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どこかで虫が鳴いている。といっても、それは今まで聞き慣れたミンミンという蝉の鳴き声ではなく、かなかなかな……というもの悲しい鳴き方だった。ここ数日日暮れ時によく耳にするようになったが、あれは何の虫だろう。
僕は席を立ち、窓を開けて空を見上げた。いくらか日が落ちるのが早くなったせいで、外は既に薄暗く陰り始めており、その一方で、向かいにある第一棟は夕日を受けて黄昏の中に映えていた。西の空はおそらく夕焼けに染まっていることだろう。この秋の夕暮れはいくら眺めても見飽きないものだ――それも居残りを命じられた教室から、息抜きついでに見るのであればなおさらだ。
後ろで不意にがらがらと教室の戸の開く音がした。振り返ると、学校の近くにあるスーパーマーケットの袋を提げた稲葉が入ってくるところだった。
「よう。差し入れだ。どうだ、ほんの少しでも進んだか?」そう言いながら彼は僕の机に菓子パンを一つ置こうとしたが、その机は既に各教科の問題集やプリントの束によって占拠されていたため、パンは隣の席の机に置かれた。「――夏休みの宿題は?」
席に戻りながら僕は答えた。「いや、極めて絶望的だよ。だいたい、一カ月余りかけて完成させるようなものが、ほんの一週間で出来るわけないよ」
僕は恨めしげに自分の机の上を見やった。意外に思われるかもしれないが、この国では夏休みという一種の休暇にも大量の宿題を課せられる。それで休み前に先生方からは課題を出すと散々言われていたものの、僕は冗談に違いないと思い込み、今日まで気にも留めていなかった。するとこの有様で、僕は二学期初日から居残りを命じられ、一週間以内に全部の宿題を提出するように求められたわけだ。
「まあ仕方ない部分もあるさ。夏休みの間、お前は一人で戦争なんかやっていたぐらいだからな。しかし大統領相手に一人で挑んで結局勝っちまったほどのやつが、学校の宿題ごときを忘れて先生に怒られるってのは、なかなか滑稽な話だぜ」
稲葉はそう言って笑ったが、僕は笑わなかった。宿題とはまた違った理由のせいで、笑いたい気分にはなれなかった。それに気付いた稲葉は眉をひそめた。
「おい、笑っとけよ。俺達は勝ったんだ。全てはその賜物さ。勝ったって事を発表した途端、国内でも風向きが一気に変わって、お前を絶賛する意見でアゴラが埋め尽くされたんだからな。見てみろよ、これ」稲葉はいつもの小型ノートパソコンを鞄から出すと、僕の宿題の山の上に置いた。画面にはアゴラの掲示板が表示され、人々から寄せられた発言が一望できた。
:どうやったかは知らないが、合衆国相手に勝てるとは。総理のこれからに期待
:やっべえ、浦嶋サン最高だわ。ほら見ろ、こいつに投票して良かっただろ?
:浦嶋公は戦略のカリスマだ。彼に従っておけば、必ずこの国を発展させてくれる
「上々の評判じゃないか。お前はもう国民的英雄だぜ。支持率は今じゃ九割九分を超えてるって話だ。おかげでお前が政治犯として死刑を求刑されてたことも、皆けろりと忘れちまった。いや、もししつこく覚えている奴がいたとしても、これだけの人気があれば黙らざるを得ないさ。――分かるか? 今お前が宿題ごときで悩んでいられるのも、全部勝ったからこそだ」
「そう、かな」僕は気の抜けた相槌を打った。アゴラでの熱狂ぶりは僕自身も既に知っていることだった。
「そうさ。敗れた合衆国を見てみろ。天国と地獄だぜ。あっちは今いろんな国から嘴を突っ込まれて、国中がひっでえ荒れようなんだ。それにあの大統領の野郎も、負けたからって能無し扱いされちまって、先日とうとう辞任に追い込まれたらしい。まああれだけ殴られた上に銃撃まで受けて、それでもしぶとく生きてやがったってだけで、十分過ぎるほどの幸運だと思うがな」
僕は心の内で深くため息を吐いた。大統領が瀕死のまま部下に搬送されて帰国したのも既に知っていたが、その地位から引きずり落ろされたと聞いたのは初めてだった。あの戦争において、結局最後まで大統領が自ら降伏を申し出ることは無かった。その彼が自国では敗戦の将として貶められ、その一方であっさり降伏しようとした僕が英雄視されているとは、何と皮肉なことだろう。大統領に対してどことなく後ろめたいような、申し訳ないような気がした。
「――そう言えばさ、ゴン国王の方はどうなったの? 重体のまま帰国したはずだけど?」
話題を変えようとして僕は訊いた。話題を変えるため、といっても、撃たれた彼の容体は実際気がかりになっていた事だった。
しかし、稲葉はパソコンを畳む片手間に、不思議そうな顔をして訊き返した。「誰だ、そいつ?」
僕はこの時になって初めて、稲葉とゴン国王の間に何の面識も無かったことに気が付いた。ゴン国王に対して親近感を抱いていたために、僕の友人である稲葉と国王は当然知り合っているものだろうと自然の内に思い込んでいた様だ。それでも、当時の状況を思い出して察してくれたのか、稲葉はあっと気付いたような顔をした。
「ああ、大統領に撃たれた後、お前に介抱されていたあの若者の事か。お前の知り合いだったのか? 悪いがどうなったかは俺も知らない、と言うかあまり興味も無いな。何せあんなちっぽけな国の指導者なんて――」
「そんな言い方は無いだろ。彼は僕の為に、真っ先に立ち上がってくれたんだぞ」
「そうなのか? ふうん、そりゃ悪かった。だがまあ、俺の覚えている限りじゃあ、弾は急所を避けて抜けていたはずだぜ。死ぬことは無いと思うが、ただ――」ふと、稲葉の顔が曇った。
「……ただ? 何?」
「あの倒れ方と出血から見るに、何らかの重要な器官が損傷した可能性は否定できない。死ぬことは無いだろうが、それでもいくらか後遺症は残るかも知れないな。――しっかしまあ、参戦国があれだけいる大戦争をやっておいて、そのくせ死人が一人たりとも出ていないんだから、本当に平和なもんだよな、現代式の戦争は」
いつも通りの楽天的な態度の稲葉とは対照的に、僕はより一層の虚ろな気分を味わう事になった。もしゴン国王が立ち上がらずにいれば彼は撃たれずに済んでいただろう。本来なら彼は無関係で、撃たれるとすれば僕の方だった筈なのに。それなのに、彼は僕に加勢しようとして、結局僕の身代わりに酷い傷を負ってしまった。
「そのゴン国王ってのが負傷したのを、お前は気に病んでいるのか?」稲葉は僕の心情を見透かして言った。「自分のせいでそのお友達が巻き込まれたとでも? なら、それは無駄な気苦労だろうよ。あれは戦争だったんだ。それに、あいつはあくまで自分の意思で動いたんだ。あの状況じゃ大統領の優位はほぼ無くなっていたし、となれば便乗して参戦するのは戦略的判断として間違ってない。実際、あの小国でさえ戦勝国になれたわけだしな」
「おい、やめてくれよ。彼はそんな小賢しい考え方をする人じゃない。多分、違う」
