3


 生まれてから数年の間、僕はこの国に住んでいた。古いアルバムをめくってみると、この国のある街角を背景に笑っている僕が写っている。物心がついたときには既に外国に渡っていたが、それより以前に幼心に見たこの国、今は記憶の断片の中となったその国にはおかしなところなど全く無く、居心地の良さばかりが思い出される。勿論、その当時にもアゴラや兵労隊といった制度はあった筈だが、今の僕が直面しているような問題は当時の記憶の中には無い。まるで昔見た国と現在僕の居る国が二つの別の国である感じがする。これが僕の不在の間に国に何らかの変革が実際に起こったためか、それともただその十年近くの間に僕個人の視点が変わっただけなのかは、分からない。




天高く、馬肥ゆる秋――。深夜の作業の最中、いつの間にか日付が変わっているのに気付いて、僕はそんな言葉をふと思い出した。この国の暦の上では今日から秋ということになるらしいが、そういっても実はまだ八月初旬、実感としては秋というより紛れもなく夏である。そして長い夏の夜というものは、夏休み中の学生にとっては好きに使える自由時間なのだ。自分の趣味に興じて夜更かしするもよし、受験に向けて勉学に励むもよし、あるいは何の気兼ねも無く気怠い眠りに落ちるのもよしと、今この瞬間にも全国で何十万という学生がめいめい思い思いにこの時間を過ごしていることだろう。だがそれでも、今の僕のように『兵労隊制度廃止案』などといういかめしい文書を書き上げている奴はそうそういまい。

 僕はパソコンの画面から目を離し、大きく伸びをした。自分の部屋でゆったりと作業していたとはいえ、長時間にわたって堅苦しい文書を書いていたためにすっかり肩が凝ってしまっていた。首を曲げるとこきりこきりと小気味の良い音がする。慣れない作業で目が疲れて、室内の模様が僅かに霞んだ。夏休み当初、あのラーメン屋での一件があった直後、しかめっ面をしながらも状況を教えてくれた稲葉の顔が頭をよぎる。

――浦嶋、お前の価値観じゃ信じがたいかもしれないがな、この国には確かに事実上の奴隷制度が存在している。それも国家政策の一環としてだ。あの兵労隊の連中は、元々が罪人ってわけで、一般市民と同じだけの権利が保証されていない。法律による保護は受けられないし、原則としてアゴラに入ることもできやしない。つまり国に助けを求める事も自力で状況を打開する事も出来ないんだから、一旦兵労隊になっちまった奴はそれで最後、何があっても奴隷みたいに自分の主人に服従するしかないんだ――

 そのとき稲葉はそう語ってくれたものの、この件についてはあまり話したくない様子だったので、僕はそれ以上の追求はしなかった。それにいくら稲葉の話だとはいえ、やはり信じ難い感じがした。奴隷? 工業機械が発達したこの現代において、奴隷などに何の意味がある? 単に稲葉がオーバーな比喩表現を用いただけじゃないのか。事実、後で図書館に行ってその兵労隊制度を調べたところ、古い資料によれば『囚人を労働力として販売することにより、国庫の収入増を図ると同時に刑務所の管理コストを削減し、かつ囚人自身の社会復帰をも補助する目的で導入された画期的制度』という風に説明されていた。半世紀ほど前に当時の大学生が発案したものらしいが、つまりはそれまで税金でただ飯を食っていただけの囚人達を社会の労働力として活用できるようにしたわけで、それなら充分合理的な制度と言えるじゃないか。

 そう判断した僕は当座兵労隊の一件を頭の隅に押しやっておいたのだが、しかしそれ以来、まるで誰かが仕組んでいるかのように行く先々で兵労隊の姿を見ることとなった。まず、ラーメン屋での一件から三日後、近所のコンビニエンス・ストアでアルバイトの学生にぶん殴られているやつを見かけた。当の学生が殴りながら喚き散らしていたところによると、そいつは兵労隊のくせにバイトである自分に対して失礼な口の利き方をしたとのことで、その〝教育〟の為に学生はぶん殴っていたらしい。兵労隊員の方は歳は四十くらいで大柄な体つきだったが、ただ黙って学生に殴られているだけで、まったく抗う素振りを見せず、また他の客たちも止めようとはせずに淡々と自分の買い物に集中しているようだった。それからさらに数日後、今度は駅前の地下通路で別の兵労隊員を見かけた。そいつは通路の階段に腰かけて呆けたように中空を見上げており、行き交う人々はそれを避けて通っていたのだが、やがて現れた数人の警官によって彼はどこかへ連れて行かれてしまった。後で聞いたところによると、この兵労隊員は多分主人から暇を出されたか、もしくは逃げ出してきた者であり、どちらにしろ兵労隊でありながら労働に従事しない場合はそれ自体が大罪となるため、連行の対象となったらしい。連れて行かれた先がどこであるかは非常に気になったが(何しろ元々刑務所に入っていたはずの人だ)、結局誰も教えてくれなかった事から察するに、聞かない方が良い事なのだろう。そう言えば、僕が兵労隊について尋ねる度に、この国の人々は不快そうな顔をして話題を逸らせようとした。図書室の年老いた司書にもあれこれ尋ねてみたのだが、結果は同じようなもので、ただ僕の質問にうんざりし切った彼が最後に漏らしたのは

――あんないみものに関わり過ぎるのは良くない。さわらぬ神に祟りなし、だよ

という言葉だった。連中はあまり表には出て来ないけれど、この国の至る所――特に人目に付かない所なんかに確かにいる。それも恐らくはわんさかと。そして表側の人たちも彼らに接触することを避けているし、もし出くわしても不快感とともに黙殺する。あるいは手酷く虐げる。稲葉や司書が話しづらそうにしていたのも、僕がそれまで兵労隊に気付かなかったのも、それから考えるに当然のことなのかもしれない。とにかく、夏休みに入ってから立て続けに兵労隊がらみの揉め事を目の当たりにし、どうかしていると思ったわけだが――。

 時計の針は既に午前二時半を指していた。僕はもう一度大きく伸びをし、それから机の上のパソコンに目を戻した。画面上には僕が今しがた打ち込んだ兵労隊廃止案が表示されている。誤字脱字が無いか、これから見直しをしなければならない。――まったく、なんでこの僕がこんなことをしなければいけないのだろう。数カ月前にこの国に来たばかりで、しかもあれほど総理になるのを渋ったというのに。そして大丈夫そうだと思えたからこそ、総理になることを受け入れたというのに。思い立ったままこうして深夜まで掛かって一息に草案を書き上げてしまったけれど、こんな難しい問題は普通なら僕みたいな子供ではなく、えらい学者や評論家なんかの大人が扱うべきものじゃないか。

