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 ――えー、では記念すべき最初のホームルームを始めます。まず、先生の名前は――

 校庭の桜は見事に咲き誇っていた。おそらくありふれた表現なのだろうが、桜の樹はどう見ても美しいものだ。たとえそれが、先生の話を聞き流しながら教室の窓越しに見ているものであったとしても。

 教壇では担任の先生が自己紹介を終え、今度は新学期の注意を始めたところだった。しかしどこの学校でも毎年お決まりの文句を繰り返しているだけであるらしく、真面目に聞いている生徒はほとんどいない様に見えた。当の先生ですらどこか気怠そうな顔をしている。勤勉な国民性、とは言うが、果たして本当はどうなのだろう。もっとも、飽き飽きしながらも毎年同じような注意を繰り返す分、律儀さと几帳面さは折り紙つきなのかもしれない。退屈して僕と同じように桜を眺めていた生徒も少なからずいた筈だが、それでも皆にとってはおそらく見慣れた風景の一つであり、僕と同じような感慨を持って眺めていた人はいないだろう。

 ――第一棟は工事中なので立ち入り禁止です。それとー、何考えてるのかたまに屋上に忍び込んでる生徒が目撃されてるけど、そこも原則立ち入り禁止だからなー

 ここはこの国ではごく普通の学校であり、そして今日はその始業式の日である、らしい。一応転校生である僕は本来なら自己紹介とやらをして、クラスの中に溶け込むべく必死の努力をするものなのだろうが、今は丁度クラス替えの時期だ。編成されたばかりのクラスにさらりと紛れ込むように組み入れられ、おかげで僕は転校生特有の緊張感を味わう必要も無く、心安らかにささやかな花見に興じることが出来るのだった。

――貴重品は常に身に着けて持ち歩くように。特に、通信端末は個人情報が悪用されうるからたいへん危険です。ここで残念なお知らせですがー、春休み中に紛失事件が起こっています。犯人はまだ見つかってません。みんな気をつけろよー

 桜の樹はこの国を象徴するものであるらしい。この国、民主主義を高度に実現した理想国家として世界各国から評されているこの国の、象徴――。春風がさっと吹くたびに、はらりはらりと桜の花びらが宙を舞った。 

 他人からよく指摘されるが、僕は時たま余りにも呑気に振る舞っているらしい。呑気、いや危機意識の欠如と言った方が正しいかもしれないが、とにかく話の重要な部分を聞き逃す事は実際少なくなかった。この日も花見に没頭するあまり、先生がホームルームの終了間際に放った奇妙な一言を、何の警戒心も持たずに聞き流してしまったくらいだ。

――はーい、新学期の説明は以上です。……あーそうそう、もう一つだけ。告知が来ています。知ってると思うけど、今日あたりにも選挙が始まります。みんなもちゃんと選挙権は持っているよなー? この国全体の大事を決める事なのできちんと投票するように。はーい、それじゃあ、日直さん、記念すべき最初の号令を。

 起立、礼、と掛け声がかけられて、僕は慌てて周りにつられる様に立ち上がり、みんなから一拍遅れて頭を下げた。途端に教室は何事も無かったかのようにがやがやとした喧噪に包まれ、クラスは友人作りに励む人々とそのまま帰宅する人達に二分された。僕は自分の鞄を掴むと、まばらな人の流れに従って教室を出た。

 丁度校舎の玄関口に来た時だった。そこには何重もの壁のように下駄箱が設置されており、小さな個人用ロッカーとでも言うべき要領で各生徒の履物が収められている。僕がその整然と並べられたさまに感心しながら(後で気付いたことだが、何と素行の悪い生徒でさえ、下駄箱にはきちんと靴を揃えて入れている!)、自分のスニーカーを取り出そうと身をかがめた瞬間、びいいい、びいいいという聞き慣れない警告音が辺りに響き渡った。驚いて耳を澄ましたが、その音はどこかに設置された一つの音源だけから出ているのではないらしく、まるで大小様々なスピーカーがそこら中に散在しているようで、下駄箱の向こう側や教室の方、さらには校舎の隣の棟からもその電子音が聞こえてくる。そのうち、あちこちで警告音が次々にぴたりと鳴り止んでいき、最後に僕の制服のポケットの中から鳴り響いている分を残して静かになった。

