成した奴、バカじゃねーの?

 ああ、そうか――。僕は書き込まれた意見を見て、理論だとか事由だとかの過程をすっ飛ばした、言語による説明からかけ離れた段階において、理解した。さっきの疑問の答えは可笑しいほどに単純明快なもので、否決されたことも、自分が法案を提出してしまったことも、今ではもう疑問にすら、感じられなかった。

稲葉は目を細めて僕に訊いた。「これが国民からの答えだよ、総理どの。で、どうする?」

これ以上アゴラで発言する必要は無い気がした。正直に言えば、必要性の有無は問題ではなく、発言すること自体がどうしようもなく億劫だった。しかし、念の為に訊いておかなければいけないと思い直して、僕は稲葉に言った。

「もう一回だけ、質問を頼むよ。『皆様は、兵労隊の有様について、おかしいとお思いになることは無いのですか。僕には変に思えて仕方ありませんが』って」

 稲葉は僕の質問をアゴラに書き込んだ。一瞬の沈黙があった。しかし次の瞬間には、ページ更新の処理が追い付かない程、アゴラが溢れんばかりの勢いで人々からの意見が返ってきた。

:俺の知ったことじゃない。これでうまくいってるんだから、わざわざ変えるなよ

:浦嶋氏は我々の社会を否定する思想を持っている。危険人物ではなかろうか?

:社会の仕組みをよく勉強しましょうね。あれは仕方のない事なんだよ

:総理っつってもたかがガキのくせに。ガキの意見なんざ誰も聞いてねえんだよ

 こういった書き込みがどんどんと続いていった。見渡す限り一面がただ一色に染まっていた。アゴラには何千万もの人がいるはずなのに、みんな異口同音に僕に反対するだけで、それ以外の意見を口にするものは誰もいない。もしかしたら口にする事が出来ないだけで、心の中では僕に賛同する様な人がいるかもしれない、とも僅かばかり考えたが、これは僕の勝手な思い上がりだろうか。しかしいずれにせよ、もはや僕にとってはどうでも良かった。

「――君たちが、僕を指名したんだぞ。僕は総理大臣なんかやりたくなかったのに。君たちがみんなで僕を担ぎ上げたから、僕は総理になったのに。本当はこんな事、したくも無かったんだ」

 僕は目の前にいない相手に向かって呟いた。隣の友人がその独り言をも書き込もうとしているのに気付いたが、わざわざそれを制止する気にはなれなかった。

:今のは失言だな。ぼろが出たぞ。我々国民に責任を押し付けないでもらいたい

:自分勝手な奴だ。わがままで、まさに独裁者じゃないか。

:以前の戦争責任と併せて、今からでも彼を処罰すべきかと

:それ賛成。アゴラに訴えて、さっそく裁判を始めようぜ。今度こそ死刑だ!

:同感。一国の指導者として不適な者は、我々市民の手で排除せねば。

 アゴラはとっくに収拾がつかないところまで来ていた。いや、もしかすると初めから僕の手には負えないような存在だったのかもしれない。いずれにせよ気付くのが余りにも遅すぎた。僕は目を閉ざし、画面から顔を背けた。

 稲葉はその後もしばらく無言のまま掲示板を眺めていたが、やがて大きく伸びをして、画面から目を離した。

「終わったな、浦嶋。またお前を処刑しようって話が出てきている。今回は戦争のときみたいに国民の目を逸らせることもできやしない。今度こそ、お終いだな」

 彼がそう言い終えると、それを待っていたかのようにまず稲葉のパソコンが電子音を流し始め、次いで間髪入れずに僕のポケットからもその音が大音量で漏れ出してきた。窓の外からも、その音が風雨の唸り声に混じって聞こえてくる。僕は内心うんざりしながら携帯電話を引っ張り出し、もはやお馴染みとなった警告音を止める為に画面を開いた。

『アゴラより通告:弾劾裁判の開始』

「アゴラで誰かが訴えられた場合、まずは有罪か無罪かが審議される。審議っつってもやはりただの多数決なんだけどな。それで有罪になった場合、告訴人と被告がそれぞれ希望する刑罰を表明して、そのどちらが妥当かをまた多数決で――」

 稲葉は淡々と、これから起こる裁判の説明を始めた。しかし僕はそれを半分も聞かず、通告の示された画面を消し、携帯電話を再びポケットへと仕舞い込んだ。それからやっと友人の方へ向き直り、ひと言尋ねた。「君は、どう思う?」

「さっき言った通りさ」稲葉は事務的な説明を止めて、相変わらずの淡々とした口調で答えてくれた。「終わりだ。この情勢じゃ当然有罪だろうし、連中は間違いなくお前を死刑にしようとするだろう。良くても一生兵労隊さ。とにかくまあ、これで浦嶋総理もお役御免ってこった」

