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蝉がけたたましい鳴き声をあげ、街路樹の木立の隙間から強い日差しが射し込んでいる。梅雨時にはあちこち水溜りのできていた路面も、今は陽炎が立ち昇っていた。気温だけでなく湿度までもが高い。だがそれも文明の利器から隔離された室外の話であって、いま僕達がいる室内は冷房がよく効いているためにむしろ肌寒いくらいだった。この国の教育機関の一年は四月から始まり、またその大半が三学期制である。そのため七月の下旬と八月一杯が夏休みにあたるのだが、今日はその夏休みの第一日目となる。
――へい、葱豚骨醤油チャーシュー麺目一杯大盛一丁、お待ちっ
やたらに威勢の良い声と共に、僕の目の前に注文していた料理が運ばれてきた。続けざまに隣に座っていた稲葉の料理も運ばれてきたが、その料理名はもはや聞き取れないほどに長く、また複雑だった。ほくほくした顔で割り箸を手に取った稲葉に対して、僕は顔をしかめて見せた。
「おい稲葉、夏休み早々急に呼び出しておいて、その理由が『ラーメン食いに行こう』ってどういうことだよ?」
「どうせお前も暇だったんだろ? 編入してきてから今までずっと帰宅部のまま、毎日家と学校を往復していただけだしな。たまには友人の外食に付き合えよ」
僕は少しむっとした。確かに稲葉の言う通りではあったが、それにはやんごとない事情もあったのである。彼もその事情について知っているはずだが、しかしそれには触れず、稲葉は言葉を続けた。
「外国文化の視点からじゃ意外に思うかもしれないが、この国の国民から最も愛されている料理はラーメンなんだ。スシとかナットウとかじゃないんだぜ、外国語の教材を見るとなぜか俺達はそんなもんばっか食ってることになってるんだがな。まあ、帰国子女のお前の立場なら、一度は食べておいた方が良いだろうと思ってさ」
僕は目の前にある料理を見下ろした。ラーメン屋さんというものに初めて入った僕は、稲葉がすすめてくれた物をそのまま注文したのだが、運ばれてきたそれは奇怪な外観を呈していた。まず目に付くのがみじん切りにされた長ネギで、それが山のように表面を覆っており、またその下層には薄く切られた豚肉が敷き詰められている。そしてさらにその下、最下層にようやくスープ(といっても大量の脂でゲル状になっていた)に浸った麺が見つかった。外国にいた頃に見たすっきりとしたヌードルとは似ても似つかぬ、悪趣味なくらいの盛付けだった。僕はついでに隣の席をちらりと覗いてみたが、友人の目の前の料理はその長すぎて聞き取れないほどの名前の通り、とても筆舌には尽くしがたい様相をしていた。
「確か、ラーメンはこの国発祥の料理ではなかったよね。もしラーメンの発案者がこの料理を見たら真っ青だろうな」
目の前の食べ物を箸でつつきながら僕がそう呟くと、稲葉ははっと短く笑った。
「まあそうかもな。だが実を言うと、この国で国民食と呼ばれている食べ物には少なからず外国発祥の物が混ざってる」
「へえ、そうなの?」
「例を挙げるなら、カレーとかパンとかかな。伝来した直後からレシピや食べ方がアレンジされ、今じゃほとんどと言っていいくらい原型を留めていない。それでも、俺たちの生活の中にすっかりと溶け込んじまっているんだよな」
それならもはや別種の料理として、この国発祥の食べ物と認めていいのではなかろうか。僕はそう思ったが、そんな僕の考えを見透かしたように稲葉は言った。
「確かにそういった料理は市民権を得ているよ。でもな、試しに想像してみろ。料亭の座敷でカレーライスを食うやつがいるか? 茶道の茶請けにヤキソバパンを齧るやつがいるか? どう頑張ってもあり得ないだろうな、さすがに。いくら人気があるって言っても、そういった場所じゃあ排斥される。かといってルーツを遡って元の国に持ってっても、そっちの人々にもこんなものは知らない、俺達の料理とは別物だって弾かれる。皮肉なもんだよな。――おっと、呑気に喋ってる場合じゃないぜ、麺が伸びちまう」
そう言うと、稲葉は麺をずずずずっとすすって食べた。僕は驚いて辺りを見回したが、他の客も何事も無いかのように音を立てて麺をすすっていた。気にする者はいないらしい。それでも僕は腹に据え兼ね、せっせと箸を動かして、最初の一口を食べた。その様を見ていた稲葉はにやっと笑い、真面目くさった態度で僕に訊ねた。
「この国の庶民の味はお気に召しましたかな、総理大臣殿?」
それが少々癪に障って、僕は「ああ」とだけ短く答え、どんぶりを置いてため息をついた。隣では稲葉がまた一口、ずずっと麺をすすっている――――――
事の発端は桜のまだ散りきらぬ、始業式の翌週の月曜日のことだった。その日もいつも通り下校して自宅の前まで来たのだが、そのとき僕は家の玄関の前に真っ黒なスーツを着た一人の女性が立っている事に気がついた。立っている、と言っても、その女性は手持ち無沙汰につっ立っていたわけではなく、見事なくらいに整然と直立不動の姿勢を保っていたので、その姿はまるで外国の墓地で見かける石像のような雰囲気すら醸し出していた。生きている人間ではないような薄気味悪い感じさえしたが、場所が自宅の玄関である手前、そのまま放っておくわけにもいかなかった。
「あの、何かご用ですか。先に言っておきますが、この家の住人は僕だけです。恐らく、訪ねる住所を間違っているんじゃないかと思うんですが……」