僕はぎょっとしながらポケットに手を突っ込み、音源の一つとなっていた自分の携帯電話を急いで引っ張り出した。折り畳み式のそれをかちゃりと開くと例の警告音も鳴り止んで、辺りはすっかり静かになったが、しかしそれで終わりではない。携帯電話には黒の地に赤い文字で『アゴラより通告:選挙の開始』と画面一杯に表示が出ており、僕は再度驚かされることになった。自分の物でありながらこのような機能が付いていたなんて知らないし、ましてや『アゴラ』というのが何なのかも分からない。気味悪く思って周りを見回すと、折よく隣に一人の痩せ気味の少年が来ていた。――下駄箱の配列から察するに、そいつが僕のクラスメートであることは疑いようが無かった。

「ねぇ、さっきの音って一体何だったんだろう? 君は大丈夫だったかい? この辺一帯の電子機器が一斉におかしくなったのかな?」

 話し掛けられた少年は僕を一瞥し、それから不機嫌そうに目を逸らした。上履きを脱いで下駄箱に放り込むと、彼は僕の顔を見ないまま言った。

「いつもの例のあれ、じゃないんですか」

 相手の返事はやけに素っ気無かった。顔を覗き込むと、どことなく疲れ果てている様な感じがしないでもない。それでも僕は、食い下がって尋ねた。

「その例のあれ、ってのが僕には分からないんだ。この前こっちに引っ越してきたばかりでさ。できれば詳しく教えてほしいんだけど」

 相手は――下駄箱に書かれた名前を見ると彼は稲葉いなば もといという名前だった――今度は訝しむようにこちらをじろりと見たが、やはりまたすぐに背を向けて、今度は下履きを引っ張り出してそれを履きつつ返事をした。

「君が引越ししたばかりでも、さっきのを知らないわけがない。喧嘩を売っておられるのですか? これまでにも何度も、この国のどこでもさっきと同じことが起こっていたはずですがね」

「それなら、僕が知らなくても当然だよ。僕は外国から引っ越してきたんだから」

 顎を掻きながら僕はそう言った。稲葉は目を丸くして僕の顔を覗き込んだ。しかし、しばらくじろじろと眺めた後、彼はいらいらしたようにチッと短く舌打ちをした。

「どう見たら貴方が外国人に見えるんですかねえ。黒い髪で肌色の肌、間違いなくこの国の人間だし、それに――」彼はさっと僕の下駄箱に目を走らせた「『浦嶋うらじま 太朗たろう』さん、なんて名前の外国人がいる訳ないでしょうに」

 君の基準だと、金髪で蒼い目をした白人でなきゃ外国人として認められないのかい、という言葉がつい出かかったのを、僕は何とか寸前で抑えることができた。少なくとも、今は初対面の級友と外国人観について話し合っている場合ではなかった。

「僕は自分が外国人だなんて一言も言ってないぞ。稲葉君、僕はまあその、帰国子女なんだ。この国では常識のような事だとしても、僕はほとんど知らないんだよ」

「あ?」

「生まれはこの国なんだけど、幼い頃からずっと父さんの仕事の都合で外国を転々としていてね。それでももう充分一人で生活できる歳になっただろうってことで、つい数日前に新学期に合わせて母国に――つまりこの国に――一人でやって来たばかりという訳さ」

 僕は正直に、そう言った。稲葉はようやく手と足を止め、驚愕と疑惑の入り混じった表情で僕を凝視した。彼は半信半疑のまま、何か考え込んでいるようだった。それで僕がずっとほったらかしにしていた携帯電話をやっと取り出し、意味の分からないメッセージが表示された画面を示して、「これをどうすればいいか、それだけでも教えてくれないかな?」と懇願すると、彼は急ににやりと破顔した。さっきまで僕が彼に抱いていたイメージとは打って変わって、一度笑えば意外と人懐っこそうな顔に見えた。

