8.
チキチキバンバン、BMWは雲一つない青空の下を駆け抜ける。どこまでも走れ、何もかもを置き去りにしたまま。許されるならば、このまま高らかに歌い出したい気分だった。我が友、卑怯者、ヒトラーに恐れをなしてアルプス越えを強行したトラップ一家のように。
マティアスが目覚めたとき、どう言うわけか車はまだスイスとの国境を越えていなかった。夜明け前に運転を代わったのが、シュトゥットガルトのパーキングエリア。そこから先、ヘレは休むことなく走り続けていたはずなのに。
「おかしいじゃないか……フランクフルトからチューリッヒまでなら、4時間もあれば行けるだろうに」
「最短経路ならな」
「ここどこだ」
ずれかけていたアイマスクを完全に引き下ろし、路傍の道路標識へ目を向ける。
「ミュンヘンだと。君、一体どこへ向かってる」
「ただ真っ直ぐ進むなんて、面白くないだろう」
そう答えるヘレは悪びれた様子もない。普段ならば、この手の台詞を吐くのはマティアスの仕事だと言うのに。
夜通し運転するために変な薬でも飲んでいるのかと訝しんだところで、気付く。この車は駆け抜けていた、とんでもない速度で。
速度計の針は140を超えていた。これでも決して速い方ではないのだ、アウトバーンにおいては。たった今も、赤い車が目にも留まらぬ勢いで隣の車線をすっ飛ばしていった。触発されたかのように、ヘレもアクセルを踏み込む。頭から後部座席へ滑り落ちそうな錯覚を覚え、マティアスは慌ててシートの角度を上げた。
「さっき言ったばかりだろう、予定を変更するなら俺に話せって」
「起きたら言うつもりだったんだ」
こちらへ顔を向けることすらなく、ヘレは言った。
「あまり気持ちよさそうに鼾まで掻いてたから、起こすに忍びなかった」
と言うのは、どう考えても嘘だろう。あまりにもしれっとつかれるから、怒る気力もなくしてしまう。
いっそ、予測できなかった自分を恥じるべきなのかもしれない。スリルを愛し、車を愛するヘレが、ドライブを味わうために進路を逸れさせることなど分かりきっていた話ではないか。
むしり取ったアイマスクで顎に残る濡れ跡を擦り、マティアスは目を瞬かせた。染み入る晴天とはこのことだ。平坦な直線から徐々に山道へと入り始めたから、余計に青色の持つ眩しさを意識する。
まるで空へと向かって走っているかのようだった。やがてタイヤに羽根が生えて、白い太陽に向かって飛び立つ時がくるのも近いのではないか。遮るものなど、何もないように思えた。
彼の言うとおり、急ぐ旅でもない。合理的なんて言葉は、コメルツ銀行タワーの23階に置いてきた。ならば、これ以上不機嫌を抱え込むのはやめよう。隣でハンドルを握る男ばかり楽しませる筋はない。
普段の仏頂面はどこへやら、ヘレは満足げに目を細め、車を操っている。今に鼻歌でも歌い出しそうなほどの軽やかさ、ラジオでも付けようかとマティアスが手を伸ばしたところで、「グローブボックスにiPodが入ってた」と答えるほどなのだ。
彼の解説ではこの車の元持ち主、エンジンなどを特に改造などはしていなかったようだが、オーディオ周りは多少の手を加えていたらしい。iPodはボックスの中から伸びるコードへ接続されており、起動させればダッシュボードの液晶画面から地図が消え、林檎のロゴが現れる。
「リクエストはあるか。プレイリストは……ふーん、ピットブル、デヴィッド・ゲッタ、ニッキー・ミナージュにファレル・ウィリアムス……この車、ミラーボールが付いてたんじゃないか」
「一番に外したよ」
冗談に顔を綻ばせたのは、結局マティアスだった。この空気をいつまでも引き伸ばしたい。そんな曲がいい。