「そうかい、分かったよ。でも、お前も大統領の言った事を聞いていただろ、為政者ってのは自国を栄えさせるためだけのものだって。ゴン国王の行動が国益の為だったにしろお前を助ける為だったにしろ、結果としちゃ自国のために大いに貢献したわけだ。それなら、あいつがどれ程の怪我を負っていたとしても、国民に誇れる負傷だぜ、充分に報われているんじゃないか」
本当にそうだろうか。稲葉の気楽そうな顔を見ながら僕は思った。それなら何故、僕はこうして無傷のまま、アゴラで喝采を浴び、宿題なんかで悩んでいられるのだろう。確かに勝ったのは僕の側だが、偶然にもそうなったというだけで、僕自身はただ戦場で突っ立ていただけだ。自国の為に尽くした大統領が蹴落とされ、矢面に立ったゴン国王は酷い怪我を負わされたというのに、この僕は何一つ傷つく事無く、こうして身の丈に合わない称賛を浴びているなんて。四月に就任して以来、久々に心底今の地位から退きたくなったが、この国のシステム上それが叶わないことは直ぐに思い出された。――この件で考え悩むのは、もう止めておこう。
「ところで、ずっと気になっていたんだけど」僕は再び、話題を変えるために適当な事を尋ねることにした。ずっと気になっていた、とは言ったが、実は今度の質問は内心どうでも良いと思っているものだった。「――あの戦争の途中、ゴン国王や他の指導者たちが大統領に宣戦布告するときに、みんな紙を宙にばら撒いたよね。あれって、何だったんだろうね?」
僕は何の気無しに訊いただけで、特にまともな答えが得られるとは期待していなかった。しかし、訊かれた稲葉の方は一瞬表情が強張った。
「何で気になるんだ、そんなこと」
「いや、別に特に知りたいわけでもないんだけどね。みんなが紙を放り投げながら突撃してくる様が何か印象的だったからさ、あの紙ってどんな意味が有ったのかなって」
「そうか。……んじゃ、そうだな、あれかな。この国では観客が試合の最中にいろんな物を飛ばすんだ。例えばジェット風船とか座布団とかだが、とにかく観客席から派手に飛ばす。ぶん投げる。そういった物と同じ感覚で、あの連中も手近にあった書類を放り投げていたんじゃないか。多分、それだ」
稲葉の返事はやけに歯切れが悪くて、彼らしくない要領を得ない答えだった。いや、彼の答えは大抵要領を得ないものだが、それにしても今回はいつもと違い、明らかにおかしい。第一この国の習慣がどうして各国から来た指導者たちに影響したというのだろう。それに、稲葉は知らないことについては率直に知らないと言える奴で、こうして無理に誤魔化してまで答えるというのはやはり彼らしくない。僕は気になったが、教室の戸が再びがらがらと音を立てて開いたので、質問の機会はお預けとなった。
「お久しぶりです、総理。本日は例の草案の件で参りました。やはり以前、電話で申し上げたように――」いつも通りのスーツ姿で教室に入って来た補佐官さんは、若干早口でそう言いながらも、僕の隣に稲葉がいるのに気付いてはっとして言葉を切った。
「おや、会話の途中でしたか。横から失礼致しました」
「正確には居残り罰の途中ってとこだな、浦嶋は」僕ではなく、稲葉が答えた。「俺もただ横から雑談を吹っかけていただけだ。別に大した話をしていた訳でもないから、気にせずあんたの用件を言ってくれ」
「よろしいのですか?」補佐官さんが確認した。
「ああ、結構だ」稲葉が答えた。
「そうですか。では遠慮なく」僕がまだ何も言わないでいる内に、補佐官さんはそう言って話を始めてしまった。彼女はこちらに向き直った。「浦嶋総理、先月私の方に提出して頂いた草案の件について、よもや考えを改められたりはしていませんか?」
唐突な話題に若干戸惑いつつも、僕は自分が夏休み中に草案を添削してもらっていた事をすぐに思い出した。一夜漬けで書き上げた、兵労隊制度の廃止案だ。「ええ、特に、別に何も無いですけど。考えを改める気はないし、それに約束した通り、アゴラには提出しないつもりですし」
「それなら、良かったです。――えっと、本日の用件は以上です。これだけです」
「これだけ、ですか?」
僕は少々面食らった。件の草案と言えば、一か月近く前、戦争や晩餐会よりも先に書いた物で、僕はついさっきまで半ば忘れていたほどだ。あれは補佐官さん自身が提出すべきでないと結論付け、僕もそれに従う事を渋々受諾していたが、彼女はこれを確認する為だけにわざわざ学校まで来たのだろうか。
しかし、僕の好奇心はその事では無く、少し前の稲葉との会話の方に傾いていた。もし稲葉が本当に知らない事だとしても、本職の補佐官さんなら何か知っている可能性が高い。踵を返して立ち去ろうとしていた補佐官さんに向かって、僕は言った。
「あの、少し待って下さい。丁度こっちも訊きたいことがあったんです」
「はい? 何でしょう?」彼女はくるりと振り返った。
「この前の戦争のとき、各国の指導者たちが合衆国に宣戦布告する際に、みんな紙を放り投げてましたよね。あれって、奇妙な光景に見えたんですけど、国際社会での慣習か何かなんですか? さっきは丁度それについて稲葉と話していたんです」
僕がそう尋ねると、補佐官さんは訝しむような視線を僕達に向けた。
「それはどういう事です? 浦嶋総理はあの件に関知していなかった、という事ですか?」
彼女は暗に、総理が知っていて然るべきだ、という言い方をしていた。何かとても厄介な事になりそうな気がする。しかし、今さら言葉を取り消すこともできやしない。僕は彼女に、自分が何も知らないという事を伝えようとした。ところが、僕が口を開きかけた途端、稲葉が急に大声を上げてそれを遮った。
「そんな訳無いだろう、なあ。浦嶋は少し疲れちまっておかしくなってるんだ。何せこいつは、こんな大量の宿題をさせられているんだからな。あんな昔の記憶が曖昧になっちまっても当然さ。そんなことよりも、ああそうだ、総理大臣お付きの補佐官どの――」
稲葉は僕の机からやりかけの問題集をさっと取り上げると、それを補佐官さんの前に突き付けた。
「いいところに来てくれたな。この宿題は浦嶋総理にはひどい負担になっているんだぜ。これじゃ公務に支障をきたしかねないしな、代わりに宿題を解いてやってくれよ。これも、あんたの職務の内に入るだろ?」
大げさな、芝居がかった抑揚を付けてそう言った稲葉に対して、補佐官さんはいささか冷ややかな視線を浴びせただけだった。だがそれでも、稲葉は一向に気にしない様子で続けた。
「名家出身の優秀な補佐官どのなら、この程度の数学の問題なんざあっさり解けるだろ。やってみろよ、四衛等里補佐官どの」
僕は唖然としながら稲葉を見た。先刻僕の質問に的外れな答えをしたときと同じく、いつもの彼らしくない態度だった。稲葉は明らかに例の紙について何か知っている。そしてそれについて僕に知られると都合の悪い事がある為に、必死に話を逸らそうとしているのではないか。僕はそう確信したが、事態は意外な方向に転がった。補佐官さんは目の前に突き付けられた問題集を手に取ると、僕の隣の席に着き、胸ポケットからペンを取り出してさらさらと淀むことなく問題を解き始めたのだ。記された文字や数式は手早く書き込まれたにも拘らず、見事なまでに僕の筆跡を再現していた。