「わかった、分かった、すまなかった。てっきりからかっているのかと思ったよ。すまん。――しっかし、この時代にまだケータイなんか使っている奴がいるなんてな。国内じゃとっくの昔に絶滅したと思っていたよ」

 彼は「まさか帰国子女とはな」と呟きながら、僕から携帯電話を受け取って二三の操作をし、いつもの待ち受け画面に戻して返してくれた。

「さっきのはただの告知だよ。アゴラからの、選挙が始まったってお報せさ。後でログインして入り込めばいいんだから、今は気にせず消してしまっていい。どっちにしろ、ケータイなんかじゃアゴラの膨大な情報を処理しきれないだろうしな。あ、いや、選挙もアゴラも君には分からないか。君はこの国の事は何も知らないんだよな?」

「ああ。親が教えてくれたおかげで言葉は十分なんだけど、世間の事はまったく分からない」相手の予想外の饒舌ぶりに驚きながらも、僕は正直に白状した。

「オーケイだ。それならこの俺が一から教えてやるよ。――まず直接民主主義ってのがあってだな、それで総理大臣てのが居て――……。いいや、そんなことよりもだ」稲葉はふと何かに気づいたように言葉を切り、それからぐるりと辺りを見回した。そしていそいそと今度は内履きに履き直しながら、言った。「どこか空いている教室でも探そうか。下駄箱の前で長話ってのは、あまり気分の良いもんじゃあないからな」

 

 稲葉という少年は初めて見た時には取っ付き難そうな雰囲気があったが、しかし根は世話好きの善いやつに違いない。彼が一通りの説明を終えたとき、僕はそう思っていた。これから後もずっと、僕にとっては半ば異国にも等しいこの地で、彼はいつも見事に僕の案内役を務めてくれた。この友人には散々世話になる事になるが、彼の行う説明はいつも実に鮮やかなものだったと言える。

 あの日、彼はこの国の国家全体としての仕組みについても大まかに説明してくれたが、その内容はとても奇妙なものだった。

この国では他の多くの民主主義国家とは違い、直接民主制が採用されている。国民が直接、政治に関わるのである。そのため、一般的な間接民主制なら当たり前の、議会や国会といった機関が存在せず、政治家と呼ばれる職業もこの国には無い。国の運営について何か懸案が出た際には全て国民全員から投票を受け付けて、その多数決のみによって国家としての方針を決めるのである。また、法令の設立や改正なども国民が自由に提案でき、それらの可否もやはり多数決で決められる。いわば全て一般国民の手で直接、物事の是非を決めるのである。そして直接民主制であるが故に、この国の最高責任者たる総理大臣も国民の総意を以て国民の中から選出する。担任の先生や稲葉が言っていた『選挙』とは、この総理大臣を選ぶための選挙の事を指していた。

「――とまあ、こういうわけだ。どうだ、お前にも理解できたか? この俺に言わせてもらえば、自由と平等を徹底した完璧な民主主義国家じゃあないか、この国は」

 一通りの説明を終えたとき、稲葉は得意げに顔を輝かせた。彼はいつの間にか一人称として「俺」を、二人称として「お前」を使っていた。しかしそれには一切構わないことにして、僕は率直な疑問を投げ掛けてみた。

「国の全てを国民が直接決めるってことは、僕達が好きなように法や仕組みを決められるってことだよね。それじゃあ例えば祝日を増やしたり、国庫のお金をみんなで山分けしたりってことも、出来るかもしれないってこと?」

「まあ、制度上じゃああり得なくも無いだろうな」稲葉は何故か、苦笑いしつつ答えた。「制度上ならな。だが問題は多数決だ。念のために言っとくが、もしお前が自分の誕生日を祝日にしようとしても、多数決で全国民の過半数の賛成が無けりゃ何も変わらないんだぜ」