「君すら、僕のせいだと言うのかい? こうなったのは全部、僕が悪いと?」僕は努めて声を抑えてそう訊いた。先刻からの稲葉の醒めたような口ぶりが、少しずつ、しかし着実に、癪に触って来ていた。

「いいや、俺はお前が間違っていたとは思わない。それに連中だって、別に事の善悪を判断した上でお前を批判している訳じゃない。誰か他の奴を悪者にしておけば、相対的に自分は悪くないって言えるだろ。今お前が非難されている理由なんて、そんなもんさ」

「それじゃ何だよ? 僕はどうすりゃ良かったんだ? 正しい事をしたとしても、どんなことをしたとしても、結局はこうなるしかないって言うのか?」 

「俺が言いたいのはそんな事じゃない。それにお前は勘違いをしている様だが、この国じゃあ、何が正しいかなんて事よりも、何が周りの意見に合致するかの方がはるかに重要なんだ。分かるか? 俺はお前が間違った事をしたとはちっとも思わない。むしろよくやってくれたと思うよ。――ああ、本当に、よくやってくれた」

 稲葉はしみじみと最後の一言を付け足し、それから感慨深げにふっとため息を吐いた。その淡々とした態度は余りにも過ぎていて、寧ろ神妙に見えたくらいで、僕は激昂のあまり一瞬意識が遠のいたように感じた。これまでのように暴言を吐いて収まる類の癇癪でなく、ぶん殴って彼の細い鼻柱の骨をへし折ってやりたくなる位の衝動だった。僕は目の前の友人を傷付けまいと必死になって自制したが、稲葉はすぐに態度を改め、打って変わって蝋燭の薄明かりの中でも分かるくらいに真剣な表情になった。

「分かるか、浦嶋。何故この直接民主制の国で総理大臣なんて必要になるか、何故こんな時代に兵労隊なんて制度が必要なのか。お前に、分かるか?」

知ったことか、とも思った。が、頭の中の冷静なままだった部分を総動員して、どうにか僕は答えた。「総理大臣はただの昔の名残だろう? それに、兵労隊は囚人の分の労力を活用するためなんだろう? どちらも大して意味があるものでもない。一体それが――」

「ああ、成り立ちはそうだった。少なくとも名分としてはな。だが、今は違う。ちゃんと意味が有る」稲葉は声に抑揚を取り戻して語り出した。「言ってみれば、どちらも同じ存在意義を持っているんだ。――考えてみろ、もし仮に皆が本当に同じ身分だったとしたらどうだ。本当に平等な社会だったとしたら、どうだ。全員がてんでばらばらなことを言い出して、しかも全員が対等なんだから、国なんてものがまとまる訳が無いだろう? それならだ、奴隷とか無力な王様とか、そういった段違いの身分を一旦作ってみろ。一般市民はそれらに対しては団結して、国家も全体としてうまく安定するようになるんだ」

思わず僕は吠えた。「安定、だって? そんな仕組みで安定する国なんて、この世界にあってたまるもんか」

稲葉は言った。「パンとサーカス、ってやつだろうな。人は食べ物と適当な娯楽さえあれば、それに甘んじて何の問題も無く生きていける。この国じゃ普通の人々は毎日飯を食って、兵労隊連中を蔑んで、総理野郎のやることに文句をつけてさえおけば、それで十分ハッピーに日々を過ごせるんだよ。特に総理大臣なんてのは最高の娯楽さ。一人を道化師に仕立て上げりゃ、他の人間はそいつの挙動に無邪気に一喜一憂して、しかも飽きればいつでも切り捨てることが出来るんだからな。――兵労隊の連中にとってもそうさ。あいつらも餌さえ与えられていれば、後は勝手に自分なりのささやかな楽しみを見つけて、不遇な生活にも順応しちまう。おかげでこの国は見事なまでに安定しているんだ。今まさにご覧の通りにな」

 僕は絶句した。僕の頭の中を様々な記憶の断面が掻き乱していた。その中でも、今朝直面した兵労隊員のあの血みどろの顔と呻くような肉声が、生々しい現実感を伴ってまざまざと脳裏に浮かび上がってくる。そう言えば確かに、彼は僕が総理だと知った途端に態度をがらりと変えていた。社会の最底辺の身分に落とされた彼ですら、おそらく総理の座にいる者を侮蔑することによって、普段から日頃の溜飲を下げていたのだろう。

やるせない思いがした。この国の総理大臣として、確かに人のため国家のために貢献してはいたものの、到底誇らしい気分になれるものではなかった。物を言う気力も失せていた。すると稲葉が出し抜けに、語調を強くして僕に言った。

「なあ浦嶋、お前は本当によく頑張ったよ。お前はずっとまともな感覚を保って、一人の人間として立派に振る舞っていたさ。でも結果はこんなざまなんだ。見事な惨敗と、死刑の求刑なんだ。だからさ、――この国から逃げるんだ」

