10.

 微熱からの帰還。痛みを見つめ直すための旅路。

 ヒュンダイの狭い助手席でうつらうつらと夢と現実を往復していたから、道のりは思ったよりもずっと短く感じた。車が停まり、ヘレに揺り起こされて目を開けたのも束の間、眼球を貫く白色は余りにも厳しすぎる。マティアスはまたすぐさま眉間に皺を寄せて瞼を落とした。


 フロントガラス一杯に広がるのは、5月の終わりにも関わらず小さな帽子の如き雪を被った山麓。滑りに行ったことはこれまでにも何度かあったが、フランス側からアルプスを訪れたのは初めてのことだった。

「気分はどうだ」

「まあまあかな」

 わざとのんきな口調を作り、凝り固まった首筋を軽く回してみせる。しかめられた顔には気付かれただろうか。薬で抑え込んでいるとは言え、またいつ急襲してくるか分からない激痛を恐れていることは? あるいは荒れた胃がばたばたと裏返り、さっき食べたサンドイッチが際限なくでんぐり返りを続けていることは?

 自ら質問しておいて、ヘレは寄越された答えへの返事を怠った。足下に転がっていた市販鎮痛剤の箱へ視線を落とし、それから後部座席の荷物を振り返る。

「ここで待っててもいい」

「行くって言っただろう」

 痛んだのは肉体ではなく自尊心だった。沸き上がる腹立ちを睨む目つきへ乗せ、マティアスは車を降りた。浮遊感は屁でもない。鎖骨の痛みなんか忘れてしまえ。傷心を更なる刺激で上書きすることの方が、よっぽど重要だ。

「一発目は俺にやらせろ。腹が収まらない」

 一際きっぱりと言い切れば、ヘレはそれ以上引き留める真似をしない。ゲラーマンから渡された黒いスポーツバッグを担ぎ、迷いなく歩き出した。



 アルプスのふもとシャモニー=モン=ブランには、一年を通じて訪れる人間が後を絶たない。この時期は最後の滑りを楽しもうとするスキー客と、真南のモンブラン登頂を前にして腕まくりしている登山家達がごった返し、大層な荷物も怪しまれることはなかった。

 ヘレがヒュンダイを駐車したのはおとぎ話じみた町の真ん中。そこから20分ほどロープウェーで、箱舟の如く運ばれた。名高い展望台へ向かう観光客を後目に乗り換えのプラン・ドゥ・レギーユ駅で降り、山道を歩き始める。トレッカーが通る石畳の上を歩くのは少しの間だけ。すぐさま二人は、どこまでも広がる萌えた緑と真っ白なエーデルワイスの中を突っ切り始めた。



 都会の喧噪に飽きたニューヨーカーが求めるのは大自然。早耳のゲラーマン曰く、レイチェル達がここに到着したのは昨晩のこと。早々に渓谷のコテージへ荷物を運び込んだらしい。

「スキーでもするのかな。何でこんな辺鄙な場所へ」

 スケートボードのチューブを思わせる湾曲した山肌を登りながら、マティアスはダウンの袖で汗を拭った。行きしなにユニクロで買ったこれが丁度だと思えたのは行軍を開始するまでの話。今は軽く薄いとふれこみのジャケット下が、まるでサウナのようだった。

「せっかく金を手に入れたんだから、5つ星ホテルにでも泊まってればいいんだ」

「彼女たちは元軍人の中でも」

 数歩先を歩くヘレは、薄く冷え冷えとした空気にもめげることはない。ひょいひょいと、地元育ちのシェルパもかくやというほど身軽に、岩だらけの斜面を進んでいく。

「人が多すぎるところは嫌いなタイプかもな。そんなこと、あり得ないと分かってるのに、誰かに狙われてるような気がしたり」

 その分類方法の中では、君も彼女達と同じ区分に入れられるのか。後ろ姿を追いながら、マティアスは内心そう呟いた。ヘレの語りかけは相手を求めていないようで、その目はただただ更なる高みを見上げいる。

