9.

 硬貨が機械の中へ転がり落ちていく固い音。一枚飲み込まれるたびに、ヘレは顔を持ち上げ辺りへ目を配った。ここならば、怪しい動きがすぐに分かる。公衆電話の周囲には、文字通り何もない。

 通りと名乗らせることすらはばかる道は、対面で鬱蒼と茂るブナの林に倦み、浸食する木陰へ渋々と言ったふうにアスファルトを譲り渡している。異邦人の来訪には冷たい一瞥を加えた後、無視を決め込んでくれるだろう。昨晩駆け込んできたヘレ達にしてみせたように。

 警戒する必要があるならば、それは自ら以外の異邦人に対してだけのことだった。

 呼び出し音は永遠のように連なり、時間が刻一刻と過ぎていく。先ほど買った煙草の代わりに人差し指の関節を噛みながら、ヘレはこれまでの出来事を思い返し、並べなおしていた。

 オランダ人がこんなにも早く敗者復活を果たしたとは思えない。ちょっとした折檻があのひょろっこいイタリア人のプライドを傷付けたにせよ、奴が牙を剥いてくる可能性は排除しても問題ないだろう。そもそもヘレは、あのような人種についてなら熟知していた。本当に脆弱な男とは、プライドと命を天秤に掛けへば間違いなく後者を優先する。それも一切悪びれない顔で。

 となると、女達は自らの意思のみでこの仕打ちを実行したことになる。眩しい金髪と、甘ったるいクスクス笑いが脳にこびりつき、染みはどれだけ擦っても剥がれ落ちてくれない。狡猾で、忌々しいあばずれども。そそる体をしたあばずれども。噛み締めた指が訴える痛みですら混ぜ込まれて全てはぐるぐる渦を巻き、このままでは焼け爛れたはらわたが全て溶けきってしまいそうな程だった。

 

 忍耐の限界の末、やっとのことで受話器を取った相手の声なら聞き覚えがある。スイスの屋敷で慇懃無礼な表情を浮かべ、カモミールティーを淹れていた男。

『サントロ氏のお帰りは8時頃の予定でございます』

「孫の誕生会を無事に開きたければ、すぐ連絡を寄越すよう言ってくれ」

 ヘレの車を扱うニキビ面の若者が、ちらちらとこちらへ視線を投げかける。道端で調達してきたヒュンダイに不審を抱いたのかーーまさか。冷静に振る舞っている自信ならある。もしも焦りが見えるならば、それは宿に残してきたマティアスが気になっているだけの話。


 やがて登場した声は、焦りとや恐れと無縁だった。元々、癇が強い喋り方をする男なのだ。

『手に入れたのか。ならさっさと持ってこい』

「あのアメリカ人の女達はどういうわけだ」

『ああ』

 鼻息は鼓膜を思い切り引っ掻いたが、サントロは悪気もないようだった。

『顔合わせはしたか。そそるスケどもだろう……言っとくが、この社会は何ごとも競争だ。うちへ品物を持ってきた奴に金を渡す』

「金なんか問題じゃない」

 指を唇から離し、きっぱりと答える。

「あんたは契約を破った。それ相応の対価を支払ってもらう」

『対価な。追加料金でも請求する気か』

 嘲りの色は繕われることもなく回線へ垂れ流され、耳へ注ぎ込まれる。

『ついさっき、女達から連絡が来た。あの黒人からはヤリ手だと聞いてたが、どうやらハッタリらしいな。おまえら、ぐうの音も出ねえ程やりこめられたそうじゃねえか』

「競争ならば、最初からそれ相応の準備をしていた」

『負け犬は好きに吠えろ』

「覚えておけ。僕たちはそこらの車上荒らしじゃない」

 それほど得手ではないらしいドイツ語の一語一語を理解できるよう、ヘレは一際ゆっくりと単語を口にした。

「やるべきことはやる。やられたらやり返す」

『そうかい、用が済んだなら切るぞ。また電話してきやがったら、知り合いを派遣して海に沈めさせる』

 一方的に終了した会話に、受話器を叩きつけたか? あるいはアメリカ風に「Shit」と吐き捨て、地団太を踏んだか。

 女達を前にしたときと同じ。何もすることなく、ヘレは車へ戻った。騒がしいヤンキーではあるまいし。爪を研ぐためには、沈黙が必要なのだ。



 事故現場から318号線を南下したどり着いたのは、名も知らぬ山沿いの集落、と言うよりもリゾート地。スキーが盛んな冬や避暑客を迎える夏を掻き入れ時とする小さな宿屋が散見されるばかりで、第三次産業の偏りが社会生活にどのような影響を及ぼすか示す見本のようなものだった。落書きだらけのひさしが付いた電話ボックスがあり、なおかつ煙草を売っているガソリンスタンドを探すのに、30分近くも走り回る羽目に陥るなんて。