そう言えばいつだったか、稲葉が言っていたような気がする。どんなものでもおかしな部分はあって、時間が経つと誰も文句を言わなくなってしまう、だとかなんとか。この国の人々は長い時間の内にこの制度に慣れ切って、違和感を覚えることすら出来なくなってしまったのだろう。だが、――それならこの僕はどうなのだろうか? この国に来てからもう四ヶ月が経ち、今の生活にも慣れつつある。加えて、僕の血筋は紛れもなくこの国のものなのだ。ついさっきは初めて兵労隊を見た時のことを回想したが、そもそもなぜ僕があの人達を一目で兵労隊員だと判別できたのか、それがこの僕自身にも分からない。彼らには枷や札といった物は付けられておらず、身に着けていた服装も一般人と大して変わらない。ただ、彼らからは皆その独特のにおいというか、雰囲気の中の陰気臭さというか、そんな目に見えない烙印とでも言うべきものがはっきりと感じられる。それを無理に視覚的に形容するならば、目の周りが青黒く隈のようになっている上、頬が落ち窪んで顔が妙に青白い、という風になるのだろうが、やはり単にこれで表されるようなものだけでもない。当然そんなくたびれた顔つきの一般市民もいれば逆に普通の顔色に見える兵労隊員すら稀にいる。とにかく、そんな定義しようのない気配のようなものが兵労隊の身には常にまとわりついていて、周囲の人にはっきりとその者の正体を伝えてくるのである。その烙印は誰かによって人工的に付けられた物ではなく、おそらく当人の心理的要因から自然発生的に浮き出てくる物なのだとは思うが、いかんせん他の国ではそんなものは滅多にも見かけないので、これ以上ここで僕がどれほど詳細に考察を述べても恐らくうまく伝わらないだろう。もしかするとあれはこの国の人にしか感じ取れないものなのかも知れない。

 逆に言えば、それを感知して兵労隊員を見分けられるようになった僕はそれだけこの国に染まってしまったという事になる。今こうして廃止案などというものを作成しているのも、実はそれが一因だった。いくら受刑者を対象にしているとはいえ、僕がこの目で見た実態を鑑みるに、このような制度が現代にあるのはおかしい気がする。稲葉の使った『奴隷制度』という表現が適当かどうかは知らないが、少なくとも看過されるべき制度ではなかろう。それなのにもしここでこのまま放置しておいたら、僕も他の人と同じようにいつか慣れ切ってしまって、ついには何も感じなくなってしまうかもしれない。あのアルバイトの学生の様に、兵労隊員を当然の如く殴りつけてしまう日が来るかもしれない。そうなってしまうのは堪らなく嫌な感じがして、それをどうにか避けようとして僕はこうして法案なんぞを書き始めたのだ。――この制度を発案したのは当時の学生だった。なら、廃止するのがこの僕でも、何もおかしくないじゃないか。

 二度、三度と上から下まで草稿を読み直し、誤字脱字が見当たらないのを確認すると、僕は欠伸を抑えながらデータを保存した。本来なら後はこのデータをアゴラの所定の欄にに提出するだけで、審議が自動的に開始される。四月の選挙の時のように人々に一斉にあの騒々しい通告がなされ、そして可否を決める投票を自動的に始めるのである。普通は法案の提出と言えば仰々しく聞こえるものであるが、この国に於いてはパソコン一台で済む極めてお手軽な作業であり、お役所仕事の鈍重さが入り込む余地も無い為、その点やはりこのアゴラのシステムは優れたものだと言えるだろう。しかし僕の場合には、提出の前にもう一つ別の手順が残っていた。草案の作成に当たって事前に念のため補佐官さんに書き方を聞いたのだが、その際、彼女は出来上がった草案の添削を自ら請け合ってくれたのだ。四月に出会って以来補佐官さんを冷淡な人だと思っていた節があったけれど、案外あの人にも親切で世話好きな面があるのかも知れない。時刻は既に深夜三時を回っていたが、電子メールで送る分には問題ないだろうと思い、補佐官さん宛てに簡単に一筆書き添えると、僕は草案のデータを添付して送信した。


 翌日目が覚めたときは既に正午過ぎになっていた。寝坊し過ぎたような気がして少々罪悪感があったものの、それでも昨晩の(いや、今朝の?)疲労がまだ残っているようで、どうしても眠気と倦怠感を振り払うことができず、しばらくそのままベッドの上でぼんやりと天井を見上げた。窓から微かに差し込んだ真昼の日差しが壁紙を白く照らしている。いつも目覚まし代わりに使っていた携帯電話は、いつの間にかバッテリー切れで停止していた様だ。それじゃあこんなに寝坊してしまったのも仕方ないな、それにどうせ夏休みだしな、なんてことを思った直後、僕はしまったと我に返って大慌てで起き出し、携帯を充電器に繋いで電源を入れた。

携帯を開くとすぐ、補佐官さんから何度も電話が掛かってきていたのが分かった。着信履歴を確認すると、今朝三時二十一分から十一時二十一分までの間に計九回、きっかり一時間おきに『四衛等里』の記録が残されていた。あんな時間に送ったメールをすぐに読んでくれていた事には驚いたが、電話を使って何度も連絡を取ろうとしていた事が気にかかった。なぜメールの返信にしておかなかったのだろう。それほど急を要することがあったということなのだろうか。しかしそうして考えあぐねている間にも電話が掛かってきて、驚いて僕は携帯を取り落としかけた。時刻はちょうど、十二時二十一分になったところだった。

「わっ、その、すみません、何度も電話を掛けていただいて。知らない間に電池が切れていたんです。あの、すみませんでした」充電用コードをくっ付けたまま電話を取ると、考えるよりも先に僕は謝っていた。

「――いえ。お気遣いなさらずとも結構ですので」補佐官さんはそう言ってくれた。いつっも通りの丁寧な口調に淡々とした声で、疲れているような様子は微塵も感じられなかった。「今回は今朝未明に送って頂いた草案の件と、ついでにもう一点、別の連絡についての用件とでお電話差し上げました。まずは兵労隊制度廃止の草案についてですが、浦嶋総理、あれは一体どのような意図で提案されたのですか?」

 僕はその問い方に嫌な予感を感じた。彼女の声音はあくまでいつも通りの抑揚の無いものだったが、それでも先生や母親が悪戯をした子供に向かって「どうしてこんな事をしたの?」と言うときと同じく、やんわり問いただすような響きがあった。別に悪い事なんかしていないはずだ、と心の中で自分に言い聞かせてから、電話を握りしめて僕は答えた。「意図も何も、案の中に書いた通りです。囚人を刑務所の中に戻して、他の国と同じになるように兵労隊制度を廃止したいんです。僕の目で見たこの制度はまるっきりおかしなものでしたから。見過ごすことなんて出来ませんよ。いくら元犯罪者とは言え、あれではあんまりです」

 僕が言い終えるとすぐ、電話の向こうから淡々とした声が返ってきた。「総理、まず一つ誤解されている点を指摘しておきますが、兵労隊制度では正確には犯罪者自身とその七親等までの親族が入隊の対象となっています。ですので、兵労隊員を一概に『元犯罪者』と称されるのは不適切です」

「へえ、そうだったんですか。……いや、それじゃ尚更、だめじゃないですか。悪い人じゃなくても兵労隊に入らされるってことですよね? そんな事なら、絶対に廃止するべきです」

「あの、話を戻させて頂きますが」補佐官さんは事務的に言った。「総理が草案を出されたのは、あくまでそういった単純な理由からなのですか? 何か別に、深い目論見や政略があるのではございませんか?」

「いえ、そんな大した事は別に、無いですけど」

 僕はきょとんとしながら答えた。一旦、ため息を吐くのに丁度良い位の間を置いてから、補佐官さんが話し始めた。

「了解致しました。総理が提出された草案に関しまして、私が見たところ、不備または不適切な部分は一切見当たりませんでした。形式上法律案として必要な条件は全て満たしています。ですが、今回、アゴラの方に提出することは不可能との結論に至りました」