僕はそう声をかけてみた。ところが、その女性は僕の問い掛けには答えようとせず、逆に僕に尋ねてきた。語学の音声教材のような、正確な発音とアクセントが特徴的な声だった。
「貴方が、浦嶋太朗さんですね?」
「えっ? ええ、はい、そうですが。僕に何かご用でしょうか?」
しかし彼女はまたもや何も答えず、代わりに黙ったまま僕に一枚の名刺を手渡した。古びた和紙で出来たそれを見ると、そこには質素な書体の文字で『総理大臣附補佐官 四衛等里』とだけ記されていた。それを見た途端、とにかく、自分がえらい事に巻き込まれつつあるという事は理解できた。――まったく、数日前に出会った稲葉という少年もそうだったが、なぜこの国の人はみんな率直に分かりやすい説明をしてくれないのだろう? それとも僕が分からないだけで、この国の人同士ではこれで通じ合うものなのだろうか。
ともかく、僕はもらった名刺を制服のポケットに仕舞い込み、目の前の総理大臣付き補佐官さんに向き直った。彼女がきっちりとスーツを着こなしていたのでそれまで気がつかなかったが、意外なことに彼女の年齢は僕と大して変わらず、ほんの数歳年上なだけのようだった。
僕が合点がいかないという表情をしているのを見て、補佐官さんが言った。
「どうやら、まだご理解されていないようですね? アゴラで先日の選挙の投票結果を見なかったのですか。ご存知無いのであれば私の方から申し上げますが――」
アゴラって何だっけ? 話を聞きながら、僕は必死に思い出していた。ああ、あれだ、この前の稲葉の説明の中にあった政府の公式サイトの事だ。そんなものを一々見たりはしちゃいない。それで、選挙って何の事だっけ? ――混乱した思考が現状を把握してゆくにつれて、忘れていた稲葉の話を思い出すにつれて、僕はだんだん気分が悪くなってきていた。何故だろう、何かものすごく嫌な予感がする。確かに稲葉は国民全員が候補者だとか言っていたが、そんなまさか――
しかし補佐官さんは相変らず淡々とした声で、しかもきっぱりと言い放った。
「――先日行われました総理大臣選の結果、貴方が総理大臣に選出されました。当選おめでとうございます」
嫌な予感は的中していた。あまりの事態に吐き気さえ感じた。
平日の夕暮れ時であったものの、近所の喫茶店は空いていた。その片隅のテーブルに、僕達二人は向かい合って座った。もちろん何か飲み物を飲みたいような気分ではなかったが、のどかな世間話でもあるまいし玄関先で続けるわけにもいかず、一旦適当な場所に移ったのだ。この移動によって少しでも気を取り直すための時間を稼ごうと思っていたものの、席につくなり補佐官さんは一枚の用紙と万年筆を取り出し、僕の前に置いた。
「そちらの用紙に署名をお願いします。署名された時点で、正式に貴方が総理大臣として就任された事になりますので」
彼女があっさりと言い、僕はすっかりうろたえてしまった。署名してはならない、と本能的に感じた。
「待ってください。まだ聞きたい事が山ほどあるし、それに未だに信じられません。なぜ僕が総理大臣に? まだこんな年齢だし、この国に来たばかりだし。それに、もともと人望はおろか、知り合いさえ全くいないくらいですけど」
僕がそう言うと、補佐官さんはおやっという怪訝そうな顔をした。――ほんの一瞬だけだったものの、それまで石のように無表情だった彼女が僅かにも初めて人間らしい態度を見せたので、僕はなんだか少し安堵した。もっとも、その安堵も補佐官さんが次に口を開くまでの、ほんの一刹那のものに過ぎなかったが。
「人望に関しましては、今回の選挙における貴方の得票は投票総数の九十二パーセントを占めています。十分な支持を受けているかと思われますが」
「九十二? ――なんでそんな事に?」僕の政治に関する知識は決して豊かではないが、それでも何かとてつもない数字だと思えた。
「私見になりますが、例年通り他の有力候補がいなかった事に加え――」彼女もまたノートパソコンを取り出し、テーブルの上に置くと、手早く操作して僕の前に差し出した「投票締め切りの前日に貴方を宣伝するウェブサイトが乱立して、浮動票がほぼ全て貴方に集中したためです。これは貴方の選挙活動による結果ではないのですか?」
差し出された画面を見てぞっとした。表示されている多くのサイトに、僕の氏名と経歴が勝手に掲載されていたのだ。さらに悪いことに、その中には明らかにでたらめな煽り文句を書き連ねているものもいくつかあった。
「何なんですかこれ。『憂国の士帰還せり』、『天才帰国子女降臨』、『今世紀最高のカリスマ少年』だって――? 僕はこんなの知らない。一体なんでこんな事に……」
「貴方の態度からまさかとは思いましたが、これらのウェブサイトは貴方自身による選挙活動ではなく、第三者による情報工作、という事でしょうか?」
「そうです、多分。僕が自分でこんな事をするなんてこと、絶対に無いですから。でも、じゃあまさか、こんなふざけた宣伝のせいでみんなが僕に投票したんですか?」
補佐官さんは一旦パソコンを自分の方に向け、さっと手短に操作してから再び僕の前に差し出した。「こちらをご覧になれば、納得いただけるかと思います」と言われるまま、画面を覗き込んでみると、そこにはアゴラの電子掲示板の一部が拡大されて表示されていた。発言の書き込まれた日時を見ると、宣伝サイトの乱立が起こった直後になっている。
:浦嶋太朗なる者がほうぼうで喧伝されているようでありますが、諸氏の御意見は?