「いや、あの、ちょっと、やめて下さい。こんな事、あなたの職務なんかじゃありません。やめて下さい」僕がはっと我に返って声を上げたとき、補佐官さんは既に二ページあまりを解き進めていた。
「そうですか、失礼致しました。ですがこの程度でしたら、数分のお時間さえ下さればそれで仕上げて見せますが」
補佐官さんは手を止め、僕にというよりは稲葉に対して、微かな侮蔑を込めつつそう言った。当の稲葉はと言うと、補佐官さんが次から次へと流れるように問題を解いてしまったことで暫く呆気に取られていたようだったが、すぐに気を取り直したらしく、僕の机に積まれた宿題の山を漁り出した。
「じゃあこっちの問題集はどうだ? ……――こんちくしょう、これは? ……――それじゃあ、この忌々しいくらいに分厚いプリント集ならどうだ?」
稲葉は次から次へと補佐官さんの前に僕の宿題を突き付けていった。しかし数学のみならず国語・歴史・政経・外国語といった教科の宿題でさえ、補佐官さんにとっては速記の作業と何ら変わらないらしい。手元に新しい問題集が置かれるや否や、補佐官はすぐにすらすらと解き始め、稲葉は息つく間もなく次の問題集を引っ張り出さなければならなかった。それはそうだろう、と僕は冷静に思った。補佐官さんは補佐官さんなのだから、このような学校の宿題なんてもの、恐らく彼女にとっては取るに足りないに違いない――。
僕はしばらくの間、余裕綽々で平然と解答を書き込む補佐官さんと、必死になって問題集を突き付ける稲葉とを交互に眺めた。傍らでは次々と引っこ抜かれ、手付かずの宿題の山が低くなっていく。二人のその応酬の間に弾みで何かが当たったのか、ずっと向こう隣の机に置きっ放しになっていた差し入れの菓子パンが人知れず床に落ちていた。
「――なら、これでどうだ?」
二人ともそろそろいい加減にやめてくれ、と僕が言おうとしたとき、稲葉はすっと一冊の薄い問題集を俎上に載せた。いくらやっても時間の無駄なのに、と僕は思ったが、今度はそうはならなかった。最初のページの一番上、問題は化学反応式の基礎的な穴埋めに過ぎなかったのに、そこで補佐官さんの手がぴたりと止まった。彼女の纏った雰囲気から、それまでの余裕がふつりと消えていた。
稲葉が淡々と、感情の無い声で言った。「どうしたんだよ、補佐官どの? あんたは化学は習ってなかったのか? それじゃあ代わりに、物理や生物でも良いけどな?」
補佐官さんの手元から化学の問題集が取り除かれ、代わりに物理の、次いで生物の問題集が置かれた。しかし彼女はどちらも手を付けようとせず、やはり問題を前にして固まるだけだった。問題が難しくて解けない、のではなく、その教科の知識や概念が全く無くて問題の理解すらできない、といった様子に見えた。不思議なことに、かつて補佐官さんが受けた教育では理科科目だけはすっぽりと抜け落ちていたらしい。英才教育を受けていた筈なのに、学校のカリキュラムに含まれている教科を習っていないなんてあり得るのだろうか? しかし明らかに、それまでずっと完璧に振る舞っていた補佐官さんは今ではすっかり顔色を変えて、少し顔を俯かせて視線を行ったり来たりさせていた。
その光景は僕に衝撃を与えた。いつも冷静で感情を表に出さない補佐官さんが、たかが学校の宿題が分からないが為にすっかり狼狽しきっている。それはあまりにも予想外の事で、何か彼女にとって人に見られたくない一面を覗いてしまった気がして、僕は何と声を掛けたらいいか分からなくなった。補佐官さんは唇を噛んだまま何も言わない。稲葉はその補佐官さんをじっと見下ろしているだけで、何も言おうともしない。気まずい沈黙が三人の間に降りてきた。居たたまれない時間がしばらく過ぎた。
突然補佐官さんがさっと顔を背け、椅子を蹴飛ばすようにして立ち上がった。そして間髪入れずに「すみません、失礼します」とだけ、普段の彼女からは想像もつかない上ずった声で言い残すと、手で顔を伏せながら教室から駆け出して行ってしまった。あまりの事で、呼び止める間もなかった。
僕はしばらくの間、開けっ放しになった教室のドアを眺めていた。今しがた目の前で起こったことが信じられなかった。頭の中を整理するのに少しの時間を要した。しかし、我に返るとすぐ、僕は稲葉に詰め寄った。
「何であんな意地の悪いことをしたんだよ? ひどいじゃないか」
「俺だってこうなるとは思ってなかったよ。まさかあの有能そうな補佐官どのが、実は理系科目がからきしダメだったなんてな」彼は少しも悪びれなかった。
「そこが問題なんじゃ無い。問題は君のやり方だ。元はと言えば君がただ、話を逸らしたかっただけなんだろう?」
「んん? 俺の記憶にゃ無いな。何のことだったかな?」そうとぼけてみせながらも、彼の顔が僅かに引き攣っていたのを、僕は見逃さなかった。
「君が忘れたって言うのなら、何度でも言って聞かせてやる。各国の首脳達が放り投げていた紙について、君は何か僕に隠したい事があるから、ああやって補佐官さんに恥をかかせて追い払ったんだ。違うか? 頼むから、稲葉、嘘だけは吐かないでくれよ」
徹底的に追及するつもりだった。その僕の表情を見て、稲葉もしらを切ることを諦めざるを得なかったらしい。彼はちっと舌打ちしてから教室の出口の方へ歩いていき、開けっ放しの戸から頭だけを出して廊下に誰もいないことを確認すると、静かに戸を閉めた。それから元の場所まで戻って来て、ついでに落ちていた菓子パンを拾い上げて僕の机の宿題の上に乗せ、そしてやっと彼は観念したように話し出した。
「――ああ。まあ、その通りだ。せっかく哀れな補佐官殿を追い詰めてまではぐらかそうとしたのに、肝心のお前に勘付かれたのなら仕方ない。あの人には悪い事をしたと思っているよ。こうなったら正直に話してやる。あの紙は俺がこの手で印刷して、戦争の最中に連中に各二枚ずつ配っておいた物だ。一枚は合衆国に対する宣戦布告で、もう一枚はこの国とその国との軍事同盟の外交文書になっているんだ」
そう言われても、僕にはまだよく呑み込めなかった。「それで?」
「その二枚は他の国を乱入させるのに必要だったんだ。なにせ他の国から見れば、俺達と合衆国の間の戦争なんて完全に他所事だからな、何の口実も無く首を突っ込むことなんて出来ないんだよ。だから、こっちで手っ取り早く参戦の大義名分を与えてやるために、間に合わせの軍事同盟を結ぶことにしたんだ」
「間に合わせの軍事同盟を、結んだ?」ようやく、なぜ稲葉が僕に隠したがっていたかが掴めてきた。「僕はそんな事を頼んだ覚えは無いぞ。それにアゴラで審議を採る暇も無かったはずだ。まさか、君は勝手に他の国と同盟を組んだのか? それも何十カ国もの国を相手に?」
稲葉はいつもの彼らしい、嫌味なにやにや笑いを浮かべ始めた。「人聞きの悪いことを言ってくれるな。俺はただ、『我が国が危うくなったら長年のよしみで助けてくれ』って文面の紙を配っただけだ。まあ実際にはもうちょっと難しい言葉を使って、解釈に幅を持たせておいたんだが。とにかく、俺はその文書を各国の連中に配った。進んで合衆国に喧嘩を売ろうって奴はいなかったが、それでも皆一応受け取ってくれたよ」