「あくまで例として挙げただけだよ、祝日は」僕は慌てて打ち消した。出会ったばかりの友人に馬鹿のように思われるのは避けたい所だ。「でもさ、君の説明を聞いていて気になったんだけど、何か提案や議題が出る度にいちいち国民全員から多数決を採るなんてことは、現実的には不可能じゃないか? 確かこの国の人口は――」

「――ざっと一億と数万くらいだな。昔と比べれば少子化で減ったほうさ。でもだからと言って、別に一人一人にアンケート用紙を配って記入させているわけじゃない。そんな間抜けなことをしたら、お前の言う通り回収と集計が大変な事になるからな。それで活躍するのが、さっきお前のケータイにも表示されていたこの『アゴラ』だ」

稲葉は自分の鞄から小型のノートパソコンを取り出した。ぽかんとしている僕に対し、彼は説明を続けた。

「アゴラっていうのはこの国の政府公式サイトの通称だよ。正式には確か、『Automated Government Relying on All』……だったかな? まあそんな細かなことはどうでもいい。とにかく、ネットの仮想空間内に政治機構が設置されているって訳だ。このシステムのおかげだぜ、小国以外じゃ困難と言われる直接民主制をこの国で実現できたのは」

 稲葉はパソコンをかたかたと操作し、それからぐいっと半回転させて、その政府公式サイトが表示された画面を僕に見せた。

「投票を要する議題がアゴラに上ると、一斉に国中の情報機器にそれが発信される。パソコンとか、スマートフォンとか、それにお前のケータイなんかにもな。そこら中で警告音が鳴るってのは毎回騒がしいんだが、それでも街中の画面が一斉に切り替わる光景はなかなかの壮観だぜ。特に電器屋なんかは阿鼻叫喚のさまだ。――それで、その通告を見たやつはめいめい自分の名義でアゴラにログインして、賛成なり反対なり票を投じる。そうすりゃ後は勝手にサーバーの方で集計して、結果を出してくれる。な、簡単だろ?」

 へぇ、と僕は素直に感心していた。確かに、ネットを使えば大規模な投開票も容易に行えることだろう。それに、人々から広く提案を集めることも。案を集め、審議し、可否を決める、その一連の過程が半分は機械で自動化され、もう半分は完全に民衆に委ねられているなんて。そんなシステムを持つこの国は、常に良い方向に更新され、人々の描く理想に限り無く近づいていく事だろう。この国の民主制の評判は外国を転々としていた時にもうっすら聞いていたが、こうして実際に住んでいる人から聞くと話が現実味を帯びてより壮大なものに感じられる。物心ついた時からずっと他の国に住んでいた身には、まるで近未来の国家に来たような思いがした。

「すごいな。本当にすごい。……――でも、パソコンを扱えない人や小さな子供とかはどうしているんだろう? 放っておく訳にもいかないだろうし。その辺は、どうやって解決しているの?」

 ふと気になって、僕は質問した。しかしこれほどの先進国なら、この手の問題でさえ、恐らくとっくに解決策が出されているに違いない。そう思った上での質問だった。

「その点も大丈夫だ、一般的な意見としてはな。アゴラへ入る際にはそれほど難しい認証が要求されるわけじゃないから、本人でなくても成り済ましで投票できる。だから投票権を他人に譲っちまう奴はごまんといるし、幼児や高齢者の投票なんて大抵その保護者が勝手にやっちまう。結果としては一応、集計に必要な票はきっちり集まっているってわけだ」

稲葉はさらりと答えた。その答えの中に何か、引っ掛かるものがあった。僕はすぐにその違和感の正体に気付いた。「それは――、ん、あれ、不正行為なんじゃない? 詳しい事は知らないけど、駄目じゃないの?」

「そうかもな。だがまあ、この国じゃ多少の不正なんか誰も気にしちゃいないぜ。政治ってのはどれも、多かれ少なかれ腐敗していくものだろ?」

 稲葉はしれっと、さも当たり前のことを言うかのようにそう答えた。僕は唖然としてしまった。――確かにそうかもしれないが、それを言ってはおしまいだろう。

「おい、言っては悪いけど、この国の人々はそんなのおかしいとは思わないのかい? この国にはこれ程優れたシステムがあるっていうのに。他の国ではそんな考え方は絶対に受け入れられないぞ」