:少々若すぎる気もするが…。
:イノベーション、ですよ。フレッシュな人材も悪くないでしょう
:帰国子女なんでしょ? これは期待できますよ、皆さん。
:はい決定。次期総理は浦嶋氏で問題ないね。皆こぞって彼に投票しようね
このような、僕を推す意見に同調する発言ばかりが延々と続いていた。僕の知らない所で、国中のほとんどの人が、僕に投票することにあっさりと同意してしまっていたらしい。皆が僕を支持してくれた事は分かったが、到底嬉しい気分にはなれなかった。祭り上げられている、というより、むしろ吊るし上げられている様な気分だ。
僕はしばらく考え込んだ。なぜこんなことになったのだろう。いたずらにしてはあまりにもひどい。しかし、嫌がらせを受ける様な覚えも無かった。事態の厄介さに気が遠くなりそうだが、それでも、きちんと事情を説明すればどうにかなるはずだ、と気付いた。「――何故かは知りませんが、これは誰かが勝手にやったんです。僕の知ったことじゃない。とにかく、こんなことで僕が総理大臣になるなんて間違ってます。こんな当選、無効にする事は出来ないのですか。……いや、そうだ、僕の方で辞退してしまえばいいんだ。それで良い。すみませんけど、今回の当選は辞退させて下さい」
必死にそう主張したが、しかし補佐官さんは首を一度だけ横に振り、にべもなく言った。
「あの、貴方の関知しないところで情報工作が行われていた事には同情します。しかし結果としては九十二パーセントもの国民が貴方を選び、投票したわけです。これが扇動によるものだとしても、アゴラ自体が正常に作動して投票の受付を行っていた以上、選挙は正当なものとして扱われます。今さら当選を無効にする事は出来ません。それに、大変お気の毒ですが、貴方個人の意思で辞退する事も出来ないのです」
僕は思わず、声を荒らげた。「なぜです? どういうことですか。この僕自身が辞退したいと言っているんです。この国が独裁制なんかではなく、民主制であるなら――」
「正しくは直接民主制です。だから全て、多数決によってのみ、決定されるのです」
「それがどうしたっていうんですか。民主制なんでしょう、なら僕個人の選択の権利というものが――……」僕の声は途中で力を失った。多数決ということは、まさか。
「失礼ですが、国民の過半数が貴方を総理に指名した以上、貴方がたった一人で辞退すると言い張ったところであまり意味が無いのです。辞退されたいという御意志も、少数派の意見として尊重はしますが、あくまで少数派ですので。却下される他無いのです」
補佐官さんは事務的な口調でそう言った。――たしかに多数決の理屈から見ればそうなるのかもしれないが、これではあまりにも理不尽じゃないか? こんなことが罷り通ってたまるもんか。そう思った僕は徹底的に言い争ってやろうと口を開きかけた。しかし補佐官さんはどこか疲れた様子で短くため息を吐き、それから恐ろしく感情のこもらない声で言った。
「黙って従って下さい。この国では、よくある事ですから」
僕は頭をぶん殴られたような衝撃を受けた。よくある事ですから、というその一言は、論拠としては何の意味も持っていないにも拘らず、何故か不思議なくらいの説得力を発揮した。よくある事ですから。いちいち取り立てて騒ぐ程の事では無いのですから。貴方一人で突っ張るのは諦めて、大人しく納得しておいて下さい。――よくある事ですからという一言は、その一言だけでそれほどの意味を言外に含んでいた。僕の反論する気は綺麗に削ぎ落とされてしまい、まだ何か言わなければいけないという思いは心の隅には残っていたものの、それでも頭が麻痺したようになって、今では諦めの感情の方が勝って、何を言ってもどうにもならない、仕方がない、と悟らざるを得なかった。そうして僕は茫然自失のまま、手渡されるままに用紙と万年筆を手に取った。まったく力の込められない手で、自己嫌悪に似た感情を噛みしめつつ、ついに名を書き終えてしまうと、手から振り払うようにしてペンを置いた。
「さて、こちらでよろしいですね」
補佐官さんは用紙と筆記具を回収した。手の震えたせいでひどく下手で読みづらい字になってしまっていたが、彼女はそれを丁寧にあらため、誤りが無いことを確認すると、さっと手早く片付けてしまった。用紙が視界から消えるその間際、やはり署名を取り消したいという気持ちで思わず途中まで手を伸ばしたものの、補佐官さんに見咎められておずおずと僕は手を引っ込めた。彼女はじっと思慮深げに僕を見た。
「ご苦労様でした。本日の用件はこれで以上です。浦嶋総理のこれからのご活躍を期待します。事細かな職務内容の説明は近いうちに行いますので、本日はこれにて失礼します」
そう言うと総理大臣附補佐官は一礼し、店を出て夕暮れの闇の中に立ち去った。あとにはただ一人、就任したばかりのこの国の最高責任者が、真っ青な顔でぽつねんと取り残されていた。
そのあと我に返って家に帰るとすぐ、僕は外国にいる父に電子メールを送った。父は今扱っている仕事の山が片付き次第、こちらの国に来ることになっていた。父の仕事は数カ月で終わることもあれば数年かかることもあって、今回の仕事がどちらになるかは僕も知らない。それでも僕は文中に一切の事情を書きしたためて、予定をほっぽり出してとにかくすぐにこちらに来てくれるように頼んだ。国家的な問題に対し僕の父がどれほどの力になりうるかは分からないが、それでも僕は父に頼るしか無かったのだ。僕が送信してから二、三時間後、地球の裏側から返信が届けられた。その文中で父は、仕事を前倒しする事は出来ないことと、そしてもしこちらへ来ても何も助けてやれないということを伝えて寄越した。そして文章の最後には、一人でつらい事もあるだろうが頑張りなさい、と激励の言葉が書き添えられていた。
明けない夜は無い、という言葉があるが、その通りにこの翌日も朝がきた。しかしその言葉の一般的に意味するところとは違い、僕は憂鬱な気分のまま恨めしく朝日を眺めていた。目下の問題として、これから学校に行くのが恐くて仕方が無い。総理大臣として好奇の目でじろじろ見られたり、廊下を歩くだけで周囲から囃し立てられたりする気がしてならなかった。しかし意外な事に、恐る恐る登校しても誰かがこちらを指差してひそひそ話をするような気配は無く、また授業も何事も無く終わっていった。どうやら誰も、僕が総理大臣になった事など未だに知らない様だ。僕自身、就任演説などはしておらず、マスメディアから取材を受けたことも無い。また、選挙の開始の時とは違い、誰が当選したかは大した問題ではないらしく、アゴラからの例の騒がしい告知もあれから起こっていなかった。それらの事を考慮に入れると、実情を知っている人が皆無でも当然なのかもしれない、と思えた。とにかく、全てが以前と同じままで、僕はほっと胸を撫で下ろした。