 僕は視線を上げて彼を見た。少し不思議だった。稲葉の真意は一体どこにあるのだろう。僕が沈黙を続けていると、彼は熱を込めて言った。

「元々外国にいたお前なら、国外での生活も難しいことじゃ無いだろう? それにお前には、国内に家族は居ないんだろう? 身一つだけならこの国から逃げるのは別段難しい事じゃない。俺も手を貸すからさ、アゴラで刑が確定する前に、お前が捕らえられっちまう前に、今の内に国外へ亡命してくれ。頼む」

 稲葉は強い口調のまま、懇願していた。黙っていられなくなって僕は一言だけ、尋ねた。

「どういうことだよ、それ?」

「お前がこんな国に居続ける理由は無い、ってことだ」彼は明らかに、気を昂ぶらせていた。両手を握ったり開いたりしながら、彼は言葉を続けた。

「ここはお前の故郷なんかじゃない。お前も感じているだろ、何かが違うって。地図の上で同じだとしても、同じような風景が残っていたとしても、この国はもうお前の故郷とは変わっちまっているんだ。お前はこの国に未練を感じるか? 愛着を持つことができるか? お前が郷愁を抱くのは、決してこんな所じゃないだろう?」

稲葉はパソコンの画面を指し示した。そこに映された空間は今では僕に対する罵詈雑言で埋め尽くされていて、まともになされている議論と言えば如何にして僕を処刑するかを論じた物ぐらいだった。

「このアゴラの仮想空間が、この国の全ての中心だ。この国家の最高の機関なんだ。でも、こんなものがお前や俺の故郷と何の関係があるってんだ。こんなぎすぎすした、荒みきった下劣なものが。――美しい国土があって、親しい人間がいて、心から安らぐ事が出来る、そんなところこそが故郷とか、祖国とかって言うべきものなんじゃないのか。こんな所はお前のいるべき場所じゃないし、俺にとっても故郷と呼べる様なものじゃない。絶対に、違う」

 稲葉は半ば、自分にも言い聞かせるように語っていた。もっと明るい所で見れば彼の目はぎらぎら光っていた事だろう。興奮して話し過ぎるのを自制しようとしたのか、彼は少しだけ左右に頭を振ってためらう様な素振りを見せた。しかし遂に抑えきれなかったらしく、ぎらつく目を上げて一度僕を見、それから僅かに視線を逸らすと、稲葉は堰を切ったように話し始めた。

「お前がこんな所で捕まったらいけないんだ。お前は逃げなければいけないんだ。――こうなったのは全部、俺が仕掛けた工作の結果なんだから。四月の総理大臣選のとき、ネット上で散々お前を持ち上げて票が流れるようにしたのは、この俺だ。兵労隊員が丁度お前の目の前で酷い仕打ちを受けるように仕組んだのも、俺だ。お前にこの国の制度に疑問を持たせるために、俺が兵労隊員たちを説得して仕向けたんだ。晩餐会の時に勝手に合衆国相手に喧嘩を吹っかけてお前を窮地に追いやったのは誰だった? 勿論、俺だ。それでお前が戦争に勝っちまった後でも、俺は友達の面をしてお前を煽り続けてやった。お前みたいに正義感と良心を持ち合わせた奴なら、そのうち自分の境遇に耐えられなくなって致命的に馬鹿げたことをやりだす筈だと踏んで、俺はそこに付け込んだんだ。その結果がこの状況さ。――どうだ、分かったか。お前が今こんなざまに陥っているのは、始めっから全部、この俺が裏で仕組んでいた所為なんだ」

稲葉は捲し立てるように、吐き出すようにそう言い終えると、肩で息をしながら僕を見た。あまりの事に僕は戸惑って、しばらくの間必死に思案した。眼前の世話の焼ける友人の為に何と言ってあげれば良いのやら、取り繕う言葉を懸命に探した。しかし、僕はどうしても誤魔化しの言葉を出せなくて、「――うん、気付いていた」と、終いには正直に告げていた。

稲葉が打ちのめされたような顔をした。それを見て、僕の方も打ち明けることにした。「最初に、選挙の時に宣伝工作をされたと補佐官さんに知らされた時から、ずっと、薄々ね。この国に来たばかりだった僕を、君の他に一体誰が知っていたって言うんだ。僕がいくら間抜けなお人好しでも、それぐらいはちゃんと勘付くさ。そうして一旦疑ってみれば、君の行動はずっと十分過ぎるほど怪しく見えていたよ。――でも、理由は未だに分かってない。何で僕を? 何の為に? しかもさっきは逃げろってわざわざ勧めてくれたけど、何でここまで追い詰めた上で逃がしてくれるんだ?」