稲葉は得意げに語りつつも、笑い出したいのを堪えている様子だった。
「そしたら何と幸運なことに、戦争中に大統領の絶対的優位が崩れ去ったんだよな。で、各国の指導者たちはおこぼれにあずかろうってことで、俺が配った紙を勝手に口実として利用して戦場に殴り込んできたって訳だ。とんだ番狂わせだが、おかげでまさかの大勝利だぜ。ざまあ見やがれってんだ。……ああ、連中が紙を放り投げた事に特に大した意味は無かったと思うぜ。昂奮し過ぎて投げたんだろうな。あの手の物は一旦公の場に出しさえすれば、それで十分なんだからな」ふと思い出したように最後を付け加えると、稲葉はとうとう腹を抱えて笑い出した。二人しかいない教室の中、一人分の笑い声はよく響いた。
僕は机の上に音をたてて両手をつき、それから大声で怒鳴った。「それじゃあ結局、全部君の独断でやったということじゃないか?」
稲葉の笑い顔がさっと引き攣った。ついでに不安定な山の上に乗せられていた菓子パンが数冊の冊子とともに音を立てて再び床に滑り落ちたが、そんなことを気にしている場合ではない。僕は怒鳴り続けた。
「そんな滅茶苦茶な方法で僕達が戦争に勝っていたなんて。――しかも、ひょっとして君は補佐官さんを騙していたんじゃないか? 僕の了解を得ていると嘘を言って、彼女を欺いて外交文書の作成を手伝わせていたんじゃないのか。そう考えると全て合点がいく。それじゃ君は、そうやって彼女を利用しておいた挙句、さっきは都合が悪いからってあんな風に追い払ったのか。何て事だよ。――おい稲葉、君はどう考えてもやり過ぎだし、一人で暴走し過ぎだ。元を辿ればあの戦争だって君の行動が一番の原因となったんじゃないか。君のせいで、一体何人が酷い目に遭ったと思っているんだ」
そこまで言い切ってから、僕は自分が熱くなっていることに気が付いた。慌てて口を噤んだが、口から出た言葉はもう戻せない。ただ、不用意に辛辣な言い方をしたことだけはいたく後悔していたが、自分の言った事の趣旨を取り消すつもりは無かった。傷付いた人達を思えば、寧ろここで取り消す訳にはいかないのだ。
僕は祈るような気持ちで、稲葉を睨むようにして彼の答えを待った。彼は僕が怒鳴り出してからずっと黙ったままで、僕が怒鳴り終えて口を閉ざしてからも、少し斜めに俯きながらやはり黙り込んでいる。校舎の外で鳴く虫の音が、教室内にしんしんと響いた。ようやく彼が再び顔を上げた時、稲葉は怒っているとも悲しんでいるとも取れる表情で僕を見た。
「お前がもっと政治家向きの人間だったら、こう話がこじれることも無かっただろうに」
嘲りとも、悲嘆ともつかない言葉だった。
だが、その言葉に僕が何かを言い返すことはついに無かった。小太りの事務の先生が見回りに来て、いつまでも教室で騒いでないでさっさと帰りなさい、と面倒そうに注意をしていったのだ。「すみません」とうわの空で謝りながら、僕達はいつの間にか日がとっぷり暮れ、下校すべき時間になっていたことを理解した。
「――なあ、おい、小難しいことを考えるのは、もうこれでやめにしようぜ。結果オーライだ。戦争には勝ったんだし、何よりお前も死なずに済んだのだからさ、これで良かったんじゃないか」
事務の先生が去った後、稲葉は再び菓子パンを拾い上げて、僕に放り投げて寄越しながらそう言った。
それからの一週間、僕は専ら自分の宿題に没頭して過ごした。問題集には何冊にも渡って補佐官さんの解答が書き込まれていたが、僕は良心の呵責からその部分は全て消し、自分の手でやり直すことにした。おかげで消す手間が増えたものの、仕方がない。そう言えば教室でのあの一件以来、彼女からは何の連絡も無かった。随分と取り乱して出ていったから心配な気がしたが、しかし元々それほど頻繁に連絡を取り合っていた訳でもなかったので、おそらく大丈夫だと信じることにしてそっとしておいた。薄情な人間だと思われても仕方が無いが、しかしあんなことになった後で彼女に電話を掛けて遠回しに「いかがお過ごしでしょうか」等と質問するだけの勇気を、残念ながら僕は持ち合わせていなかったのだ。
アゴラの方は相も変わらず、戦争に勝ったことで盛り上がっていた。戦争から一カ月近くが経った今でも期待と熱気は天井知らずに上がって行った。僕に対する称賛の言葉は日増しにアゴラの議場を埋め尽くしていって、それが次第に僕の心の中に葛藤を生じさせていた。――あの戦争に関して僕達が政府として公式に発表した事と言えば、突然合衆国と戦争になったという事と、それから十数時間後、その戦争に何故か奇跡的に勝利したという事、その二つの事だけでしかない。人々はこの国が勝ったという歴史の出来事以外、実は何も知らないのである。戦争中に稲葉が勝手に行った事を、僕は公表するべきだろうか? さらにその戦争自体があんな方法で行われていた事も、包み隠さず皆に話すべきだろうか? 僕はその事について一人の――ある友人に助言を求めた。彼は手短に、「『来た、見た、勝った』で良いじゃないか」と言った。彼曰く、情報は簡潔な方が人々をより喜ばせるそうだ。それからその友人は煩わしげにこうも付け足した。「俺に訊かれても返事に困る。それとも、お前は俺に、嫌味を言いたいのか?」と。そのあと結局、僕はあれこれ考えた末、言わなくても誰にも不利益が生じないことを理由として、ついにそれらの事実を公表することなく、歴史の闇に埋もれたままにしてしまった。
そうして目下、対処すべき事案は個人的に課せられた宿題だけとなった。総理の実質的な職務としての外交諸々が終わった今では、宿題なんかで悩んでいられるのは確かに幸福な事だと感じられた。宿題の山の中ではとりわけ数学と、生物と、政経が、ずっと頑強に陣取り続けた。別に僕がそれらの科目を苦手としていた訳ではない。ただその科目から出された問題集がやけに分厚くて、時間を長々と取られざるを得なかっただけの事だ。宿題をやって来なかった罰として既に放課後の居残りが課せられていたが、それのみならず僅かな休み時間さえも宿題の為に充てられた。そうでもしなければ終わりが見えない程、夏休みの宿題は多く、重く、強大だった。
そうしてある日の休み時間、その時も僕はいつも通り自分の席で問題集を開き、没頭していた。すると、騒がしい教室の中でも耳に入って来た会話がある。
――ねえ、どう思う? まさかウチの総理にこんな人気が出ると思ってなかったよ
僕は筆記の姿勢を保ったまま、頭の中で二次関数の計算を止めた。級友たちと僕との関係だけは四月の当初と変わっておらず、時折話しをしてもいつも妙に疎遠な感じがしていて、しかも僕が総理大臣になった事は未だに一切触れられないままだった。抑えられないほどの好奇心が湧いてきて、僕はその会話の方へ一切の注意を向けた。
――おい待て、聞こえてるかも知れねえぜ。そいつこのクラスに居るんだろ?