そんな状態が数日間続いた。誰も僕が総理だとは気付かない、そんな平穏な日々だった。そのうちに、クラスメートとも徐々に馴染む事が出来た。ひどく快活な級友も何人かいて、彼らはよく、
――浦嶋って外国にいたんだろ、スゲェよな
――また外国の話をしてくれよ。何度聞いてもホント飽きないんだよ、ホント
なんて風に無邪気に話し掛けてきて、それで休み時間を級友との会話で過ごすことも多かった。そんなぬるま湯に浸かった様な日々が続くうちに、僕は自分が総理大臣であるという事を無意識のうちに頭の隅に追いやり、総理大臣附補佐官だと名乗った女性の出現がまるで夢の中の出来事だったかのように感じ始めていた。
しかしある日の放課後、その日もいつもと同じように帰宅しようと教室を出たところ、後ろから僕の袖を引っ張った者がいる。驚きながら振り返ると、そこにいたのは稲葉だった。
「悪いがちょっと来てくれ。お前に話しておくべき事がある」
それだけ言うと、稲葉は僕を連れて歩き出した。彼は校舎内をずんずん歩き、いくつかの階段を上っていった。途中で僕は何度か彼に話し掛けようとしたが、その度に稲葉は片手を上げて遮り、僕に喋らせようとしなかった。やがて僕達は目的地にたどり着いた。そこは出入り口の他には何の設備も無く、だだっ広い平面と、それを囲む鉄条網、そしてその全体を覆う高い空が見えるだけの――校舎の屋上だった。
「急にこんな所まで連れ出して悪いな。だが、教室や廊下じゃ他の連中に盗み聞きされる可能性が高い」
稲葉はやっと口を開いてくれたが、僕は嫌な予感しかしなかった。少なくとも、他人に聞かれては都合の悪いような話が始まるらしい。
「さて浦嶋、本来ならもっと早く言っておくべきだったかもしれんが、まずは総理大臣就任おめでとうとでも言ってやろうか。もっともお前にとってはおめでたいどころか、はた迷惑な話だろうがな」
僕はぎくりとした。背中から冷水を浴びせられたような気分だ。「君は、その事を知っていたのかい?」
「当ったり前だ。皆いつも通りの態度だから、誰も何にも知らないとでも思っていたのか? 国民の大多数が知っていることだろうよ。何しろ皆アゴラで結果を確認できるんだし、それ以前にネット上でさんざんもてはやされていたんだからな。ところで、これは一般向けにはまだ公表されてないから訊くが、お前の得票率がどれぐらいだったか聞いたか?」
「確か、九十二パーセントだって言われた。独裁者並の人気者だよ、僕は」
「そうか。この国じゃ平均的な数字と言えなくも無いが、それにしても高めな方だな。選挙の場合は内訳は毎回十日後くらいには公開されるんだが、例えばお前の前任の男――たしか冴えない会社員のような面をしてたが――そいつの得票は八割止まりだったんだ。ついでに二代前に至っては――売れないギタリストだったかな、奇抜な髪形だったが――カリスマ性が受けたのか、なんと九割七分の票を集めたって言われている」
僕は唖然として物も言えなかったし、笑う気にもなれなかった。稲葉は話を続けた。
「前にも言ったかもしれんが、何しろ実質無権だからな、この国の総理は。誰がなっても同じようなもんだが、誰も面倒そうなことにはなるたけ関わりたくないもんだ。ほとんどの国民は自分でなけりゃ誰でも良いと思って、その時の流行や乗りで投票先を選んじまう。だから一旦情報工作の的になった奴は集中砲火を浴びるが如く、嫌でも票を集めちまうんだ。お前と前任の男はこのパターンだったな。ただその例外が二代前の自称カリスマギタリストで、何の気まぐれかこいつは自分から派手に選挙活動をやったんだ。街中でギターをかき鳴らしたり、自身の映像を動画サイトに投稿したり――」稲葉は思い出したように一旦言葉を切り、真顔に戻った。「おっと、俺はこんな無駄話をするためにわざわざ屋上までお前を連れて来たんじゃない。問題は、お前の得票率だ。九十二パーセントと聞いて何か感じないか?」
僕は稲葉が何を言いたいのかまだ見当もつかなかった。首を傾げてみせ、そのまま彼に続きを促した。稲葉は切り出しにくそうに話し始めた。
「あのな、この国で選挙権を持つのは一般国民全員だって、前にも言ったよな。つまり、お前の得票率が九割有ったってことは、実際にほぼ全ての国民がお前に投票したって風に考えられるんだ」
「……それがどうかした? 君がさっき理由を説明してくれた通り、僕に票が集まったのは当然じゃないか」
今度は稲葉が呆れたような顔で僕を見た。彼は言った。
「お前はほんとお人好しだな。それとも間抜けか? 見るに堪えないからここまで引っ張って来たんだが、むしろ気付かせない方が良いような気もしてきたよ。……この数日間、お前の周りの連中はどんな態度をしていた? 皆あたかもお前が総理だって知らないような態度で振る舞っていただろ。それでも連中は実際には事実を知っていたはずなんだ。違うか?」
僕はこの時になってやっと、稲葉が何を言いたいのかに気が付いた。数字がばかにでかいがために、逆に実感が沸かなかったせいだろうが、それでも今まで気付かなかったのが不思議で仕方がない。ニュースで出てくるような非日常の出来事と、自分の普段の平和な日常とをくっ付けて考えるのは、存外に難しい事なのかもしれない。だがなんという事だろう。気付くと同時にむかむかと、得体の知れない気持ち悪さがこみ上げてきた。
「じゃあ何だよ、僕の周りにいた皆は僕が総理だって知ってただけじゃなく、……実は情報工作に唆されて僕に投票していたって事なのか?」
稲葉は気まずそうに視線を逸らせた。「確定は出来ないが、恐らく文字通り十中八九、そういうことになるんだろうな」
顔からすっと血の気が引くのが自分でも分かった。周りの人が誰も僕の事に気付いていないんだと思っていたが、そうじゃない。僕が気付かなかっただけなんだ。何食わぬ顔で接していた級友たちも、自分でさえなければそれで良いと思って、おそらくそのほとんどが僕を指名していたんだ。
全身から力が抜けた。足がふらつくような感じがした。気温が数度下がったような気がしたが、それでも背中の辺りがじっとりと汗ばんで気持ち悪かった。総理大臣に就任した日もひどかったが、それにも増して今日はひどい。僕は俯いて黙り込んでいたが、暫くすると稲葉が声をかけてきた。