「あるいは、力を確認したいのか。他人が登ろうという気も起こさない場所へ陣取って、自分がどれほどの実力を持っているかを」

 置いて行かれるという錯覚を抱くには十分なほど、足取りは速まる。背後をかえりみることはないーー数分前首を捻ったマティアスのように、遥か下界にただただ広がる草原と、こちらへ迫るような厳しい山々を恐れている訳でもないのに。

 置いて行かれたら、笑えない。自らの存在を知らせるかのように、マティアスはわざと侮辱的な音程で鼻を鳴らした。

「このシーズンだ。ホテルを取れなかったんだろうよ。彼女たちがそんなコネを持ち合わせてるとは思えないから」

 ようやくヘレは振り返り、ふっと笑った。

「休憩するか」

「もう一度、そんな幼稚園の先生みたいな声を出したら承知しないぞ」

 わざと怖い口調で言ったのに、肩越しで輝く瞳はやはり柔らかい笑みを湛えていた。


 こんな山奥にあるのだから、登山用の粗末な小屋を想像していた。だがたどり着いた先にあるのは、丸太と漆喰で構成される洒落たログハウス。断崖を背にする赤みの強いトウヒの色が、溶け始めた雪のせいでぬかるみ気味の地面の中でもすっくと美しい。

 小屋のすぐ側に林立するモミの中へ潜み、二人は開け放たれたカーテンの向こうを双眼鏡で窺っていた。見える範囲にあるキッチンにも居間にも、明かりは灯っていない。仲良くスキーなりハイキングなりにでも出かけたのだろうーーそう考えた矢先、向かって左手の部屋のカーテン越しに見覚えのあるシルエットが浮かび上がる。長い髪。小柄だが均整の取れた体躯。服は身につけていない。そして間違いなく、窓枠の外に他の誰かがいる。


「なあ、あの二人だけれど」

 スポーツバッグから取り出したM4ライフルには、既にM203グレネードランチャーが取り付けてある。砲身を滑らせて榴弾を送り、マティアスは声をひそめた。

「もしかしたら、レズビアンだったのかな」

「おまえと寝たんだろう」

 何を馬鹿なことを、と呆れる顔には、同時に微かな羞恥も混じっている。

「自分に靡かない女はみんな同性愛者か不感症だなんて」

「だから、尚更だよ。一回寝た相手に、あんな残虐無比な真似、普通出来るか」

「おまえは自分で思ってるほど魅力的でも何でもない」

 首を振り振り、ヘレは偵察に戻った。

「一体どんな育てられ方をしたら、そこまで自信が持てるんだ」

「そこまではっきり言わなくてもいいだろ」

 言い募る口は、伸ばされた手に制される。


 山歩きにミンクのコートを着て行けとは言わないが、リュックサックを背負ったジューンの姿は色気もクソもなかった。本格的な山岳用品のメーカーで買ったのだろうジャケット、やはり化粧はせず、綺麗な長い髪はニット帽の中にたくし込んである。背が高いから、一瞬男でも来たのかと勘違いしてしまったほどだった。

 猫背気味の姿はログハウスから10メートル足らずにまで近づいている。こちらへ気づいた様子もない。

 ヘレが伏せた手を下ろすのを合図に、マティアスは右肩にライフルの銃床を当て、グレネード・ランチャーの引き金を絞った。


 骨へ響く痛みは、爆破されたログハウスを目にすることで辛うじて相殺される。

 爆風に巻き込まれるほどの距離ではなかったので、ジューンは体勢を崩したりはしなかった。ただポケットから取り出そうとしたスマートフォンを地面に落とし、無防備にぽかんと口を開けている。

 火薬の量は少なくしてある。被害のほとんどは建物の右半分に集中しており、中の住人も逃げだそうと思えば簡単に脱出できるだろう。事実、律儀に壊れたドアを開けて飛び出してきた下着一枚の男は怪我を負った様子もなかった。こけつまろびつ、呆然と突っ立っている女を押し退ける勢いで逃げ去っていく。