 僕は息巻いたが、稲葉は苦笑し、諭すようにこう言った。

「ああ、普通はそうなんだろうな。実際、このシステムが成立する直前には、もっと煮詰めて完璧なものにするべきだってことで反対する意見もあったらしい。それでも一旦、なし崩しに成立してしまって、それから半世紀以上経った今となっては、おかしな点があってもそれをわざわざ指摘する奴は一人もいやしない」

「一人もいないなんて、明らかな不正なのに、そんなまさか――」

「じゃあ逆に聞くが浦嶋君よ、君が今までにいた国々じゃ、政治は全部完璧にクリーンなものばかりだったのか? 関係者が全員聖人君子みたいな善人ばかりだった、なんてことは流石に言わないよな。それでもし多少の不正や違和感があったとしても、みんなそのうちに慣れっちまうか諦めちまって、終いには公然の秘密として誰も何も言わなくなったんじゃないのか?」

 僕は答えに窮した。稲葉は冗談めかして言ったものの、痛い所を突いていた。彼はにやっと笑った。

「そうだろ、浦嶋君よ。政治なんてとどのつまりはそんなもんさ。お前はまだこっちに慣れてないから、こっちの在り方をおかしいって思えるんだ。馴染んでしまえばお前もその内何とも思わなくなっちまう。ところで、他に質問はないか?」

 まだまだ納得できない気持だったが、これ以上言い合っても仕方がないので抑えた。僕が稲葉にああだこうだ言ったところで、何かが変わる訳でもない。それに、まだ訊きたい事があったのだ、それも本来なら一番最初に訊くべき疑問が。

「いや、もう一つ。確か、今度の選挙は次の総理大臣を選ぶためだって最初に聞いたけど、そもそも何の為に総理大臣がいるんだろう? アゴラが有って、全部を国民の意思で決めるのなら、この国に指導者なんて不要じゃないか?」 

 稲葉ならこの質問にも立て板に水の如く答えてくるだろう、と思っていた。しかし意外なことに、彼は手を顎に当てて考え始めた。

「そうだな……。何の為にあるのか、それは俺も知らないな。実は考えた事も無い。総理大臣って役職自体の起源なら、昔この国が間接民主制だった頃の名残だと聞いたことがあるが、しかし今はもう内閣なんて無いし、それじゃあ何の仕事をしているんだろうな? ……何しろ最近の総理で仕事らしい仕事をしたって奴はいないし、第一、派手に選挙活動をするような候補者も滅多に見かけないからな、一般市民の記憶に大して残らないんだよ。ひょっとすると総理の存在を忘れている奴すらいるかもしれない。ま、影の薄い存在だな」

「テレビとかには出て来ないの? 記者会見みたいなものはしないのかい?」

 僕がそう訊くと、稲葉は突然吹き出した。「テレビ! 古臭い響きだな。この国では今じゃテレビ自体滅多に見かけないが、そうか、お前のいた外国ではまだ残っているんだろうな。重大なニュースは例の政府サイトから直接発表されるもんで、わざわざテレビを見ようってやつはよっぽど変わった趣味か、あるいはレトロ好きの懐古主義者ぐらいのもんだ。――とにかく、総理大臣が記者会見だとか演説だとかをすることは俺の知る限りでは無い。そのお姿を庶民が拝むことも滅多に無いね」

「それじゃつまり、総理大臣は表立った仕事をしているわけじゃないんだ?」

「ああ、少なくとも俺らが知る限りはな。名ばかりの存在なんだろうよ。……そう言えば、噂では総理大臣には専属の秘書が一人付くとか聞いたことがある。あくまで下らない噂話、都市伝説みたいなもんだが。ってことは、秘書が要るような仕事を裏でしてるって事なのか……? うん、俺にも詳しいことは分からん。憶測の域を出ない話だしな」