「なあ浦嶋、俺がこんな事を言っても気休めにしかならんだろうが、しかし――」
僕は考えるともなく、片手を上げてその言葉を遮った。それから彼を睨み付けた。
「黙れよ、稲葉。その前にまず君はどうなんだ? 君は一体誰に投票したんだ? 例の九十二パーセントの中には君も含まれているんじゃないのか?」
そう怒鳴ってしまったそばから、僕は自分自身に驚いていた。稲葉に八つ当たりしたところで何の意味もない。なぜこんな事を言ってしまったのか、内心ひどく後悔した。しかし、それ以上に、ぶつけようのない感情を抑える事は難しかった。
稲葉はすぐには答えなかった。彼は屋上から見える景色のどこか遠くを見上げてふーっと息を吐き出し、頭をぽりぽり掻くと、やっと静かに僕の方に向き直って、言った。
「悪いが俺が誰に投票したかは言わない。言ったところでそれを証明する方法は無いんだから、言うだけ無駄だろ? ――だがまあ安心しろよ、天地神明に誓って言ってやるが、俺は絶対にお前に投票していない」
「それを信じろっていうのか? 信じられるもんか」
「そうだな。信用を得るのは難しいもんだ。だが数日前、俺がお前にこの国の制度について教えた時の事をよく思い出してみろ。あの時俺は訊いたよな、『もしお前がこの国の総理になったら何をする』って」
僕はその時の事をはっきりと思い出した。稲葉は嫌味ったらしく、にやにや笑い出した。
「そしたらお前はこう答えたんだ。『全国に僕の銅像を立てる』ってな。言っちゃあ悪いがこれほどひどい答えは聞いた事が無い。政治的センスもギャグのセンスも零点以下だ。頭を冷やしてよく考えてみろ、いくらなんでもそんな奴にこの俺が清き一票を投じるわけないだろうが、おい?」
そう言われると、もはや返す言葉が無かった。それに、無邪気にもげらげらと笑い転げている稲葉を見ていると、もう怒りたい気分もどこかに消えてしまった。
「ごめん。根拠も無く疑ってすまなかった」僕は謝った。彼を信じる根拠も未だに無いままだったが、この目の前にいる級友が悪い人間だとはどうしても思えなかった。
「いいや、気にすんな。それより話を戻すが、俺が言いたかったのはな、周りの連中を信じ過ぎるのも考え物だってことだ。お前には無批判に人を受け入れる節がある、と思う。お人好しで間抜けなのは結構だが、一方的に利用されないように気を付けた方が良いかもな。まあ、連中も別に悪意があってあんな振る舞いをしたわけじゃないだろうし、ひょっとしたら連中も投票しなかった八パーの方かもしれないしな。真相は分からんが、うまく付き合っていけよ」
稲葉は微笑んだ。恐らくこの友人は僕のざまを見兼ねて、黙っていられなくなってこれを話したのだろう。つい八つ当たりした自分が恥ずかしい。それでもこのような、腹を割って話し合える友人がいてくれるのはありがたかった。この稲葉という少年は、やっぱり疑うべくも無く、善いやつであるに違いない――。
僕は空元気を振り絞り、雰囲気を変えようとして口を開いた。
「そうだね、これからは少しは気を付けることにするよ。でも、大体、総理大臣になったからって、それで何の問題があるっていうんだ。この国じゃあ大した意味はないんだろう? だったらさ、総理の仕事なんて別に何も無いだろうし、これからもずっと今まで通りに――」
「いいえ、総理、お仕事はきちんと務めて頂きます」
後方からの聞き覚えのある声で、僕の言葉は遮られた。僕も稲葉も驚いて振り返った。屋上の出入り口の所、ちょうどそこの影になっている部分に、真っ黒なスーツを着た小柄な若い女性――総理大臣付き補佐官さんが何時の間にか立っていた。
――――――店の外では相変わらず蝉が鳴いている。
隣の稲葉はもう既に、例の奇怪な料理(尤も、ラーメンに準ずる何かであるはずだ)を平らげていた。その一方で、僕は葱豚骨醤油チャーシュー麺をまだ半分も食べていなかった。それを見て稲葉が言う。
「なあ、もし口に合わないってんなら、無理して食わなくてもいいんだぜ。実はラーメンが苦手でしたってことが発覚したとしても、別にお前の生活に支障が出ることは無いんだからさ」
「いや、おいしいよ。本当においしい」
僕の返事に嘘はなかった。目の前の食べ物は外見こそ不細工だったが、味はまるで旨味そのものを抽出して体現した物であるかのように、純粋に美味しかった。ただ、しかし、問題が一つある。
「口に合うってんなら結構だが……。なあ浦嶋、こんなこと言うのはお節介だろうし、それに育った文化の違いってやつなんだろうがな、麺をすすって食べたらどうだ? すすらないと食べにくいだろ?」
僕は麺を睨み付けて答えた。「いや、結構だ。たとえ周りの人がみんなすすって食べていても、僕はどうしてもすするようなはしたない真似をする気にはなれないよ。時間をかけて悪いけれど、もう少し待っていてくれないかな」
「妙なところで外国かぶれしているんだな、お前は。ジェントルマンにでも憧れてるのか?」
「まさか。……ただ、他人の目が気になるような気がして仕方が無くってさ」
僕がそう答えると、稲葉は声を上げて笑った。「あっははは、お前は間違いなく、この国の人間だよ」
こうなれば意地でもすすらずに食べきってやる。僕はそう思ってもう一口食べたが、この国のラーメンはすすらない食べ方とはとことん相性が悪いらしい。食べ始めた当初はただ美味しいだけだったが、僕がせっせと食べている間にも麺は水気を吸ってどんどん太く重くなり、それを噛んで飲み込むのが一苦労となっていた。おまけにこのスープの脂が冷めて固まり、胃にもたれてくる。ついさっきは稲葉に待っててくれと頼んだものの、もう食べ切る自信が無くなってきた。周りでは他の客がどんどん食べ終え、目まぐるしく次の客と入れ替わっている――――――
夕日の差し込む屋上にさっと一陣の春風が突き抜けた。その風に乗って、散りつつある桜の花びらが吹かれてきたが、今の僕達にそんなことを気にするだけのゆとりは無かった。
「ここにいらっしゃいましたか、浦嶋総理。ずいぶんと探しました」
突如として現れた補佐官さんはもの静かな声でそう言い、つかつかと僕達の方へ歩み寄ってきた。しかし気を取り直した稲葉がその前に立ち塞がり、問い詰めるように彼女に言った。
「おいちょっと待て、あんたは一体何者だ? 見たところうちの生徒でも教師でもない様子だが。それに、どうしてここに浦嶋がいると分かったんだ?」