「何でです? 条件は満たしているんでしょう?」

「提出する分には問題ありません。ですが、その後は保証しかねます。提案した法案が可決されるには、最低でも過半数の賛成票が必要なのです。浦嶋総理はその過半数の支持を獲得するだけの見通しをお持ちでしょうか?」

えっと、と言いかけて僕は言葉に詰まった。それまで草案を提出することばかりを考えていて、多数決の支持を集めることは全く考えていなかった。――支持。「そう言えば、総理大臣選の時の僕の得票率は九割を超えていましたよね。それだけの支持者がいれば、どうにかなったりしませんか」

「ならないでしょう」補佐官さんは容赦無かった。「あれはあくまで浮動票が流れ込んだだけですので。九割の得票でも、貴方の実質的な支持者はおそらく皆無です。また、今回の草案の内容では、国民の大多数から賛同を得るのは大変難しいかと思われます」

「でも――、でも四衛等里さんだって、兵労隊のひどい扱われようを見たら、こんなの止めたいって思うんじゃないですか。あんなの、誰が見てもおかしいと思うはずですよ」

 補佐官さんはしばらく何も言わなかった。電話越しでは表情が見えない。どうしたんだろうと僕が思い始める頃になって、やっと彼女は再び話し始めた。

「今まで誰もそう思わなかったから、今でもこの制度があるのです。浦嶋総理、仮に兵労隊を撤廃したところで、彼らの分の穴埋めをどうするかはお考えですか。彼らを収容する施設の確保について、具体的な見通しはお持ちなのですか」

「いえ、それはまだですけど、でも、これから考えようと――」

「それでは甘すぎます。いいですか、貴方は総理なのです。この国の総理大臣なのです。特別な支持を集めているわけでもなく、ましてや具体的な計画も無いのであれば、審議に掛けたところで賛同を集めるどころか反感を買ってしまう他ありません。草案の提出は見送って下さい。よろしいですね?」

「ですが、でも――」

「よろしい、ですね? 約束して下さい」

「――はい。分かりました」

 補佐官さんに屈する形で、僕は渋々、草案提出の見送りに同意した。見送りとは言え、これでは事実上の廃案と同じだろう。昨晩せっかく一生懸命書き上げたというのに。

電話の向こうで補佐官さんが話していた。「浦嶋総理、この国の総理大臣は政治的指導者としての役割は薄いのです。兵労隊制度が目に余るものだとしても、貴方の責任ではありません。わざわざ御自分から火の粉を浴びに行くような余計な真似をされる必要は無いのです。どうかご自愛を――」

「分かりました。そうしておきますね。添削と助言、ありがとうございました。それじゃさようなら」

 用件が済んだと思ったので、僕は半ばやけ気味になって電話を切ろうとした。しかし携帯電話を耳から離しかけた途端、補佐官さんが少し早口になって言葉を差し挟んだ。

「あの、少し待って下さい。もう一つ、連絡しておきたい事項があるのですが」

「はい? 今度は何です?」少し気の抜けた声で、僕は尋ねた。

「本日から数えて十日後になりますが、その日の夕刻、各国の首脳を集めての会食が予定されています」

「会食? いろんな国から偉い人を集めて、ですか?」どきり、とした。

「ええ。ですが晩餐会と言った方が適切かもしれません。外交的な対談を目的としたものではなく、あくまで親善と融和のため、毎年各国で順に開催されている恒例行事なのです。今年は折よく我が国で開催されますので、開催国の首脳として浦嶋総理には何としても出席して頂きたいのですが、よろしいですか?」

 彼女はさらりと軽やかに言ったが、僕の方は堪ったものではない。携帯を持った手が微かに震え出し、嫌な汗が背中をつと流れていくのが自分でも分かった。瞼を閉じると、正装した首脳達が厳粛な顔をしてずらりと集まり、僕たち庶民には理解しえない小難しい談議をしている情景が浮かんで来る。仮想政府のアゴラに法案を出すのはあんなに簡単に思えたのに、他所の国の政治家と顔を合わせて食事をするのはひどく難しい事のように感じられた。夏の盛りなのに、室温がぐっと下がったようだ。

体調不良とでも言っておけば、会食に出席せずに済むだろうか。とっさにそんな事が頭をよぎった。十日の猶予があれば、会食の日に合わせてうまく夏風邪を引くことが出来るかもしれない。これまでに滞在した各国にて級友たちから教わった仮病の方法が次から次へと頭に浮かんだ。しかしその次の瞬間には、僕は稲葉と補佐官さんの顔を思い出していた。あの桜吹雪の舞う第一応接室で、確かに二人は約束してくれたのだ。

 僕は携帯電話を握り直すと、一呼吸置いてからはっきりと答えた。

「ええ、行きます。この国の総理大臣として、是非とも出席させて下さい」

 一瞬、電話の向こうから小さく安堵のため息が聞こえたような気がした。――補佐官さんは僕が怖気づいて断るとでも思っていたのだろうか?

「了解しました。これからそちらへ資料を送付します。各国との細かな調整や会場の設営などはこちらで行っておきますので、総理は十日後に会場に来て下さるだけで結構です。では、また後日、お会いしましょう」

「はい、ありがとうございました。それじゃ、また」

僕は電話を切った。ふと見てみると、通話を始める前には空だったバッテリーは目一杯にまで充電されていた。


 それから十日後、晩餐会の会場の片隅で、僕はのこのこと出席したことを後悔していた。豪華絢爛な会場の一端には各国の国旗が誇らしげに翻り、警護官で周りを固めた各国の要人たちが威風堂々と闊歩している。他国の首脳は皆年老いて貫禄のある風貌で、上品な物腰ながらも威厳を感じさせた。染み一つ無い真っ赤な絨毯と、装飾が刻まれた真っ白な壁と、その空間を満たす人々の真っ黒な背広や燕尾服。新聞や教科書の写真ではお馴染みの風景だが、実際に目にすると凄まじいほどに晴れがましい。そんな中でただ一人、僕は場違いな感のある学生服を着て、血の気の失せた青白い顔をしながら、部屋の隅で目立たない様に縮こまっていた。

 もちろん、つい一時間ほど前に家を出た時点では、このような憂鬱な気分では無かった。電話で出席の意を告げたときと同じく、意気揚々とした気分で出てきたのであるが、会場の迎賓施設に近づくごとに不安と緊張が重苦しく圧し掛かり、着くころには最初の元気などあっさりしぼんで消えてしまっていた。建物の正門前では打ち合わせ通りに補佐官さんが僕達を待ってくれていて、会場の広間までの道すがら歩きながらその古い迎賓施設の歴史や建築様式についてやけに詳しく説明してくれたものの、そのような講説は全く僕の頭の中に入って来やしない。ついには緊張のあまり気分が悪くなって、補佐官さんがここがどこそこの間(ま)で、何とか様式の壮麗な造りとなっています、とか話してくれているときに、すみませんがお手洗いはどちらですか、なんて間抜けたことを尋ねなければならなかったくらいだ。おまけにそうして少し遅れて会場に入ってみると、集まった各国の首脳方は既によろしくやっていて、開催国の代表者である僕はその友好の輪に入り込む事もできないまま、こうしてずるずると今に至っているという情けない有様である。

 隅でぽつんと立っていると、会食の全体の雰囲気が良く見えた。会場の広間には大きな円卓が幾つか置かれ、僕の知らない珍しい料理が大皿に山と盛られている。卓の周りには邪魔にならない程度に椅子が配置されているものの、晩餐会自体は参加者が自由に動けるように立食形式をとっていて、首脳や外交官といった要人達の群れがそこらにいくつもできていた。耳を傾けずとも、聞きたくも無い会話があちこちから聞こえてくる。

 ――やあ久しぶり。君の所も近頃は野党や世論がうるさくなったそうじゃないか。

 ――こないだのあのスキャンダル、どうやって握り潰したんだい? 実弾何発使った?