――そうそう。念の為に一応さ、場所変えた方が良くない?
ぎくり、とした。こうして聞いているのがばれなくとも、もし彼らが教室から出て行ってしまっては追いかける訳にもいかない。なまじ聞かせるくらいなら最後まではっきり聞かせて欲しかった。
――聞こえやしないよ。大丈夫だいじょーぶ。で、皆どう思うよ? ウチの総理さん
自分の心臓の鼓動が早くなったのが分かった。ひとまず話の続きを聞きそびれる恐れは無さそうだが、今度は別の恐怖が生じ始めていた。僕は聞きたいような、聞きたくないような心持で、じっと次の言葉を待った。
――俺は支持する、って立場だぜ。とっくにアゴラに称賛コメントも書いたしな
――自分も支持側。ってか、当たり前でしょ? みんな支持してるんだから
――やっぱり皆そう? じゃあ今からボクも、支持派ってことで
それを聞いただけで僕は安心してしまって、肩の力をすっと抜いた。どうやら余計な心配だったらしい。手を止めて盗み聞きまでして、自分は一体何をやっていたのだろう、と心の中で苦笑した。そのクラスメートたちはまだ話し続けていたが、僕はもはや興味を持たずに聞き流して、途中で止めたままにしていた計算の作業を再開した。
――今からって、おせーよ。さっさとアゴラに行って称賛コメント書いて来い
――やっぱ書かないとダメかな。あーほんと、かったるいなぁもう
――一応書いときなよ。長文で、誠意を込めたカンジにしてさ。面倒でも、反対派として後ろ指さされるリスクに比べればマシでしょ――
授業開始のベルが鳴り、生徒は皆ばたばたと自分の席に戻って行った。ベルが鳴り終わらないうちに次の教科の先生が教室に入ってきて、僕は慌てて次の授業の教科書を取り出した。先生が黒板に数式と図形を書き始めた時、既に僕の頭の中から先程漏れ聞いた会話の内容は忘れ去られていて、次に僕がこの事を思い出すのはこれからしばらく後のこととなった。
始業式の日から数えて七日後、つまり宿題の提出期限となっているその日は、朝から不運な事故に遭遇した。雨がずっとしとしとと降っていて、僕は片手で傘を差したまま、自転車を漕いで登校していた(この傘差し運転は実は法律で禁止されているらしい。しかしこの国では当たり前のように行われていた為、つい先日まで僕はその事を知らなかった)。すると丁度角を曲がった途端、やけに大きな荷物を抱えた歩行者が目の前に現れた。急いでブレーキをかけたが、片手のブレーキでは濡れた路面に対して効果が薄い。僕はバランスを崩しつつ、水たまりの上を半ば滑るようにして、その歩行者に派手に追突してしまった。
相手がクッション代わりとなったおかげで僕の方は大したことなく済んだが、相手の方は背後からの不意な衝撃をもろに受け、顔を地面にしたたか打ち付ける形で転倒した。「うおっ」という悲鳴の後すぐに、ごっ、という鈍い音がした筈だが、跳ね上がった水が水溜りに戻るばしゃっという楽しげな音に吸われてすぐに消えた。僕は頭の中が真っ白になって、ただ大変な事をしてしまったという思いに駆られ、法的な事や医学的な事は考えもせずにその人に駆け寄り、すみません、大丈夫ですか、と謝りながら手を差し出して、まずその人を助け起こそうとした。
「すみません、すみません、すみません、私めの不注意でありました、すみません」
余りにぎょっとしたので、僕は助けに出した手を思わず宙で止めてしまった。自分がその男の発した言葉をひどく聞き違えたのか、もしくはその男が事故の為におかしくなってしまったのかと思案した。
「すみません、私めの後方不注意でありました、ご容赦とお情けをお願いします、すみません、すみません」
その男が、息も絶え絶えになって僕に謝っていた。後ろから一方的に僕に轢かれたにも関わらず、彼の方が罪悪感と悔悟の念に駆られているらしい。僕は初め何が起こっているのか分からなかったものの、相手の口振りをどこかで聞いたことがあるような気がして、まさかと思ってその人の顔を覗き込んでみた。鼻血と泥水でひどく汚れていたが、それでも男の顔には例の真っ黒な影と独特の雰囲気がはっきりと認識できた――兵労隊だ。
あっと驚いて、僕は差し出していた手をほぼ反射的に引っ込めた。兵労隊員とこうして直に対面するのは初めてだった。今まで見かけた兵労隊員も皆哀れな姿に見えたものだが、それも今目の前で許しを乞うている男ほどではなかった。彼は必死になって喚き続けていたものの、落ち窪んだ目には全く生気が感じられず、付着した血糊と泥水も相まってまるで死人のような体(てい)だった。
僕はもう一度、すみませんでした、と言って頭を下げた。次にはあのう、と声を掛けてみた。しかしどちらの言葉も兵労隊員の耳にはまるで届かないらしい。彼は焦点の定まらない目で僕を見つつ、「すみません、私めのような、畜生にも劣る卑しい分際でありながら、一般市民の御方にこのような非礼を――、すみません」と身も世も無く叫び続けるだけだった。
この事態に、僕は吐き気さえ催した。この兵労隊員との接触によって、自分の中の現実がどこかへ吹き飛ばされてしまっていた。彼は虚ろな表情のまま謝罪の言葉を繰り返すだけで、それは正気を失った人と言うよりも変な躾を受けた犬を彷彿とさせる。奇抜なセンスの飼い主によって悪趣味な芸を仕込まれた、哀れな物言わぬ犬だ。胸がむかむかして見るに堪えなかった。僕は今すぐこの場から逃げ出したいと思ったが、自分が撥ねてしまった以上、このまま放っておくわけにもいかない。一度手を引っ込めてしまった自分を嫌悪しつつ、再び手を差し出して彼を一息に助け起こすと、次いで地面に転がっていた彼の荷物も拾い上げた。僕が黙々とそうするうちに彼は落ち着きを取り戻し始め、やがて静かになったが、しかし荷物を手渡しながらふと気付いてみると、今度はまじまじと訝しむような目で、彼はこちらを珍しげに観察していた。
「もし、違ってたら申し訳ないですが、ひょっとして、貴方様は総理大臣ではないですか?」
彼は荷物を受け取りながらそう言った。国家元首が自転車で傘差し運転をしながら後ろから追突してくるなんて、他の国ならひどく素っ頓狂な冗談にしか聞こえないだろうと思ったものの、他に答えようが無いので、僕は率直に「ええ、そうです」と答えた。なぜ彼にそんな事が分かったのだろう、という疑問は、このときは頭の中に出て来なかった。
答えを聞いて兵労隊員はしばらくじっと僕を見つめた。目には若干、生気が戻ってきていた。ひどく荒れた風貌だったが、よく見ると彼は髪を七三に分けていて、どことなく、冴えない会社員のような風貌をしていた――失礼な表現ではあるが、本当にそのような印象を受けたのだ。僕は事故の事を改めてもう一度謝ろうと思ったが、兵労隊の男の方はしかしその返答を聞いただけで充分満足していたようで、出し抜けに地面にペッと泥水と血の入り混じった唾を吐き出した。
「そうですか。貴方が浦嶋総理大臣さまですか。あの英雄の。帰国子女の秀才さまの。そうですか。いやうっかりぶつかられっちまって済みませんでしたよ。ごめんなさいね。んじゃ、私はここらへんで失礼させていただきます。――うう、体中が痛えや、畜生」
男はぞんざいに荷物を背負い上げ、僕に背を向けて歩き出した。「あの、本当に、大丈夫ですか」と声をかけた僕に対し、彼はうるさそうに手を振り、「私は忙しいんですよ、お偉い身分の貴方と違ってね」と吐き捨るように言い残して、そのまま目もくれずに歩き去っていってしまった。