 唯一良いと思えるのは、閑散期でどこでの宿も飛び込み客を受け入れてくれることくらいだろうか。ヘレが選んだのは、数ある中でもひときわ寂れたモーテル。40年の会社勤めを終えた男が開いた挙げ句、経営に失敗してチェーン店に乗っ取られたかのような。


 国外へ脱出せず、敢えて事故現場からさほど離れていないこの場所を選んだのは、ミュンヘンに知り合いの医者がいるため。そしてメールの返信を素直に信じるならば、ヘル・ゲラーマンがまだ近くにいたためだった。

 既にヘレは後者の用事を済ませ、足りないものを全て受け取っていた。前者も処置そのものは昨日のうちに終了しているーーこの先の話は、マティアス次第だった。


 眠っていれば良いと思ったが、部屋のドアを開けた途端、呂律の回らない鼻歌に迎えられる。ヘレが出かける前は「小さなハンス」だったのが、今はシェールの「バン・バン」にーーいや、これはスカイラー・グレイのバージョンらしい。歌詞の合間に「Zap」だの「Paw」だのと色々付け足して曲を完全再現している。

 ヘレの姿を目にした途端、けぶっていたマティアスの目はじんわりと笑みの形に細められた。

「やあ、どうだった」

「連絡は付いた」

 抱えていた食料品の袋をテーブルに下ろし、首筋の汗を拭う。幾ら何でも暖房が効きすぎている。ベッドの上のマティアスも同じ意見に違いない。厳重な包帯とコルセットに隠れる剥き出しの上半身は、掃いたように薄赤く染まっていた。


 冷戦が終結する遙か昔から医者をやっていたような男は、レントゲンも撮らずに診断を下した。なあに、若者がこれくらいで泣き言をこぼしてどうする。心配しなくても骨は折れちゃいないし、内臓に突き刺さってもない。

「痛みはどうだ」

「馬鹿にするなよ。イギリスの貴族はこう言うんだぜ……鎖骨なんて、折るためじゃなかったら何のためにある! ……いたた……」

 浮き上がった声と背中に、すぐさま顔はしかめられる。これが昨晩夜通し唸りを発し続け、人を寝不足へ追いやった口が吐く言葉なのだ。

「そうだな。鎖骨と肋骨だけで済んで良かった」

 言いながら、ヘレはベッド脇のナイトスタンドへ目を走らせた。医者が置いていったコデインの瓶は、中身が既に半分ほどまで減っている。

 KSKの試験では拷問への耐性も確認されたはずだ。一体どうやって審査をすり抜けたのか疑問に思えるほど、マティアスは痛みに弱かった。たった一時間ほど目を離した隙に、菓子の如く錠剤を噛み砕いていたらしい。鈍いながらもよく動かされる口角には白っぽい粉が溜まり、泡でも吹いたように見えた。