補佐官さんは稲葉の顔を一瞥し、少しだけ眉をひそめた様だった。しかしそれだけで、稲葉の質問には答えようとせず、彼を片手で指差すと、僕に向かって言った。
「こちらの人はどなたですか? 総理」
「えっ、……ああ、僕の友人の稲葉です。ですが、あの――」
しかし彼女はそれだけを聞くと、今度は憤然としている稲葉の方に向き直り、例の名刺を手渡して一気に話し始めた。
「総理大臣附補佐官の四衛等里(しえらざと)です。以前当人には予め告げておいたのですが、本日は浦嶋総理に職務内容を説明するためにこちらに参りました。なぜお二人がこの校舎の屋上にいると分かったかというと――」補佐官さんは片手で空を指差した「――私はいつでも、人工衛星から情報を得られるからです。最初にご自宅に伺い、次いで校舎内を調べたのですが総理が見つからず、もしやと思って上空からの映像を確認したところくっきりと二人の姿が映っておりましたため、ここまで伺った次第です」
話を聞いて唖然としながらも、思わず僕は空を見上げた。人工衛星なら確かにここを見つけられるかもしれないが、本当にこんなことの為に使ったのだろうか? それとも補佐官さんはあの真顔のまま、冗談のつもりで嘘を言ったのだろうか。僕の目ではもちろん空には何も見当たらなかったが、何だか視線に晒されているような気色の悪さを感じずにはいられなかった。一方で、稲葉は眉間に皺を寄せて名刺を睨みながら話を聞いていたが、補佐官さんの話しが終わるとふっとため息をつき、そして笑い出した――どことなく、嫌味な笑い方で。
「屋上に来たのは人目を避けるためだったんだが、よりにもよって宇宙から丸見えの場所を選んでいたとはな。総理大臣付き補佐官ってのは大したもんだ。――ところで四衛等里さんよ、個人的な質問で恐縮だが、何でこの名刺にはあんたの苗字しか書いてないんだ? 普通はフルネームを書くべきじゃないのか、名刺ってもんには」
それを聞いて僕ははっと気づき、空を眺めるのを止めて慌てて制服のポケットから名刺を引っ張り出した。数日前に補佐官さんから受け取った時は気にも留めなかったが、確かに氏名の部分には姓らしい『四衛等里』だけで、名は記されていなかった。僕も稲葉に倣って遅れ馳せながら補佐官さんに疑いの目を向けたが、彼女は事もなげに答えた。
「私個人の名前など何の意味も無いからです。総理大臣附補佐官の職は私の家系の中で自動的に継承される仕組みになっていますので、名刺にはこの四衛等里という姓だけで十分なのです」
僕はこの答えがどこか腑に落ちない気がした。この時代にこれほどの先進国で世襲制の地位があるのも意外だったが、それ以上にそれを答えたときの補佐官さんの声が気に掛かったのだ。彼女はもともと落ち着いた声をしているが、それにしてもさっきの声はあまりにも落ち着き払っており、どことなく無機質で――機械的な気味悪ささえ帯びていた。ただ、隣にいた稲葉は何も気付かなかったらしく、それで十分納得した、という顔で頷いた。
「なるほどな。総理に専属の秘書が付くって話は下らない噂程度に思っていたんだが、この状況じゃあ本当らしいな。……っと、そういえば補佐官さまがこんな所までおいでなすったのは総理殿に職務内容を説明する為っつったか。俺もちょっと興味があるから、隣で一緒に聞いていてもいいかな、四衛等里さん?」
僕は補佐官さんの名前についてもっと聞いておきたかったが、稲葉が特に気に掛けていない様なので深く考えるのはやめにした。それより、――この男は何なんだ、厳格そうな補佐官さんに向かってこんな横柄な態度を取るなんて。一緒に聞きたいと頼んでいるくせに、これでは怒られて追い払われても不思議じゃない。
しかし、僕の予想に反して補佐官さんは何も意に介さぬ様子で頷き、稲葉が同席することを承諾した。
「構いません。守秘義務が課されるような国家機密などはありませんし、それに総理のご友人なら職務内容を知っておいた方が後々都合の良い事もあるかもしれませんので。ですが、その前に」補佐官さんは僕をちらりと見た。「場所を替えられてはいかがでしょう。そろそろ日も暮れますし、ここでは実際に衛星の監視下にありますので。付いて来て下さい」
僕は稲葉の方を見た。彼も困惑した表情をしていたが、僕と目が合うと頷いてみせた。そうして補佐官さんを先頭に、僕達は屋上を後にした。
この数日前、稲葉と初めて出会って友達になった時は、僕達はすぐに打ち溶け合う事が出来たと思う。しかし、補佐官さんとはついにそうなる事が出来なかった。彼女に対して僕は最後まで敬語を遣い続けたし、稲葉の方はどうしても反りが合わなかったらしい。そして当の補佐官さんはと言えば、常に彼女特有の慇懃かつ淡白な態度をとり続けた。彼女が僕達の事をどう思っていたのかは知る由も無いが、もしかしたら表情に出さなかっただけで、内心では案外面白がっていたのかもしれない。
「――では只今より、我が国における総理大臣の職務内容の説明を行います」
部屋の隅に立った補佐官さんは平然と説明を始めた。しかし僕と稲葉はさっきからやたら座り心地の良い椅子の上でそわそわとしていて、それどころではなかった。この部屋に入ってからどことなく、居心地が悪くてたまらない。補佐官さんが本題に入る前に、ついに堪り兼ねた稲葉が声を上げた。
「あのさ、俺が口を挟んで申し訳無いが、俺達がこんな所を使って本当に大丈夫なのか? そりゃあ確かに、四衛等里さんが場所を借りる手続きを取ってくれたけどよ……」稲葉は一度、僕と顔を見合わせた「ここ、この学校の第一応接室だぜ。本来なら教育委員会とか知事とかの偉い人を校長が接待するための場所で、俺達生徒は普段足を踏み入れることさえ許されないんだけどな」
編入してきたばかりの僕でさえ、この部屋のどこか排他的な雰囲気がひしひしと感じ取れた。暖色の照明に照らされた部屋の中には高級そうな調度品がさりげなく置かれ、床にはシルクの絨毯が染み一つ無いまま敷き詰められている。普段使われていない部屋特有の、黴とも埃ともつかない古臭い匂いがかすかに漂っていたが、それすらもこの空間に箔を付けている様な感があった。後に聞いたところによると、この部屋だけは生徒でなく指定の業者に掃除させている(この国では通常、生徒が校舎の清掃をする)とのことで、この学校においてこの第一応接室はある種の聖域として扱われていたようだ。