「お前が、ちょうど利用できる立場にいたからだ」稲葉の声から力強さが消え、代わりに語尾が震え出していた。「お前が帰国子女で、全くこの国のシステムを知らなかったからだ。元々俺は総理大臣になりたかった。そう思っていた時にお前はこの国にやって来たんだ。――こいつなら簡単に総理大臣の座に就けさせる事が出来るし、その後で簡単に追い払う事も出来る。そうすれば総理の椅子が空き、後はその空いた椅子を俺がもらうだけでいい。初めてお前と会ったときから、俺はずっとそんな風に考えていたんだよ。俺はどうしても、何としても総理大臣に成りたかったんだ。だから、お前が巻き込まれたのはほんの偶然だし、こんな目に合わせて申し訳ないと思っている。本当に、すまない」

 稲葉は僕の足元に跪き、額を地面につけて僕に詫びた。彼が心から謝っているのは明白だった。しかしそう謝られてもまだ、僕には腑に落ちない部分が残っている。

「何だよ、それ。僕にとってはいい迷惑だ。どうせこの国の総理大臣なんて、誰もやりたがらないんだろ? なら君は簡単に総理になれた筈じゃないか。わざわざ僕を巻き込まなくても、一人で勝手にやれば良かったのに。君は堂々とアゴラに入って、発言して、皆から投票してもらえば――」

 はっとして、僕は口を噤んだ。頭の中で数々の出来事が繋がっていって、ある一つの可能性に辿り着きかけていた。僕はそれが事実であるとは思いたく無かった。しかしそれが正解であることを示すかのように、稲葉は跪いたまま、それまでに見せたことのない悲痛な面持ちで、じいっと僕を見上げた。なぜ今まで気付かなかったのだろう。その印を知る以前から彼の顔を見知っていたからだろうか、それとも彼がいつも無理にでも快活に振る舞っていたからだろうか。とにかく、雨中を走ってぐっしょりと濡れ、疲れ果て、そして今しがた自分の所業を告白して許しを乞うた稲葉のやつれた顔の中には、蝋燭とモニターの僅かな明かりを受けて、例の真っ黒な得体の知れない影が死相のようにくっきり浮き上がっているのが見て取れた。

「俺は――いえ、私めは、ご覧の通り兵労隊に属する卑しい人間なのでございます、浦嶋様――」稲葉は弱々しく声を絞り出すようにそう言うと、改めて両手と額を床につけ、僕に向かって恭順の姿勢をとった。「この身分では、自分の名義でアゴラに入る事も、選挙に参加することも叶いません」

「やめてくれ、やめろ、お願いだから、そんなことはしないでくれ」僕は飛び退いて、思わず叫び声を上げていた。「何が浦嶋様だ、ふざけるな。そんな君らしくない卑屈な真似はやめてくれ」

 しかし稲葉は頭を上げなかった。惨めな姿のまま、僕に向かって平伏している。僕は堪らなくなって、彼の両肩を掴み、力ずくで上半身を引き起こして前後に揺さ振った。彼の頭が、ぐらぐらと揺れた。

「ちくしょう。僕が君の工作に気付いていながら敢えて黙っていたのは何故だと思う? 僕が君を、ずっと友人だと認めていたからだ。姑息な卑怯者としてではなく、対等な友人として君を認めたかったからなんだ。それなのに、こんな――。おい稲葉、いつもみたいに嫌味ったらしい軽口でも言えよ。こんなのは、君の柄じゃないだろ」

 僕は揺するのを止めた。稲葉は両肩を掴まれたまま、虚ろな目で僕を見た。僕は不意に、晩餐会の後で彼の胸ぐらを掴んだ時のことを思い出した。しかしあの時とは違って、彼は僕から視線をすっと外し、虚ろな目のまま口を開いた。

「俺だって、こんな真似はしたくも無いさ。でもな、大昔から事あるごとにこうやって振る舞ってきたもんで、もうこの身にすっかり染み付いちまっているんだ。染み付いて、どうしても取れない。普段お前と居る時でさえ、うっかりしているとこの癖が出そうになる。なあ、無様だろ?」稲葉は泣きそうな顔をして、自虐するようにそう言った。

 僕は彼の両肩に手を掛けたまま、もう一度揺するべきかを思案した。よりによって稲葉がこんな態度を取っているのはとても見ていられるものではなかった。しかし僕が再び両腕に力を込める前に、稲葉はさっと身を躱して僕に背を向け、後ろを向いたまま声を上げて笑った。

「ああまったく、ひどい野郎だな、お前は。大切な友人を揺す振るやつがどこにいるってんだ。――そうだよ浦嶋総理殿、俺は兵労隊だ。昔親戚の一人が碌でもない事をやらかして、その巻き添えを食らわされたんだ。まだ学生だから労働義務の無い予備隊の身分だが、学校を卒業しちまったらめでたく本隊に昇進ってことになる。お前ら凡人と違って確固たる将来が約束されているんだぜ、羨ましいだろ、おい?」