スピーカーから流れ出したゲッタの『プレイハード』は、僅かに開いた窓から流れ込む騒音にも負けはしない。
「この前、パリの『ル・パラス』でゲッタの凱旋パーティーに行ってきたんだけど、凄かったぜ」
「だろうな。ロスに来てたときも盛況だった」
「君、クラブなんか行くのか、意外だな」
「知り合いに無理矢理誘われて」
「その知り合いって、女の子か」
頭を持ち上げ、マティアスは目を見開いた。
「隠さなくていいだろ」
「知り合いだよ」
緩やかなカーブに沿ってハンドルを切る様は、あたかもワルツで淑女をリードするかのよう。その手つきに反して、ヘレの顔には諦めたかのような苦笑が浮かんでいた。
「いや……実を言うと、電話番号を交換したんだ。でも3回会った時点で、連絡がつかなくなった」
「3回か。脈はあったってことだな」
マティアスは顎に手を当てた。
「寝たんだろ」
「いいや」
「そりゃ駄目だ」
「向こうの女は、おまえが思ってるほど尻軽じゃない」
普段なら下世話な話など、猫のように隠したがる男だ。けれど今のヘレは、特に気分を害している様子もなかった。むしろどこか楽しんでいるような口ぶりのまま、反論はすらすらと吐き出される。
「彼女も『異性のお友達が欲しかったのよ』って。気軽な友達が」
「馬鹿だな。その場合のお友達って言うのは、セックス込みの関係のことさ」
そしてこの手の事柄に関して言えば、マティアスはヘレの遙か上を走っているのだ。シートに深々と身を凭せかけ、にやりと唇が勝手につり上がるままにさせる。
「その子、きっとアプローチを掛けて欲しかったんだよ。わざわざ馬鹿高いゲッタのライブに誘う位なんだから」
「たまたま一緒に行くはずだった相手に用事が出来たって」
「そんなのどう考えても嘘さ、嘘。3回デートして何も行動を起こさなかったら、マザー・テレサでも気分を害する」
「彼女の部屋で料理を作った。リンダールーラーデン(玉葱の牛肉巻き)か何か……二人で映画を観に行った後に」
「待て待て待て。君、その子の部屋まで上がり込んでおいて、飯を作っただけで帰ったっていうのか」
ヘレの真顔に、ペンでこう書いてあるのが見えるかのようだった。「それがどうしたって言うんだ?」。こうなるともう、こみ上げてくる笑いを素直に表へ出すのも気が引ける。
「君、騎士道の時代に産まれてたら、淑女から引っ張りだこだったのに」
「おまえの下半身が節制なしなんだ。パリなんかに行って、かぶれて」
「そうじゃないね。ただ見極める目が有るか無いかの違いさ。俺に好意を持ってるか否か、持ってるならどれくらいまで許されるか……ベッドへ引き込んだことのない、君の言うところのお友達だってたくさんいる」
「だが、その友達とだって本当は寝たいんだろう」
「君は? ゲッタ好きの子とヤリたくなかったのか」
ぶっすり眉間に皺を寄せるのは、あくまで表面的なポーズだ。その証拠に引き結ばれていたヘレの唇は、ほんの短い沈黙の後、律儀に返答をよこす。
「そりゃ、機会があれば」
今度こそ、屈託のない笑いを車一杯に響かせることが出来る。ヘレだって幾らもしないうちに、はにかみを顔一杯に広げていた。
「いや、その様子なら大丈夫そうだな。心配してたんだよ、本当に具合が悪いのかって」
「何だって」
まだ笑みを引きずったまま、ヘレは尋ね返した。
「具合だと。一体なんだ」
「いや。俺の勘違いだよ。君、あんまり朴念仁が過ぎるだろう。もしかしたら性格の問題と言うより体の方が」
バックミラーへ視線を向けたヘレの顔が引き締まったのは、マティアスが全てを言い切る前だった。
「後ろのハマー」
最低限の力でハンドルを握りしめていた指から、関節が浮き上がる。
「一時間ほど前から、ずっと付いてる」
