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 僕は狼狽と混乱を引きずったまま稲葉の胸ぐらを両手で掴み、罵倒の言葉を叫ぼうとして、――しかしあまりのことに自分が喚き声さえ出せない状態にあることに気付いた。最後通牒を宣告した後すぐに大統領は会場を去り、他の各国要人たちもその場から逃げるように引き上げたため、先刻まで晩餐会が行われていたこの会場はがらんとして静まり返っていた。床には所々落ちて砕けたグラスの破片や、何かの拍子に蹴倒された椅子などが散らばっており、補佐官さんの指示で数名の作業員が片付け始めてはいるものの、広間はまだまだそういった残骸で埋め尽くされている。その中で僕は稲葉の襟元を掴んで吊り上げながら、それでもやはり何も言えないまま、彼の暗い表情をじっと睨みつけた後、黙って両手を降ろした。解放された稲葉はほうっと溜め息を吐き、頭をくしゃくしゃと掻き乱してからばつの悪そうに言った。

「悪かった、浦嶋。ここまで大事になるとは思ってなかったんだ。あの大統領の野郎がお前を馬鹿にしているのが我慢ならなかったんで、意地でも張り合ってやろうとしたんだが、つい、かっとなっちまってさ。それでたまたま手元にあった物を投げたら――」

 僕は首を横に振って後の言葉を遮り、それから「もういい、わかったよ」と、やっとのことでそれだけの言葉を絞り出した。

 衝動的に掴みかかりはしたものの、考えてみれば僕が稲葉を一方的に責める道理は全くないのだ。彼の言う通り、大統領の方が先に挑発を仕掛けてきた訳だし、またそれを総理大臣である僕が黙って見過ごし続けるのは――特にあのように衆人環視の公の場で見過ごし続けるのは非常にまずかったことだろう。そう考えると、稲葉が暴挙に踏みきったのは自国の尊厳を保つためであり、やむを得ないものだとも言える。むしろ他に打つ手を講じられなかった自分にこそ、一番の責任があるかもしれない。

しかし、今この場で責任の所在を追及したところで、この状況を変える助けにはならないのも事実だった。既に取り返しのつかない事態になっているのである。あの時こうすれば良かっただのああすれば良かっただのと、今さら言い出していったところで何の意味も無いだろう。とにかく、今はこれからどうすべきかを考え、迅速に行動して被害を抑えるべきなのだ。こうして晩餐会の残骸の中で立ち尽くしている間にも時間は止まることなく過ぎてゆく。合衆国の軍事力をもってすれば、この小さな国をほんの数分の内に跡形も無く吹き飛ばすことなど造作もない筈だった。

僕はその恐ろしい想像を振り払おうとして、近くでガラス片の片付けをしていた作業員をぼんやりと眺め、そこでやっと、この会場の清掃をしていた作業員達が兵労隊である事に気がついた。みんな一心不乱に作業していて、どんな事由で今の身分に落ちぶれたのかは窺い知れない。恐らくこの会場の設営も、補佐官さんの的確な指揮の下、彼らが行ったに違いなかった。ほんの十日前に彼らを解散させるための草案を書いていたことが、今となってはひどく懐かしく平和な事に思われた。僕が夜を徹して書き上げた草案はおそらく日の目を見ることなく消え、兵労隊が救われる事もないだろう。補佐官さんの意見で草案の提出は不可となっていたが、人々に兵労隊制度の是非を問う前にこの国自体が滅び去っているかもしれない。それもこの、僕のせいで。――いや、それならむしろ、これで良かったのだろうか? 何はともあれ、奴隷制を含めいろいろとおかしな点のあったこの国がきれいさっぱりと消えるのだから、結果的には一概に悪い事ばかりではない。一つ問題が解決する。それなら、僕には正当性がある、だっておかしなこの国が悪いんだから、僕が悪いわけでは――。

「あの、浦嶋総理?」と、誰かが僕に話し掛けている事に気付いて、僕ははっと我に返った。同時に何か憑き物が落ちた気がした。さっきの自分のとんでもない考えを嫌悪しつつ目を上げると、そこには補佐官さんがかしこまって立っていた。見ると手に、料理の盛られた大皿を持っている。

「総理、こちらの料理は全く手が付けられていないままなのですが、下げられる前にいくらかお召し上がりになってはいかがですか? 勿体無いですし」

 こんな気分で物が食えるか。僕は再び癇癪を起こしかけて、非難の視線を彼女に浴びせた。だが――

「総理はまだ何も食べていないでしょう? 腹が減っては軍はできぬ、という言葉もありますし、それに貴方が自粛して断食したところで、何の役にも立ちませんから」

 補佐官さんは一切悪びれずにそう続けた。補佐官さんらしい、いつも通りの事務的な言い方と合理的な考え方だった。彼女はこの状況でも普段の冷静さをちっとも損なっていないらしい。だが、それは頼もしさというよりかは、得体の知れないおぞましさを感じさせるものだった。僕は激昂していたことも忘れ、まじまじと補佐官さんを見つめた。この人はどうしてこんなにも冷静でいられるのだろう。いや、冷酷と言うべきなのだろうか? 僕や稲葉と数歳しか年齢の変わらない、女の子であるはずなのに。

「――あの、とりあえずさっさと席に着いて下さい。空腹では作業効率が大幅に低下してしまいます。一旦、何か召し上がった方がよろしいでしょう」

僕はため息を漏らした。目の前の料理は首脳達の会食用と言うだけあって、そこいらの高級レストランでもお目に掛かれないほど豪奢な見た目だったが、事態の深刻さと罪悪感のせいで食欲は全く感じられず、また心中で膨れ上がった恐怖や焦燥感がじわじわと内圧を高め胸を圧迫していた為に、むしろ吐き気さえ感じるほどだった。それでも確かに言われた通り、晩餐会で食べ損ねた僕の胃の中にはほとんど何も入っておらず、遅かれ早かれ食事を摂らなければいけない筈でもあった。

補佐官さんは何も言わずに無表情のままこちらを見続けていた。こういう状況では、彼女のような専門家の意見に素直に従った方が良いのだろう。結局、僕は押し切られるようにして補佐官さんの促す通りに席に着き、そして彼女は料理を皿に取り分けて給仕してくれた。

「隣、失礼するぜ。料理は余っているんだろ?」

 稲葉がいつもの彼らしく、しかしいつもよりかはやや控えめに僕の隣の椅子に座った。

「君はさっきたくさん食べていたんじゃないのか?」

「ああ、そうだな。だがこんな御馳走、俺みたいな貧乏人は滅多にも食べられないからな。食えるときに食っておきたいんだよ」

 そう言って稲葉はあははと笑ったが、その笑い声も無理に笑っているような響きがあった。

 そうして僕は僕には不釣り合いな料理を食べることになった。律儀な補佐官さんは稲葉の分の料理も取り分けてくれた。席に着いてもなお、僕は物を食べたい気分では無かったが、隣でせっせとスプーンと箸を動かしている稲葉を見たので、つられる様に一口食べた。すると料理は非情なほどおいしく、僕は不意に空腹を思い出して、後は貪るように食べ続けた。一口ごとに気分が収まり、散漫としていた心が落ち着いていくのが感じられた。そして気付いたのだが、稲葉は最初に取り分けてもらった分すら食べきれていなかった。――食えるときに食っておきたいとか言っていたくせに。不器用ながら親切な奴だ、と僕は思った。