 ――ウチの内紛も先週ついに片付いてね。これでやっと、毒見無しで飯が食えるよ。

誰もが愉快そうに笑っていた。楽しげに見えたが、あまり加わりたいとは思えない会話ばかりだった。げんなりした僕はある卓の近くにできた一群に視線を戻して、改めて懐かしさと恨めしさを噛みしめた。時折その人だかりの隙間から、一人の若者が気兼ねなく料理に舌鼓を打っている様子が垣間見えていたのだ。その少年も僕と同じように学生服を着込んでいたが、ただ僕と違って白い手袋をしている。彼曰くそれっぽい丁重さを見せる為らしいが、普段の彼の態度を知っている僕には滑稽にしか見えなかった。

「あの、本当にあいつをこの場に連れて来てしまって良かったんでしょうか?」

僕は隣にひっそりと付き添ってくれている補佐官さんに小声で確認した。彼女は頷いて答えた。

「稲葉氏は今、総理の臨時警護官兼付添人という役職に就いていますので。総理個人が彼を雇うことには何の問題もありませんし、要人であればこの会食の参加条件を満たすことができます」

 ちくしょう、稲葉の奴め。自分には大した責任が無いからって呑気なものだ。あいつが俺も連れてけとせがむものだから、仕方なく僕はわざわざ補佐官さんに書類を作ってもらって、判を押して正式に臨時の役職に任命してやったのに。一人だけ無遠慮に楽しみやがって。こんな中で学生服の少年が動き回っていれば、どうしても変な目立ち方をしてしまうだろう。この学生服という格好については、事前に補佐官さんに問い合わせたところ「葬式の際もそれで問題ありませんので」との事で、僕は妙に納得して着て来たのだが、それでもいざ学生服で燕尾服や背広の中に放り込まれてみると、どことなく居心地の悪い感じがする。そもそも周りにいる連中はみな叩き上げの老練な政治屋ばかりであり、本来ならここは僕達みたいな子供が来る場所ではないのだ。稲葉の方は全く気に掛けずに晩餐会に興じている様子だが、残念なことに僕は彼ほどのふてぶてしさと図々しさを持ち合わせてはいなかった。

「――おい浦嶋、せっかくの晩餐会なんだからよ、そんな片隅で物思いにふけってないで、こっち来てみんなと一緒に何か食ったらどうだ? お前は帰国子女なんだし、大抵の外国語ならお手の物だろ? ちょっと通訳してくれよ。片言の共通語と身振り手振りだけじゃ、交流すらおぼつかなくてさ」

噂をすれば何とやら、僕が考え込んでいる間に稲葉は僕の近くにまで来ていた。いつもと違ってアイロンがぴしっと効いた学生服を着て、金色に輝くボタンを首元まできっちり閉めている。それがいやに板に付いていて、ついでに制帽とサーベルでも付けておけば旧世紀の軍人みたくなっていただろうが、彼はいつも通りの人懐っこい笑みを浮かべ、年相応に少年の顔立ちをしていた。稲葉の後ろに目を遣ると、中年の外交官と手持ち無沙汰そうな通訳官が取り皿を片手にこちらを眺めているのが見える。彼らも笑っていたが、稲葉の笑みとは違った種類の笑いだった。

 ――何だったんだ? あの子どもは。外交官か何かか、あの身なりで?

 ――さあ。イナバとか名乗ったが、結局訳の分からん事ばかり言っていたな

「あのおっさん達は何て言っているんだ? お前なら理解できるんだろ、羨ましい。ほんと、異文化言語は複雑怪奇だな」

いくら外国語が話せたとして、その能力がこのような場面で果たしてどれほどの意味を持つのだろう? 外交官たちの方へ振り返った稲葉を眺めながら、僕は思った。僕には彼のように気儘に立ち振る舞ってみせる気概は無い。それに、出席した時点で自分の役目はもう大方終わっているのだから、後はこのまま晩餐会が何事も無くさっさと終わってくれれば良いと、実は心の底でそんなことを祈っていたくらいだ。出来ることなら、晩餐会を楽しんでいる稲葉に後を全て任せて、こっそりと帰ってしまいたい。しかしさすがに、総理大臣としてそればかりは出来なかった。

僕はため息を吐いた。それから、不思議そうにこちらを見ていた稲葉に首を横に振ってみせた。そしてくるりと背を向けて「ごめん、トイレに行ってくる」とだけ言い残すと、僕は賑やかな会場から一人で抜け出した。

やたらと長く薄暗い廊下を渡ってトイレに着くなり、僕は洗面台に突っ伏すようにして顔を洗った。顔一杯に掛かる冷たい水はいろんなものを流してくれる気がした。心底帰りたい気分だったが、参加すると自分で言っておいた手前、やはり最後までいなければならないだろう。逃げてはいけない、自分の務めを果たさなければいけない、と自分に言い聞かせながらトイレから出て、気合を込めつつ会場まで戻ろうとして、意気込みながら廊下の角を曲がった瞬間、僕はこちらへ向かって歩いて来ていた人と真正面から衝突した。

「ウアッ」と悲鳴が上がった。

相手の男はよろめき、床にどしりと尻餅をついた。

互いに怪我は無さそうだったが、僕はぞっとした。この建物の中にいる以上、相手も恐らくどこかの国の要人であるはずで、いくら偶然でも、国を代表して来ている相手を倒してしまったのでは厄介な事になりかねなかった。とても、まずい。僕は慌てふためきながら最初に頭を下げて謝り、可能な限り丁寧に手を差し伸べ、そして次に相手を見て、またひどく驚かされることとなった。相手の男は背広や燕尾服ではなく、黄みを帯びた白い麻布の衣装を身に着けていた。黒い髪はほつれ肌は日に焼け、顔を見るに歳は若い。会食の会場にいた各国要人たちとはがらりと異なった風貌だった。彼は痛そうに顔をしかめていたが、僕の差し出した手に気付くとそれを取ってすっくと立ち上がり、朗らかに微笑みながら口を開いた。

「モル デ フェン メルモン。モルメスト ヴァッヒュ モルメン?」

――確か、その男はそう発音したように思う。というのも、その白服の男が話したのは今まで僕が聞いたこともない言語で、しかもその男のしゃべり方が唸るような口調だったために、少しも言葉として聞き取る事が出来なかったからだ。