その日は一日中、その朝の一件の事ばかりを考えて過ごす羽目になった。頭から払いのけようと頑張ったところで、擦り切れてしまった制服の袖口が視界に入るたび、あるいは青あざのできた膝に何かが当たるたびに、あの兵労隊員の顔を思い返さずにはいられなかった。授業が終わって放課後になった時、僕は宿題の問題集の上に頬杖をついて窓の外の雨を眺めていた。いつもこの時間は憂鬱な気分になっていたのが、今日はとりわけひどかった。すると、僕の肩を後ろからばしりと叩いた者がある。
「よう、どうした、センチメンタリスムなんかに浸って。まだ宿題が終わらないのか? 今日が締め切りだったろ?」
もはやわざわざ振り返って確認するまでも無かった。僕は窓の外を眺めたまま、背後の稲葉に返事をした。
「それは問題ないよ。いい調子で来ているんだから。邪魔さえ入らなければ今日中に終わる」
「そりゃ律儀なもんだな。一応は期限に間に合わせるなんて偉いぞ。……それじゃ、何でそう湿気た面をしていたんだ? お前、何かやらかしただろ?」
稲葉は疑問ではなく、断定の口調でそう言った。
「何で君にそんなことが分かる?」
「分かるさ。何かやらかした奴ってのは、面を見れば大体分かる。――自分の罪に苛まれるような奴ほど特にくっきりとな。そうだろ?」
背筋がぞわっとした。僕は一瞬迷った後、教室の中をさっと見回し、誰かに聞かれる恐れがないか確認してから、改めて稲葉に向き直った。
「ヒットエンドランってやつだよ、端的に言えばね。今朝、登校中に――」
僕は例の一件について、できる限り客観的になるように状況を話していった。自分が体験した不可解な事象を他人にも分かるように説明するのは苦労するものだが、この件は後ろめたい部分がある故に一層難しい。それでも躍起になって可能な限り中立の観点から一通り話しを終え、僕がふっと目を上げると、しかし稲葉は僕が机上に広げていた宿題を摘み上げて興味深そうに眺めている所だった。
「――それで、お前は自分がひき逃げをやっちまったと罪悪感に浸っていたわけか?」稲葉は僕の宿題から目を離さずに言った。「それとも、今すぐにでも逮捕されるんじゃないかって怯えてるのか?」
僕は答えた。「いいや、それもあるけど、うん、そんなものでもないんだ。もやもやしたものが引っ掛かっている様な感じ、というか、どうしても割り切れない何かが残っている感じ、かな」
「……何だそりゃ? 気のせいだろ。相手の方が元気よく悪態をついて立ち去ってくれたのなら、それ以上厄介な事は起こらないさ」
稲葉は鼻で笑い、問題集のページをぱらぱらとめくった。僕はその態度を不快に感じて、さっと彼の手元から問題集をひったくり返した。
「人の宿題を勝手に見るんじゃない。こっちは真剣に悩んでいるんだぞ、もう少し真面目に聞いてくれたっていいじゃないか」
「そうかっかするなって。俺に言わせてもらうと、お前は休み明け早々から疲れ過ぎてるみたいだぜ。やけに感傷的になってやがる。ほんの些細なことを気にし過ぎだ。――ついでに言っておくが、俺は何もお前の解答なんかを見ていた訳じゃない。今年の宿題は何が出てたんだろうって、少しばかり中身が気になっただけだ」
「中身が気になった、だって?」妙な言い方だと思った。不快感を忘れて、つい僕は食らいついてしまった。「どういう事だよ? 君も、自分の分の宿題を受け取った筈だろう?」
まさか、と思った。自分の知る限り、稲葉は決して先生の言う事を聞くような類の人間ではない。ということは、つまりまさか――。
「燃やしちまったよ。配られたその日に」彼の答えは僕の予想を上回っていた。「一ページたりとも開かずにな。それが俺のポリシーだ。真面目にやるつもりは全く無いし、かと言って答えを写すんじゃあ時間の浪費でしかない。つまり提出する見込みが無いんだから、潔く焼き払っちまった方が後腐れなくて気持ちが良いだろ?」
稲葉は、さも当たり前の事を言ったかの如き態度だった。その言い分はあたかも筋が通っているように聞こえたが、当然僕は納得せず、むしろ呆れ返った。
「だからって、いくらなんでも燃やすなんてだめだろ? 普通は良心が痛むものじゃないか」
「リサイクルに出すべきだった、とでも言いたいのか? 嫌だぜ、面倒くさいし。それに、エコロジーだ何だって言葉を振りかざす奴が俺は嫌いなんだ。大体だな、古紙をちまちま回収して作り直すよりも庭で焼いて肥やしにした方がエネルギー効率が良さそうな――」
「そんなことはどうでもいいよ。勝手に処分したことが一番の問題だ。何も提出しないままで、君は先生に怒られないのか? 僕は一週間の居残り罰を食らったんだぞ」
「そりゃあお気の毒様だな。俺の方は何も怒られやしないぜ。言っとくが、俺は普段の宿題すらやってないし、提出を求められたことも無い。一度開き直っちまえば後はこっちのもんだ」
稲葉はやはり悪びれる事無くそう言い切った。こちらの胸がすかっとする程の、清々しい表情だった。そんな彼に対して、僕は軽蔑と尊敬の念が同時に湧き起こるのを感じた。僕と目の前のこの少年では、一般的にはどちらが良しとされるのだろう。生真面目な性分の自分が不当に損をしている気がした。彼の立場が羨ましいような気さえ少しした。そんな僕の心境を知ってか知らずか、稲葉は話を続けた。
「ああ、最初の頃はこっぴどく叱られたもんだったよ。もうずいぶんと大昔の、俺がまだ純粋な、穢れ無き子供だった頃の話だが。……その後いくら怒られても提出しなかったから、そのうち先生の方も慣れちまって、全く小言を言わなくなった。あの時はただ嬉しいとしか思わなかったよ。でだ、ある時ほんの気まぐれを起こして頑張って全部仕上げて、まとめて持っていったんだが、あの老いぼれめ、信じられないって顔で俺を見て、それから値踏みする目で見下ろして、最後にゃ『今さら成績には入れられない』って、受け取りすらも拒否したんだ。それ以来、宿題はやらなかった。それで先生連中の間で噂になって、翌年に担任が変わっても、結局俺は同じような扱いのままだったよ」
稲葉の話しぶりはさらりとしていて、妙に素っ気ないくらいだったが、僕にはどこか悲しげな雰囲気が感じられた。もっともそれは、僕の気のせいかも知れなかったが。僕は少しの間思案して、それから口を開いた。
「悪循環、だね。先生方も君も。一度でもどちらかが真剣に取り組めば、何とかなるかもしれないのに」
「俺の方が勇気を出して、先生に頭を下げて来ればいい、ってか?」
「いいや、違うよ。勇気なんて大げさな物じゃない。ただほんの少し、自分の良心に素直になってみたら、それで解決の糸口が見つかると思うんだ」
「俺にゃよく分からないな、その解決ってのが。今のままでも十分な気がするんだが、お前の考えだとそれじゃだめなのか? 俺がただ低い成績と冷たい視線に甘んじておけばそれで済むんだし、それにあちらさんの側も、俺を居ても居ない者として割り切っているんだぜ。一応これで両者の関係がうまく成り立っているんだから、無理に変えなくてもいいんじゃないのか? なあ、おい、違うかよ?」