「では、腹の虫も静かになったところで、会議を始めます」

 僕が最後の一口を飲み込み、食器をテーブルに置くや否や、間髪を入れずに補佐官さんがそう告げた。僕達は慌てながらも背筋を伸ばした。彼女が左手をさっと振って合図を出すと、作業を終えて待機していた兵労隊員達はぞろぞろと退出していった。

「――まず、先ほど合衆国大統領側に切り出された最後通牒についてです。最後通牒とは通常、期限までに要求を満たさなかった場合には相手国に攻撃を行うという意思表示ですが、大統領は明確な期限や条件を示しておりません。このように最後通牒の要求が曖昧な場合には、事実上の宣戦布告だと見なすことも出来ます」

「でも、それじゃ大統領はなぜ、はっきりと宣戦布告をしなかったんです?」疑問に思って僕は尋ねた。

「あからさまに宣戦布告をすれば即座に交戦状態になってしまいますが、曖昧な最後通牒なら表向きは睨み合いにしたまま止めておくことが出来ます。その間相手が譲歩するのをじっくり待つことが出来ますし、そうでなければ改めて遠慮なく戦争を仕掛けることも出来ますので」

 僕は黙ったまま小さく溜め息をついた。ひどい事態だが、目の前の現実を受け入れる他無かった。

「つきましては現在、この国は非常事態にあるのですが、まだ実際に戦端が開かれたわけではありません。つまり、今の内に大統領と交渉して通牒を取り下げさせる事さえ出来れば、戦争を回避することも十分可能です」

 一瞬、僕の顔は綻びかけたが、すぐにまた引き攣った。「でも、和平交渉なんてもう僕の手には負えません。現に僕の責任下でこうなってしまったくらいですから。……この国は直接民主制でしたね。僕が外交を失敗した以上、もうアゴラで全ての事情を説明して、全国民から意見を聞くべきなんですよね?」

「それについてですが――」補佐官さんはゆっくりと話し始めた「私は国民に知らせずに、内々で処理することを提案します。国民に知らせたところで無用の混乱を引き起こすだけでしょうし、有効な打開策が得られるとも思いません。また、我々だけで上手くやればこの一件も完全に隠蔽する事が出来、総理の面子も保たれます」

 僕は自分の耳を疑った。

「隠蔽、ですって?」

「そうです。――仮に国民に現状をそのまま知らせた場合、それだけで買占めによる物価の高騰や混乱に乗じた暴動などが起こり、治安や経済の面で重大な損害が生じる可能性もあります。それを防ぐためにも、今は一旦、情報が漏れないように事実を伏せておくべきです」

「でも、そんなことって、本来許されない事じゃないですか?」直感的に、僕は反対した。「こんな事態になったのだから、もう国民全員が当事者じゃないですか。それなのに何も知らせないなんて不当だし、卑怯です。大体、この国の制度としてはどうなんです? 僕に全権が任されているのはあくまでアゴラが使えない外交時だけで、それ以外では全て、国民全員の多数決で決めるんでしょう?」

「法律には、非常時における指揮権は全く明記されておりません。今の政治体制が構築された時には他国からの攻撃など誰も想定していなかったからです。直接民主制のシステムはあくまで平時における内政のみに適応されているものです。ですからこのように法の想定外の緊急事態に陥った場合、アゴラでの審議は不要だと解釈しても差し障りないでしょう」

「それは――それが一般的な考え方なんですか?」

「今のところ一般的な共通の見解などありません。ですので、我々独自の見解で行動しても重大な問題は無い筈です」

 補佐官さんは淀みなく言い放った。僕は思わず彼女を睨みつけ、少しばかりの嫌味を込めて尋ねた。

「じゃあ何です、法律を自分に都合のいいように解釈しろ、という事ですか?」

「いいえ、国益に適うように解釈しなさい、と申し上げているのです」

 補佐官さんは淡々とそう返したが、彼女の口調には何の嫌味も含まれていなかった。ただ彼女は真っ直ぐに僕を見て、諭すように語り続けた。

「浦嶋総理、貴方は一体誰のために行動しているのですか? もし本当に国民全体の利益を考えられているのであれば、多少の事は犠牲にしてでも大局を見て対処するべきです。それなのに、国家全体を混乱に陥れてでも自分個人の信条を貫き通そうとするのでは、ただの公私混同ではありませんか。リスクを減らし総理の体裁を保つためにも、どうかこの件は一旦隠蔽しておいて下さい」

 理屈で考えてみれば、おそらく彼女が正しいのだろう。補佐官さんの意見が十分な正当性と合理性を持つことは、僕でも理解できた。だが、それが本当に正しい事なのか、どうしても確信が持てなかった。一切の判断材料すら与えない事が、本当に人々の為になるのだろうか? 人々を誤魔化し、欺くことが? ――ここで隠蔽なんてしたら、この国はもう民主主義国家とは呼べない別の物に成り果ててしまうだろう。せっかく、アゴラを用いて曲がりなりにも最高級の民主制を実現した国なのに。そう思った僕は再び反論しようとしたが、しかし、先に口を開いた稲葉によってその機会は奪われた。

「あのよ、俺が口を挟むのもどうかと思うけどもさ、今の四衛等里さんのは職務として不当なんじゃないのか? 文民統制ってやつに引っ掛ってさ」

 僕はきょとんとして稲葉を見た。稲葉がそれに気付き、僕に解説するように言葉を補った。

「文民統制ってのは、総理大臣制と共に大昔から残っているこの国の制度の一つなんだ。こういう非常時に指揮権を持つのは国民の中から選ばれた総理大臣であって、他の役職の者じゃない。だからとにかく、今みたいに補佐官が総理であるお前の意思に反することを強いるのは、文民統制の原則に反するんじゃないかと思うんだが」

 補佐官さんは目を閉じて頷いた。その時、気のせいか、一瞬だけ彼女の口元が微かに悔しさで歪んだ様に見えた。

「稲葉氏の言う通り、です。あまりにも古ぼけた制度であるためについ失念しておりました。私の立場では、確かに、総理にこれ以上踏み込んだ助言をするのは控えねばなりません。ただ、一点だけ、先程の稲葉氏の説明は誤解を招く言い方が含まれています。文民統制という制度は正確には――」

 補佐官さんは急に言葉を切った。それと同時に、会場の後ろの方で扉が開く音がした。僕達三人がそちらを振り返ると、一人の外国人の男が入って来るのが見えた。真っ黒な礼装と丁重な物腰からみると、どこかの国の外交官らしい。何か渡したい文書を持ってきたらしい体だったので、応対するために補佐官さんはそちらの方へ行ってしまい、僕と稲葉の二人が取り残される形となった。

「おい浦嶋、要するに、これはお前の一存で決まるって訳だ。お前はどうしたいんだ? 公表するのか、それとも隠蔽か?」

 ここぞとばかりに稲葉が尋ねてきた。外交官と話している補佐官さんの後ろ姿を一度だけちらっと見て、彼女の言った事をもう一度頭の中で繰り返した後、僕ははっきりと言った。

「公表する。今すぐに、だ。早くみんなから意見を集めないと。僕の役目はただ総理の椅子に座る事であって、好き勝手に支配する事ではないんだろう?」

 稲葉はにやっと笑った。「あまり利口なやり方じゃないな。本当にいいのか総理殿? 厄介な事になるだろうぜ」

「ああ、それでも結構だ。僕なんかじゃ経済だの国益だのといったことは分からないけど、人として何が正しいのかは理解しているつもりだよ。稲葉臨時警護官、僕の名義で大至急アゴラに報告してくれたまえ」