「君にも迷惑かけたな。明日になれば出発できるよ」

「明日か」

 計画ならば、今日中にチェックアウトしてしまうつもりだった。助手席にラリった相棒を乗せ、目的地へひた走ることは可能だろうか。

「ミリーには連絡したのか」

「まさか」

 口の中の苦みを今更思い出したかのように、マティアスは盛大に唇をひん曲げた。

「する気なら、君から電話しといてくれ。そっちの方が、絶対喜ぶから」

「後で掛けてくる」

 スラックスのポケットからキャメルを取り出し、一本抜き取る。鎮痛剤の作る朦朧は感情を露わにさせ、マティアスの目は心底の羨望と共に、ライターの炎を追っていた。

「で。答えを聞いてない。サントロは何て言ってた」

「罵り文句を幾つか」

 先ほど耳にした言葉を反芻するだけで、伏せた瞼が勝手に痙攣してしまう。

「あの女達の話は正しい。マレットのオランダ人と同じで、サントロに依頼された一味の一つだ」

「女達? だれ?」

「あのレイチェルとジャネットだったか」

 しばらく遠い目のまま、ヤニに汚れた天井を見上げていたマティアスは、やがて「ああ」と短く呟いた。

「レイチェルとジューン。とんだあばずれ女」

 鎖骨へ障らない身じろぎは至難の業だろうに、敢えて深く頷いてみせる。

「ああ、ほんと……バンバン、彼女達に撃ち倒された気分だ。レイチェル、あんなに楽しんだのに」

「彼女と寝たのか」

「どこかで聞いた台詞だな。寝たのは一回。遊んだのは数回……これで満足か? 軍曹さん」

 上っ調子で放たれる虚勢に、ヘレは答えなかった。ベッドの下に押し込んであった革のトランクケースを引きずり出し、開く。逆立ちのまま水中へ沈みつつあったBMWから救出できたのは、このマティアスの荷物一つだけ。ヘレとは違い襟付きシャツが大部分を占めるワードローブは、浸水を免れずほとんどが雑巾のような見てくれと化している。

「本当なら、今すぐにでも出発したい」

「今すぐ……人を人とも思わない言いぐさだな」

「無理ならここで休んでろ。後で拾いにくるから」

「いい。俺も行く」

 有言実行、何とか身を起こそうとはする。大仰に思えるほど顔をしかめながら、マティアスは髭の散った顎を撫でた。

「ああ、これじゃあ熊だ。シャワーは川での水浴びで済ませたことにするけど、髭くらい剃りたい」

「気にならないさ、似合ってる」

「適当なこと言って」

 不明瞭な言葉が床を這うのを追いかけるかのように、こっくりと頭が一度項垂れる。

「ちょっと、待て。着替えたらすぐに……すぐに」

 ふらつく足が床へ降りる前に、ヘレはろくに吸っていない煙草を灰皿で揉み消した。

「あたってやるよ。そのまま横になってろ」

 

 トランクに入っていたのは、時代に逆行する年代ものの折りたたみ剃刀。実家から持ってきた「本当に良いもの」の一つだと、興奮と沈静を行き来する最中にマティアスは口走った。

「それよりも、君がこんな器用な真似を出来たことの方が意外だな」

「僕の母親は週に6日、朝7時から夜の9時まで美容室で働いて僕を育てた」

「そうなのか、知らなかった」

 枕に乗せた足の爪先を小刻みに揺すりながら、マティアスはふんふんと鼻を鳴らした。

「というか、君については知らないことばかりだ。告白ごっこでもやろうか。俺が9歳の時、クッキーをやるからって言われて、ミュンスターの伯父とその愛人が庭でヤってるのを見物させられた話はしたことあったっけ」

「喋るな、怪我するぞ」

 鼻から下に塗りたくられたシェービングフォームが、熱の高い肌に溶けてシーツの上へ垂れる。曇った窓越しに入る木漏れ日と相俟って、マティアスの顔はたった今まで川の水に浸かっていたかのような生気のなさを持っていた。枕元に膝を突き、ヘレは閉じられたマティアスの目をタオルで覆った。もう一度剃刀を掲げ研ぎ具合を確認することで、心の揺れ動きは何とか宥めることができる。


 お貴族様は小さい頃から身の回りの世話を周囲の人間に焼かれてきたのか。利口に飄々と世を渡っているように見えて、マティアスは他人との関わり方に恐ろしく無防備な一面があった。

 いま耳の下に刃を当てられた瞬間、体は僅かに硬直し、力なく伸びていた指先を皺だらけのシーツ上で軽く滑らせる。こんなものは警戒のうちに入らない。刃物を持った他人へ、完全に身を任せきっている。

「彼女たちと遊んで、寝たんだな」

 顔の左半分を剃り上げ、シーツに泡をなすり付けながら、ヘレはおもむろに口を開いた。

 再び、今度は右の頬にひやりと触れた金属が冷たかったのだろうか。マティアスは小さく息を飲んだ。

「ああ」

 発熱で干上がった喉から出される声は、風邪でも引き添えたかの如く僅かに掠れていた。

「そうだ。確かに、ちょっと羽目を外しすぎたよ」

「責めてない」

 遮るように、ヘレは言葉を継いだ。

「別に責めてないさ」

 また何事か抗弁しようとした唇は、顎の輪郭へ沿わせた刃先で動きを止めさせる。

 タオルの下で、マティアスはどんな目つきをしているのだろうか。毛羽だっているのかと思うほど荒い安物の生地は僅かにずれ、端から眉が覗く。黒々としているがどこか神経質そうで、可動域の大きいそれは、眉間へ寄せられた皺のために顔の真ん中へ向かっている。