「えっと、すみません。その、失礼ですが――。いえ、あのう、もしもし?」

僕は共通語をはじめ、知る限りのあらゆる言語で話し掛けてみた。しかし男の方も僕の話す言葉が何一つ理解できない様子で、有効な返事は得られなかった。白服の若者は再び、しかし今度はゆっくりはっきりと、さっきの妙な言葉を繰り返した。そのおかげで、僕には一つの事が理解出来た。男の丁重な身振りと表情から察するに、唸り声のように聞こえるのは彼の口調のせいではなく、その言語自体の特徴であるらしい。もっとも、そのような分析ができたところで、肝心の男が伝えたがっている内容は全く見当もつかなかったが。

僕とその白服の若者は互いに途方に暮れた顔で向き合った。共通の言語が見当たらない。言いたいことが、伝わらない。ほぼ同時に諦めた表情になって、二人とも黙り込みかけた時、急に廊下の向こう側から例の唸り声が発せられた。今度は男の声ではなく、聞き馴染みのある若い女性の声だ――

「モルッイェン、モルラスト ヴュンヒェ ダ モルレエデン?」

補佐官さんがこちらに向かってつかつかと歩いて来た。白服の若者は驚いた様子で振り向くと、補佐官さんに向かって恐る恐る確かめるように一言二言何かを話し掛け、彼女がまた例の言語で返事をすると、今度は安堵の表情になって、再び何らかのことを尋ねていた。会話が成立していることから考えると、補佐官さんは例の珍妙な言語をある程度扱えるらしい。しかしこの場でただ一人その言葉を理解できない僕は、いつもの無表情のままで例の奇妙な言語を発音している彼女を呆然と眺めるほか仕様が無かった。しばらくすると男は何か納得したようで、明るく微笑みながら補佐官さんと僕にそれぞれ深々と一礼をし、廊下の僕がもと来た方向へと歩き去っていってしまった。その足音が聞こえなくなるや否や、待ちかねていたように補佐官さんが口を開いた。

「捜しましたよ、総理。なかなか戻られないので心配致しました」

 僕は「すみません」と頭を下げた。しかしさっきのことが気になって、頭を上げるとすぐに尋ねた。

「あの、さっきの白い服の人は?」

「先程の方は遥か南にある途上国の元首、ゴン国王です。かの国は極めて小さな国であるため、我が国からは全く重要視されておらず、協定や同盟などの関係は一切ありません」

「でも、どうしてその国王が、お一人で? 通訳や警護もつけずにこんな所を?」

「さあ、詳しい事情は私には分かりかねますが」補佐官さんはじろりと僕を見た。「先程伺った事によれば、ゴン国王はお手洗いを探す最中に道に迷われていた様子です」

「そうだったんですか。そんな事ならすぐに教えてあげられたのに。僕の言葉の知識じゃあ、互いの意思の疎通すら出来ませんでしたよ」

「そうとも限りません。言葉が通じなくとも、私が聞いた限りでは総理の必死さは十分に伝わっていましたので」

「……でも、それにしても四衛等里さんはよくあの言葉を知ってましたね。それに、ああして話せるなんて。僕もいろんな国に行って、何ヵ国語かは話せるようになったけれど、あんな言語は聞くのも初めてでしたよ」

「我が四衛等里家は先祖代々、総理直属の家柄でございますから」

 ――幼い頃から高度な英才教育を受けていた、ということだろうか。僕は廊下の向こう側に目を遣り、さっき立ち去った若者の後姿を思い浮かべながら言った。

「ゴン国王、か。良い人だろうけど、為政者じみた感じはしませんでしたよ」

「それは貴方も同じでしょう、総理。……あちらの国では一年近く前に先代国王が逝去され、王位継承者にあたるゴン氏が慌てて即位されたのです。彼もまた、自ら望んで玉座についたわけではないのです」

 ゴン国王に対して、言いようのない親しみが湧いてくるのを僕は感じた。さっき会った若者はまっしろな民族衣装を着て、屈託なく微笑んでいた――真っ黒な礼服などではなく、慇懃な作り笑いでもなく。付き人を置いて一人廊下をさまよっていたのは、もしかしたら彼も僕と同じように、あの会場の中で居心地の悪さを感じていたからではないだろうか。やがて補佐官さんに促され、晩餐会の会場へと戻るまで、僕はそのことを思わずにはいられなかった。


 会場の扉の前に着くと、僕は一度深呼吸をした。晩餐会に戻ったところで肩身の狭い思いをするしかないことは分かっていたが、それでも自分はその場にいるべきなのだ。いなければならないのだ。覚悟を決めて把手に手を掛け、そしてなるべく目立たない様にそっと扉を開けて僕は一歩踏み入った。入り口の脇にいた一人の年老いた元首とすぐに目が合った。僕があっと思う間もなく、彼は会場全体に聞こえるよう大声で叫んだ。

 ――この若人だ、間違いない。諸君、やっとウラジマ氏が戻ってこられた。さあ宴の仕切り直しだ。我らが業界の新入りを盛大にもてなしてやれ

その叫び声を聞いて、興奮した面持ちの要人たちが一斉にこちらに駆け寄って来た。首脳達は僕が手洗いから戻ってくるのを心待ちにしていたらしく、困惑する僕を取り巻いて皆一様に一級の笑みを浮かべている。四方八方から何ヵ国語もの社交辞令が雨あられと飛んでくる。

――やはり貴方がウラジマ首相か。これはこれは。先程は挨拶も出来ずに失礼した

――一目貴君を拝見しておきたいと、かねがね思っておりましてな

――親愛なるウラジマ首相、お初にお目に掛かります。どうぞお見知りおきを

――まさか本当にこれ程お若い方が務められているとは。さぞ大変でしょう?

 老獪極まる政治屋の彼等からしてみれば、僕のような人間が国家元首に就いているのはやはり興味を引くものだったらしい。とは言え、さっき会場にいた時は目立たずにいられたというのに、なぜ今度はこうなったのだろう。不審に思って僕がさっと周りに目を遣ると、すぐに会場の端でにやにや笑いながらこちらを見ている少年に気が付いた。――稲葉の野郎め、僕が席を外した少しの間に、このお偉方を焚き付けたに違いない。身振り手振りと片言だけでわざわざご苦労なこった。

僕はすっかり首脳達に囲まれてしまっていた。相手が相手だから邪険に扱う事も出来無い上、どのような対応をすればいいのか分からない。すぐ後ろには補佐官さんが控えてくれていたが、今になって彼女にこういう時の対処法を聞くわけにもいかなかった。話し掛けられるたびにあっちを向いたりこっちを向いたりで、終いには目が回ってくる。それで首脳達はますます面白がってしまって、僕から離れてくれる気配がまるで無い。

 そうして僕が困り果てていると、不意に、「ゴホン」という大きな咳払いの音がした。集まって来た各国首脳達の、さらにその後ろの方からだった。そしてもう一度、「ゴホン」。彼らがそちらへ一斉に振り向くと、咳払いの主はよく響く声で朗々と言った。

「やあ失敬。しかしそちらの新人元首が困り果てているように見えたのでね。君達にはすまないが、私はその少年と二人で話してみたいのだが?」

 要人の人垣がぱっくりと割れ、その向こうに一人の白髪の指導者が現れた。どこから勝手に持ち込んだのか特別上等な椅子に深く腰掛け、足を組んで不満そうに頬杖をついている。その顔をちらりと見て、相手が誰であるかに気付いた僕ははっと息を呑んだ。補佐官さんがその男の名を急いで耳打ちしたが、わざわざそれを聞くまでもなかった。おそらく世情に疎い人間でさえ、この指導者の名と顔は知っているだろう。