「はいよ」稲葉は、ポケットから例の情報端末を出して操作し始めた。「そうと決まれば、後はあの大統領の白髪頭を冷まさせる策を練るだけだな。つっても血の気の多い老人だから、もしかしたらこのまま勝手にポックリいっちまって――」

「あの、残念ですが、事態は更に悪化してしまいました。あちらに先手を打たれました」

補佐官さんが、足早に戻って来ていた。彼女は先程の外交官から受け取った書簡を両手で持っていた。

「合衆国からの正式な開戦通告です。これにより、戦争の回避は不可能となりました」

 すうっと、僕の顔から血の気が引いた。間に合わなかった。和平交渉どころか、内輪もめをまとめるだけで時間切れになってしまった。僕のせいで、この国の人々に取り返しのつかない被害が出てしまう――。

「なんてこったよ、おい。やっぱ、呑気に飯食ってる暇は無かったってことか?」

「あれは仕方のない事です。こちらがどう動いたとしても、大統領がただで最後通牒を取り下げてくれることは無かったでしょうから。即座に交渉に当たっていたとしても、最終的にこの結果を避けられたとは思えません」

 震える声で僕は尋ねた。「それで、どうなったんです? この国はどうなってしまうんです? 僕は、一体、どうすればいいんですか?」

「開戦通告の文中に、戦闘開催場所と戦闘開始時刻の告知が含まれています。えっと確か――」

 場所と時間の告知? それはどうもご丁寧に、戦争というものも意外と形式ばっているんだな――。僕がそんなことを思う間に、補佐官さんは手元の書簡を読み直し、言った。

「随分と近いですね。戦闘はここから数駅先にある、国営競技場にて行われます」

「…………へ?」

「戦闘開始は明日の午前十時ちょうどです。では一応余裕をもって、そうですね、九時半頃には現地に集合しているようにお願いします。くれぐれも、遅刻なさらないように」

「はい……?」

 何食わぬ顔で書簡を畳んでいる補佐官さんを尻目に、僕と稲葉は顔を見合わせた。




 その翌日の午前十時丁度、僕は何が何やら呑み込めないまま戦場の片端に突っ立っていた。戦場と言っても、普段はフットボールにでも使われるような広々としたピッチであり、そこには僕の他にはただ一人、敵である大統領が向こう側のライン上にいるだけだった。補佐官さんと稲葉、それに昨日の晩餐会にいた各国の首脳や要人たちはみな観客席に控えていて、眼下の〝戦争〟の成り行きを固唾を呑んで見守っている。僕はぼんやりとしたまま、右手に握りしめた武器に視線を移した。つい数分前に支給されたそれは、この異様な戦場の中でも際立って異彩を放っていた。果たして自分にこんなものが使えるだろうか、これで何が出来るのだろうか。自分がこのような武器を握っていることを嫌悪しながら、僕は思案に暮れていた。

 昨晩の打ち合わせでは九時半に競技場に集合となっていたものの、僕は今朝の七時には既に競技場に着いていた。補佐官さんは確かにこの場所だと言っていたが、なぜ競技場なのかは未だに説明されてないままで、周りを見回しても、朝早いせいか人影はほとんど見当たらない。自宅にいても不安で居たたまれず、かと言って早々に競技場に来てみても当然何かが変わるわけでもなく、結局入り口前の広場で一人腰かけて悶々と時を過ごす他はなかった。そうしてそのまま重苦しく三十分ほどが過ぎた頃、やはり同じように堪らなくなって出てきたらしく、ふらりと稲葉が姿を現した。しかし驚いたことに彼は僕を見つけるや否や血相を変え、僕の所に駆け寄って来た。

「おい、こんな所で一人で何やってるんだ。今のお前の状況、分かってるのか?」

 そう言うと稲葉は僕を掴んで建物のかげに引っ張っていった。僕の発した「何だよ一体どうしたんだ」という問いに、稲葉は手早く鞄からノートパソコンを出しながら答えた。

「お前はアゴラを見ていないのか? こんな時に」

「家を出てからは見てないよ。何か良い案でも出てるの? 携帯電話じゃ見れないし、どちらにしろ何かあったら例の通告が起こるから――」

「この呑気野郎め。これを見ろ。事情を公表した結果、見事に厄介な事になりかけてるんだ。お前に怒りの矛先が向けられているんだよ。事態があまりに唐突過ぎるおかげで国民の大半が半信半疑のままだが、それでもアゴラの荒れっぷりは酷いもんだ」

 僕は画面上に表示された電子掲示板を見た。そこは開戦に対する恐怖と僕への非難で溢れ返っていた。

:総理がなぜ戦争に突っ走ったのか、理解に苦しむ

:おいおい嘘だろこんなこと。どうなっているんだ。

:就任して半年も経たぬ内にこれ程の問題を起こすとは。一国の総理が聞いて呆れる。

:いやだ俺あんな無能なガキのせいで死にたくない

:浦嶋氏を戦犯として捕らえ、総理の座から引き下ろすべきだ。兵労隊にでもしてしまえ

:同意。むしろ今捕縛して相手国に差し出せば、我々市民の命は助かるのでは?

 僕は思わず顔を背けた。自分の失態を晒す以上、心のどこかで恐れていた事だったが、こうして目の前に出されると見るに堪えないものがあった。

稲葉が言った。「分かっただろ。ともかく現状として、お前はこの国の国民を敵に回しつつあるんだよ。そんな中で当のお前が一人で人目に着くところにいたら、何が起こるか分かったもんじゃない。ちょっとは臨時警護官の身にもなってくれ」

「でも何でだよ? どうしてこうなったんだよ? 僕が事情を公表したのは、みんなに対して正しくありたかったからなんだぞ。別に僕が戦争を望んだわけじゃないのに。それなのに、何でだよ?」

必死になって喚く僕に対して、稲葉はしかめっ面をして見せた。

「ああ、お前の判断に間違いは無かったさ。……ただ、間違いじゃないからって言っても、それが必ずしも一番の正解であるとは限らないんだろうな、政治ってのは特に」

「何だよ、僕のやり方が良くなかったって事か?」

「そうじゃない。ただ、賢しい人間ならもっと利口な手も使えただろうって事だ。お前が絶対使いたがらないような、利口な手をな」

 稲葉が同情の目つきで僕を見ているのに気付いて、僕は子供みたいに喚くのを止めた。それっきり、僕達は互いに深くため息をついて黙り込んでしまった。

 そして再びゆっくりのったりとした時間が流れていった。物陰に隠れるように座っていると、時折正装をした外国の要人たちが数人で競技場の中に入って行くのが見えた。事情はよく分からないが、ここで何かがあるのは間違いなかった。そして集合予定時刻の少し前、九時二十五分ちょうどに、補佐官さんはいつもとまったく変わらない様子でやって来た。彼女は僕達を連れて競技場に入ると、無言のまま足早に通路を通り抜けていき、そして芝の青々としたピッチに降り立った。辺りを見ると、観覧席には既に何十人かの各国要人とその付き人たちがそれぞれ固まって腰かけている。食べ物を齧ったり新聞を読んだり、また興奮気味に隣と話している人もちらほらいた。

「見世物でも無いのに。傍観者は気楽なものでしょうね」補佐官さんが一人呟いた。

僕はとうとうじれったくなって質問した。「あの、昨日からずっと気になっていたんですけど、これは一体どういった事なのか、そろそろ教えてくれませんか」

「そうですね。では、これから行われる戦争について、説明を始めましょう」あっさりと、補佐官さんは話し始めた。「本来なら総理の就任時に職務の一つとして説明すべきなのでしょうが、我が国が他国と戦争をする事など滅多にも無い上に、内容も単純な物なので、慣例的に省略されることが多いのです」