身を捩れば、確かにヘレの言う通り。いかにもおつむの弱い人間が好みそうな砂色の厳ついSUVは、こちらが車線変更すれば後を追い、アクセルを踏み込めば撒き散らすような勢いでガソリンを消費する。フロントガラスに張られたスモークが、胡散臭さを更に引き立てていた。
「アウトバーンでハマー? ジーンズの下に靴下留めを付けてる位場違いだな。さっさと引き離せよ」
「そろそろ頃合いか」
言いながら、ヘレはギアを入れ直した。車は本格的な山道へ踏み入り、気づけば片道2車線に切り替わっている。先ほどからずっと追い越し車線を走っているが、うねうねと迫りくる崖が今にも左のミラーを持っていきそうだった。
「様子を見てたんだが」
「様子な……待った」
ハマーのサンルーフが開き、現れたのはスキーマスクと野暮ったいワークシャツ。その手に握られたものを目にした瞬間、緊迫、そして恐怖と同時にマティアスが口から吐き出したのは、あーあ、とふてくされたような嘆きの声だった。
「後ろのハマーからおもちゃの兵隊が出てきて、M60を構えてる」
報告を耳に入れた途端、Tシャツから覗いたヘレのうなじがぶわりと鳥肌立ったと分かった。頑なに真正面を見据え続ける薄氷色の瞳は、アルコールへ放り込まれたかのように青白い輝きを帯びている。
「外に出られるか」
「出ますよ。全く……荷物は?」
「後部座席に」
シートベルトを外しざまもう一度溜息をこぼすと、マティアスは後ろへ身を乗り出した。出来ることならば使いたくない、と言いつつ、結構な頻度で開かれる黒いスポーツバッグのファスナー。中を漁りながら、マティアスは首を傾げた。
「あれ、ミニミは」
「おまえがウクライナかどこかの道路で落としただろう」
「ちゃんと買い直しといてくれよ、気の利かない」
手の届く場所にあったM16を掴み出そうとして、頭からつんのめりそうになる。普段のテクニックが嘘の如く、ヘレは乱暴にハンドルを切った。高く乾いた連射音が背後へ流れ、弾は追いかけてくる。右のサイドミラーが弾き飛ばされ、削れるような音を立ててアスファルトを転がっていった。
「軽機関銃相手に突撃銃だなんて、スターリングラードのご先祖様達もこんな気持ちだったのかな」
「くだらないこと言ってる暇があったら撃て」
敵はもう、車の流れを掴み始めているらしい。後部座席のガラスが粉々に砕け、シート一面に散らばる。
運転席に向かってウージーを投げ渡すと、マティアスは助手席の窓を開け放った。頭を少し覗かせただけで再び連射が始まったが、ヘレがすかさず窓から片腕を突き出し、真後ろに向けて撃ちまくる。弾丸の半分ほどは傍らの崖に食い込んだが、攻勢を僅かと言え緩ませるには十分事足りた。
右足首にシートベルトを巻いて固定し、窓枠に腰を下ろす。上半身を殴り付ける風は思ったよりもきつい。足を踏ん張り頬に銃床を押し当て、悩んでいる時間が無駄に思えるほど。
三点バーストでまず狙ったのは運転席。蛇行運転のおかげで手元は狂いに狂うが、とりあえずフロントガラスを砕くことは出来る。現れたのはまたもやスキーマスク。高いハンドルへしがみつくような体勢、あんな小柄な体から繰り出されるとは思えないほど、ハマーの動きは大胆だった。
再びこちらへ戻ってきた軽機関銃の銃口が、ダンスフロアのストロボもかくやと言うほど瞬く。弾丸ベルトが舞い踊り、空薬莢は切れ目なく飛んでいくのが見える。負けじとマティアスも、腕が痺れるほど乱射した。
追い越しなんてとんでもない。元々多くなかった先行車も後続車も、突如始まった銃撃戦に恐れをなして逃げ惑う。