彼はいつもより少し甲高く笑った。僕は一緒に笑うべきかどうかは迷ったが、それでも少し、ほっとすることが出来た。稲葉はこちらへ振り返ると、声に力を取り戻して言った。

「俺は兵労隊なんて嫌だし、そんな制度を生み出して許容しちまうこの国の狂った部分が大嫌いだ。俺は何としてもそれを変えてしまいたい。そのためにお前を利用したんだ。――この国の制度ではな、任期途中で総理がいなくなってしまった場合、そいつの任期が終わるまでの間はアゴラの投票を経ずにそいつの内輪から後任の総理を選出するんだよ。例によって昔の名残の制度だが、未だに改定されていないんだから有効の筈だ。選挙権を持たないこの俺が総理の座に就くためには、そう言った制度を最大限に利用するしかなかったんだ」

「でも、君はどうして総理を目指すんだ? この国じゃ総理になったとしても、指導者としての特権は与えられない筈だろう?」稲葉が調子を取り戻したことに安堵しつつ、念の為に僕は訊ねた。

「俺は別に権力なんかが欲しいわけじゃない。お前も最初に職務内容の説明で聞いただろ、総理大臣の仕事はこの国の代表として在る事だって。それで十分なんだ。兵労隊の俺が曲がりなりにも一旦この国の最高責任者になれば、それだけで全国民に衝撃を与えることが出来る。俺が旗印となって、諦めちまった兵労隊連中を叩き起こすことが出来るかもしれない。――この国の歪んじまった社会を、内側からぶっ壊せるかもしれないんだ」

 稲葉はそう答えた。いつの間にか、彼の顔の黒い影がほとんど目立たなくなってきている事に、僕は気付いた。

「分かったよ、けど――」稲葉の言い分には既に納得していた。彼の動機も計画も今では把握できていた。しかしそれでもまだ一つ、僕には問わなければならないことがあった。「君はそれがうまくいくと本当に思うかい? この僕がどうなったか、さっき君もまざまざと見ただろう? 自分がやろうとしていることがどれ程難しい事か、失敗したときにどうなるか、君はきちんと分かっているのか?」

 僕なら外国に逃げる道があるが、稲葉の立場では恐らくそんな芸当はできやしない。もし彼が僕の轍を踏めば、その後は破滅に向かうしかないことは明白だった。

「分かってないさ」稲葉は平然とそう言った。「それに、分かりたくもない。そんなことはどうでもいい。どうせ分かっていたとしても気にしないだろうからな。俺はただ、この国をどうにかできる可能性が少しでもあるっていうなら、その可能性に全力で賭けたいんだよ。そのために何を失っても構いやしないさ。現に君ほどの友人を失いかけているくらいだしな。俺はこの国を、自分の生まれ育ったこの国を、どうしても諦めたくは無いんだ」

 薄暗闇の中、灯の僅かな明かりに照らされて、稲葉の眼は煌々と輝いていた。そこにはいつものふざけた調子や、或いは先ほど兵労隊だと告白した時のような惨めさは微塵も無かった。なぜ彼が今までずっと兵労隊の印を隠しおおせていたのか、僕はこの時に理解した。

「――ばかやろう。君は本当に、大ばか野郎だ」

僕は呟くように静かに言った。本当は叫びたいくらいだった。




 空港の出発ロビーは人の流れが絶えない。嵐が過ぎ去った今日、飛行機の離着陸は再開されたばかりで、昨日足止めを受けた人も幾分か流れ込んできているのかも知れなかった。

「――何だよ、『積もるような話』って。積もる話、じゃないのか」

 僕がそう応じると、稲葉はおかしそうに屈託なく笑った。

「いいや、積もるような話、だ。次に会えるのがいつか分からないんだから、今のうちにこれからのことも含めて話しておこうと思ってさ」

「全く君は呑気だな。僕はいま罪人として、命がけで亡命しようとしているのに」

 今朝未明僕は稲葉に強引に連れ出されて空港までやって来たが、家を出てからというものずっと気が気ではなかった。アゴラの弾劾裁判の方はと言うと、今は刑罰の重さで意見が分かれているものの、僕が有罪であることは既に確定してしまっている。空港にいることを通報されれば逮捕される恐れがあった。あるいは僕に反感を持つ人達から私刑を食らうことも考えられた。僕はそれを恐れて、ずっと周りの人をさり気なく警戒していたが、幸い僕達に注意を向けている者は皆無に見えた。みんな脇目も振らずに真っ直ぐ歩いている――よくよく考えれば不自然なくらい、真っ直ぐに前だけを見て。