「何か聞きたいことがあるんだろう」

 刃を拭き取る合間、マティアスは焦れったいほど慎重に口を開いた。

「女のことか」

「少し気になったんだ」

 蛍光灯の下、曇りの一つもない剃刀は鈍く輝いてその切れ味を示す。答える間も、ヘレは刃と皮膚の境界線をじっと目で追い続けていた。

「彼女たちについて、何も不審に思うところはなかったのかって」

 白いフォームの中から現れた唇が、真一文字に引き結ばれる。先ほどのお喋りは一体どこへ行ったのやら。

 とにかく、これは明確なルール違反だ。告白ごっこはまだ終わっていない。

「寝ただけじゃない。話をしたんだろう。レストランで飯も食ったか」

 口角の際に指の腹を当て、微かに引っ張る。柄をくるりと半周させ、まだ汚れていない反対の刃をゆっくりと滑らせた。顎を越え、その更に下へ。喉仏の上でぴたりと止めた剃刀越しに、薄い皮膚一枚隔てた場所で唾が飲み込まれたのを感じ取る。

「マティ、僕は怒ってるんじゃない」

 暖房の稼働音ばかりがうるさい部屋の中、ヘレの声は静かであることでその存在を主張した。指に自然と力がこもり、刃がぐっと皮膚に食い込んだのを知る。

「聞きたいだけだ。何も気付かなかったのかを」

「ああ、気付かなかったよ」

 上擦りながら叩きつけられた返事には、自棄だけでなく確かに羞恥も混じっている。どれほど顎を仰け反らせても追いかけてくる刃物を何とかしたくてたまらないのだろう。体の脇にぴったり付けられた両手は、シーツを引き毟るほど強く握りしめていた。

「だが、気付くべきだったんだ……目先の誘惑に捕らわれず。だって、予兆は幾らでもあったんだから。ライプツィヒ、嘘っぱちのフェス……2メートルの場所にいるNinja。アメリカ人の癖に、彼女はフィートじゃなくてメートルって言ったぞ」

 一気にそうまくし立てた後、マティアスは不自由な片手でタオルの上から額を押さえた。

「間違いない。あいつらは俺たちと同じ、元軍人だ」

 ヘレは無言のまま、刃を急所から離した。

 怒りを感じていないのは事実だった。済んでしまったことはどうにもならないし、これは目に見えるものにばかり注意を払っていた自らの落ち度でもあるのだ。


 剃刀をテーブルへ戻し、ヘレは立ち上がった。マティアスは仰向けのままタオルで乱暴に顔を擦り、呻きを上げている。泣いているのかと一瞬勘違いしたが、寄越された恨み言は湿っぽさの欠片も見あたらず、ふてぶてしい。

「君、やっぱり怒ってるんじゃないか」

 急速に萎んでいく興奮を埋めるよう、決まり悪さが押し寄せてくる。奇跡的に壊れていなかったマティアスの私用スマートフォンを取り上げ、ヘレはぶっきらぼうに言い捨てた。

「ミリーに電話してくる」

「余計なこと話すなよ」

「着替えてろ。すぐに出よう」

「ヘレ!!」

 唐突に張り上げられた声は、びいん、と響くほど威厳に満ちている。

 反射的に振り返ったヘレの腕を、マティアスは掴んだ。怪我をしているとは思えない、痣が残りそうな程の強い力で。

「誓え。俺のことは、彼女に絶対話すな」

 熱のせいで潤み、それでも貫くような強さを失わない瞳。まっすぐ見つめ返し、ヘレは一度頷いた。

「約束する」

 その一言で、食い込んでいた指からふっと力が抜ける。再びベッドへ沈み込んだ体には、不安しか覚えない。

 それでも、彼は承知しないだろう。ヘレが一人で物事をやり遂げようとすることに。自らの知らない場所で何かが起こることに。

 そしてその何かとは、間違いなくヘレ一人ではやり遂げられないことだし、マティアスにも知らしめておくべきことなのだ。

 相棒とは一蓮托生の存在、二人仲良くこっぴどい目に遭いたくないならば、お互いの持つ情報や経験を共有しておくべきだと、身を以て学んだばかりだった。



 YMCAに毛が生えた程度の清潔さを持つ廊下に、人影は見あたらない。壁に寄り掛かり、コール音へ耳を傾けること数秒。待ちかまえていたかのように、ミリアムは電話口へ出た。