出来上がった空間を、弾丸は自由自在に飛び交った。BMWのトランクに穴が開く、ハマーのフードハンドルは跡形もない。既に追うもの追われるもの、どちらの車体も走っているのが不思議なほど蜂の巣になっていた。
その間も、ヘレはハリウッド映画式の車線変更を繰り返し、ボディを魚のように捩らせた。右へ左へ振られるたびマティアスの体は外へ飛び出しかけ、そのたびグローブボックスに片足を突っ張らせて耐える。
「改造したんだろ! 300キロは出せるんじゃないのか!」
答える代わりに、エンジンが咆哮を上げる。置いて行かれそうになった体は、引き金を絞ることで自ら車体に叩きつけた。
頬を切り裂く風は刃物よりも鋭い。あまりの高揚と呆れにいっそ舌打ちしながら、マティアスは背後を仰いだ。
「正確な最高速度はいくらだって?!」
怒鳴りつけるような軽口に答えは寄越されない。運転席のヘレは、ただ前だけを捉えていた。恐怖も、興奮も、ありとあらゆる感情は極まり、姿を消す。常人の目には届かない、遙か高みまで。澄んだ瞳はまるでクラッシュダミー人形のように、ぶつかる瞬間を待ちかまえるばかりだった。衝突し、ボディが跡形もなく潰れた暁にはきっと、その面立ちにはかつてない充足の笑みが浮かぶのだろう。
となれば、彼と、自らが砕け散る前に、壁を叩き壊して道を作るのが、マティアスの役目だった。
こちらへとまっすぐ飛んでくる弾丸へぶつける勢いで銃口を向け、引き金を絞る。青く飛び交う火花、降り注ぐ光の粒。黒い覆面の向こうで、銃撃者は微笑んでいた。隠されていても分かる。まるで運命の糸に引き寄せられたかのように、まっすぐマティアスを見つめて。
マティアスも笑みを浮かべ、今に鼓動が飛び出してしまいそうなその心臓に向け、銃を構えた。
ランデヴーを引き裂いたのは、運命の相手ではなく、お互いの命運を握る者たちだった。あっと言う間に開く車間距離へ指をくわえているほど、敵の運転手も間抜けではない。ぐんぐんとアクセルを踏み込むヘレの真後ろにしがみつくという戦法は諦めたようだ。ハンドルの限界へ挑むような捌きで、隣の車線に割り込む。案の定尻を掘られたシボレーが弾き出されて、BMWの後部ドアにヘッドライトをぶつけた。がくんと車体が激しく揺さぶられる。片手で窓を掴むことで、マティアスは眼前に迫ったボンネットへ投げ出されることを辛うじて防いだ。
恐怖に引き攣った運転手の中年男に目だけで挨拶を送り、そのままルーフすれすれに数発を滑り込ませる。ハマーのフレームに跳ね返されはしたが、運転手を一瞬怯ませるには事足りたようだ。路肩の切り立った崖を固めるコンクリートへ身を擦りつけた。これが国産車ならば運転手はお陀仏だったに違いない。だが相手は中東の砂漠でテロリストの基地へ突っ込むために存在しているハマーのH1だ。こんな傷など屁でもないと言わんばかりに、再び前線へ復帰してくる。ハンドルをねじ切らんばかりに、運転手が何事かを叫んだのをヘレは確かに耳にした。
突如、車道を覆っていた木漏れ日が姿を消す。
崖は聳えるものから見下ろすものへと形を変えた。高さはおよそ数十メートル。眼下に広がる谷川は、ここ数日の陽気にも関わらず激しい深緑の渦を巻いていた。
とろとろと時速100キロ近くで走り続けるビュイックの脇をすり抜ける際、後部バンパーをガードレールへ思い切りぶつける。その弾みを利用することで、BMWは再び元の車線に戻った。普段ならば絶対しない吹かし方で再発進しながら、ヘレは声を張り上げた。
「奴らの顔を見たか?!」
「マスクを被ってる! でもあれは……」
眼球を乾かす豪風の中、マティアスは目を凝らし、そして確信した。
「間違いない、女だ! どっちも女!」
跳ねるような衝撃を感じたのは、そう叫び返した瞬間だった。