 稲葉は半ば考え込みながらそう言った。ずっと住んでいた彼でさえ知らないことがある以上、この国にもやはり不明瞭な部分はあるらしい。何か少し、幻滅に近い気分を味わった。

「何だよ、それ。みんなの話し合いで決めるのがこの国のやり方なんだろう? なのにさっきから聞いていると、やけに変な話ばかり出てくるじゃないか?」

「まあ、仕方ないだろうさ。理念ってのは掲げる分には明快でも、それを実現するためにはどうしても複雑な手段が必要になってくるものだからな。総理大臣自身もそいつなりに、何かしら国の為に貢献してるかも知れないぜ」

「とにかく、その総理大臣ってのが得体の知れない存在だということは十分に分かったよ。まあ何にしろ、聞く限りじゃ僕達には縁の無い存在の様だけど」

 僕は気楽にそう言った。ところが稲葉は首を横に振って、僕の発言に難色を示した。

「いや、前にも言ったと思うが、ここじゃ国民全員が平等に権利者なんだ。この国じゃ赤ん坊でさえ、政治に介入する権利を持つんだぜ。だから制度上は俺やお前が総理大臣になる可能性も無きにしも非ずってことだ。それとついでに言っとくが、もしこの国の政治システムが気に入らなくとも投票ぐらいはしとけよ。お前も選挙権を持っているんだし、この時期に帰国したのも何かの縁だろうしな。俺達みたいな歳で政治に口を挟める国ってのは、世界でも珍しいもんだろ?」

 稲葉は途中から急に、忠告する様な真面目な口調になっていた。僕は意外に思いながらもただ頷いて、分かった、きっと投票するよ、と答えておいた。

 それからしばらく、僕達は堅苦しい話を止めて他愛も無い雑談をした。稲葉は僕の来歴に強い興味を持っていた。帰国子女というものが、とても珍しかったらしい。僕が今までに行ってきた外国の話をすると、彼は面白がり、熱心に聞き入った。僕の経験上、編入された初日からこれほど打ち解けられる相手が見つかるのは珍しかった。僕の方でもつい嬉しくなって、どこの国の給食がおいしかっただの、どこの国の授業がつまらなかっただのといった下らない事を、うっかり長々と話し込んでしまった。

 やがて下校時刻を知らせるピアノ曲が流れ始めて、僕達ははっと黙り込んだ。話し続けていて気が付かなかったが、もう既に日は大きく傾き、教室は夕闇の中に沈みかけている。多くの事を聞き、またよく喋ったせいか、頭が少し痛む気がした。

「もうこんな時間だ。稲葉、今日は色々教えてくれてありがとう。おかげでこの国の事をずいぶん知ることが出来た。もっとも、慣れるのはもう少し先のことになりそうだけどね」

「どういたしまして、だな。――ところで、ちょっと聞くが浦嶋くんよ、お前はもし総理大臣になったら何をしたい?」

 僕は稲葉が冗談を言っているのだと思った。実際、彼の口調は軽やかで、例えばこの国では定番のくだらない質問、「宝くじに当たったらどうする?」を言うときのそれと全く同じものだった(僕はこの国にいる間度々この質問を耳にする事になったが、よっぽどありふれた質問であるらしく、訊かれた方はうんざりしながらもやはりくだらない答えを返すのが常だった)。

「えーっと、そうだな、僕が総理になったら――全国に僕の銅像を建てる、かな? あっははは……」

 出来るだけふざけたつもりだったが、しかし、稲葉は全く笑わなかった。見下すような、もしくは哀れむような目でこちらをじろりと見ただけだった。咄嗟に出た冗談の出来の悪さは我ながら恥ずかしかったが、それでも恥ずかしいという感覚より恐ろしいという感情の方が勝っていた。稲葉は相変わらず、何も言わない。ただじっと僕を見て、やはりそのまま黙っている。冷たい沈黙が僕達の足元から湧き出して、ガスみたいに薄暗い校舎全体に拡がって行くような、そんな気味の悪い想像がふと湧き起こった。