 爆発音が山彦として重なりながら戻ってきた頃、ようやくジューンはきょろきょろと辺りを見回し始める。丸い目がこちらへ向けられる前に、二人は立ち上がった。

「動くな」

 ヘレが容赦ない厳しさで命じる。ライフルを突きつけられていると気付いた瞬間、ジューンの顔は泣き出す前の子供ほどもくしゃくしゃになった。

「もう一人は中だな」

「そうよ……この人殺し!」

「人を崖に突き落とした奴がよく言うよ」

 怒りをぶつけられても、今回ばかりは許せない。マティアスは再び榴弾を装填し、ログハウスに銃口を向けた。

「彼女、生きてるさ。さっきからごそごそやってるのが聞こえるし……そうだろ、レイチェル!」

 短い静寂の後、澄んだ空気をもくもくと汚す煤煙の中から、あの少し舌っ足らずな声が聞こえてきた。「ええ、そうよダーリン」。

「出ておいで」

 ジューンと違い、レイチェルはアテネの神殿に据えられる大理石像のように堂々と、神々しかった。すすけたシーツをトーガの如く身に纏い、しずしずと中から歩み出てくる。足元から時折覗く軍用ブーツだけが、彼女の凶暴さを警告していた。

「ひどいわ。せっかく休暇を楽しんでたのに」

「書類は」

「とっくの昔に渡しちゃったわよ」

 詰問へ、さも馬鹿にしたかの如く鼻で笑ってみせる余裕。欠伸と共に寝もつれた髪を掻き上げる様子はあまりにもわざとらしい。眺めるヘレの目つきは、氷のように冷えきっていた。彼女の豊満な姿態を、無情にも銃口でしゃくる。

「脱げ」

「はあ? 何ですって」

「おいヘレ」

 マティアスの言葉に耳を傾ける様子は全くない。引き金に掛かった指が、躊躇なく曲げられる。

「3秒以内に布から手を離さないと、僕がひっぺがすぞ」

 きっちり2秒間男達を睨みつけた後、レイチェルはちっと舌打ちして両腕を大きく広げた。はらりと舞い落ちるシーツ、そして派手な音を立ててぬかるみに散らばるベレッタ、バラ弾や手榴弾。文字通り一糸纏わぬ肉体よりも、そちらの方が衝撃を生んだ。

「何よ、わざわざそのために追いかけてきたわけ?」

 健康的に焼けた肌が、強いアルプスの日差しに輝いている。全く恥ずかしがる様子もなく腰に手を当てるものだから、たわわな胸がぱんと張り出し強調された。

「これだからゲルマン男って嫌だわ。陰気で堅物で変態」

「書類と金の交換が終わってるのは、予想がついてた」

 自ら命令しておいて、ヘレの首筋は登山でも上らなかった熱で赤く染まっている。尖らせた唇へ視線を一点集中させ、口調は堅い。

「金は銀行振込じゃなくて、現金を渡されたんだろう。僕たちもそうだったから」

「ええ、信じられないくらい時代遅れ。おかげであんたたちに吹っ飛ばされて一文無しよ」

「取り返したくないか……何なら、もっと大金を」

 レイチェルだけでなく、それまで大人しく身を竦ませていたジューンの目までが光を帯びる。

「何か、面白いこと考えてるみたいね」

「君たちのどちらか、ヘリを操縦できるか」

「あ……私、出来る」

 ジューンが遠慮がちに、だが素早く手を挙げる。

「ヒューイ? ブラックホーク?」

「まだ連絡は来てないが、軍用機の経験があるなら大丈夫だ」

「レイチェル、君も来てくれるなら手伝いを頼みたい」

「それって、予想だけど」

 目を覗き込んだマティアスへ挑みかかるように対峙し、レイチェルは唇を撫でた。

「サントロに仕返しするのよね。あんたらが何か企んでるってあのおっさんに報告すれば、もっと楽に金をせしめられるんじゃない?」

「楽だって? 君らしくもないな」

 わざと大仰な動きで両手を振り、マティアスは破顔した。

「君は俺たちと同じ。平穏よりもスリルが好きなんだろう。そのためなら、世界中を駆け回れるくらいに……大体俺たち、あのしみったれたイタリア人が顎を外すような大金を請求するつもりだぜ」

