11.
夜の森がため息を付き、ようやく訪れた静寂に眠りへ落ちようとしている。天突くアカマツの立てる葉ずれは警告だ。「これ以上騒がしくしたら、承知しない」。承知しない? 全能の神ヴォーダンが雷でも落としてくるか?
大自然の神経を逆撫でしないよう、ヘレはひょろ長い幹の間を影のように歩いていた。だから静けさを乱したのは、彼の責任ではない。地面に降り積もる松の葉を踏み散らし、隣へ並んだマティアスは、もう鎮痛剤を飲んでいないのにくすぐったげな笑いをこぼしていた。
「思い出さないか。SASとの訓練の時、アンスガー・ヴィンターニッツがおかしくなったこと。奴が夜中に木の幹を銃床でどんどん叩きながら『ここから出してくれ』って叫びだしたのも、こんな森だった」
「管理人は?」
「ミスター・オリバー・メラーズ? 不発弾は無事に掘り出したから、今夜いっぱいで撤収しますって伝えたら、何も言わなかったよ」
「馬鹿で助かった。ジューンももうすぐ着くだろうし」
「たぶん」
耳のスピーカーを押し、マティアスは完璧な円へと近付きつつある月を見上げた。
「ジューン? そろそろ出発?」
月明かりで白く輝くほど、電話口へ与える顔はやに下がっている。
「……あ、そう。了解、気をつけて」
アイラブユーとまでは言わなかったが、ヘレには到底打ち出せないような親密さ。この一週間足らず、演習を思わせる野宿と過酷な肉体労働に明け暮れている中で、距離を縮めたのだろうか。もしかしたら寝たのかもーー極度の疲労が、こんな下世話な考えを呼ぶのだ。頭を振っているヘレの肩を、マティアスは労るように叩いた。
「30分後にフランクフルトを出るって。あと一時間ちょいってとこかな」
「じゃあ、急がないと」
覆い隠す林が突如開け、月明かりを照明にポーズをとる美女が現れる。
「遅かったじゃない。何かトラブル?」
「別に。始めよう」
重労働が終わって一段落ついたということだろうか。レイチェルはカーキ色のぴったりした作業着をくつろげていた。上から三番目まで開いたボタンの奥に、灰色のスポーツブラがちらちらと覗いている。
「あと1時間でジューンが来る」
「間に合うわよ」
近づいてくる作業員の視線は、闇の中でもくっきりとした胸の谷間に向けられていた。零れ落ちる拙いドイツ語が、男の欲情に拍車をかける。これ以上人員を減らさないでくれれば有り難いのだが。既にもう、ワークシャツを脱いでバトミントンをしていた彼女に気を取られ、手を骨折した挙げ句森の外へ送り返された奴がいる。しかも二人。男の背後に控える建物に顔を向け、ヘレは背筋をしゃんと伸ばした。
マティアスの説明によると、その離れ屋はフランク・ロイド・ライトが二年間ベルリンへ滞在していた時期に私事した建築家の作品で、名義こそは弟子のものだがプレーリー・スタイルの特徴が余りにも強く出すぎているからライトもかなりの部分で設計に手を貸したという説が云々。
「とりあえず、もの凄く価値のある小屋なのね」
1分以内に遮ったレイチェルの言葉が、話の全てを要約していた。
「そんなものに、子供が落書きしたり、カートで走り回ってフローリングや柱を傷だらけになんかしていいの?」
「ま、それは知ったことじゃない」
インターネットからのプリントアウトを振りながら、マティアスはにんまりと笑みを浮かべていた。
「ただ、これだけは言える。大事な娘と孫に嫌われちゃあ、おじいちゃん、生きていけないだろうな」
目的はどうであれ、その場の誰もがやり込められ、あんぐりと口を開けたおじいちゃんの顔を見たいと思っている。アルプスでの刺激的な再会から1週間。目的の為に、マティアスは怪我を忘れ、女たちは吹き飛ばされた札束を忘れ、そしてヘレは恨みを忘れた。下手をすれば書類を手に入れようと計画を練っていたときよりも集中して仕事に取り組んでいたかもしれない。心中にだけ浮かべているつもりだった苦笑は結局表情へ現れていたようで、顔を覗き込んだマティアスが呵々と笑った。