「ねえ、僕のユーモアのセンスはともかく、少しは笑ってくれてもいいじゃないか。じゃあ君ならどうするんだよ? 稲葉君、もし君が総理大臣になったらとしたら、一体どんなことをしてくれるんだい?」

 沈黙に耐えられなくなって、とうとう僕は彼に訊き返した。少なくとも、僕の方ではまだ冗談として訊いているつもりだった――

「そうだな、俺はこの国を内側からぶち壊してみたい。全部壊して、どうなるのかを見てみたい」

 淡々とした声だった。おどけた調子ではなく、ましてや気取った口振りでもなかった。僕はぎょっとして目の前にいる少年を凝視したが、しかし深まりゆく闇の中、光の当たり方の加減でその表情は全く読めなかった。

「――なんてな、もちろん冗談だ。お前こそ笑ってくれよ。いやすまん。俺はちと用事を思い出したから、君は先に帰ってくれ。じゃ、また明日」

 暗闇の中から届いた稲葉の声は、ついさっき「総理になったら何をしたい」と訊いてきたときと同じトーンの、軽やかな声だった。


まだ頭の中がぼんやりとしている。僕は自分の部屋でパソコンを起動させながら一人考え込んでいた。今日、稲葉は何を思ってあんな事を言ったのだろう? すぐに冗談だと打ち消していたが、あのときの彼の口調は決して冗談には聞こえなかった。本気で言っているのだとしたら恐ろしいが――。それでも、僕達くらいの年齢なら、あんな事を真面目に夢想する奴がいても何の不思議も無いかもしれない。前にいた国の学校でも、程度の差こそあれ、あんな無茶苦茶な事を言う奴は何人かいたくらいだ。世界征服だとか、革命だとか、そんな途方もない事を大真面目に語るやつ。そういうのは大方、その手の漫画や文学の影響を多分に受けてしまっただけだし、あの稲葉という少年もその内、現実に目覚めていく筈だろうから――だからそのときまで、そっとしておいてやろう。

 そう結論付けることで、僕は頭の中のもやもやしたものを振り払った。それからパソコンを操作し、昼間に教えてもらった政府公式サイト、アゴラにログインした。表示された画面を見たところ、流石は全国民向けと言うだけあって、コンピュータをさほど使用しない僕でも簡単に操作できるような分かり易い設計になっていた。昼に稲葉のパソコンで見た時は気が付かなかったが、サイト内には電子掲示板も併せて設置されていて、チャットのように数秒おきに自動更新されている。投票の受付をするだけでなく、討論の場としての機能も持っている様だ。ただ珍しい事に、この大掛かりな掲示板では各人の発言を一元的に上から下へと並べていく形式は採られておらず、広大な余白の好きな所に書き込めるようになっていて、誰かが書き込んだ意見のすぐ下に他の人がまた書き込む事であちこちに種々の議論の群れが形成されるようになっていた。書き込まれた意見は最初は濃く表示されるものの、時間が経つと次第に薄くなっていく仕様らしい。文字は少し読み辛いぐらいに小さく設定されていて、そのため一度に表示される文字量が多かった。おかげでしっかり読む際には部分的に文字群を拡大する必要が有ったが、それでも前述の形式と相まって膨大な量の発言を一目で俯瞰し、最新の主要な話題をすぐに見つける事が出来た。少し変わった形式だが、一つの掲示板で複数の議題をまとめて扱う上ではこれが最適だったのだろう。僕がこうして眺めている少しの間にも、幾人かの人が何かちょこちょこと、おそらくは各々の政治的な主張を書き込んでいるのが見て取れた。仮想空間内にあるとはいえ、国中の人々が一堂に会して発言し合えるその場所は、まるで巨大な広場のようだった。