稲葉の口調はやはり素っ気なくて、今度はどこかぶっきらぼうな響きすらあった。そのくせに、ただ純粋に、答えを知りたがっている様にも聞こえた。――だめだ、もっと立派な、一人の生徒としてまともな扱いを受けなきゃだめだ、と、僕は心の中で率直にそう思ったが、しかし直ぐに、その返答を口にするだけの自信を失った。傍から口出しするだけなら余りにも簡単だとすぐに気付いたからだ。さっき単純な動機から、内心少しでも稲葉を羨んだことを申し訳なく思った。
あまりにも沈黙が長くなり過ぎる前に、稲葉がふうっとため息を吐いた。それからいつもの明るい口調を取り戻して言った。
「俺はもう帰るとするぜ。居残りの邪魔をして悪かった」そう言ってから彼はふと、何かを思い出した様な顔になった。「――そういや朝の事故の件、はっきり断言しといてやるが、お前にゃ本当に過失は無いよ。いつか言っただろ、兵労隊は法律の保護の対象外だって。普通の一般人なら、兵労隊員を撥ねたところで箪笥に小指をぶつけた時と同じ種の感慨しか湧かないんだよ。皆そんなもんだ、だからお前も気にせず忘れちまって良い」
そう言い残すと彼は自分の鞄を持って歩き出した。僕は黙って腕を組んだまま、教室から出て行こうとする後ろ姿を眺めていた。目の前の宿題のことと、自分が今朝撥ねた男のこと、そしてそれらをひっくるめた今の自分の在り方のこと。そういった事が一度に頭の中に去来していた。しかし、突然一つの疑問が湧いてきて、気付くと僕は稲葉を呼び止めていた。
「稲葉、この前の戦争絡みの事で、一つ訊いておきたいんだけど」
彼は少し困ったように振り返った。「またその話題かよ。面倒だからやめとこうぜって、この前もその前も言っただろ?」
「いや、君に関係する話じゃないよ。別の話だ。あの時確か、国内のアゴラの方じゃ僕は法律とは関係なく死刑にされかけていたけど――」古くなりつつある記憶だったが、自分が死に追いやられかけた時の事など忘れようがない。そしてこれは、そこから生じた想像だった。「――ひょっとして、兵労隊員の中にはあんな風にして、法律とかまともな裁判とか抜きで有罪になって入隊した人もいるのかな、って思ってさ」
そう訊いて僕は答えを待った。ひょっとして、という程度の半信半疑で訊いていたが、もし本当にそうだとしたら、と考えると恐ろしいものがあった。
「制度的には当然その可能性は十分にあり得るし、現に――いや」稲葉は困り顔のまま答えかけたものの、一刹那考え込む素振りを見せ、そしてすぐに言葉の方向を変えた。「この話はこれで終わりだ。すまんが勘弁してくれ。何度も言うが、面倒はもう沢山だ。お前もこんな、やくたいもない話に首を突っ込んで時間を使うのは良くないぜ」
言うと稲葉は再び歩き始めた。しかし、彼は教室の出口の所でもう一度だけ思い出したように自ら立ち止まり、戸に手を掛けて、言った。
「宿題はまだ少し残っているんだろう? 頑張って全部仕上げろよ。一応言っておくが、俺はお前に、俺みたいな状態に陥って欲しくはないんだ。――邪魔して悪かったよ、じゃあな」
僕は今度こそ呼び止めなかった。そのまま、後ろ手に引き戸を閉める彼の後ろ姿を見送った。戸の閉ざされる音を最後に教室の中は静まり返り、ざあざあと降る雨の音だけがいやに耳についた。今までに感じた事が無いほどの、とてつもない違和感を抱きながら、それでも僕は目の前に残された宿題に向き合うしかなかった。
その後帰宅するとすぐ、僕は自分のパソコンの電源を入れた。先刻に異常な速さで宿題を片付けた反動で、頭がぐわんぐわんするような感覚が未だに残っていたものの、それを一々気に掛けるつもりは毛頭無かった。僕は何かに追われる様に焦っていた。パソコンが起動するや否や、データの保存されたファイルを片っ端から開き、漁り始めた。最近の文書が保存されたデータを引っ掻き回し、それから忘備録や予定表を雑多に詰め込んだファイルまで開いて回ったが、目当てのデータはなかなか見当たらなかった。一カ月ほど前に作ったままずっと放っておいたために、どこに保存したのか記憶が曖昧になっている上、そもそもきちんと保存しておいたのかどうかすら怪しい。やがて僕はふと思い立って、メールの送信ファイルを探り始めた。以前補佐官さんに送ったメールはすぐに見つかり、それで添付した例のデータの方も回収することができた。
画面上には僕がかつて作成した兵労隊制度廃止案が表示された。僕は一カ月ぶりに改めてそれを目にして、胸の辺りがざわっとするのを感じた。さっきまで熱に浮かされたようにこの草案を探していたのに、いざ手元に戻ってくると自分が一体どうしたかったのかが分からなくなってしまった。この草案は、元は当然アゴラに提出する為の物だった。しかし、今となっては提出しないと決まっている以上不要の物であり、破棄してしまって差し支えない物であった。この草案をアゴラに出す事と、草案のデータを削除して無にする事が、今の僕には同じくらい魅惑的なものに感じられた。それでやっと僕は分かった――こんな草案がどっちつかずのまま中途半端に自分の手元に存在し続けることが、自分にとっては堪らなく許せなくて嫌で仕方ないのだ。
廃止案を前にして僕は考えた。この草案がアゴラで可決されれば、兵労隊絡みのおかしな出来事は無くなるだろう。逆に言えば、提出して可決されない限りはおかしなことが延々と続いていくのだろう。あの兵労隊の見るに堪えない有様を、自分はこれ以上黙殺し続けることが出来るだろうか? 今朝のような事が再び起こった時、その時自分は果たして『箪笥の角に小指をぶつけた時の感覚』で済ませることが出来るだろうか? しかも現状として、あれをおかしいと感じられるのはどうやら僕だけしかいない。これは僕がやるしかない。
僕はアゴラに入って発案用ページを開き、そして草案を提出しようとして、しかしそこで僕の手はぴたりと止まった。補佐官さんが以前発した警告が頭の中に甦ったのだ。――これをアゴラに提出した後、人々からはどのような反応が起こるだろう? 皆はまず驚くだろうが、その後で受け入れてくれるか、それとも拒絶するか? いや、考えるきっかけさえあれば皆理解してくれるだろう、文明のもと人間が不平等であるのはおかしいのだから。ただ、もし、もし万一誰も理解してくれなかったとしたら? まさかと言えど、その可能性も否定できない。
僕は提出と削除の間で彷徨った。一番後腐れが無い選択肢は提出して、かつ見事に可決される事だ。しかし提出した後にどうなるかは分かりえない。その一方で、草案を提出せずに削除する事を選べば、少なくとも自分の今の平穏な生活が保たれることは確実だった。自分の、今の平穏な生活。僕が宿題なんかで悩んでいられたこの間に、兵労隊の人たちはどれほどの不条理な苦痛を味わっていた事だろう。
どちらかを選ばなければならなかった。これ以上この廃止案を手元に残しておくことは堪えられないことのように思われた。そしてアゴラに送るかくず籠に送るかどちらか片方を選択しなければいけないのに、どちらを選んでも恐ろしい事になりそうで、踏ん切りをつける事など出来たものではなかった。
ふと目を上げると、ちょうどアゴラの掲示板が目に入った。あの戦争以来ずっと自分が不当に持ち上げられているのが嫌で、普段は出来るだけ見ない様に避けていたのだが、不思議とこの時は目に留まって、僕はアゴラを満たしている人々の発言を飛び飛びに拡大しては拾い読みしていった。
:私は投票した時から浦嶋氏を信じていた。彼は期待を裏切らない
:今の総理が歴代で最高の総理だろう。支持率九割九分も納得できる!