彼は椅子から大儀そうに立ち上がった。「ああ、すまない、もう一度言うが、私はその新人元首と二人だけで話をしたいのだよ。――つまり、少しの間諸君には離れていてもらいたいのだが、ね?」

 その男、つまり合衆国大統領がそう言うと、今度は僕の周りにいた各国の首脳達がわらわらと、ある者は渋々といった表情で、またある者は怯えたような顔つきで、僕から逃げるように離れていった。首脳たちが揃いも揃ってみっともないような気もするが、大統領の持つ力を考えれば無理もない。一たび合衆国が本気になれば、それに太刀打ちできる国などどこにもないのである。要人で埋め尽くされた晩餐会の会場で、僕と大統領の周りだけぽっかりと空間が開いた。付き添ってくれていた補佐官さんも一旦離れ、近くの人混みの隙間からこちらの様子を窺っている。

「――君かね、ウラジマ・ソーリというのは。話には聞いていたが、まさかこれほど若い男だったとはね。先程は囲まれて困っているようだったから、無粋ながら連中を追い払わせてもらったわけだ。私は彼らとは長い付き合いだが、まったく困った連中だよ。各々が一国の支配者であるのに、それに飽き足らず他国の顔色まで窺いたがるのだから。……私は良かれと思って彼らを追い払ってやったんだが、放っておいたほうが良かったかね?」

「いえ、まさか。おかげで助かりましたよ。ありがとうございました」

 僕は半ばほっとしつつ、半ば恐々としつつ返事した。実際、窮地を救われたことはありがたく思っていた。しかし、できれば大統領には関わりたくないのもまた事実だ。どんな人柄かは知らないが、万一彼の機嫌を損ねでもしたら国が一つ滅びかねない。そんな相手なのだ。しかし、目の前の大統領は優しげに、口元に微笑みを湛えて言った。

「君の国では割かしすぐに指導者が替わるからね、君の先任の者たちも場馴れしないままこういう席に来て、しょっちゅう困った顔をしていた。何しろ彼らはまったく外国語を話せない上に、揃いも揃って政治の何たるかを理解していないんだ。それで他国の連中に好い様に小突き回されていて。君たちは教育と選挙の方法を改めた方が良いんじゃないか? ――おっと、すまない。悪く取らないでくれよ、なにも君の国を馬鹿にするつもりは無い。ただの助言だと思ってくれ」饒舌ながらも、大統領は慌てて付け加えた。

「いえ、ほとんど同感ですよ。実際、僕も翻弄されてばかりですから。ところで、僕と二人でしたい話って、何です?」

 僕は恐る恐る尋ねた。厄介な事は早めに済ませてしまいたかった。

「ハハッ、なあに、面倒な外交問題を話し合おうという気は無い。この会食の目的はあくまで親睦を深めることだろう? 私はただ、同業者の新人君と他愛もない話ができればそれで結構なのだよ。気を楽にしてくれたまえ」

 大統領は微笑んだまま口を閉ざした。笑い皺の浮かんだその顔は、一見したところ父親のような親しみと頼もしさばかりを感じさせた。

大統領の意図が読めない以上、何を話したらいいのか掴めなかった。差し障りの無く他愛もない話、と言っても、こういう場ではそれが意外なほどに難しい。何を言ってもいけない気がする。ちょうど学校の試験で行き詰った時によくやるように、僕は一旦大統領の顔から目を離し、特に意味も無く会場をぐるりと見回した。それまで人混みのせいでほとんど何も見えていなかったが、大統領の一言で周りに空きができた今、室内の装飾が見渡せるようになっていた。天井は金箔を施した浮彫で一面に覆われており、壁には数枚の大きな鏡が埋め込まれ間を広く見せている。そして天井から吊るされた数点の集合灯の光がそれらを煌めかせ、部屋全体が燦然と輝いている様だった。以前入った学校の第一応接室などとは比べ物にならないほどの見事な内装で、思わず少しばかり目を奪われていると、大統領がふと何か思いついた様子で再び口を開いた。

「ああそうだった、ウラジマ・ソーリはここに来るのは今日が初めてだったな。私は君と違って長くこの役職にいるから、ここにも何度も来ている。それも室内装飾の一つ一つを覚えられるくらいにね。ところでどうだろう、君はこの内装の様式の呼び名を知っているかね? 二世紀近くの昔、君たちの先祖が必死に我々の洋風建築をまねてデザインしたものなのだが」

 これは試されているのだろうか。僕は一瞬戸惑ったが、ほんの数時間前、この施設に来た時に、補佐官さんがこの広間への道中でこの歴史ある建物の解説をしてくれた事を思い出した。補佐官さんはこうなることを予想していたのだろう。なら大統領はいつもこうして新顔の教養を試しているに違いない。うろ覚えの記憶を必死に手繰り寄せ、補佐官さんに感謝しつつ、僕は少し得意げになって言った。

「『ネオバロック様式』、でしたっけ。花崗岩による壮麗な彫刻がもっぱら評判の――」

「いいや、違う」大統領はあっさりと、しかしにこやかな表情は崩さないまま否定した。「それは建物全体の外装の様式だ。この部屋の内装は『アンピール様式』と言うのだよ。それにこの部屋の浮彫は花崗岩などではなく石膏だ、よく見れば君にもそれくらい分かると思うが。後学の為に覚えておくといい。何しろ、君はまだまだ幼いのだからね」

 そう言って笑うと、大統領はその大きな掌で僕の頭を軽くポンポンと叩いた。その時僕は、人混みからこちらを覗き見していた第三国の要人と目が合った。彼から見れば僕達はちょうど仲の良い父子のように見えるかもしれない、と思った。しかし突然、近くの人混みの影から一人の男がひょいと飛び出してきて、僕も大統領も目を丸くした。飛び出て来たのは黒い学生服に白手袋という、珍奇な格好をした若者だ――。

「浦嶋総理大臣殿、大変恐れ入りますが、その古狸に見下されないように気を付けて頂けませんかね? 忘れてもらっちゃ困るがあんたも一国の代表で、立場上はそいつとまったくの対等のはずなんですがねえ。しかもこの老いぼれ下衆野郎ときたら、親善の会で臆面も無く政治的パフォーマンスをぶっこんできてやがる」

 そう放言した若者――もちろん、稲葉だ――の表情は、意外にも驚くほど真面目くさった物だった。他の所なら吹き出したいところだが、今は笑って済むような状況ではない。大統領が一声号令を掛ければ世界最強の合衆国がこの国に襲い掛かってくるのだ。僕は戦々恐々としながら大統領の顔色を窺ったが、意外なことに彼は怪訝そうな顔をしているだけだった。

「君の部下が何か悪い報せでも持ってきたのかね、ウラジマ・ソーリ?」

 その一言で僕は何が起こったか理解した。さっきは僕の頭の中で無意識の内に翻訳が働いて気が付かなかったが、稲葉は大統領に通じる共通語ではなく、通じる恐れの無い自国語を用いて発言していたのだ。大統領の方は稲葉がどんな事を言っていたのか、一言たりとも理解できなかったのだろう。