稲葉が言った「ってことは、この戦争ってのはやっぱり俺達が想像するような戦争とは違うのか? 大砲やミサイルを撃ちあったり、互いに街を焼き払ったりするような――」

「黙ってお聴きなさい。今から説明するのですから」

 稲葉は何か言いたげな顔で、それでも黙った。僕はほんの少しも聞き漏らすまいと身構えた。

補佐官さんが説明を始めた。「ルールは簡単です。どちらか一方が降参をするか、もしくは再起不能の状態に陥るまで、互いにただひたすら精一杯戦って頂くだけです。戦場となるコート内では一切の暴力行為が認可されます。ただし、コートに入れるのは当事国の代表である国家元首一名ずつのみで、それ以外の者の立ち入りはできません。ちなみに今回は我が国と合衆国との間での戦争ですので、浦嶋総理と大統領の一騎打ちという事になります。また、不慮の事故を防ぐため、指定された武器以外の凶器を持ち込むことも禁止です――」

「……はい?」

「――不正行為の防止の為、戦闘は国際機関からの調査団及び各国の代表たちが監視する下で行われます。ですので戦闘中は可能な限り相手への敬意を払い、一国の代表者として相応しくない行為は慎まなければなりません。……ルールの説明は以上ですが、簡単に言えばそうですね、決闘や果たし合いのようなものをイメージして、フェアプレーの精神で相手とがんがん戦って頂ければよろしいかと」

 そう言って補佐官さんは戦争の説明を締め括った。それに対して、稲葉も何か言いたそうな顔をしていたが、それより早く僕が声を上げた。

「いや、その、そもそも『ルール』ってどういう事です? スポーツやゲームじゃあるまいし、戦争なんかにルールなんて――」

「それが、ずっと昔からあるのですよ、総理」補佐官さんは平然と答えた。「大昔のルールはもっと単純で、戦闘に何人で参加してもよく、また武器の制限も無く、ただ宣戦布告をしさえすれば良かったのです。しかしそれでは被害が余りにも大き過ぎるものとなったため、次第に非戦闘員への攻撃の禁止や非人道的兵器の禁止といった細則が追加されていき、その集大成として今日の国家元首同士による決闘方式となったわけです。戦争と言えど、当初から現代に至るまできちんとルールは存在しているのです」

 今度は稲葉が僕を遮って発言した。「ちょっと待て。実は現代の戦争は元首同士の差しの喧嘩でした、なんて信じられるか。外国のニュースを見る限り、最近の戦争でもきちんと軍隊が動いてるぜ。歴史の教科書に載ってるのと同じように、兵士たちが行進したり敵の町を占領したりしている映像が、きちんとネット上で――」

「まさかそれを鵜呑みにしていたのですか? その兵士は恐らくただのエキストラです。関係省庁の役人が総出で撮ったのでしょう。現代の国家間の戦争に、軍隊の出る幕はありません。各国の政府はわざわざそんな映像まで作って、未だに戦争がかつての大規模なものであるかのように民衆に見せかけているのです」

「何の為だ? 目的は?」

「政府財源の確保です。実際、この決闘形式の戦争ではほとんど費用が掛からないので、これが一般に知られると国家予算のうち軍事費の名目で使用していた枠が大幅に削られることになり、関係者にとっては大損なのです。それを防ぐために、各国政府とも足並みを揃えて国民の知らないところで苦心しているのです」

 何だか酷い政治の裏話を聞いてしまった。その衝撃で稲葉はすっかり立ちすくんでいたが、一方で僕は少しずつ希望が湧いて来たところだった。――とどのつまり、この国の人々が戦いに巻き込まれる心配は無かったわけだ。それなら昨日、補佐官さんの忠告通りに事実を隠蔽しておいても良かった様な気もしてきたが、もうそんな些細なことなんてどうでもいい。事態は格段に良くなった。いくら合衆国相手の戦争とは言え、それが一対一の決闘なら十分に勝機はある。いや、年齢の差を考慮に入れれば、僕の方が圧倒的に有利なくらいなのだ。いくら大統領が老練な政治家でも、さすがに体力の面では厳しいものがあるだろう。軽率に戦争を吹っかけてきたことを後悔させてやれ。

僕は早くも勝ち誇りたい気分になっていたが、努めて平静を装って言った。「しかしこんな風にスポーツの試合みたいに戦争が行われるなんて。ルールを制定してそれに従うぐらいなら、最初から戦争なんて無茶な事はせずに話し合いで解決すればいいのに」

「もしそれが可能でしたらこんな事態にはなっていませんよ、総理」補佐官さんがそう言って、それから何かに気付いたように振り返った。「おや、もう合衆国陣営の方もこちらに到着したようです。そろそろですね」

 ピッチの向かい側に目を向けると、正装をした数名の男たちがわらわらと出てくるところだった。その先頭で一団を率いているのは、遠目にも紛れもなく大統領だと判った。昨日の晩餐会は憤怒の形相で出て行ったくせに、今日はとりわけ上機嫌で、部下たちと笑っているのが見える。まるで何かを楽しみにしてはしゃいでいる子供の様だった。その様子に不意に僕は不安を覚え、補佐官さんに尋ねた。

「あの、そういえばさっきの説明で、『指定された武器以外持ち込んではだめ』とかいうルールがありましたよね。という事は、ある種の武器は使ってもいいのですか?」

「持ち込み可能な武器はその国の国内総生産の数値に基づいて、国ごとに規定されています」補佐官さんは答えた。「本来軍事費として使える筈だった国力を、この戦争形式に於いても再現する為です。合衆国は世界第一位の大国ですから、大統領は戦場に拳銃を持ち込むことが可能です」

 拳銃。あの年老いた大統領でも僕を殺すには十分すぎる代物じゃないか。僕は背筋が寒くなったが、それでもまだ、希望を全て捨て去った訳では無かった。全体では合衆国には劣るものの、確かこちらの国も工業製品の輸出入で世界中で莫大な利益を上げているほどで、経済の面では世界有数の規模を誇っていると聞いた覚えがある。それなら相手が拳銃でも、こちらもそれに対抗できるだけの武器を持てなければおかしい。

「それで、僕が使える武器は何なのです?」

「こちらになります」補佐官さんがさっと片手で合図を出すと、それを待っていたらしい係りの兵労隊員がすぐに細長い包みを抱えてやって来た。慎重な手つきで差し出されたその品を受け取り、包みを解くと、中からは一本の奇妙な褐色の棒が現れた。

「何ですか、これ?」僕は訊いた。棒は金属ではなく、植物で出来ていた。――か細く軽く、とても頼りなさそうに見えた。

「おや、御存知ないのですか? 牛蒡(ごぼう)というものです。キク科の一年草で、我が国では食用として知られています」

「それで? ゴボウで一体どう戦うんだ?」横から稲葉が訊いた。

「さあ? 私にも全く分かりません。ただ、我が国は法の下に一切の兵器及び軍事組織の所有を禁じておりましたので、凶器となりうるものを戦場に持ち込むことは、一切認められないのです」