:戦争にすら勝利したんだ。俺はもう疑わない。総理に任せといて問題無い
全体の論調は相変わらずだった。見渡す限りずっと、アゴラは右も左も上から下まで僕を支持し称賛する声で隅々まで埋め尽くされている。
:浦嶋さん最近音沙汰ねえなぁ。何か派手な事業でもやってくんないかな
:戦勝から早一ヶ月、そろそろ総理の次の一手を拝見したい。
:あの方の仰る事なら、私は何でも従いますよ! 浦嶋総理万歳!!
何かに取り憑かれた様に、僕は食い入るようにしてアゴラを眺めていた。今の自分には、それらの発言がある種の啓示に見えた。僕は支持を集めている。こんなにもたくさんの人々から支持されている。就任した時とは異なって、今度は中身のある支持だ。民主主義の極致にあるこの国において、これほどの支持者を集められれば、もはや恐れるものなど何も無い――。
僕はもう草案の提出だの削除だのという思考をしなかった。先程の堂々巡り自体が、すっぽりと頭の中から抜け落ちた様だった。理性で判断するより先に、補佐官さんとの約束を思い出すより先に、僕の右手は動いていた。マウスのかちっという音と、たんっというEnterキーの軽やかな音がして、続いてパソコン本体が低く唸るような駆動音を上げ始め、そうして手元の草案が仮想空間内の政府へと転送されてゆく一連の過程を、僕はまるでどこかずっと遠くの出来事のように感じていた。かつてこれを補佐官さんに提出した時、彼女は言っていたっけ。誰もやめようと思わなかったから、今でもこの制度があるのだと。でも、もし誰かがやめようと言い出した時にどうなるか、それは彼女にも分からないんじゃないだろうか。
突然部屋の明かりがふっと消えて、僕は飛び上がらんばかりに驚いた。直後、パソコンの画面も真っ暗になり、ぶつりと電源が切れてしまった。暗がりの中急いでブレーカーを確認したが、何も異常は見当たらない。まさかと思って窓の方へ行き、外を見ると、朝から降っていた雨が今や暴風を伴って吹き荒れており、そして街からは見える限り全ての灯が消えているのが見て取れた。風圧で送電線が切れて、町単位で停電してしまったのだ、と思った。
動かなくなったパソコンの前に戻り、僕はなす術もなく途方に暮れた。据え置き型のこのパソコンにはバッテリーの用意は無く、停電が直らない限りは何もできない。今の僕はアゴラから隔離された様なもので、転送中だった草案がきちんと届けられたのかどうか、それさえ不明だった。この僕が、総理大臣であるこの僕自身が、政府で発案しようとした途端にあろうことかその政府から弾き出されるなんて――。
しかし突然、僕の携帯電話がけたたましい電子音を鳴らし始め、僕は再び飛び上がらんばかりに驚かされた。窓の外からも風の唸り声に混じって、その音が町中の生き残った電子機器から大音量で流されているのが聞こえてくる。音は警告音だった。びいいいいいい、びいいいいいいいと、恐らく今この国の全土でその音が響き渡っている事だろう。以前は四月に聞いたあの喧しい警告音が、今では心地のよい凱歌に聞こえる。僕は携帯電話を取り出して開いた。
『アゴラより通告:審議の開始』
体中に安堵が拡がった。草案の転送は辛うじて完了されていたらしい。そして、アゴラの様子を知る手段が一つ、手元に残されていたのだ。携帯電話の処理能力では直接アゴラに入ることは適わないが、間接的にならどうにかなるかもしれない。
僕は電話を掛けた。意外なことに、相手はすぐに出てくれた。
「もしもし、稲葉、しばらく電話をして良いかい? 停電は大丈夫?」
僕がそう尋ねると、電話の向こうで相手が答えた。
「浦嶋か。こっちはまあ大丈夫だ。何の用だ?」
「ちょっとすまないけど」僕は単刀直入に言った。「君のパソコンは動くかい? パソコンが使えるなら、アゴラの様子を見てくれないか」
「兵労隊絡みの法案の件だな? さっき通告が出てたが、やっぱりお前のか」
彼は別段戸惑った風も無く、いつもと同じ調子で、確かにそう確認した。電話越しに音声に混じって、電話の持ち主ががさごそ動いているような音がしている。
「そうなんだ。けど、提出した直後にこっちは停電になってしまって、そのせいでアゴラに入れない。この国の総理大臣は僕だというのに、まったくふざけた話だよ。……それですまないけど稲葉、いや稲葉臨時警護官どの、アゴラの経過を逐一僕に伝えていってくれないか。頼むよ」
僕は必死に頼み込んだ。少々強引で原始的な方法だと思ったが、こうする他は思いつかなかった。
「お前のケータイの電源は通話のままであと何分持つんだ? それに、悪いが俺はそんな面倒な真似はしたくないな」
稲葉は若干口早にそう答えた。電話の向こうの音はばたばたと騒がしくなっていた。
「俺が今からそっちへ向かってやる。俺の持ってるノートパソコンなら、停電でもしばらくは使えるはずだ。お前の所在地を教えてくれ」
僕ははっとして、窓の外を見た。「無理だよ。幾らなんでもそんなことは頼めない。外はひどい嵐だし、もう日も暮れる。いくらなんでもこんな中を突っ切って来るなんて――」
「そんな些細な事はどうでも良い。さっさと場所を言えってんだ」
稲葉は声を張り上げていた。電話の向こうでしていた音が一瞬ぴたりと止み、それからドアを開け閉めする音が聞こえ、次の瞬間にはさらに風の吹きつける音が混ざった。
「お前は自分の出した廃止案の顛末を自分の目で見なきゃならないんだろ? なら、俺も同じだ。覚えているか、お前に総理大臣をやってみろって言ったのは俺なんだ。お前が何かやるんだったら、当然俺にもそれを見届ける責任がある」
稲葉がそう言っている間にも、彼の後ろからは風と雨の打ち付ける音が聞こえていた。僕は半ば呆れてため息を吐いた。それから息を大きく吸い込むと、風の音に負けないように大声で自分の住所を叫んで伝えた。「稲葉、急いでここまで来てくれ。頼む」
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