「随分とご機嫌じゃないか」
そうでないことを示すために肘でわき腹を小突いてやれば、少し大袈裟すぎるうめきが寄越された。
青い月に照らされた木々を抜ければ、そこは静けさとは無縁の場所だった。砂糖菓子に群がる蟻のように、10人ほどの作業員が建物の周りを動き回っている。実際、菓子のような外観なのだ。大きさは学校の教室より少し小さいほど。勾配の緩い屋根、正方形をしたチョコレート色の壁。寒々しい森の中へいともたやすく溶け込み、かといって建物自体の雰囲気はほんのり温かい。
手入れは定期的に施されている、という程度。人が常住しいない家特有のよそよそしさは今、汗と泥に汚されている。重機でほじくり返し、家の基礎はすっかり剥き出しの状態だった。
「突貫工事だからどうなることかと思ったけれど、案外うまく行ったな」
マティアスの呟きに、ヘレも相棒の見つめる床下を覗き込んだ。取り付けられたジャッキのおかげで、家は土台から三メートル近く浮き上がっている。プラスチック爆弾で切り離せばいいんじゃないの、という乙女たちの意見は却下されていた。あくまでも、無傷の状態を保つことが重要なのだ。
準備は最終段階に入っていた。たった数メートルの移動のための枕木とレールがたどり着く終着駅は、船舶用のコンテナ・ボックスを改造したもの。基礎には既にころを噛ませてあり、後は繋いだウィンチのスイッチを押すだけでいい。
「こういう場合、レディに開始の合図をお任せする方がよろしいのでは? なあ、ヘル・シュテーデル」
「そうだな。験がつきそうだ」
「何でよ。ボタン押すだけじゃない」
ふざけたやりとりが、レイチェルはまんざらでもないらしい。コンテナに飛び乗り、コントローラーを手に取った。高々と掲げて見せた後、プレイメイトそこのけに身をくねらせてウインクし、鉄の塊に軽くキスをする。
「それじゃあ、男と女の復縁を祝って」
低いモーターの唸りだけで、森はおぞけを振るったようだった。
ワイヤーがじりじりと巻かれ、壁が揺れる、屋根が震える。が、ひやひやさせられたのは最初だけ。離れ屋はやがて、平然と線路の上を進み始めた。
「ゲラーマンに借りを作ったな」
「あまり深く考えなくても良いと思うけど」
「僕はそうかもしれないが。おまえは、彼と昔から知り合いなんだろう」
しばらく暗いコンテナの奥を見つめていたマティアスは、やがてヘレの方に顔を向けた。それから、にこっとミリアムそっくりの笑みを唇に張り付ける。
「昔のな。俺には関係のない話さ」
覚えた違和感は、締まって弾力のある体を二人の間へ割り込ませてきたレイチェルがかき消す。
「これだけ盛大にばらまいて、足出たんじゃない」
「馬鹿だなあ」
次にマティアスの顔へ浮かんでいた笑顔は、女を甘やかすための歯が浮きそうなものだった。
「なら俺たちもその分、サントロに請求すれば良いだけの話じゃないか」
家をコンテナへ収め、固定するのに30分。機材をかたづけるのに更に20分。準備は整った。時間に余裕はないが焦る必要もない。
「さて」
全てが終わった後、マティアスは両手をぱんと叩きあわせ、「政府の爆弾処理班」の人間達に言い放った。
「これで君たちの仕事は終わりだ。前金はゲラーマンが振り込んでるな。森のはずれまでお見送りするから、そこで残りの金を渡すよ。機材の廃棄はよろしく」
仮にもゲラーマンと手を結んだ男たちだ。他言無用、家へ帰るまでが遠足の鉄則を理解しきっている。到着した時、そして作業していたときと変わらず、後ろ姿は粛々と闇の中へ消えていく。
まさしく火急に手がけた仕事だが、下手に綿密な作戦を練るよりも、思い切りよく行動するほうが案外上手く行くものだ。マティアスに言えば眉をつり上げて反論されそうなことを考え、ヘレは掌に滲んだ汗をジーンズで拭った。