屋上から三人で降りた後、制止しようとする僕達を尻目に補佐官さんは職員室にずかずかと踏み入り、『総理大臣附補佐官』の身分を以て遠慮無くこの部屋の使用権を得たのだ。その時の彼女の有無を言わさぬ態度ときたら、職員室の先生方のみならず、彼女の後ろについていた僕達までもが圧倒されるほどだった。
「――それがどうかしましたか? 管理者側から許可が降りた以上、何の問題も無いはずですが」
「そりゃあそうだが、何だかなあ。この国じゃ総理本人には何の特権も認められてないんだぜ。それなのにその下の補佐官があんな権限を持っているってのが、どうしても納得いかないんだよなあ」
「私も何の権限も持っておりませんよ、法的には。ただ、この肩書きを示しさえすれば大抵の人は大人しく言う事を聞いてくれるので、それを有効に利用しているだけです」
「いいんですか? そんなことして」
「単に自分の身分を名乗った上で要請をしているだけですので。誤解を誘発させている可能性はありますが、法的には一切問題無いでしょう」
補佐官さんが悪びれもせずにそう答えたので、稲葉も僕も返す言葉も無く黙り込んだ。そういえば先刻、彼女は人工衛星からの映像を見れるとか言っていたが、ひょっとするとあれもただの冗談などではなく、本当に観測員を脅して見たのかもしれなかった。
「職務内容の説明に戻りますが、よろしいですか?」どこかそら恐ろしく思い始めた僕達を余所に、補佐官さんは話を戻した。僕達がこくりと頷くのを見届けてから、彼女は説明を始めた。「資料は用意しておりませんが、単純な内容ですので口頭だけで理解して下さい。まず当然の事ながら、本国が直接民主制を採用している以上、本国の総理に政治的指導者としての役割はございません。ですので他国のように内閣を組織したり行政の指揮を執ったりする必要はありません。もっとも一個人として法案の制定や改定を提案するのは貴方の自由ですが。しかしその場合でも、一般市民と比べて法的な優遇措置を受けることはありません――」
以前稲葉に聞いた通りだ。やはり、この国の総理大臣には政治的な意味合いは無いらしい。それなら、やはりアゴラの管理をするのだろうか。僕はあまりその手の操作には詳しくないのだが、困ったことになりそうだ。
「――本国政府の公式サイト、通称『アゴラ』の運営に関してですが、これは総理の補佐官である私が管理人を務めておりますので、総理は一切関与しなくて構いません」
補佐官さんはそう言い切った。僕は目を丸くした。「それなら、やっぱり仕事なんて何にも無いじゃないですか。この国の総理大臣は一体何の為にあるんです?」
「一つだけ、特別な職務があります」
「一つだけ? 特別な? 何です?」
「……『総理大臣で在ること』です。つまり我が国の最高責任者として就任し、全国民の規範として存在する、ということです」
その言葉は荘厳な響きを持っていたが、僕には今一つ、ぴんと来なかった。――これはよく大人が使うあの抽象的な言い回しで、要は結局、何もしないという事じゃないのか? まあ人類の長い歴史において、役人というものの大半は甘い汁を吸うこと以外何もしていないのだろうけれど。
焦れったくなった様子で稲葉が再び口を開いた。「四衛等里さんよ、つまるところ浦嶋は何をすりゃあいいんだ? こいつはただ玉座の上で、偉そうにふんぞり返ってればそれで良いってことか?」
「違います」補佐官さんは即座に否定した。「名目上であれ、総理大臣は国家の最高責任者です。我が国の代表であり国全体の責任を負う存在なのです。確かに内政では仕事というべきものはありませんが、他国と外交を行う際には、総理一人に全権が委任されます」
初めは彼女の言う事がよく分からなかった。しかし、それがどういう意味か気付いた瞬間、床が急に数段沈み込んだような気がした。「何ですって? ということは、つまり僕が――」
「つまり貴方が我が国代表として全責任をもって外交の場に出て、諸外国との仲を上手く取り持たなければならない、という事です」補佐官さんが言葉を引き取った。
「それじゃあ、この国の外交は総理大臣一人に――この場合は僕に――丸投げされているって事ですか? そんな無茶苦茶な――」
「他国との会談の最中に、逐一アゴラで国民投票を行う訳にもいきませんから。国際的な場に於いては、本国の命運は貴方ただ一人の言動に左右されるわけです。――ですがご安心下さい。歴代の総理が常に穏便な平和主義を採られ続けたおかげで、我が国は一度も他国との間に表立った軋轢や衝突を生じさせた事がございません」
淡々とそう言って、無表情ながら補佐官さんはどこか微笑みそうな気配さえ漂わせていた。しかし、僕にとっては笑い事ではない。
「そんなことを言われても、僕に外交なんか無理です! 僕はまだこの国の仕組みさえよく知らないし、大体僕みたいな子供じゃそんな責任は負えやしません。どうにかならないんですか? 何か、僕がその職務を免れる方法は?」
僕は切羽詰って、恥も外聞もなく叫んでいた。補佐官さんはやはり表情の無いまま、何も言わずに口を噤み、第一応接室には沈黙が広がった。途端に、室内を覆っていた黴の匂いが一段と強くなったような気がした。僕は助けを求めるように稲葉を見た。補佐官さんが理解してくれなくても、同い年の友人なら僕に共感してくれるだろう、と思った。彼はそれまで頬杖をついて重々しく何か考え込んでいる様子だったが、何か言ってくれるように僕が目で促すと、ゆっくりと口を開いた。
「なあ浦嶋。いいんじゃないか、お前がやってみても」
「え?」
冗談じゃない。僕は驚愕したが、稲葉はゆっくりと、しかしはっきりした言葉で続けた。
「ふざけた理由であれ、お前に投票した連中はお前が総理で問題無いって判断をしているんだ。九割の支持なんだろ。充分、胸を張っていいと思うぜ」
「でも、そんなの――」
「確かにお前一人じゃ知識が足りないかもしれない。でも、それを補ってやるために、四衛等里さんがこうして居てくれているんだろ。『総理大臣附補佐官』ってのはそのためにあるんだよな、なあ?」
補佐官さんは無言のまま静かに、それでもはっきり頷いた。
稲葉は熱を込めて続けた。「確かにお前だけじゃ荷が重過ぎるかもしれない。だがな、それを支えてやれる友人が少なくとも一人、ここにいるんだ。現にお前は今、必要なことは四衛等里さんに教えてもらって、困った事があればすぐに俺に頼ったじゃないか。これからゴタゴタに巻き込まれるとしても、大丈夫さ。俺たちでお前を助けてやるだろうから」