 僕と稲葉は顔を見合わせた。

「じゃあ何です、僕はこんな棒切れで鉄砲と戦わなければいけないのですか?」

「『棒切れ』ではありません、『牛蒡』です。呼称にはお気を付け下さい。棒切れでは凶器として認定されかねませんから。法がある以上、危険性の認められない物しか持ち込めないのです。どうしても牛蒡がお気に召さないのでしたら、今からでも何か他のもの――例えば筍(たけのこ)にでもお取替えしますが、いかが致しましょう?」

 結構だ、と僕は心の中で吐き捨てた。タケノコがどういった物であるかは知らないが、どうせこのゴボウよりましな物でもあるまい。銃を持った相手にそれでどうしろと言うんだ? こんな戦い、どうしたって勝てるわけがない。いや、勝ち負け以前にこれでは一方的に大統領に殺されてしまう。

「これじゃあよ、もう今すぐ降伏してもいいんじゃないか? 負けたところでこの国そのものが取り潰されるってことも流石に無いだろうし、何よりどうせ戦ったところで勝ち目はないんだ。このまま戦わせるってのは、浦嶋を無駄死にさせるのと同じだぜ」

 稲葉が吹っ切れたようにそう言ってくれて、僕は心底彼に感謝した。しかし、補佐官さんはその提案に難色を示した。

「本来なら、私もそう提案したいところです。ところが、その、今回はアゴラの動向を見る限り、たとえ降伏したとしても、総理の身の安全は保障されるとは言い難いのです」

 彼女にしては珍しく、どこか歯切れの悪い言い方だった。稲葉がノートパソコンを取り出して調べ始めるとすぐ、彼の顔色がさっと変わった。僕は横から画面を覗き込もうとしたが、補佐官さんによって止められた。

「総理はご覧にならない方がよろしいかもしれません。精神衛生上、あまり好ましいものではありませんから」

「どういう事です? アゴラで一体何が?」

「――ええっとだな、最近の議論の内容をごく簡単に要約すると」稲葉が画面を見続けながら口を挟んだ。「アゴラ全体で、という事はつまりこの国の市民全員の総意として、って事になるんだろうが、お前を政治犯や戦犯として起訴する動きが出ている。そして求刑の大まかな内容は、ええっと――何てこった、死刑容認派ばかりかよ、畜生――おっと、いや、何でもない。気にしないでくれ」

 稲葉は顔を上げて、誤魔化すようにせせら笑って見せた。しかし普段より明らかに顔色が悪く、視線がふらふらとぶれている。親切な彼は求刑の内容について言葉を濁してくれていたものの、それでも十分、僕にもおおよそのことが察せられた。

僕は信じられない気持ちで補佐官さんに尋ねた。「そんなまさか。こんな事で本当に僕が処刑されるなんてこと、無いですよね?」

「総理、この国は直接民主制ですから。アゴラの多数決の結果によっては、刑法の規定に依らずに処罰が確定することも十分にあり得ます」彼女は僕の顔を見ずに答えた。

「冗談でしょう? 多数決で処刑なんて、それじゃ法律は一体何の為に有るんです?」

「この国では、その多数決こそが一番の法律なのです、総理」

稲葉が気の毒そうに言った。「まあ何だ、戦っても降伏しても結果は多分同じだぜ。後はお前の意思の問題だな。嫌な選択肢しかないが、総理大臣としてじゃなく一人の人間として、逃げるなり戦うなり好きな方を自由に選んでくれ」

 昨晩の補佐官さんの忠告を無視したことが、この時になってひどく後悔された。


 そうして僕は今、この戦争のふざけた戦場に立っている。つい数分前に渡された牛蒡を握りしめて、もっともこの牛蒡に何の意味が有るのかは知らないが、それでも素手でいるのは余りにもおっかないので気休めに握りしめて、微かな勝算も見出せないまま、国営競技場のフィールド中央少し右の位置に突っ立ている。そしてその反対側、フィールド中央少し左には、拳銃を手にした合衆国大統領が身構えていた。観客席には各国の元首や外交官、それに通訳官とそれらの警護の者たちがぐるりと陣取り、興奮気味にこの戦争の様を視察している。興奮気味と言っても、彼らは決して戦いの行方に気を揉んでいるのではなく、むしろどちらが勝つかは十分な確信を持っているので、小さな一等国が大国の圧倒的な力によってひと捻りされるのを見世物のように眺めているのである。この戦争において公正を司る審判員はと言うと、彼らは戦争に巻き込まれるのを防ぐためにピッチの外の四方でひっそりと待機している。認可されない行為が無いか監視する他に、どちらかが物言わぬ状態になった際にはその確認と事後処理をするそうだ。僕は僅かな救いを求めて観客席を見回したが、その中にいるはずの稲葉と補佐官さんの姿は人混みの中に紛れたらしく、さっきから見当たらなくなっていた。

 僕は視線を上げたついでに、観客席の上部に設置された巨大な電光掲示板を見た。そこにはアナログ時計が表示されており、それによれば現在の時刻は戦闘開始時刻の十時丁度から数秒、あるいは数分が過ぎたところだった。既に戦争は始まっている。僕は再び視線を大統領に戻した。さっきからずっと、大統領は訝しげにこちらを見ていたようだった。目が合ったが、僕は何も言わず、何も仕掛けず、表情すらも変えなかった。するとやがて、大統領が堪り兼ねたように自ら口を開いた。

「ウラジマ・ソーリ、君はさっきから何故に突っ立っているのかね? もう既に戦闘は始まっているのだが。怖気づいたのか、足が竦んだのか、それとも恐怖で頭がおかしくなったのか?」

 僕は首を横に振った。「いえ。ただ、戦闘開始と同時にそのまま撃たれて終わるだろうと思っていたものですから。こうも間が空くと、なんだか妙な気分です」

大統領が首を傾げた。「それは奇遇だな。私は丁度正反対のことを考えていた。戦闘開始の一瞬の隙に、君がその棒切れで私に打ち掛かって来るだろうとな。そう来れば君の言う通り、一発で仕留めてやるつもりだったが、しかしこれほどの武装の差でそれ以外に君が勝つ方法などあるまい。だが、君はそれすらしなかった。何故だ? 戦う意思が無いのか?」

「まあ、そんなところです」

 僕は正直にそう答えた。やけになって突撃したところで十中八九死ぬだけなのは目に見えていたし、かと言って戦場から逃げ出しても今度は死刑台が待っているのだ。望みは無いが、取るべき道も無い。こうして戦場の真ん中に突っ立って、大統領が突然奇跡的に腹痛でも起こすのを期待する他は仕様が無いのだ。そうした僕の事情を知ってか知らずか、大統領はハハハッと軽い笑い声をあげた。

「君は本当に面白い男だ。戦う意思が無いのならそれはそれで結構、私にも君を撃ち殺さねばならん理由は無いからな。さっさと降伏したまえ。現代の戦争がこの決闘方式になっていて良かったじゃあないか。昔のやり方なら、君から降参の言葉を引き出す前に、互いに莫大な数の兵士を犠牲にせねばならないところだ。それが今はこのやり方のおかげで、戦車やミサイルによらずとも争いごとを解決できる」

 大統領はさも可笑しそうにそう言ったが、それでも彼の指は抜かりなく引き金に掛かっていた。

「君とてこの場で殺されるのは嫌だろう? 私の言う事を聞いて、素直に降伏すればよい。……ああ、その際に君の国にとって不都合な条約を幾つか結んでもらうことになるが、そんなことは気にするな。君はただ、数枚の書類に余分に署名をすればいいだけなのだ」