計画が成功すれば、あの短気な男のことだ。サントロは人間の限界を超えるほど激怒するに違いない。むしろそれこそが狙いだったーーこの意見に関してならば、マティアスも渋々とはいえ頷くだろう。「そうか、金がいらないなら、俺がもらってやるよ」くらいの憎まれ口は最後に付け足すかもしれないが。
当初の予定より、転がり込んでくる金額は間違いなく増える。それをどう使うか、堅実に預金残高を増やして、銀行員にちやほやされるつもりはなかった。
まずは車をーーピコ大通りのダッジも含めて買い、部品を買い、それからガレージを建て、近くに引っ越す。ミリアムに贈り物を渡すのもいい。そうなると、不本意なことだがマティアスの意見を窺う必要がある。それから、それからーー
いざ浮かべてみると、消費の方法はいくらでも思いつきそうだった。西海岸で車を走らせていれば生活は困窮しない。その先は文字どおりアメリカン・ドリームだった。自らはそれを今まさに掴もうとしているのだ。
膨らむ夢の計画はしかし、まるでオプラ・ウィンフリーのテレビショー並に他人事じみて感じられる。目の前にある刺激に気をとらわれーー果たして本当に? そもそもここのところ、テレビのスイッチを捻ったことすらないのに。
暗闇の中で静かに佇むコンテナへ目を凝らしていたら、不意に「あーあ」と子供のような声が上がる。
「どうせなら、盛大に爆破したかった。その方がせいせいしない?」
「アメリカ人は本当に火薬好きだな」
「なによお。山小屋を半壊させた人間が言う台詞?」
ニヤニヤ笑うレイチェルに見られても良いよう、ことさらそっけない表情を作って踵を返した。コンテナにもぐり込み、ワイヤーとボルトがきっちり家屋を固定しているか確認する。心配無用、結構な仕事だ。コンテナそのものが大破でもしない限り、無事運び出せるに違いない。
「ねえ。マティに聞いたんだけど、女の子と長続きしないんだって?」
軽快な足取りと、反響する舌足らずな声が、四方八方から身を苛む。蔦と薔薇らしき花を模したステンドグラスを睨みながら、ヘレはいいや、と答えた。
「別にそんな訳は。今、特定の相手がいないだけ」
「そうなんだ。最初見たとき、感傷的なナルシストか、コンプレックスの塊のゲイかと思ったもん」
思わず振り返っても、そこにあるのは悪びれた様子もなく尖った唇。竦められた肩が、軽さを補強する。
「第一印象よ。今は少なくとも、ゲイじゃないってのは知ってる。結婚してるんでしょ」
「してない」
「嘘。マティが売約済みだって。あ、なら彼女持ち?」
「持ってない」
「じゃあ、私と寝る?」
「寝ない」
「そういうときは、嘘でも『寝たい』くらい言ったら」
とうとうヘレは、コンテナいっぱいに充満しそうな程の溜息をついた。
「僕は陰気で堅物で変態のゲルマン男だから『そういう』のはちょっと」
「どこかで聞いたような文句よね、それ」
レイチェルの表情はやはりしれっとしたもので、両手を後ろで組み、退屈しきった子供よろしくブーツでコンテナの壁を蹴っている。
「冗談抜きで、ちょっと堅苦し過ぎるんじゃない?」
「よく言われるよ。だから女の子と会話が続かないんだって」
「あら」
レイチェルは笑みを浮かべた。
「今こうやって喋れてるじゃない。それとも何、あたしのこと女として見てないの?」
「そうかも……」
暗がりの中でも、彼女が一瞬真顔になったと分かる。慌てて手を振り、ヘレは小さな影に歩み寄った。
「違う、魅力が無いって意味じゃなくて……自分を殺そうとした相手へそういう気持ちを持つのは、なかなか難しい」
「確かにそうかもね」
すり抜けていく体は、言い終わるよりも前に外へ降り立っていた。
「分かるわ、それが普通」
「君はそそるよ。本当」
「もうやめて。怒ってない」
体ごと振り返り、後ろ向きに歩きながら見せた顔には、確かに不機嫌の色はない。
「からかっただけ。あんた、ほんとに可愛いのね」
強まり始めた風に長い髪がなびき、輝く星へ願いを込めるよう顔を持ち上げる。気づけば頭を押さえつけるようなプロペラ音は、ほんの間近に迫っていた。