僕は黙ったまま二人の顔を交互に見た。今では二人とも、この高貴な第一応接室の雰囲気にも充分釣り合うぐらいの、頼もしい立派な顔つきをしているように見えた。二人の顔を見ているうちに、僕の心の中に僅かな動揺が生じた。それを表情から読み取ったのか、念を込めて後押しするように、稲葉がこくりと頷いてみせた。――こうなったら、もう僕一人が逃げ出すわけにもいかないだろう。
僕はやたら座り心地の良い椅子から勢いをつけて立ち上がると、補佐官さんの方を向いて一度だけ首を縦に振った。彼女は何も言わないまま、つかつかと窓の方へ歩いて行き、室内を日射しから保護する為の分厚いカーテンをしゃっと開けた。そして彼女が留め金を外し、蝶番の軋む窓をがらり開け放すと、途端に一陣の夜風がさあっと室内に吹き込んでくる。古ぼけた第一応接室の空間が、流れ込んだ宙を舞う桜の花弁で満たされていった。その桜吹雪の中、補佐官さんは一枚の紙と万年筆を取り出し、僕に向かって差し出した。
「先日頂いた署名は私の方で廃棄しておきました。字が余りにも下手くそだったためです。なので改めてもう一度、総理大臣としての署名をお願いします」
僕は再び万年筆をとった。今度はしっかりとした手で署名をして、補佐官さんに提出すると、稲葉がばしりと僕の肩を叩いた。
「さあ、俺達もう後戻りできないぜ。しゃきっとしてくれよ、総理殿」
――――――外の蝉の鳴き声は幾分小さくなっていた。あれほど照りつけていた夏の日差しもすっかり消え失せ、今では夕焼けになっている。
僕は多大な時間と労力を費やして件のラーメンを食べ終えていた。山盛りのネギも豚肉も麺もスープ(といってもその大半が食べている最中に麺に吸収されていた)も、今では全て僕の胃の中に収まっている。僕が一生懸命食べている間に軽々二杯目を平らげた稲葉が、にんまりと笑って言った。
「まったく、一国の元首ともあろうお方がラーメンを食うのに四苦八苦する様ってのは、傍から眺めているとこの上なく平和な感じがするぜ。ところで浦嶋総理さま、この哀れな貧しい庶民の為に、今日は一杯奢って頂けやしませんかね?」
食べ過ぎと大量の脂のせいでぐったりとしかけていたが、それでも僕は憤然として突っぱねた。
「嫌だよ。『ラーメン食いに行こう』って持ち掛けてきたのはそっちの方だろ」
「お偉い人は財布の紐が固いねえ。この三ヶ月間、総理大臣としての実務が特にあったわけでもないし、たまには庶民にお恵み下さってもいいじゃないか」
僕は少しむっとして言い返した。「言っておくけど、仕事が無いんだから当然給料も貰えないんだよ。この国の総理大臣はあくまで名誉職なんだ。強制的にタダ働きさせられているようなものだよ」
そうは言ったものの、半ば諧謔だった。もし給料が出たとしても、別段貰いたくはない。四月に就任してから暫く経ったが、自分が今までにした実質的な仕事と言えば就任時の署名だけだった。そう言えば、自分の職務と直接の関係は無いが、僕がこの国に来て以来、アゴラに投票を要する議題が出されたことは一度も無かった。誰でも発案できるのだから誰かが何か出していても良さそうなものだが、この国の政治の在り方はいたく平穏で、のんびりしたものであるらしい。あるいは既に理想国家に近い状態にあって、もう何も改める必要が無いのかもしれない。兎に角、余りにも普段通りに日々が過ぎていたので、このまま何も起こらない内にひっそりと任期を終えることが出来るかもしれないと、僕は近ごろそう思い始めていた。
「名誉職のタダ働き、ねえ」カウンター席の隣で、稲葉が一人そう呟いていた。少なくとも僕の目は彼の口がそう動くのを見た。しかしその音声の方は、厨房の方で突然起こった怒号と悲鳴によってほとんど掻き消されてしまった。
――この役立たずの屑野郎め。てめえが配達先を間違えたんだろうが、この能無し!
――そんな筈はありません、手前は予約通りに配達に伺ったのですが、そちらのお方がお留守だったようでして、手前は何も――
――うるせえぞ! たかがヘイロウタイの分際で口答えするんじゃねえ、このタコが! ちょっと地下室に来やがれ、こら
叫び声はそれを最後に途切れ、次にはどこか遠くで分厚い扉が閉じる音がした。それっきり、何の物音も聞こえて来ない。他の客たちは怒鳴り声が響いていた間こそばつの悪そうに静かにしていたものの、止んでからは何事も無かったかのようにお喋りを再開していた。僕は何が何だか分からないまま座っていたが、しかし稲葉はさっと伝票を取り上げ、しかめっ面で席を立った。
「一旦は俺が払っといてやる。勿論お前が食った分は後で請求するがな。それより早く店から出ようぜ、胸糞悪い」
僕は何がなんだか分からないまま店を出た。数分後、勘定を済ませて出てきた稲葉は極めて不快そうな顔をしていた。
「さっきのは何だったの? へーロータイがどうとか聞こえたけど」僕は小銭を渡しながら稲葉に尋ねた。彼は声を低くして言った。
「どうやらヘイロウタイの一人がへまをやらかしたらしい。それでそいつが文字通り、油を絞られていたわけだ」
「……だから、その、ヘイロータイって何なの?」
稲葉は瞬時ためらう素振りを見せ、それから苦々しげに言った。「浦嶋、お前が使ってるケータイは、国内向けに適応させてあるんだろ。以前アゴラからの通告を受け取っていたんだからその筈だ。なら、そいつに『ヘイロウタイ』って打ち込んでみろ、ちゃんと変換されて出てくるはずだから」
僕は携帯電話を取り出して言われた通りに入力し、変換した。すると画面に表示されたのは、『兵労隊』の見慣れない三文字だった。
「読んで字の如く、ただひたすら労働に従事する連中、つまりこの国の最低辺にいる連中の事だ。有罪判決を受けちまった犯罪者や、そいつの親戚たちが否応なく入隊させられる。それで社会への贖罪として無償で労働する、っていうのが表向きの存在理由なんだが――」稲葉は乗り物酔いした人が込み上げる物を抑えるときの表情で言った。「身も蓋も無い言い方をすれば、兵労隊ってのは奴隷そのものだ。この国にゃ、奴隷制度が現存しているんだよ」
僕はやるせない思いで稲葉を見た。ついさっき躍起になって腹の中に詰め込んだ麺と脂が、今は喉元までせり上がって来ている様な感じがした。――まったく、僕が今腰かけている玉座の足元には、どうやらとんでもない地雷が仕掛けられているようだ。
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