「総理が見つかる心配はございません」補佐官さんが口を開いた。「昨夜稲葉氏から保護の要請を受けまして、国家直属の――つまり、実質は私の指揮下にあるわけですが――兵労隊員を四百名ほど、民間人に偽装した上で出動させてあります。その者達が今は一度に五十人ずつ、ずっと交代であなた方の周りを通行人に扮して廻っておりますので、総理の姿が一般人の目に触れることはありません」

稲葉がひゅうっと口笛を吹くと、通行人の内で一番近くにいた者たちがほんの一瞬僕達に向かってにやりと笑みを見せ、その外側の者はみな何事も無かったかのように平然と歩いていった。ついでにその外側の者たちを目で追ってみると、時おり二三人で横一列になって展開し、こちらに向かってくる一般人の進路をそれとなく邪魔して逸らしているのが見て取れた。

「そんなまさか。一体いつからこんなことをを?」

「あなた方が自宅を出た時からです。さすがに空港までの道中はこちらで用意したタクシーに乗って頂きましたが、空港内に入ってからはずっとこの五十人体制です。ちなみに総理が搭乗される便の方も、こちらで既に抑えてありますので」

稲葉がにやっと笑った。「俺は何もここまで大掛かりな保護を頼んだ覚えは無いぜ。職権乱用もここまで来ると見事なもんだ」

「いえ、総理の身の安全を確保するためですので。私の職務としては、正当な範囲です」稲葉の皮肉に対し、補佐官さんは顔色一つ変えずに返事をした。

 二人は事もなげに話していたが、僕は複雑な心境で周囲の兵労隊員達を眺めた。彼らは今まで街中で見かけた兵労隊とは違い、一見しただけではそれと分からず、また身のこなしにもどこか洗練されたものが垣間見える。国家直属と言うだけあって精鋭揃いらしく頼もしく思えたが、しかし議会や議院といった機関の無いこの国にもこのような公権力の組織が存在するのは不思議な気がした。――一応半年近くに渡って総理を務めた僕が、去り際になってもまだ自国の組織を把握していないとは何という事だろう。

「あの、補佐官さんって、一体何なのですか」

 考えるうちに僕は一つの疑問を口にしていた。補佐官さんが怪訝そうにこちらを見たが、構わず僕は彼女に向かって追及を続けた。

「そう言えば、晩餐会の後片付けの時に兵労隊を指揮していたのもあなたですよね。――いや、晩餐会の調整やアゴラの管理も、全て補佐官さん一人の管轄下にあるんでしょう? どうしてあなたはそのような仕事をすることになったんです?」

「総理、以前にも申し上げました通り、我が四衛等里家は代々この役職に就くものであって――」

「いや、僕はそんな事を聞きたいんじゃないんです。何でこの時代に、世襲制なんかがあるんです? なぜあなたが、本来ならまだ学生でもおかしくない年齢のあなたが一身に仕事を引き受けることになったんですか? ――そもそも『総理大臣附補佐官』って、それに『四衛等里家』って、一体何なんです?」

 補佐官さんと稲葉が顔を見合わせた。二人とも表情の中にそれぞれ困惑が表れていた。ややあって、補佐官さんがゆっくりと口を開きかけたが、すぐに稲葉がそれを遮って話し始めた。

「その件については俺の方から話すよ。……なあ浦嶋、総理大臣附補佐官ってのは、いや、四衛等里家ってもの自体が、兵労隊の原型みたいなもんなんだ」

 僕は確認の為に補佐官さんの方をちらりと見てみたが、彼女が異を唱える様子は無かった。――ほんの好奇心とは言え、思いつきで尋ねてしまった事を後悔した。

 稲葉はその後、彼にしては珍しく慎重に言葉を選びながら説明してくれた。四衛等里家がかつてのこの国で絶大な発言力を持つ政治家の家系だったこと、そのためにこの国が今の体制に移行した際には周囲から真っ先に目の敵にされたこと、そしてついには末代まで国家の為に奉仕させることがアゴラで提案され、余計な事に関わりたくない人々は誰も異を唱えず、結局そのままその提案が可決されてしまったこと、その歴史も人々からほぼ忘れられつつ現在に至り、当主であった父が過労で倒れた為に今の補佐官さんは碌に学校にも行けないまま務めを果たしていること。それら全てを稲葉が話し終えたとき、補佐官さんはただ一度無機質に頷いて、稲葉の説明に嘘や誤りが無い事を承認しただけだった。

僕は心から申し訳なく思って言った。「その、軽々しく訊いてしまってごめんなさい。……つらい、ですよね?」

「いいえ、私が生まれた時には既にこの仕組みは出来上がっていましたので。この状況に対してつらいとか、悲しいなどといった感情は、元からあまり湧かないものでした。私はただ、自分に与えられた職務を忠実にこなすのみです」