哀れにも弾を食らったのは左後輪。運の悪いことに、その瞬間ヘレは10何度目かの車線変更を強行しようとしていたところだった。
思い切り尻を振りながら割り込んできた後続車にまごつき、前のシボレーは急減速する。回避するためのハンドル捌きは、捻切るかの如しだった。ルーフへしがみつく余裕もない。自らの上半身が熱い車のボディから吹き飛ばされるのを、マティアスはスローモーションで体感した。
世界が回る、車も回る。路肩へ飛び出した瞬間かけられたハンドブレーキのおかげで、アスファルトに黒い線条が刻まれるのを、視界の端で目にする。次に飛び込んできたのは、遠くに霞む山肌、そして濁流。尻が浮き上がり、足に絡めていたシートベルトが伸びきる直前、作った輪から足がするりと抜け落ちたとき、全身の血が凍りついたのを確かにマティアスは感じた。
右足首に加わった力がヘレの左手だと認識したとき、既に車は崖の上に下半身を乗り出していた。
車内の様子はさっぱり掴めないが、救いの手が自らを引き戻すことなど到底不可能だということくらい理解できる。後輪駆動だ、逃げられない。この手を離して今すぐ運転席から飛び出せ。
英雄的な台詞を言い放てるほど、マティアスは高潔な心を持っていなかった。
「離すなよ」
川の流れで視界を埋め尽くしたまま、マティアスは唸った。
「絶対離すな、絶対に……」
手から離れた突撃銃は谷底に吸い寄せられ、あっという間に濁流の中へ飲み込まれる。無防備さを一層意識した途端、場違いなほど目立つブレーキの音。ドアを叩きつける音が、ドップラー効果の中でも高らかに響いた。
焦るでもなくこちらへ近づいてきた二人組は、追いつめられた獲物を目にした途端、顔を見合わせてくすくすと笑った。脱ぎ捨てられたスキーマスクから溢れる、ゴージャスな金髪。聖母のように優しげな声が、山に向かって木霊するかのようだった。
「ハァイ、高いところが好きなお馬鹿さん達」
まだ熱を持っているだろうMP5の銃口で車をこつこつと叩き、レイチェルは言った。
「散々おいたしてくれたじゃないの」
「まさか君たちが」
「こんな可愛いプッシー達が追いかけてくるとは思わなかったって? ドイツ人って本当に頭がコチコチね」
ヘレが言葉の続きを無くしたのは、ぴしゃりと遮られたからではないのだろう。撃鉄を起こす音はこちらにまではっきり届く。
「殺すのは気が進まないわ」
あんなにも重いM60を振り回していた人間が、こんなにも自信なさげな声を出すなんて信じられない。ジューンの口振りは、この前オープンテラスで耳にしたものと何一つ変わらなかった。
「書類だけ貰って、さっさとおさらばしよう」
「そうね。ミスター・ブロンド、とりあえずおててに握ってる男根の象徴を捨てて」
「捨てるなよ!」
マティアスが張り上げた声は、ただただ空しく響くだけだった。車の向こうで、投げ落とされたウージーが滑るのを見る。
「例の建物の権利書はどこ」
「答えると思うか」
一番に目に入ったのは、小さな砂埃をたてながら近づいてくる軍靴。レイチェルは一切の迷いもなく、マティアスの頭に短機関銃の銃口を突きつけた。
「お友達の頭が西瓜みたいに吹き飛ぶわよ」
「出来るもんか、お嬢さん」
マティアスの軽口はそれ以上続かない。銃声と、二の腕に感じた焼け付くような痛み。掠っただけだと分かっているのに、危うく舌を噛みきりそうになった。暴れたりしなかっただけでも誉めてほしいものだ。足を握りしめるヘレの手に力が籠る。
「殺すのは嫌だって言ってるのに」
「ブってんじゃないわよ。こいつのことミンチにする前にもう一度聞くけど、コメルツ銀行タワーの弁護士が保管してた建物の権利書はどこ?」