「マティ!! どうして連絡しないのよ」

「僕だ。ミリー」

 息せきる彼女の言葉は、質問の答えも待たずにいつまでも続きそうだった。出来るだけ冷静な口調を作ることで、ヘレは話を遮った。

「心配いらない、僕たちは無事だ。ただ、少し問題が発生しただけで」

「問題? ニュースで見たわよ、アウトバーンで事故があったって! 川から引き上げられてた車、貴方のでしょう」

「もう発見されたのか」

 思わずヘレは、壁から身を浮かしていた。

「僕たちの身元は割れてた?」

「割れてないわよ! もう……あんなグチャグチャに壊れるほど高い場所から落ちて、怪我してないはず無いじゃない」

「本当さ、大したことない……マティは宿の部屋にいる。もうすぐここを出るよ」

 出せる限りの優しい声音でそう宥めているのに、ミリアムは返事を寄越そうとしなかった。スピーカーから聞こえてくるのは、シューシューと荒い息の音だけ。重なれば重なるほど、それはヘレを落ち着かなくさせた。

「ミリー、頼むから泣かないで」

「泣いてなんか無いわ! 私、怒ってるの!!」

 夫をワインボトルで殴り倒した時ですら発せられなかった怒鳴りは、ヘレの手からスマートフォンを取り落とさせるだけの威力を十二分に持っている。機械がリノリウムの床へぶつかる音が、漏れ聞こえる声と共に廊下へ長く伸び響いた。

「何が『大したことない』よ。命を粗末にするような真似して。他人事みたいな口調でごまかすのはやめて!」

「悪かった……」

「思ってもいない癖に!」

 今にも送話口から飛び出して、掴み掛かってきそうなほどの迫力だった。口の回るマティアスならともかく、これから先、ひたすら話を聞くしか道は残されていない。そう悟った瞬間、ヘレは力無く「うん」と呻き、首を縦に振った。

「こんな馬鹿な真似してたら、いつかは本当に死んじゃうわ。マティならともかく、貴方は特にね」

「マティは……」

「あの子は大丈夫よ。いざとなったら貴方を見捨てて生き延びようとするわ。それで貴方は、マティが危険な目に遭ってたら、自分の命を擲ってでも助けようとするんでしょう」

「相棒だから……」

「そんなの逃げ! 言い訳! 腰抜けの言いぐさよ!」

 やはり二人は姉弟だ。ミリアムの感情の起伏は、先ほどマティアスが見せた唐突な爆発をなぞるかのようだった。ただ彼女の場合、弟と違って怒りが溢れ出るに任せ、声を張り上げ続ける。女のヒステリーなどと簡単に片付けることは到底出来ない。息苦しい。

「ああ、もういや……男なんて、みんな綺麗ごとばっかり言うんだわ。すっかり自分に酔って、聞かされるこっちがどんな気持ちになるか、全然頓着しない。あなただってカールと同じよ」

「奴は? また部屋に来たりしてない?」

「してない。もし来たら、今度こそエヴィアンのボトルで殴ってやるわ。さっきルームサービスで頼んだのよ」

「なら良かった……」

「良くない。あのね、ヘレ。自分を哀れっぽく言って見せるのと、無理して強がって見せるの、結局どっちも、周りはうんざりするだけなのよ。私、昨日の晩、そのことに気づいたわ」

 普段の頬を撫でるような柔らかい口調はなりをひそめ、ミリアムの声には確かに苦渋が滲んでいた。自らが彼女にそんな声音を出させてしまっている事実は、川の流れに叩きつけられ、ハンドルでしたたか打ちつけたときよりもよほど心をちぎられそうになった。

「ミリー」

「ニュースで言ってた、銃撃戦があったって……」

「信じてくれ。僕は生きてる」

 ぐっと息を飲み込んだ息を、ヘレは決死の思いで吐き出した。

「マティを連れて帰るまでは……君にもう一度会うまでは、絶対に死ねない」

 ミリアムが鋭く息を飲んだのを確かに知る。それでも彼女は、まだ堪え続けた。そこへ感じるのは、昨晩までの健気な忍耐ではなく、一人凛と立つ強さだった。

「ヘレ、誓って。二人で無事に帰ってくるって。そうじゃなきゃ、私、絶対貴方達を許さない」

 だが口ではどれだけ否定しようとも、例え実際に涙は流れていないとしても。ミリアムは泣いていた。目の前にヘレがいたとすれば、身体を拳でどんどん叩いて叫び散らしていただろう。そうでなくて良かったーー思いながらも、やはりヘレは胸を突かれたような痛みから逃れることが出来なかった。