 彼女はいつも通りの口調でそう言い、それが僕を余計に悲しくさせた。稲葉が言っていた通り、人というものはどんなに生活がつらくても順応してしまうものらしい。補佐官さんもそうなってしまった一人だったようだ。僕は周囲を通り過ぎていく兵労隊を眺めながら、重苦しい気分に沈んだ。

「でもよ、そう言う割には――」突然思い出したように、稲葉が素っ頓狂な声を上げた。「補佐官どのよ、あんたも私情に基づいて結構なことをやらかしてくれたじゃないか。昨夕のあの停電、あれはあんたがお得意の圧力を使って、町単位で送電を停止させたからだろ? おかげで俺は台風の中を走る羽目になったんだぜ」

補佐官さんは一瞬の動揺を隠しきれていなかった。それを僕が見逃さなかったことを悟ると、彼女は開き直ったように言った。「浦嶋総理の法案提出を止めるためには、提出される前に総理の通信手段を断つしかなかったのです。電力供給の停止が僅かばかり間に合わず、結果としては失敗に終わりましたが、私の権限で出来る範囲ではそれが最善の方法でした」

 ――補佐官としての職務内容にアゴラの管理が含まれている以上、彼女がアゴラの正常な動作を妨害することは職務と反する。それで補佐官さんは予め電力の供給網を掌握しておいて、アゴラに僕から何かが転送されてきた時には自動で僕の方の電気が止められるように仕掛けを作っていたのだろう。その方法なら、確かに補佐官としての道義には反しない筈だった。

「でも、何で法案の提出を止めようとしたんです? それも、町一つ停電させてまで」

「お前はちょっとは感謝してやれ」僕の質問に、稲葉が横槍を入れた。「補佐官どのは途中から俺の計画に勘付いていたんだよ。俺がお前を唆して、総理になり替わろうとしてるって事にな。それで補佐官どのはお前の身を案じて、お前が厄介事に首を突っ込むのだけは阻止しようとしていたんだ。だからお前は感謝してやれ。……まあ、幾らなんでもさすがに、町一つ停電させるのは滅茶苦茶だと思うがな」

 僕は補佐官さんの、無機的で感情の無い様に見える目を覗き込んだ。補佐官さんは微かに目を逸らし、それからこくりと、軽く頷いた。

「稲葉氏の言った事で大よそ合っています。私にとって浦嶋総理の愚直さは見るに堪えないものでした。だから、何としてでも、あなたが自ら破滅に向かう事だけは止めたかったのです。――ですがついでに申し上げますと、稲葉氏があの台風の中を走る羽目になったことに関しては個人的な恨みから痛快に感じた、と白状しなければなりません」

 補佐官さんは若干早口で言葉を付け足し、そして笑った。幽かで、どこかぎこちなさの残る笑い方だったが、それでも確かに彼女は笑った。僕と稲葉は驚いて目を丸くした。しかしすぐに稲葉も、「そりゃあひどいぜ。恥をかかせたのは悪かったが、まさか補佐官権限まで使って復讐されるなんてな」と言って笑い出した。つい一週間前にはあれ程反目し合っていたというのに、今となっては二人とも済んだ事として全て水に流したらしく、取り留めのない事で笑い合っている。それでやっと僕もほっとして、二人につられるようにして微笑むことが出来た。そうして三人で一緒に笑いながら、僕は空想した。この三人がもしそれぞれほんの少しずつ違った境遇にあってくれたなら、これまでに何のわだかまりを経ることも無く、これからもずっと子供みたいに笑っていられただろうに、なんてことを思い描いた。

 やがて、補佐官さんが時計を確認し、言った。「そろそろ、出発のお時間です」

 彼女は鞄から航空券を取り出すと、それを僕に手渡した。

「必要な手続きは全てこちらで処理しておきました。行先はゴン国王の国となります。あなたの身柄の受け入れについては国王から既に承認を頂いていますし、我が国との関係が薄い分、亡命先として都合が良いかと思われます」

 ゴン国王と補佐官さんに感謝しつつ、僕は券を受け取った。しかし、懸念が、一つある。「ありがとうございます。ですがあの、一応念のため確認しますけど、罪人である僕の逃亡を手助けしてしまって、もしかして補佐官さんまで罪に問われたりはしないですよね?」

「その点に関しましてはどうか御心配なく。私も兵労隊の者達も、元々罪を背負わされている様なものですから。この程度の事、特に今さら問題にはなり得ません」彼女は微かに、皮肉混じりの笑みを浮かべて答えた。

横から稲葉が心配げに言った。「悪いが浦嶋、俺も補佐官どのもこの国から出ることはできない。だからここから先は支えてやれないが、お前はどうだ? 一人で大丈夫か?」

「ああ、大丈夫、心配ないよ」僕は答えた。「あちらに着いたら、時期を見て父さんのいる合衆国に渡る。僕の方はそれで全部だ。――だけど、君はこれからが山場だろう。君の方こそ、大丈夫か?」