「いえ、いいえ。すみません。どうぞお気になさらないで下さい。ほんの些細な業務連絡でしたから」

 僕は平静を装って答えた。さりげなく周りをちらりと見回してみたが、大統領が自ら周りの人を追い払っていたこともあって、稲葉の発言を聞いて理解できた者は近くには一人もいない様子だった。

「ふむ、そうだな。情報は何よりも重要な武器となる。まめに連絡をくれる部下は重宝するだろう。――ところで君の部下も随分と若いね。これはこれで、珍しい」

 大統領が稲葉に興味を示したので、僕は嫌な予感を感じ取った。稲葉は外国語をろくに話せなくとも、どうにか人を焚き付けるくらいの事をやってのける奴なのだ。今度は何をやらかすか分かった物ではない。そして案の定、大統領の視線に気づいた稲葉は爽やかに顔をほころばせ、慇懃に一礼して言った。

「やあどうも大統領。その阿呆面を拝む事が出来て嬉しい限りです。どうやら噂以上の間抜けっぷりで、こちらも安心致しました」

 稲葉が自国語でそう暴言を吐く一方で、それを直感的に予期していた僕は大統領に向かって「彼はまったく外国語を話せないのですが、彼なりに貴方に対する賛辞を述べているのです」と言って誤魔化した。そのおかげでどうにか、和やかな雰囲気は保たれた。――稲葉の奴め。どうせ言葉が通じないからって調子に乗って。こうして大統領に暴言を吐いたところで、何の利益もないだろうに、この少年は何を考えているんだ? ただ僕を困らせるためだけの悪ふざけだろうか? とにかく、この場で両方の言葉を理解できるのは僕しかいない。何とかして穏便に切り抜けなければ。

一人で心中苦悩する僕を余所に、稲葉と大統領はにこやかに笑い続けていた。おもむろに大統領が自分の部下を呼びつけ、指示を出して何かを取りに行かせた。

「さあ、今日の良き出会いに、ひとつ乾杯と行こうじゃあないか。通常なら互いに元首のみですべきところだが、今日は特別だ。そちらの若い側近君も加わりたまえ」

 大統領の部下が戻ってきた。瓶と三つのグラスを持っている。瓶は飴色で、会場の卓にたくさん置かれているものとは別の物だった。

「ほうら、遠慮は結構、存分に味わいたまえ。この私が直々に持って来てやった我が国の特産品だ。――だがこの逸品を輸入するにも空港当局で随分と取られた。君の国の関税は何しろ高すぎる、少し下げて貰わねばな」大統領は呟くように付け足した。

 手渡された飲み物から妙な芳香がするのに気付いて、僕は少なからず困惑した。グラスになみなみと注がれているそれは、確かに乾杯するときには当然の飲み物なのだろうが、僕と稲葉の年齢ではあちらの国でもこちらの国でも飲めない筈だった。隣で委細構わずに飲み下そうとしていた稲葉を慌てて止め、大統領に問い掛ける眼差しを向けると、彼はしまったという顔をしてみせた。

「ああ、すまん。うっかりしておったよ。君たちはまだ幼い子供だったな。なら仕方ない、――おいそこの者、この二人の子供のために何か別の飲み物を持ってきてやれ。なに、オレンジジュースで構わん、うちの三歳の又甥はそれで十分大喜びだからな。彼らもさぞ喜ぶだろう。さっさと寄こせ。――やれやれ。ウラジマ・ソーリ、君たちと最高級のウィスキーを酌み交わせないのは残念だが、まあ仕方無いだろう。それで乾杯と行こうじゃないか」

 大統領はにっこりと笑い、酒の入った自分のグラスを片手に持ったまま、僕達にオレンジジュースの入った紙コップを示してみせた。しかし稲葉はそれを受け取ろうとはせず、仏頂面になって払いのけた。

「喧嘩を売るのはいい加減にして頂きたいのですけどねえ。それにしても、そのよぼよぼの老体で酒を呷るとは、年寄りの冷や水もいいところだ」

 心が折れるのは、この数時間のうちで何度目だろう。僕は自分の立場の酷さに泣きたくなっていた。稲葉の暴言が収まる気配は無く、その上どうやら大統領の方もただの他愛無いお喋りだけが目的ではないらしい。そしてこの僕はその危なっかしい二人の間に挟まれる立場に置かれたときている。

「すみません大統領。彼は重度のオレンジアレルギーでして、オレンジジュースは飲めません。そのため残念ですが、乾杯は辞退せざるをえないのです」

 僕は今度はそう言って場を収めようとした。しかし大統領の顔からはふっと作り笑いが消え、さらに一瞬、目元が険しくなった気がした。

「ほう、そんなアレルギーがあるのかね? 初めて聞いたが。まあそれならそれで構わんよ。せっかくの乾杯に水を差されたのは少々癪ではあるが、ね。――おっとそうだ、まだ記念写真を撮ってなかったぞ」

 大統領は急に思い出したようにそう言いだすと、手近なところにいた第三国の要人を手招きし、ポケットから出した小型のフィルムカメラをその手に押しつけた。その哀れな男もどこかの国の元首らしく、そんな役目は心底気に入らない様子だったが、大統領は彼に不快感を示させもせず、カメラマン役を引き受けさせてしまった。

「意外に思われるかもしれんが、私は新しい指導者と会うたびに一緒に写真を撮らねば気が済まないのだ。あくまで個人的な趣味なのだが、どうか付き合ってくれたまえ。ちなみに言っておくが、君の先代達と撮った写真もきちんと大切にコレクションしておるよ」

 ハハッと軽やかに一度笑って、大統領は親しげに僕の隣に並んだ。僕は先程受け取った紙コップを片手に突っ立ったまま、大統領の行動の速さに呆然としていたが、シャッターが切られる直前に突然僕の携帯電話の着信音が鳴り響き、はっとして後ろを振り返った。――その振り返る前のほんの一瞬、僕は稲葉が自分の通信端末をポケットに仕舞うのを確かに見た。

「あ」と、大統領と僕は同時に呟いていた。

振り返ると、大統領が背後から僕の頭上に手を伸ばしているところだった。携帯電話が鳴らなかったら、恐らく大統領は何食わぬ顔で僕の頭を再びポンポンと叩き、そしてその様子が見事に写真に収められていた事だろう。僕は内心ひやひやしながら取り敢えずそのまま電話を切り、短くため息をついてからポケットに仕舞い込んだが、顔を上げて再び向き直ると、大統領は既に手を引っ込めた上で冷たい目で僕を見下ろしていた。

「おっと、これじゃ私のコレクションが台無しだ。――それよりウラジマ・ソーリ、さっきの電話は切ってしまって良かったのかね? どこから掛かって来たのかさえ、確認していなかったようだが?」

しまった、と思ったがもう遅かった。「――ええ、大丈夫です。こういう時は国内の些事なんかより、大統領との友好を優先するべきでしょう?」

「ふむ、そうかね? さっき君の部下が連絡に来た時には、随分真剣に聞き入っていたではないか。どうも不自然な気がするのだが。まさか今の電話は何かの小細工かね? 私がせっかく友好の為に写真を撮ろうと言ったのに、君はそれをわざとぶち壊したのか?」