ふと気になって、僕は訊ねた。「何です、不都合な条約って?」

「君が気にすることでは無い」大統領は脅すように両手を広げた。「君のような子供には理解も及ぶまい。ただ大人しく署名をすればそれで良いのだ。私とて勿論、あのような、君の国に大損害を与える条約を結ばせるのは心が痛む。だが仕方が無いのだよ。君たちが一方的にこの戦争を仕掛けてきたのだから、相応の罰を受けてもらわねばな」

「僕達が戦争を仕掛けた、ですって?」

そんな筈は無い。僕は驚いて声を上げていた。しかし大統領は目を閉じて首肯し、淡々と、よく響く声で語った。

「そうとも。私は最初から君たちとの友好を望んでいたのに、君たちはそれを踏みにじり、あまつさえ公の場で手袋を投げるという暴挙に打って出た。さらに私が寛容にも最後通牒という猶予を与え和解案を待ってやったのに、その間君たちは一向に譲歩の姿勢を見せず、平和を望む我が合衆国をこうして戦禍に巻き込んだのだ。――その通りだろう、我が盟友の諸君?」

大統領は観客席の首脳達に向き直り、同意を求めるように訴えかけた。首脳達はわずかにたじろいだ。しかし、大統領がもう一度「その通りだろう?」と語気を強めて呼びかけると、彼らは口々に賛同する意を訴え始め、ついには客席が一体となって大統領の側を支持し出した。

 ――そうだ、そうだ、大統領閣下の言う通り!

 ――やっちまえ、合衆国、悪い国家をぶちのめせ!

 ――合衆国! 合衆国! 世界の正義、合衆国!

「分かったかね? これが事実だ、ウラジマ・ソーリ」大統領が満足げに片手を上げ、スタンドから届く歓声に応えながら言った。「国際世論までもが私の正当性を認めている。君たちの方に非があるのだ。分かったかね? さっき言った条約の文書は既にこちらで準備してある。大人しく降伏し、平和条約を締結したまえ。悪いようにはせん。――尤も少しは代償を払って貰うつもりではあるが、しかし君たちが代償を支払えばそれで世界は平和になる」

 何が、平和だ――。何が世論だ。何が代償だ。こんな滅茶苦茶な事があってたまるものか。自信に満ちた表情の大統領に対して、僕は強い怒りを覚え始めていた。これじゃあ初めから、その条約を結ばせる事を目的として、こうなることを計算した上で大統領はあんな風に振る舞っていたんじゃないか。何て茶番だ。

「大統領、あなたの方が降伏して下さい」

 僕はそう言った。大統領が目を丸くして、呆れ返ったようにこちらを見たが、それでももう、僕は遠慮するつもりは無かった。どうせ助かる道が無いのなら言ってやる。僕は胸一杯に息を吸い込むと、吐き出すように叫んだ。

「この戦争は全部あなたの思惑通りなんでしょう? 政治の手段としてこの戦争を起こしたんでしょう? それなら悪いのは僕じゃなく、大統領の方じゃないですか。そっちが降伏するべきだ」

 大統領は衝撃を受けた顔をしていた。しかし次の瞬間、彼は堪えきれなくなったように噴き出した。

「どうどう、急に何を言い出すんだね君は。そう熱くなってはいかん。棍棒を持って穏やかに話せ。――と言っても、君が持っているのはたかが棒切れだけ、しかも支持する味方も無しだ。それなのになぜ私が降伏する? 馬鹿馬鹿しい」大統領は驚きと嘲りを込めて言った。観客席からも僕を笑う声が聞こえてきた。「世界で最も強大な国が我が合衆国なのだ。私はそれを誇りに思っている。何故君の貧弱な国に屈せねばならんのか、理解しかねるよ」

「それじゃあ大統領、あなたは恥ずかしくないんですか。このように喧嘩を吹っかけておいて、自分より弱い国を一方的に力で脅すなんて。自分が卑怯者だとは思わないのですか」

「全く、思わないね」大統領は笑いを噛み殺しながら答えた。

「ああ思わんよ。この力は我が愛すべき国民たちの不断の努力によって手に入れたものだ。それを指導者たる私が我が国家のために使うことに、一体何を恥じる必要がある? 国益を最大限に高めることこそが為政者の使命ではないか。そうだろう、お集まりの諸君?」

大統領はまたもや要人たちに向かって呼びかけた。彼らは再び賛同した。その喝采を浴びながら、大統領は言った。「自分の国をより強く、より大きく、より華やかに栄えさせることこそが我々指導者の役割だ。私はただそれを他の指導者より堂々と行っているに過ぎない。私は祖国の利益の為にこの世の地表を一吋でも多く、可能ならば天の星さえも併呑してしまいたい。その過程で間抜けな他国を食い潰したとしても、何ら問題などありはしまい? ウラジマ・ソーリ、君も一国の指導者であるなら、卑怯者だとかどっちが悪いだとか、そんな子供じみた事を言うんじゃあない」

「子供じみたこと、ですって?」今度は、僕が嘲笑する番だった。「では何です、安易に戦争を引き起こすことが大人らしいことなんですか? 都合の悪いことを暴力で脅して解決することが? 欲しいものを力ずくで取り上げることが? 大人なら、もっとましなやり方があるでしょう?――僕が子供だというのなら、あなたはくそがき以下だ」

 っだぁーん、と大きな音がして、反射的に僕の体は竦んだ。ほんの一瞬、大統領の右手から生じた閃光と、そこから延びる白い弾道が僅かに見えた気がした。大統領がいきなり空に向けて拳銃をぶっ放したのだ。銃声の反響が静まるにつれて、観客席のあちこちからの悲鳴が聞こえてくる。少し遅れて硝煙の匂いが鼻を衝く。弾が体に当たっていなくとも、衝撃にこっぴどく打たれた心地がした。――自分の両足が微かに震え出したのが分かった。

「君では話にならんよ。ぐだぐだと理想論を述べることこそが最も子供じみていると、どうして気付かない? 自国の利益のみを追求してこそ一級の為政者だ。私がどんなことをしようとも、それが我が国の利益となる限り、我が国民は心から私を愛してくれる。だからこそ私はどんなことでもできるのだ。国が私を愛し、私が国を愛しているからこそ――。それで、君はどうなのかね? こんな勝ち目のない戦いにも挑んでくるほどだ、さぞかし君も君の国を愛しているのだろう? え? おい」

「僕は――……」

僕は言い返そうとしたが、思わず言葉に詰まった。そしてアゴラでは今まさに自分を死刑にすることで議論が進んでいる事を思い出してしまうと、返す言葉はもう出て来なかった。それを見るや、大統領はフンと鼻を鳴らし、追撃するように言った。

「言っておくが、私は当然ながら、君の素性を全て調べてあるぞ。君が今まで殆どこの国にいなかったことも、望んだわけでもないのに今の地位に就かされたこともな。君はなぜ私に盾突くのだ? 君にとってこの国は祖国などではなく、あくまで書類上の母国に過ぎないではないか。命を捨てて守るほどの価値は無かろう?」

 大統領は朗々と語った。僕はつっかえつつも、言葉を絞り出して反駁した。

「でも、――そうだとしても、この国の総理大臣は僕なんだ。僕には総理大臣として責任がある。だから、何があっても、この国を守る義務があるんです」

苦し紛れの反論に対して、大統領はすぐには何も言わなかった。しかし空の彼方を向いていた銃口がゆっくりと降りてきて、そして僕の眉間の一点をしっかりと捕捉した。僕の視線と、そしてその向こうにある大統領の視線と銃とが綺麗に一直線上に並んでいた。大統領が指を数センチ動かせば僕は死ぬ。鉛の弾が自分の頭蓋に抉り込んでくる痛みを無意識の内に想像してしまって、僕はぞっと身震いした。