「君ら、サントロの手下か」
「やめてよ。私、ピザはシカゴ派なの」
マティアスの問いに、レイチェルはヤンキーらしい大仰な顰めっ面で答えた。
「あのおっさんが仕事依頼したの、自分達だけだと思ってた訳ね。覚えておいて損はないけど、イタリア人ってさ、信じられないほど用心深いのよ」
銃口の熱は無防備な脇腹をシャツごと焼いた。猫が捕らえた鼠を弄ぶような退屈が、影になった女の顔を染めている。
逆しまの頭へ下る更なる血。ぎりぎりと歯を食いしばることで、マティアスは耐えた。
「ねーえ。早くして欲しいんだけど。そもそも一体どこへ行くつもりだったのよ。うちの車リッター4キロしか走らないってのに」
「お願いだから、在り処を教えて」
乙女が内緒話をする口調で、ジューンはヘレに囁きかけている。
「殺させないで……興奮させないでよ」
「後部座席」
ついに答えたヘレの声は、ぞっとするほど抑揚が欠けていた。
「あのアタッシュケース? じゃ、取って膝の上に乗せて。余計なことしたら、相棒じゃなくてあんたの頭吹っ飛ばすわよ」
マティアスがその瞬間考えていたのは、オーディオから空気も読まずに流れるクリス・ウィリスの遠吠えじみた歌声ーー「ラブ・イズ・ゴーン」だなんて、信じられないタイミングで信じられない曲が流れるものだーーそして後部座席に転がる黒いスポーツバッグ。
ビリー・ザ・キッドとは言わないが、ヘレの経験と冷静さ、そして激情なら、中に突っ込んであるなにがしかの火器を相手に突きつけることは出来るに違いない。
出来たはずなのに、期待していた悶着は一向に訪れない。身じろぎの後には、運転席の乱暴なら軋みと、アタッシュケースの開く音が無情に続く。
「本当にこれ? ジューン、読んでよ」
何枚かの紙が捲られた後、ジューンはきっぱりと答えた。
「間違いない」
ドイツ語が読めないというのも嘘だったのか。一体何が本当なんだーーそもそも、真実なんてあったのだろうか。
マティアスはそう詰りたくてたまらなかった。途轍もなく青臭い考えだと理解しながらーーとうの昔に、愛は去ったのだ(Love is gone)
「もう行こうよ」
「はいはい。あんたの男性恐怖症、ほんと重症ね」
アタッシュケースの蓋を閉じたレイチェルは、ふうっと大きな息と共にその雄大な胸を上下させた。
「それじゃあ……これでさよならって訳」
「とんでもない性悪だ」
「女々しいこと言わないでよ、マティ。愉しんだのはお互い様じゃない……やたら髪の毛掴んでくるのを除けば、あんた悪くなかったわよ」
砂埃を巻き上げながら遠ざかり掛けていた足が、突如動きを止める。なめらかで、ぐっとくる程形の良い脚を反転させ、ジューンはレイチェルと向き直った。
「彼と寝たの」
「だったらどうだってのよ」
その余りにも固い口調に、一瞬たじろいだらしかった。レイチェルのブーツは僅かに後ずさり、踵が逃げるように持ち上がる。
「別に構わないじゃない。仕事に影響は出なかったし」
「言わなかったわ。いつ」
「いつって、あんたが生理痛で寝込んでた時か何かじゃないかな……何で寝た男のこと、あんたにいちいち報告しなくちゃいけないのよ」
沈黙はほんの短いものだったはずだ。なのにマティアスは、こめかみから耳へと流れ落ちていく汗同様、その不穏を永遠のように感じた。
「彼と寝たのね」
独り言に近い言葉が掻き消えるよりも早い。じりじりと砂を噛みながら、BMWが後退を開始する。
「ちょっと、ジューン!」
裏返ったレイチェルの叫びは、瞬きするうちに遙か頭上へ。ようやく身体が水平になり頭から血が抜けた瞬間、マティアスは事態を理解した。
