12.

「ええ、もちろん。そうそう怒鳴らなくても聞こえてますよ」

 口調に含まれた笑いは、電話の向こうにもしっかり伝わってしまっているだろう。むしろわざとはっきり聞こえるよう、マティアスは送話口に唇を近付けた。

「貴方が何を仰りたいかもね。わざわざそんな下品な言葉遣いをなさらずとも……物事を相手に伝えたいときは、5W1Hが大事です」


 今を盛りと萌える芝の色、ちぎれ雲を乗せた青い空。とにかくこの地所はマティアスがほんの幼い頃より何一つ変わっていない。その最もたるものが、この眼前の馬場から始まる広々とした野原だった。柵にもたれ掛かり腕を引っかけた途端、シャツ越しに刺すささくれすら、古い記憶を呼び覚ます。

「ご心配なさらず、解体はしていません。そのままの状態で……メールに添付してある写真はご覧になった? 結構」

 イタリア語は理解できないが、サントロの喚き立てる単語が聞くに耐えないものであることは疑いがない。たった今、一つだけ聞き取れたのは「vaffanculo(くそったれ)」。映画でよく耳にするお決まりの罵倒語だ。

「そうです。あの建物は俺たちの手にあります……場所? 教える訳ないでしょう。金も頂いてないのに。少なくともまだ、警察署の前に放置されてないことは確かですから、ご安心を」

 傍らのレイチェルとジューンは女子高生のようにクスクス笑い、お互いの肩をつつきあっている。あんまりかしましいので、一端スマートフォンの送話口を手で押さえ「静かに」と窘めなければならないほどだった。

「いえ、こちらの話。お孫さんの誕生日はもうすぐでしたか。さぞやがっかりなさると思いますけどねえ」

 こちらが涼しげな口調で言ってのけても、相手の怒りが白熱を続けると言うことは、まだ鼻っ柱を挫けていない証。濃い緑の香りと共に吹き抜ける風へ久しぶりのニコチンを混ぜ込みながら、マティアスはふっと息を漏らした。

「なかなか手に入れられない物ほど、いざ自分の物になったときの喜びは格別だ。逆に言えば、永遠に失ってしまったときの悲しみも計り知れない……お誕生日プレゼントとおじいちゃま。一度に二つも、大事な物が警察に取り上げられたりしたら、坊やはどう思うでしょうね」


 そこでようやく、癇に障るきいきい声がぴたりと途絶えた。負け犬らしい低い唸り声の方が、よっぽど似合っているじゃないか。そこまで追い打ちをかけることはせず、マティアスは次の言葉を待ち受けた。

「ご理解いただき感謝しますよ。さて、では単刀直入に値段交渉と行きましょう」

「300、300、300」

 レイチェルが柵へ胸を乗せて首を伸ばし、耳元に囁く。

「ちょっと欲張り過ぎじゃない?」

 彼女へ顔をくっつけるようにしながら返すジューンの息には、まだ笑いが残っている。二人へ目配せし、マティアスはスマートフォンを握りなおした。

「そうですね。経費に慰謝料、それと口止め料も込みなら、500万ドルでも安いと思いますけど」

 静まり返った野を、風ばかりが吹き抜けていく。


 一番堪え性のないものが一番損をする。地の底を這うよな唸りが受話器越しに響いた瞬間、マティアスはもうほとんど痛みを感じなくなった肩にまで力を込め、拳を突き上げた。目を見開いて顔を見合わせていたレイチェルとジューンの表情が、見る見る歓喜に染まる。

「それでは、振込先については後日連絡を入れるので、そちらに。ついでですが、お友達を頼っても無駄かと。最近のコーサ・ノストラは、貴方が思っているほど力を持っていない」

 これでぐうの音も出なくなる。人をやりこめるなんて子供っぽい所行だと思えたが、このときばかりは自分に許そう。喜びを最大限まで引き延ばすために。

 通話を終える前、マティアスはふと思い出して「ああ」と顔を機械に近づけた。

「そういえば、シニョール・サントロ。おたくのレストルームにあったポロックの絵、逆さまに掛かってましたよ。早急に直すことをお勧めします」

 レイチェルが甲高い悲鳴を上げるのは、通話ボタンが押されるのとほぼ同時だった。ぴょんぴょんバネ仕掛けのように飛び跳ね万歳する姿は、年齢を超越して彼女そのものに似合っていた。

「もう、何これ! あり得ないくらいチョロいじゃない!」

「500万ドルですって」

 柵にしがみつくジューンは、まだ茫然自失の状態から抜け切れていないようだった。

「一人、125万ドル?」

「幾らかは経費ってことで差し引かせて貰うけど、まあ、100万は堅いだろうな」

「ちゃっかりしてるんだから。でも、お手柄なことに変わりはないわよね」

 柵から身を乗り出しざま伸ばされた腕は、迷うことなくマティアスの顔を捕らえる。

「Good boy、最高よ」

 頬にちゅっと落とされた子供のようなキスは、アメリカ人らしい大仰な親愛表現。今は、そう思うことにする。

 離れていくレイチェルと入れ替えに視界へ入ってきたのは、すっかり引き攣ったジューンの表情。出来る限り何食わぬ顔で、マティアスはシャツのポケットから両切りゴロワーズのパッケージを取り出した。