 大統領は態度を一変させ、表情の笑みも和やかな雰囲気もすっかりかなぐり捨てていた。どうしよう。何と言うのが良いのだろう。うまく言い繕う言葉が、出て来ない。

「ウラジマソーリ、君は先程から必死に何か考え込んでいるようだが、一体どうしたというのかね? 何か私に対して、不都合なことでも?」

「――いえ、まさか。まったくありませんよ、何も」

「本当にか? 嘘ではないな? 神の名に懸けて、君の潔白を誓えるか?」

「ええ、もちろん誓えますよ。もちろん」

 僕は必死になって誤魔化し通そうとしたが、どうやらそれが悪かったらしい。大統領は更に顔を険しくすると、フンと鼻を鳴らして一蹴した。

「どうも信じられん。君達は常にそうだ。いや、君とその部下の少年の事だけを言っているのではない、君の国の国民すべてについて言えることだ」

「えっと……?」と僕は戸惑った。そうして僕が何も言えずに黙り込むと、大統領は憤然と僕に詰め寄って人差し指を僕に突き付け、僕を見下ろして怒鳴り声を上げた。

「君達はぬけぬけと神の前に跪くが、そのくせにみな無神論者だ。何かある度にくどくどと言い訳を述べるものの、心の内では全く別の事を考えている。終始自身の保身に執着するばかりで、誇りも無ければ矜持も無い。ただ条件反射でお追従を繰り返すだけの、オタメゴカシ野郎共の集まりが君たちの国だ。――違うかね?」

 吐き出すようにそう罵ると、大統領は顔を醜く歪め、反論できるならやってみろと言わんばかりの軽蔑しきった目で僕を見た。それまで遠巻きにちらちらこちらを盗み見ていた各国の要人たちも、カモフラージュの為のがやがやした会話を止め、今や各自ピタリと動きを止めて貼り付くようにこちらを見守っている。そんな中で場違いかもしれないが、僕は幼い頃小学校で先生に怒られた時のことを思い出していた。おそらくその風景はどこの国の学校でも大体似たようなものだろう。しんと静まり返った教室の中で、たった一人の大人が教壇の上から喚くように怒号を飛ばす。彼が怒る理由は何でもいい、宿題を忘れたとか当番をサボったとか、そんな些細で適当なものだ。だが叱られている子供はすっかりしょげてうなだれてしまい、その一方で他の子供たちは先生に気づかれないようにそれをちらちら見ては楽しんでいる。彼らは先生に同調して無難な優等生に成り上がるか、それとも叱られている子供に同情して恩を売っておくか、子供なりにも計算高く考えているのである。安全圏にいる子供たちはそんな風にまとめて問題無いが、叱られている方の子供は事情が異なる。大半はやはり大人しく叱られておく子供ばかりだが、ごく稀にイレギュラーな奴がいて、そいつは先生に向かって安全圏にいる子供たちでさえぞっとするような態度で打って出てくるのだ。当然、僕は叱られたら大人しく反省する子供だったが、けれども――

「――ついに本性を出しやがったな、この老いぼれの古ギツネめが。ウラジマを媚びへつらわせる為にあんな態度を取っていたんだろうが、うまくいかずにとうとう自爆しちまったわけだ。子ども相手にこれじゃあ大国の威信もクソもあったもんじゃない。ざまあ見やがれ」

 案の定、稲葉はこの状況でも暴言を吐き出した。おそらく彼は先生方を散々手こずらせてきたのだろう。まあ、現に友人であり立場上の上司でもある僕をもこうして困らせているくらいだ。さて、今度はどういった意訳をして尻拭いをしてやれば良いのだろう――。

そういったことを考え始めて、稲葉のさっきの発言を反芻してみて、やっと僕は初めて戦慄を覚えるに至った。何しろさっきの稲葉の発言はそれまでとは違い自国語でなく、流ちょうな共通語で発せられたものであり、つまり僕が間に入る余地もなく、彼の発言はそのまま直接大統領に伝わってしまったはずなのだから。

 僕が一層悪化した事態に呆然とするよりも早く、また稲葉の意外な外国語力に驚嘆するよりも早く、大統領自身が待ってましたとばかりに怒声を上げた。「ほうら見たことか! 貴様は言葉が通じないふりをして、私を出し抜くつもりだったのだろう! その挙句にこの私に向かって暴言を吐くとは、あまりにも無礼な真似をしてくれる。いいか、この私に対する侮辱は合衆国に対する侮辱なのだ。今すぐ地に跪いて許しを乞え。そうすれば、貴様らのそのちっぽけな国がこの地上から消し去られずに済むかもしれんぞ」

「誰がてめえの虚仮威しなんかに屈するもんか。やれるもんならやってみやがれ、この老いぼれめ」

「貴様はこの私を誰だと思っているのかね? そろそろ分を弁えたらどうだ。貴様のような小汚い餓鬼には、本来この高貴な外交の場に入る事すら認められておらんのだぞ。さっさと地べたに這いつくばれ、取り返しがつかなくなる前にな」

「何だと、てめえ――」

 ああ、こうして見ると、この男もまた、子供の側の一人に過ぎないのだろうな――。稲葉と大統領が互いに暴言を吐きあう様を眺めながら、僕は再びそんなことを考え始めていた。僕達よりはるかに年を取っていても、高価なお酒を嗜む事が出来ても、世界一の大国を率いていても、これじゃ僕達と変わらない。人が人である以上、どこまで行っても子供と同じで、教壇上の大人にはなり得ない。

 このまま不毛な言い争いが続いていたら、僕の平和で場違いな空想は打ち崩されずに済んだかもしれない。ずっと現実逃避に浸っていられたかもしれない。ただ、残念なことにそうはならなかった。稲葉がついに言葉で返すことをやめて、ただ黙って何かを手の中に包み込み、大統領に投げつけたのだ。僕はあれ、と思うしかなかった。補佐官さんが人混みから飛び出してそれを止めようとしたが、わずかに間に合わず、その物はきれいな放物線を描いて大統領の足元にぱさりと落ちてしまった。それが何であるかに気づき、それがどういう意味合いを持つかに思い当たった途端、僕は今までに感じたことのない程の恐怖に打ちのめされた。大統領が足元から拾い上げたそれは、ついさっきまで稲葉が嵌めていた一双の白手袋だった。

「本気か?」

 そう呟いた大統領の声は、微かに震えていた。

 おそらく、稲葉は何も考えずに手元にあった物を投げつけたのだろう。それが偶然にも手袋であったに過ぎない。だが既に、手袋は投げられた。

「本気なんだな?」

 大統領はもう一度、しかし今度はいくらか落ち着いた声で繰り返した。

「結構。それならそれで結構だ。こちらが出す条件としては、せいぜい貴国の速やかで誠意のある十分な対応を望むだけだ」

大統領は僕を見た。僕の視線と大統領の視線がかちりとかみ合った。僕は彼の眼に、悲愴と歓喜の色が浮かぶのを見た。

「これが最後通牒だ。さあ、今すぐ戦争の支度をしろ」

 もう誰も喋らなかった。ただ、幾人もの人の震える手からこぼれ落ちたグラスや皿の、床の上で粉々に砕け散る音だけが響き渡っていた。

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