 僕は稲葉に教えられた通り、サイト内の投票ページまで進んだ。画面上部には現在までの投票総数が表示され(といってもまだ数百票しか集まっていなかった)、中央には大きく記入欄が設けられている。しかし、そこで僕ははたと迷った。――投票の仕方までは教えてもらったが、一体誰に投票すれば良いのだろう? 僕はこの国の人をあまりにも知らなかった。総理大臣の座にふさわしい秀才や推薦されるべき天才というものを、誰一人知らなかったのだ。僕は一時、真剣に考え込んでしまったが、すぐにこの国が直接民主制であり、結局は何でも全国民の多数決で決まることと、歴代の総理が大して仕事をしていないらしいことを思い出した。――つまり、言ってしまえば総理大臣なんて誰がなっても同じ事なのだ。誰が総理になろうとも、そいつが特別大層な役目を負うわけじゃない。そう気付くと、自分が一瞬でも真面目になって投票する相手を考えたのが馬鹿らしく思えてきた。

 僕はキーボードを叩き、入力欄に『稲葉 素』と記入した。もちろん深い考えがあったのではなく、真っ先に思い浮かんだ名前がそれだっただけだ。しかし、自分で入力したその名前を見た瞬間、数分前のもやもやした疑念がわっと頭の中に蘇ってきた。あの少年がもし本当に総理大臣として選ばれでもしたら――。でも、それが一体どうした、仮に総理になったとしてもこの国は直接民主制、あいつはやっぱり無力のまま、結局のところ何か劇的な意味があるわけではない。でも――それでも少なくとも稲葉には稲葉なりのやる気と言うか、馬鹿らしくても野望とでも言うべきものがあるのではないだろうか? 怖いもの見たさではないが、彼がもし本当に総理になったとき、一体どうするのかを見てみたい気もする。それに、こんな事を言っては身も蓋も無いが――僕一人が稲葉に投票したところで、それこそ一体どれ程の意味があるのだろう? 一億票の中のたった一票、全体にはほとんど何の影響も与えないはずだし、従って選挙の結果がどうなっても僕が負う責任なんてちっぽけなものでしかなく、万一仮にあの危険思想の少年が当選してしまっても、それならつまり僕以外に大勢の支持者がいたということになる。それに何より、僕は稲葉の他には妥当そうな候補者を知っていない――――。

 僕の人差し指はEnterキーを押していた。昼間稲葉に教えてもらった限りでは、これで投票が確定されるはずだった。投票したい相手の氏名を入力して、Enterキーを押すだけ。もっとも、同姓同名の人がいた場合はその旨が表示され、氏名の他に年齢や所属などの要素を追加入力していって絞り込む必要があるらしいが、稲葉 素という名前はそんなに多い名前ではないだろう。だが――

 「あれ?」と僕は、思わず声に出して呟いた。パソコンの画面上に表示されたのは『受付完了:ありがとうございました』という文ではなく、『エラー:該当者無し』というものだった。僕はもう一度、入力ミスが無いのを確認してやり直してみたが、結果は同じだった。どういうことだろう? 同姓同名どころか、『稲葉 素』という名前の人間自体がいないと出た。僕が何かのミスを犯して気付いてないだけか、稲葉が教え忘れている事でもあるのか、それともバグや不具合が起こっているのだろうか。ふと、ある突飛な考えが頭を過った――それともまさか、つい数時間前に僕と話した少年は偽名を使っていたのだろうか?

「そんなまさか。いくらなんでも有り得ないさ」

 そう呟くと僕は投票ページを閉じ、アゴラからログアウトした。別に投票する事に強いこだわりがあったわけではなく、些細な好奇心程度のものだったし、それにわざわざエラーの原因を究明する気にもならなかった。十中八九、システム側の不具合だろう。ならこちらではどうすることも出来やしない。それに編入初日の気疲れもあって、今はとにかく眠くて気怠くて仕方がない。長い時間をかけて説明してくれた稲葉には悪いと思ったが、今回はすっぱり棄権してしまうことにした。

 ――まぁ不正投票が横行しているくらいだ。それに、自分一人が投票しなかったからと言って、どうせ大した支障が出る訳でもないだろう。

 僕は欠伸を抑えながら、パソコンをシャットダウンした。

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