「ところでジューン、君は100万ドルを何に使うんだい」

「まだ考えてない」

 目をぱちくりさせる事で何とか理性を取り戻したジューンは、吐息交じりにそう答えた。

「というか、そんな大金持ったことないから、想像できない」

「そういうあんたはどうするのよ、マティ」

「そうだなあ。幾らかはここの税金に消えるか。あと、少し屋敷を改装してもいいかも。雨漏りする部屋があるって、お袋が嘆いてたから」

 土地持ちなんて苦労が多いだけだ。収入がなければ税金も払えないし、維持費も馬鹿にならない。まるでしがみついてくる罪の意識のようにーーいつかは決別しなければいけない。或いは手遅れになって食い殺されるかも。

 面倒なしがらみが嫌で離れたのに、大金が手に入るとなって、一番に思い浮かべたのがこの場所だったなんて。封建的な家族の事を何一つ笑えない。沸き上がる苦い笑みを紫煙ごと呑み込み振り返ると、どういうわけか嗤うべき彼女たちまでも真面目腐った顔つきを浮かべている。

「あれ? なんだい」

「いーえ……ドイツ人って、何だかんだ言いつつ真面目だと思って」

「そもそも、本当に貴族だったのね」

 顔突き合わせて交わされる内緒話は、相当に失礼な内容であることは想像に難くない。今度こそ顔いっぱいに苦笑を広げ、マティアスは肩を竦めた。

「まあ、そう簡単に使いきれないことは確かだよな。実を言うと俺、新車が欲しいって思ってたんだよ」

「ヘレに見繕って貰えば?」

「冗談だろ。ダッジなんか買おうとするような野暮に……いや、別にアメ車を馬鹿にしてる訳じゃなくて」

「噂をすれば、帰ってきた」

 ジューンの声に促されるまま、丸く囲われた柵の向こうへ視線を投げる。

 太陽の位置が高まるにつれ、徐々に晴れる霧。白樺の森の奥より現れた二頭の馬は、まるで夢の中から抜け出してきたかの如く静閑で、穏やかだった。


 もっとも、美しい生き物を操る人間が心安らかであるとは限らない。黒鹿毛の馬に跨るヘレの顔は、崖から転落した時ですら浮かべなかった徹底的な強張りに支配されている。

「もうちょっと力を抜いて……大丈夫、そんな簡単に振り落とされたりしないわ」

 寄り添うようにお気に入りの月毛を歩ませていたミリアムが、引きちぎらんばかりの勢いで手綱を絞る手を軽く鞭で撫でた。

「馬に蹴られて死ぬなんて、そんなこと滅多にないのよ。もし落馬しても、大人しくしてれば怪我はさせない」

「馬糞まみれになっても死ぬ訳じゃないからな」

「黙りなさい、マティ」

 希少価値とすら言える弱々しさを宿した目でマティアスに縋り付きながら、ヘレは呻いた。

「太腿が攣りそうだ」

「ほらほら、そんな弱音吐かないの。アーノルド・シュワルツネッガーの吹き替えをやってる人間が」

 ヘレが訂正する気力を奮い立たせる前に、ミリアムは鞭で馬場をまっすぐ指し示した。

「じゃあ、今からここを一周したら休憩。出来るわよね?」

 今にも鬣で擦りそうだった顔に、悲壮な色がよぎる。だがミリアムが浮かべる笑みの威圧感から逃げられる男など、この世に誰一人としていないに違いない。結局ヘレは、黙って馬の首を返した。