 レイチェルは、傍らのジューンを振り返った。ジューンは口を開かない。子犬のような目を懇願でいっぱいにし、見つめ返すばかりで。

「ああ、分かったわよもう。ジューン、最初の報酬っていくらだっけ」

「30万ドル」

「二人あわせてでしょ。今回は一人につき30万ドル以上よ。大風呂敷を広げたなら、当然よね?」

 鼻息が荒くなるにつれ、ますます突き出される胸を鑑賞しながら、マティアスは頷いた。

「分かった」

「おっぱいじゃなくて顔を見て誓って。それといい加減寒いから、服着ていいでしょ。仕事仲間を撃ち殺したりしないわよ」

 ヘレが銃口を僅かに下げたので、ジューンがすかさずジャケットを脱いで差し出す。ファスナーも上げずただ単に羽織っただけだから、足元のベレッタを拾い上げるだけの仕草が強烈な攻撃であることは変わらない。

「いつやるの」

「今すぐにでも」

「あっそ。なら、着替えたらさっさと行きましょ」

 なに食わぬ顔で瓦礫の中へと戻っていくレイチェルと入れ替わりに、ジューンがこちらへ近づいてくる。戸惑いながら一歩、二歩。前髪に隠れそうな上目遣いは、すっかり萎縮しきったものだった。

「ごめんね。ついかっとなって……殺すつもりはなかったのよ」

「どうだかね」

 肩を竦めた拍子に走った痛みへ、思わず顔をしかめる。触れようとしていた手を慌てて引っ込めると、ジューンは意気消沈してうなだれた。

「思ったよりも、ひどそう。まさかあそこから落ちたくらいで、そんな大怪我するなんて」

 気遣われているのか馬鹿にされているのか、いまいち分からない。ただその表情は今でも十分同情を誘うものだったから、マティアスは唇を笑みの形に曲げようとした。

「いろいろと混乱してたから。綺麗なのは、君のドイツ語の発音だけさ……ライプツィヒのひいおばあさんの話も嘘?」

「あ、ううん。それは本当」

 躊躇するように一度唇を舐めてから、ジューンは初めて聞くような明瞭さで答えた。

「正確には、『住んでいた』の。彼女はベルゲン・ベルゼン収容所で亡くなったわ」

「あと年齢は29、ダイ・アントワードが嫌いなのは本当」

 頬の筋肉を引きつらせたマティアスを救ったのは、いかにもだるそうに登場したレイチェルだった。ジーンズとTシャツはどちらもぴったりとしていて、下手に素裸でいるより体の線を強調している。

「お互い様よね。あんただって、貴族の末裔だとか笑っちゃうような嘘付いてたじゃない」

 こちらへ向けられるヘレの目つきは、凍えるかのようだった。こほん、と一つ咳払いをすると、マティアスはジューンの肩を抱いて歩き出した。

「確かに、Ninjaは不気味だもんな。ところで、デヴィッド・ゲッタは好き?」

「うん、好き」

 彼女はレズビアンでも男嫌いでもない。ただ異性慣れしていないだけの話なのだ。証拠に体へ触れられても少し緊張するだけ。はにかみ笑いと共に現れるすきっ歯が、びっくりするほど可愛かった。

「踊れる曲なら何でも。ピットブルとか、最高よね」

「なら良かった。この仕事が終わったら、パリへ行かないか。レイチェルと3人で」

「3人で……」

 途端に曇る表情に、おや、と思った瞬間、ヘレの手が背中を思い切りどやしつける。

「その前に仕事だぞ」

 痛みに呻けば、ジューンが身を寄せて体を支えてくれる。それだけで十分溜飲が下がったので、マティアスは告白ごっこを再開し、こう言おうとはしなかった。「なあヘレ、結局君、何年彼女なしなんだい」。

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