「君が棺桶に入ったら、その後はどうやって国を守るつもりかね? ここで死んでも死ぬだけ無駄だと思うが?」

「でも、僕は――」

「どうしても降伏できないと言い張るのなら、私も君を射殺せねばならないだろう。だがミスター・ウラジマ、よく考えてみてくれ給え。君は既に十分よくやった。ああ、よくやったのだ。誉めてやろう。後は大人しくこちらの要求を呑むだけで良いのだ。その価値の無い王冠など脱ぎ捨ててしまえ。……ああそうだ、言い忘れていたが、こちらにはそのための準備もある。私の言う通りに従えば、その後で君をこの国から秘密裏に連れ出し、友人として我が合衆国に迎え入れてやろう。市民権も生活に必要な財産もくれてやる。我々は君を、完璧に救ってやれるのだ」

大統領は微笑むと、何も持っていない方の手も上げた。彼は今や片手で拳銃を突きつけ、片手で僕に手を差し伸べていた。彼の言う事を信じるならば、僕は無事に、この戦争からも怒れる民衆からも逃れて生き伸びることが出来るのだ。

足元がぐらりと揺れたような気がした。大統領は僕の弱みを的確に突き、立ちはだかる理由を根こそぎ奪っていった。そしてこの一撃は同時に、僕に圧倒的な無力感をも植え付けた。もし大統領が拳銃を持っていなくとも、彼はた易く僕を打ち倒す事が出来ただろう。僕と大統領の間には圧倒的な差があった。それも単純な国力の差ではなく、もっと根深くもっと重大な次元に起因する覆しようのない差であった。これほどの差があるのなら、どうしたって抗えるはずもない。僕はそう思い知った。反論する意思も失い、俯いて、ただその場に立ち尽くすしかなかった。

 すべては大統領の目論見通りに進んでいた。彼はその武力を使うまでも無く、僕を言葉巧みに籠絡してみせた。この国の総理大臣は大統領の前に、ともすれば卑屈な笑みすら浮かべて、地に額をつけて降伏していたかもしれない。

 ふと耳に、聞き覚えのある声がした。観客席の方からだった。いくつもの言語によって構成されるがやがやとした騒音の中、その声だけははっきりと聞き取れた。僕の名前を呼んでいる。はっきりと、「おい浦嶋この野郎」と怒鳴っている。顔を上げて仰ぎ見ると、観客席の最前列、身を乗り出すようにして稲葉と補佐官さんが立っていた。

「何をやってるんだ。こっちはもう用意できた。いいか、後はお前次第で勝てるんだ」

 僕は呆けたように二人を見た。何を言っているんだろう、稲葉は。戦場には当事国の元首しか入れない以上、今更二人が来ても何の助けにもならないというのに。しかも既に、あらかた決着がついてしまったというのに。

「状況をよく考えろ。あの大統領の野郎が、未だにお前を撃っていないのは何故だ?」

 何故って、それは僕を撃つ必要が無いからだろう。僕を説得すれば、それだけで十分なのだから――。

ここまで考えて、やっと僕は気が付いた。逆だ。大統領の側からすれば、僕を撃つことさえできれば説得する必要すらなかったのだ。戦闘開始とともに一発で仕留められていれば、ルール上ではそれであっさり合衆国の勝ちとなっていた筈なのだ。だが、不思議なことにそれはしなかった。あの大統領が、僕に情けをかけようとしていたのか? まさか。それなら――。僕の頭に、閃くものがあった。勝機があるかは分からないが、試してみる価値は十分にある。

 僕は賭けに出た。大統領に背を向けて、観客席に向かって大声で叫んだ。「各国からお集まりのみなさん。この大統領がどういった人間か、今まさに目の当たりにしたことでしょう。ここで僕が倒れれば、おそらく次はきっとあなた方の国が狙われる番です。弱い国や豊かな国から次々と目をつけられ、貪られていくでしょう。この大統領はそれを平然とやってのけるような奴です」

 居並んだ要人たちからざわめきや嘲笑が起こりかけたが、それも再び響いただぁんという銃声に掻き消された。大統領が再び銃を空に向けて、今度は怒りで顔を真っ赤にして発砲していた。僕は一瞬ぎくりとしたものの、同時に安堵もし、観客席に向かって叫び続けた。

「ご覧ください。大統領は拳銃を持っていても、僕を撃つことすら出来ない。何故か? それは皆さんがここにいるからです。強大な力を誇る彼でさえ、実は心の中では皆さんの力を恐れているからです。大統領が僕を撃ったとすれば、その瞬間に合衆国も破滅への道を歩むことになる」

 再三銃声が響き渡り、大統領が怒号を飛ばした。「黙れ、よくも根拠の無い事をべらべらと! まだ逆らう気があるのなら、無駄口を閉じてその棒切れで私に打ち掛かって来るが良い。相手になってやる」

「これは棒切れなんかじゃない。ゴボウという植物です!」僕はそう叫ぶと、ずっと握りしめていたその牛蒡を両手で一息にへし折った。めきり、と小気味良い音がした。「根拠なら、ちゃんとある。僕は丸腰で、しかも最初から戦意なんて無い。それなのにこの僕を撃てば、大統領は一方的に戦争を仕掛けた上で無抵抗の相手を撃ち殺したという事になる。それがどれほど露骨で体裁の悪い事か、どれほど人々から軽蔑されるべきことか、大統領自身もよくお分かりでしょう。さっきみたいに脅して正当性を認めさせようとしても、こればかりは誤魔化しきれない筈です。そしていくら大国であろうとも、世界中の国々から反感を受ければ国家の存続が危うくなる。それを心の中で恐れているがために、大統領は僕を撃てやしないんだ」

「何を、戯言を――!」

「なら、撃てますか?」僕は大統領に向かって、真ん中でへし折られた牛蒡を突き付けて言った。首の皮一枚で繋がっていた牛蒡の片半分が、先の方でへなへなとだらしなく揺れた。「今、この僕を、その拳銃で、世界の人々が見ている前で、あなたは、――本当に、撃てますか?」

 大統領は怒りのあまり狂ったように一声吠え、銃を構え直してありったけの弾を乱射した。度重なる銃声が鼓膜をひどく痛めつけ、本能的な恐怖を湧き起こさせたものの、しかし肝心の弾丸は一発たりとも僕を掠めもせず、全てあさっての方向へと流れ去った。やがて拳銃は火を噴くのを止め、ガチリガチリと虚ろな金属音を立てるだけとなり、込められていた弾をすべて吐き出し終えたことをその場の全員に告げた。大統領は呆然自失の体で立ち尽くし、各国の要人達からはため息が漏れた。

「――くそったれが」

大統領はいまや僕よりはるかに無力に見えた。しかし大統領はそれでも諦めきれないようで、ポケットから新たな銃弾を取り出すと、急いで銃に込め始めた。数発の銃弾が震える手からぽろぽろと転がり落ちた。僕は首を横に振り、ずっと握っていた牛蒡を手放すと、静かに告げた。

「もう銃を捨てて下さい。そんな物、最初から無意味だったんです。あなたは僕にとっては十分すぎるほど脅威でしたが、結局のところ、お互いに何もできないんです。これでもう、終わりです」