「当ったり前だ。俺はこの国を作り直して見せる。絶対にな。そしたらお前の名誉も回復してやれるさ。だから、いつか帰国しろよ。故郷へ。必ず帰って来い」

 稲葉が胸を張って答え、僕は安心して頷いた。それから顔を上げ、雑多な物を詰め込んだ旅行用鞄を掴むと、身を翻して僕は歩き出した。僕の背後では補佐官さんがさっと片手を上げて指示を出し、それに従って通行人に扮した兵労隊の一隊が進路を変え、僕を完璧に覆い隠すように歩調を合わせてくれた。傍から見れば珍妙な団体旅行客に見えたかもしれないが、その隊列の中にまさか渦中の総理大臣が潜んでいるとは誰も思いもしなかっただろう。

感嘆した稲葉の声が聞こえた。「大したもんだなあ、こんな人海戦術を使えるのは」

補佐官さんの落ち着いた声が聞こえた。「私とて、通常ならこれほど大規模な人員を動かすことはまず有り得ません。それでも今回これほどの人数を動員できたのは、手の空いていた者たちが皆この任務に自ら志願してきた為です」

 どこからともなくひょいひょいと兵労隊が現れ、彼らを加えて列はどんどん大きくなっていく。列はいつしか巨大な人の流れとなって、その手厚い守りの中心点に僕がいた。すぐ傍らには稲葉と補佐官さんが居る。僕は頭を上げ、背筋を伸ばして、臆することなく歩み続けた。

 やがて出国ゲートの前まで辿り着き、僕達の一団は足を止めた。ここから先は許可のある者しか通れない。付き添ってくれていた兵労隊員たちが一斉に左右に分かれ、気を付けの姿勢をとって道を開けた。警備に当たっていた係りの者が慌てた様子で駆け寄って来たが、僕を取り巻く大勢の兵労隊員たちを見て考えを改めたらしく、僕の持っていた券の確認だけ手早く済ませるとすぐに引き下がった。結局、出国に際しての危険はそれっきりだった。僕は再び歩き出した。左右に居並んだ兵労隊員たちの間を真っ直ぐに通り抜け、ゲートをくぐり、そして体全部で回れ右をすると、深々と、深々と頭を下げてお辞儀した。

「ありがとう。本当にありがとう。それじゃあ、……――少し出掛けてきます」

 ゲートの向こう側、兵労隊の皆が整然と並んで直立不動の姿勢をとっている中で、こちらに向かって稲葉が手を振り、補佐官さんが小さく会釈したのが見えた。僕がもう一度頭を下げ、背中を向けて歩き出すと、居並んでいた兵労隊員たちは散開し、人混みに紛れ込んで消えていった。


 そうして僕はこの国を発った。上昇していく機体の中で、座席にもたれ掛かりながら、僕はこの半年の間に自分の身に起こった事を反芻していた。しかし同時に、煩悶もしていた。この国はおかしなところばかりだったが、それに劣らず稲葉も滅茶苦茶なやつだ。形として僕は彼に国を任せたことになるが、それで本当に良かったのだろうか。他に仕方のない事だったとはいえ、全てを丸投げして一人逃げ出して来たような、そんな罪悪感が無いでもなかった。とにかく今は、国中の人々にとっても、彼自身にとっても、このバトンタッチが仇とならないように祈るしかない。

 一度機体に軽い振動が起こり、そして体中に掛かっていた重苦しい圧力が幾らか消えた。機は上昇を止めて水平飛行に移ったらしい。幼い頃から飛行機は乗り慣れているが、この時ばかりは僕も身を乗り出して窓の外の景色を見下ろした。よく晴れ渡っているが、今の高度ではもう人も車も見分けがつかない。それでも、山が見え、河が見え、延々と伸びる海岸線が見えた。北の方、高地では木々が鮮やかに紅葉をし出している。南に目を転ずると、海が青く、平らで、どこまでも広かった。それでもそれらの自然の景色の合間には、銀と灰色の塊が視認できる。この国の人が長い時間をかけて作り上げた、巨大な都市の姿である。

 窓から目を離し、僕は思い悩むのをやめた。何はともあれ、この国は見事に発展してきたのだ。稲葉は僕よりもはるかに巧みに総理大臣の職を務めるだろう。それに彼には優秀な補佐官さんが付いてくれている。彼女がいれば、この国が傾くことは決して無い。二人とも他国の政治家と比べればあまりにも若いが、それでもあの二人ならうまくやってくれることは疑いようが無かった。

 僕は座席に深くもたれ掛かり、ゆっくりと目を閉じた。心地の良い眠りに落ちるまで、それほど時間は掛からなかった。





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