「上出来だよ。様になってきた」

 励ますつもりで言ったのに、振り向いたヘレの目は射殺さんばかりの鋭さを放っていた。


「覚えとくわ。ヘレの弱点は貴女なのね」

「戦うなら得意な得物で、って言うじゃない」

 感心したように呟くレイチェルへ、ミリアムはにっこり笑って見せた。

「もう行くの? ゆっくりしていけばいいのに」

「いえ、あんまりお邪魔しちゃ悪いわ」

 それが社交辞令なのか、恐々と馬に揺られている男のことを指すのか。彼女の視線から読みとり、マティアスは柵を乗り越えた。

「彼女たちをパリへ案内して、それから俺はもう一度こっちに帰るよ」

「あんまり羽目を外さないでね。淑女には礼儀正しく振る舞うのよ」

 至って真面目な言い聞かせに、吹き出したのはどちらの淑女だろう。

「滅相もございません。俺は完全なエスコート役」

「悪いけど貴女たち、もしも弟が何かしでかそうとしたらどんな手を使っても止めてね」

「大丈夫よ。ねえ、マティ」

 ニヤニヤと笑みを浮かべたまま、レイチェルは肘でマティアスの無事ではない方の脇腹をつついた。

「パリへ着いたら、まずは買い物よ。服、靴、バッグ……駄目にしたのはあんたなんだから、荷物持ちと運転手役で馬車馬みたいにこき使ってやるわ」

「ご立派な淑女もあったもんだ。ジューン、何とか言ってくれよ」

 半ば本気で訴えれば、ジューンはいたずらっぽい上目遣いで彼を迎えた。

「私、本場のフレンチってものを一回食べてみたかったの」

 笑みのまま固まった弟の顔をしげしげと眺めながら、ミリアムは頷いた。

「大丈夫そうね。安心したわ」


 速歩に移れば移るほど威風堂々とした姿を晒す馬へ反比例し、戻ってきたヘレはすっかりよれている。

「これでいいかい」

「はい。ご苦労様」

 股関節がイカれかけているというのは、あながち嘘でもないらしい。ミリアムの手を借りて地面へ降り立ったとき、その脚の動きは今にも膝から崩れ落ちそうな程ぎこちなかった。目だけははしっこく動いて、マティアスの手挟むゴロワーズへ落ちる。軽く首を竦め、マティアスは一際たっぷりとふかしてみせた。

「無理な我慢は良くないって気付いたんだ。人間、今を楽しまなきゃ……ああそうだヘレ、話は付いた。奴はこちらの条件を飲んだぞ」

 鞍へ頭を凭れさせるようにしてたヘレの目が、束の間光を取り戻す。ほんの、束の間だけ。ふいと逸らされた視線から、彼がこの話題に興味を失ったのだと簡単に見て取れた。

「良かった」

「本当、君は……」

 呆れ果て口にしようとしたその続きは、結局巻紙と一緒に燃やしてしまった。これこそが、彼の最も興味深く、マティアスが気に入っている性質なのだから。

「入金はもう少し後になるけど。それまでこっちで見張っててくれないか」

「見張るも何も。家は逃げ出さないし、僕たちの真似をする馬鹿がいるとは思えない」

「それもそうか」

「ねえヘレ。せっかくあんな素敵な東屋が出来たのよ」

 森へ流れ込むように広がる丘を見遣り、ミリアムはうっとりと目を細めた。

「あそこでお茶にしましょうよ。夜は星が綺麗に見えそうだし」

 青い空と緑の丘陵の狭間を埋めるプレーリー・スタイル。チョコレート色の離れ屋は、夏の終わりにやって来るカーニバルの如く唐突に存在し、胸をときめかせる。誘拐されて満更でもないのだろう。丘の向こうからさらめき走り抜ける風へ、心地よさげに身を洗われていた。

 頬へ微かに赤みを上らせ口ごもるヘレに、助け船は出さない。これだけお膳立てを整えて何も出来ないならば、不能以前の問題だ。そこまで情けない男ではないと、マティアスは相棒を信頼していた。


「好きにして、って感じ」

 やれやれと頭を振り、レイチェルがマティアスの左腕を取った。

「私も彼女みたいに綺麗でおしとやかになったら、もう少しマシな男が寄ってくるかしら」

「分を弁えたら」

 負けじと右側に寄り添うジューンが、拗ねたようにふっくらとした唇を突き出して見せる。

「あんたみたいなの、ヒギンズ教授でも調教できないわよ」

「『マイ・フェア・レディ』ねえ。そういえば今、パリで掛かってるんじゃなかったっけ」

「マティ」

 呼びかけられ振り返った瞬間、マティアスは飛んできたものを反射的に掴んでいた。

「無傷で返せ」

「了解」

 掌の中でちゃらちゃらと鍵を鳴らして見せれば、ヘレは微かに笑って親指を立てた。泣いていたカラスはすぐさま笑い、美しい女に寄り添われた男はすぐに胸を張る。あんなに分かりやすい人間もいやしない。好きにおし。口にする代わりに、マティアスはふざけた敬礼を一つ送って見せた。


「車で行くの?」

「10時間も掛けて? 金はあるんだ。ファーストクラスで颯爽と乗り込もう」

 首を傾げるジューンの背中を軽く叩いて、鎮座する車を示す。

「第一、あんな車で押し掛けたらパリジェンヌが卒倒するぞ」

 昨日海を渡り運び込まれたばかりのダッチ・チャレンジャーは、よく磨かれた白いボディを自慢げに見せびらかしていた。全く以て粗野で、厚かましくて、主張の激しすぎる車だ。普段のマティアスなら、レンタカーでも選ぼうとしないだろう。

 だが、空港までの数時間を飛ばしていくならば、こんな車もまた、悪くはない。エンジンは既にヘレが徹底的な整備を施していた。完璧に躾られた馬。イグニッションを回しただけで分かる。

「それじゃあ」

 喧嘩になると困るので、淑女たちは後部座席へ押し込まれてもらう。ハンドルを握り、マティアスは二人へ尋ねた。わくわく弾む心を、隠しもせずその声音へ乗せながら。

「羽目を外す準備はいい?」

 ミラー越しに合った二揃いの目が、笑みの形に細められる。

「もちろん」

 そう答えたのは一体どちらか。構わない。最高の時間の前で、そんなことは些細な問題だった。

「おもいっきり、楽しみましょ(Play Hard)」

 その一言が始まりだ。マティアスは思い切りアクセルを踏み込むと、モーターの回転も高らかにエンジンを歌わせた。


【終】

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プレイハード 鈴界リコ @swamp

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