「誓うよ」

「出来ない約束はしないで」

「嘘じゃない。今度会うときは、乗馬を教えてくれ」

 思い浮かべたのは、幼い頃母が子守歌代わりに語ってくれたおとぎ話そのものの光景だった。白樺の間を馬で駆ける男と女。追いかけ、追いかけられ、目と目で言葉を交わす。鳥のさえずりと葉ずれの音が耳を擽る中、二人はどこまでも、どこまでもーー

「おもいっきり厳しくしてあげるから、覚悟なさいよ」

 ミリアムの口調に、ようやく微かな茶目っ気が戻る。思わずヘレは、安堵の息をついていた。

 


 通話を終えたとき、既にマティアスは身支度を整え、ヘレの傍らで待っていた。汗ばみ、苦しげではあるものの、その口元には笑みが乗っている。

「散々絞られたな」

「最後は許してくれた」

 言いながら、ヘレはトランクを持ち上げた。

「今度、彼女に乗馬を習う約束をしたよ」

 マティアスが何を言おうとするかは容易に察することが出来た。本当かね。君みたいな童貞野郎に。

 だが予想とは裏腹に、彼の表情はひどくまじめ腐ったものだった。体に響く傷を差し引いたとしても。

「礼を言うよ。あいつへ親切にしてやってくれて」

 戸惑いを隠せず、ヘレは真正面を向いたまま首を振った。「大げさだな」

「いや。君も知ってるだろうけど、あいつはどうも対人関係の運がとことん悪いんだ」

 重く叩くような足音が、声と共に追いかけてくる。マティアスもその靴と同じくらいに、らしくない厳かな湿っぽさに囚われているらしかった。

「あいつが12歳の時だ。家で誕生会をしようってことになってね。友達を呼びなさいって両親が言った。あいつは人気者だった。男の子からも女の子からも好かれてーークラス中の人間を呼ぶんじゃないかって思ってた。けど、あいつは一向に招待のカードを書こうとしないんだ」

 隣に並んでいるのに、マティアスの目はヘレが見ていないーー見ることのできない場所を探り続けている。声をかけることはできなかった。まだそこに踏み入れることが許されないと、さすがに鈍感な自らですらも理解はできる。

「手伝おうかって聞いたら、あいつは今にも泣き出しそうな顔で言ったんだ。誰も呼びたくない。みんな大嫌いだって。誰もが先を争って、私と一番に喋ろうとするけれど、二言目はもっと仲の良い友達と喋るから……本当に信頼した相手じゃないと、家になんか決して上げなかった」

 慈悲深い聖母のような微笑みと、フレアスカートを握りしめる手の強さが重なりあう。声をかけるどころか、言葉すら見つからなかった。だが、同時に思うのだーー何とも彼女らしい話だと。

「君があいつをどうしたいかは俺の関わる話じゃないが」

「僕は」

「分かってる。でも、君といるときのミリーは心が安らいでいるように見える。下手すれば家族といるときよりも、よっぽど」

 ふりかえれば、マティアスは今までに見たことのないほど固い表情で、じっとヘレの目を見つめ返していた。

「傷つけるなとは言わない。けど、時々話しかけてやってくれないか」

「分かってる」

 いっそわざとらしいほどに聞こえるぶっきらぼうな口調は、精一杯の抵抗だった。

「分かってるさ」

 背中をむずつかせる話題からそらす為に、思い浮かんだ話題をよくよく吟味せず引っ掴む。

「そういえば、聞きたいことがあるんだ」

「おい、また告白ごっこか」

 マティアスの嘆きは、今まで心配したのが馬鹿らしくなる程芝居掛かって、ふざけきっていた。

「勘弁してくれ」

「昨日、車の中で、僕の体の具合がどうとか言ってたけれど。何の話なんだ」

 特に深く考えず尋ねたつもりだった。なのに次の瞬間、マティアスはその場へしゃがみ込まなければならなほどの盛大な咳き込みに襲われていた。

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