そう思っていたのに、音の主はいつまで経っても現れない。ただただ、騒音は爆音に変わり、アカマツのそよぎが、今にもなぎ倒されそうな激しいしなりへ変わっていくだけ。
「お、来たな」
いつの間にか戻ってきていたマティアスが、片手を目の上でかざし口笛を吹く。
「あのおっさん、嫌みったらしいが、腕だけは確かだよ」
期待にきらめいていたのは最初のうちだけだ。レイチェルの見かけだけは優しげな瞳は、やがて驚愕によって裂けるほど見開かれる。
「あんたら、どうやって『スーパー・スタリオン』なんか手に入れたのよ!」
それ以上の喚き声は、7枚のブレードから繰り出される風量に吹き飛ばされてどこかへ消えた。
アメリカの軍にいた彼女ならば、最重量級を誇るCHー53Eの価値を知っている。象牙色のずんぐりとした機体はかなりの上空を飛んで月を隠し、代わりに派手派手しいヘッドライトで世界を白く照らす。高度は100メートルを軽々と切っている。あれ以上下がって来られると、ダウンウォッシュ(吹き下ろし)でよろめいてしまいそうだ。
マティアスが投げよこしたヘッドホンを付け、コンテナへよじ登る。間髪入れずに、ヘリコプターから6本の鋼鉄製ロープに付けられた鉤が降りてきた。
「ジューン、乗り心地は?」
『こんなに大きい機体を操縦したの、初めて』
マティアスの問いかけに対し、ジューンの返事はすっかり弾んでいた。
『もう最高よ』
彼女に見えるはずもないのに、コンテナの上のマティアスはそっくり返るほど笑っていた。
「驚いたわ! 冗談抜きで足が出たでしょ」
「経費はサントロ持ちだ」
引っ張り上げるために掴んだレイチェルの手は、その柔らかそうな肉体と裏腹、銃を握り人を殺してきた人間の硬さと頑丈さを持っていた。心の中に張っていた最後の壁が崩れたのを感じながら、ヘレは掌を強く握った。
「一体、幾ら請求すればいいだろう」
「たくさん、たくさんよ!!」
音を響かせ着地したレイチェルは、子供のようにはしゃいだ声を上げた。
「これだけ派手な仕事だもの! 最後まで思い切りやらなきゃ!!」
天井部分に鉤を取り付け、ヘリに合図を送る。12トンあるヘリコプターを軽々と運ぶような実力の持ち主だ。コンテナは三人を乗せたまま、ふわりと宙へ浮き上がった。
飛行許可を取るのに大枚をはたいたから、ヘリは意気揚々と夜の帳を裂いていく。眼下に広がるフランクフルトの夜景。格段にのっぽのコメルツ銀行タワーをはじめ、まるで宝石箱をひっくり返したかのような輝きを空に打ち上げる。
『100万ドルの夜景って、このことね』
ロープへ寄りかかっていたレイチェルの呟きが、スピーカー越しにしんみりと耳を打つ。
『きれい。ニューヨークにいて、街の明かりなんか見慣れてると思ったのに』
『そうだな』
相槌を打つマティアスの横顔も、柄にない神妙さに浸っていた。
『こんなことがあるから、やめられない』
痛みも恨み辛みも忘れ、この場にいる誰もが風に身を任せ、浸っている。そう、誰もが。自らも一員であることに、ヘレはその瞬間気がついた。
この数週間、悪くはなかったじゃないか。思いがけないことはあったが、何もかもがこの瞬間に結びついていると考えるならば。
思いきり働いた。つまり、思いきり遊んだ。これ以上、何を望む必要があるだろう。
いや、一つだけある。二人へ目を向け、ヘレは口を開いた。
「請求額は、100万ドル位で」
『Nein!!』『No!!』
揃って勢いよく振り向かれるのは、相当に迫力があった。
『君は馬鹿か! というか馬鹿正直というか……』
『そうよ! そんなはした金で満足するなんて、欲がないとか以前の問題でしょ!!』
それから目的地までの道行き、二人の説教は延々と続いた。ということは、気づかれなかったのだろう。ヘレが途中からスピーカーを切り、一人夜景へと戻っていったことは。
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