ごう、と耳を切る風など気にもならないくらい、己がとんでもない悲鳴を上げているのは知っている。車の中に残っているのは、もはや右の足首から先だけだった。ヘレはまだ、手を離さない。アフガンで脇腹にライフル弾の破片が食い込み、意識を混濁させていたマティアスを決して見捨てなかったように。
「マティ、手を離すぞ!」
「何だって?!」
感動に浸った側からこれだ。ひらひらと身体を棚引かせながら、マティアスは眼を剥いて喚いた。
「だ、だめだだめだ!! 絶対に許さない、俺を見捨てるのか!!」
「このままだと車の下敷きになる!! 大丈夫だ、軍の降下訓練を思い出せ!!」
「無茶言うな!!」
跳ね飛沫く水の音が一足飛びに近付き、運命を知らせる。脳は言語能力との接続を完全に断絶し、口は勝手にありとあらゆる祈り、罵詈雑言を喚きたてていた。降下訓練だなんて、ふざけるにも程がある。パラシュートはないし軍時代と比べて身体は鈍っているし、真下は激流。骨折で済めば御の字、どうなるか分かりきったものじゃない。下手をすれば身体がばらばらになり、骨すら棺桶の中へ入れて貰えないかもしれない。
「マティ!!」
超高速で移り変わる景色の中で、唯一見えるもの。助手席の窓から身を乗り出したヘレは、あの青い瞳へ息が止まりそうなほど強い光を湛え、こちらを見据えていた。
「絶対に見捨てない、必ず助けに行く、だから僕を信用しろ!」
返事をよこすよりも早く、身体は解き放たれていた。
水面に叩きつけられたのは数秒後。数日分の雨を集め、不機嫌に流れていた川は、突如板みたいに凍り付いてしまったかのようだった。左半身に走った衝撃は痛みと認識することすら出来ない。
一瞬飛んだ意識が浮上して来た頃、身体は逆に水中へ沈んでいた。一体、どこまで引きずり込まれるのだろう。痺れきった頭と全身は動くことを拒否し、水流に任せるまま川底へと流されていく。締め付けられるのはーー肉体に追った傷か、水の冷たさか、それとも奪われてしまった酸素によるものか。口から爆発的に溢れた泡は徐々に顔の周りから消え、代わりに口腔内から胃、気管に至るまでが生臭い水で満たされていく。
何もかもが飲み込まれかけたその瞬間。不意に、襟首を掴まれた。
落下するときと同じくらいの速度で水面に引き上げられ、マティアスは酸素に溺れた。捩れむせ返る上半身を抱える腕は力強い。幾らもしないうちに靴底が地面を擦り、凍えた身体が水の外へと引きずり出された。
もつれるように河原へ倒れ込んだ瞬間、肩と脇腹に走った衝撃は耐えきれるものではなかった。
「言っただろう」
切らした息と共に身を起こし、ヘレは言った。
「見捨てないって」
仰向けのまま眼だけを動かして、マティアスは口を開こうとした。結局、言葉の代わりに溢れて来たのは水と咳だけ。肺を膨らませるたび、脇のあたりが押し広げられているかのように響く。
車の中にいたことで多少は衝撃が緩和されたのか、それともスタントマン生活の賜か。ヘレはもう何とか、辺りに意識を配るほどの余裕を取り戻していた。更なる攻撃の気配がないことを確認した後に、ぐったりと投げ出されているマティアスの左腕へ眼を落とす。
「肩が外れてる」
それだけじゃないはずだ、どう考えても。そう訴えようとしたが、あちらこちらから襲い来る苦痛に言葉を組み立てるのが遅れた。そもそも、無体な話だ。こちらはまだ、身体を起こされた衝撃から立ち直ってもいないのに「歯を食いしばれ」と命じるなんて。
左腕は自らの元へ戻ってきた。上半身を貫く激烈な痛みと共に。代わりにマティアスは意識を手放し、糸がきれたかのようにその場へ倒れ込んだ。
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