 圧倒的な力を持つ銃がある以上、こちらから大統領に攻撃を仕掛ける事は出来ず、またこちらが僅かにも攻撃の意思を見せない限りは大統領の方も僕を銃撃する事が出来ない。考えてみれば単純なことで、一度でも膠着してしまえばこの戦争はただの睨み合いとなる他なかった。だからこそ大統領は僕を脅し、言いくるめて降伏させようとしていたのだ。合衆国が確固たる利益を得つつ、流血を避けることで表面は穏便に取り繕うために。しかし全ての事情を皆が把握したことで、もはや勝敗が決することなどなくなった――はずだった。

 おい、と観客席の中から声を上げる者がいた。それは今までに、どこかで耳にした覚えのある声だった。

――おい、諸君、今ここで大統領を見逃しちまっていいのか? あいつは狡猾な帝国主義者なんだぜ。放っておけば、さっきウラジマ首相が述べたように、小国から次々と奴の餌食になっていくだろうよ

 他に喋る者はいなかった。皆が固唾を呑んでその男の言葉に聞き入っているようだった。その声はなおも続けた。

――他の先進国諸君にとっても、これはまたとない好機じゃないか? 幸運なことに拳銃はいま撃ち尽くしたばかりで、弾を込め直せてもせいぜい一、二発だけ。一人では厳しいかもしれないが、ここにいる全員で力を合わせて一斉にかかれば、あの合衆国も最小限の被害で倒せるだろうな

 各国の要人たち、なかでも特に指導者層の人たちが一斉にぴたりと動きを止め、目だけを動かしてお互いに探り合いを始めた事に僕は気付いた。行動を起こすべきか留まっておくべきか、どちらが良いかまだ計りかねているといった具合だった。そのまま誰も動かない。しばらくして、例の声はいらいらしたように続けた。

――諸君はいつまで合衆国に怯えているんだ? ウラジマは健気にも武器すら持たずに対峙したというのに、諸君は彼をここで見捨てる気なのか? 腰抜けどもが。いまこそ彼に続いて立ち上がるときじゃないのか?

 一瞬、静寂が訪れた。誰もぴくりとも動かなかった。――晩餐会の時からみんな大統領を恐れていたんだ、誰も彼に刃向おうとしなくて当然だ、と僕は思った。しかし次の瞬間、一人の指導者が弾かれた様に立ち上がり、金切り声でこう叫んだ。

「モルツェン ヴェ モルダン、モルエーデン ダ ラレディフ モル!」

 僕は驚いてその男を見た。その指導者は何やら二枚の紙を空高く放り投げると、次にはわあっと喚声を上げながら猛然と戦場であるピッチに駆け下りてきた。

 それから後はまるでドミノ倒しを見ているようだった。その男の叫び声の反響が収まらないうちに各国の元首たちが続々と席を立ち、めいめいが二枚の紙を宙にばら撒くと、観客席からフィールドへ向かって黒い雪崩のように押し寄せ始めたのだ。彼らも戦場に踏み込む際には最初の男と同様に叫び声を上げていて、それでやっと、僕は彼らが皆それぞれ自国の語で合衆国に対する宣戦布告を叫んでいるのだと理解できた。

「大した眺めだな、おい」いつの間にか再び稲葉が客席最前列まで戻って来ていた。「よくやった。こうなったらもう大統領にも打つ手は無いさ。お前の勝ちだ」

既に形勢は逆転していた。誰もかれもがその矛先を大統領に向けていた。宙には風に乗って紙片が舞い、その下では人々の黒い群れが喚声を上げて殺到する。先刻まで僕と大統領が差しで行っていた戦争とは打って変わり、そのさまはまるである種の暴動のようにも見えた。どの国も勝ち馬に乗り遅れまいと躍起になり、その場にいた元首のほぼ全てが乱入してきている。しかも大統領がピッチのほぼ真ん中に立っていたことも災いして、彼は観客席からの乱入者たちによってぐるりと包囲された形になっていた。

「――俺が言うのも何だが、胸糞悪い光景だぜ。死にかけの蛾に蟻がたかっているようなもんだ」

 乱入組はじりじりと包囲の輪を狭めた。突然大統領の持つ拳銃が火を噴き、最も近くまで迫っていた指導者が跳ねるようにして倒れたが、それでも圧倒的な多勢に無勢、彼らはもはや怯みはしなかった。むしろその銃声が合図となって、残りの全員が四方八方から一斉に飛び掛かると、大統領を地面に押し倒して滅多打ちにした。怒号と悲鳴が飛び交う中、僕はその乱闘の中に飛び込み、今しがた撃ち倒された男を必死になって引きずり出した。その男は観客席から一番最初に飛び出してきた男でもあった。どこから借りてきたのか古びた安物のスーツを羽織っていて、そのせいで遠目には分かり辛かったものの、彼が宣戦布告した際のあの特徴的な言語にははっきりと聞き覚えがあった。昨日の晩餐会の時に廊下で出くわした、あの白服の若者だ。

「ゴン国王? ああ、そんなまさか!」

 羽織っていたスーツがずり落ち、見覚えのある姿が現れた。ただ、褐色の肌からはいくらか血の気が失せ、例の白い衣裳には真っ赤な染みがじわじわと広がりつつあったけれども。

「そんなまさか! ――だれか、誰でもいい、この人を助けてあげて下さい!」

 僕はこの戦争が始まって以来初めてはっきりとした恐怖を感じた。助けを求めて大声で叫んだが、誰一人として来てくれない。乱入組は大統領を打ちのめすことに夢中で、審判団も乱入者がばら撒いた書類を回収するのに必死で、すぐ傍で一人の人間が死にかけていることなど誰も気にもかけていなかった。――何という事だろう、この人も自国に還れば国王の地位にあるというのに、ここでは誰からも気にされることなく野垂れ死にしようとしている。僕の為に真っ先に立ち上がり、僕の代わりに銃弾を受けたというのに。僕は一旦ゴン国王の傷口を手で押さえて出血を抑え、それから再び助けを求めるために怒鳴り声を上げようとしたが、顔を上げて乱闘の方を向いた瞬間、僕の視線は凍り付いた。

 大統領が立ち上がっていた。額が割れて顔は血で覆われ、右腕は壊れた人形の手のようにだらりと力なくぶら下がっていたものの、それでも大統領は二本の足に力を込めて立っていた。僕が目を向けた時も数人の男が殴っていたが、大統領は殴られるままに耐え続け、飛んでくる拳を防ごうともしていなかった。やがて彼の後ろに回った大柄な指導者によって蹴り倒されたが、それでも大統領は全身の力を振り絞ってすぐに立ち上がった。しかし、彼は立ち上がったところで反撃に出るわけでもなく、自分を取り囲んだ者たちを恐ろしい形相で睨めつけるだけだった。殴られ、蹴倒され、立ち上がる――そのサイクルが僕の目の前で何度も何度も繰り返された。このままいくら粘ったところで何の勝機もない事ぐらい、大統領自身も分かっていた筈だろう。それでも彼はこの戦場に留まる一分一秒が無上の価値を持つかのように、自国の敗北の瞬間を先送りするために死力を尽くして立ち上がり続けた。

 やがて、一人の元首が殴り飽きたらしく包囲の輪から離れ、地面に転がったままになっていた拳銃を拾い上げた。僕は次に起こる事を想像し、それを心の底から嫌悪したが、しかし声を上げることも止めに入ることもできなかった。その男は銃にまだ弾が込められていることを確認すると、倒れた大統領に向かって背後から無造作に狙いをつけ、そしてそのまま引き金を引いた。

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